第二十五話 前編 暗黒皇帝、湯浴みもままならず
客室へ案内されてから、僕はしばらく座布団の上で動けずにいた。
庭に面した障子は少し開いていて、夜風が畳の匂いを運んでくる。虫の声を聞いていると、京都まで来たことをようやく実感できた。
できれば、胃の中にあるものは実感したくなかった。
『……ふむ。食事は済んだか』
頭の中へ響いた声に、僕は湯呑みを置いた。
(済んだよ。たった今、人生で一番大変な食事が)
『飯を食うだけで何を大袈裟なことを言っておる』
(じゃあ、次は絶対に代わってね)
『何故、食後になってから不満を申す。余は貴様に任せたはずだ』
(任せ方が雑すぎるんだよ!)
あの食卓を思い返しかけて、僕は慌ててやめた。せっかく薄れてきた後味まで、はっきり思い出したくない。
ところが、皇帝はふいに声の調子を変えた。
『……いや、待て。魔力が戻っておるな』
(え?)
言われて初めて、自分の身体へ意識を向けた。
戦いのあと、立ち上がるだけでも重かった手足から、鉛のような怠さが抜けている。腹の底には、食べ過ぎの苦しさとは別の、じんわりした温かさがあった。それが呼吸に合わせて、胸へ、指先へと広がっていく。
底をさらった器へ、少しずつ水が満ちていくような感じだった。
『腹に収めたものから、まだ力が流れ込んでくる。尋常な食材ではないな』
(あの料理から?)
『それだけではない。眼の奥も確かめてみよ』
僕は湯呑みの縁へ視線を合わせ、それから庭の飛び石を見た。
食事を始める前には、目を動かすたび、奥を細い針で刺されるような痛みがあった。皇帝が《魔皇眼》を使ったあとに残ったものだ。
今は、その痛みがない。
(……まだ少し違和感はあるけど、さっきと全然違う)
『魔力の補充と、傷んだ箇所の修復が同時に進んでおる。眼の負担まで癒やすとは、あの女、食事に何を仕込んだ』
助かった。間違いなく、助かったのだけれど、そう聞いても、もう一皿食べたいとは思えなかった。
『……俗物よ。貴様、何を食った』
(知りたい?)
『いや、その顔で尋ねるな。今はよい』
頭の中にいるくせに、顔まで分かるらしい。
そこへ、廊下から控えめな声がかかった。
「陰山様。お風呂の支度が調いましたえ」
巳香さんと巳魅さんだった。
僕は重いお腹を庇いながら立ち上がる。二人にはもう皇帝のふりをする必要がない。それだけで、さっきまでよりずっと気が楽だった。
◇
渡り廊下を進んだ先には、小さな脱衣所があった。
「こちらは、宗主と私どもが使うお風呂どす」
巳香さんが籠へ置いたのは、着替えの浴衣と、厚手の大きなバスタオルだった。
「このタオルを巻いて、お入りになっておくれやす」
「ありがとうございます」
そういう決まりなのだろう。僕は深く考えずに頷いた。
二人が退出したあと、手前の洗い場で身体を洗い、タオルを巻き直して奥の戸を開ける。
思わず、足が止まった。
夜の庭に、湯気が白くほどけていた。大きな岩を組んだ湯船の向こうには竹垣があり、灯りに照らされた楓の枝が、その上へ伸びている。屋根の切れたところから見える月が、揺れる湯面へ細い光を落としていた。
露天風呂なんて、家族旅行で四国へ行ったとき以来かもしれない。あのときも、こんなふうに外の風が冷たかった気がする。
『ほう。悪くない』
(こういうお風呂、皇帝の世界にもあったの?)
『宮殿にも浴場はあったが、ここまで外へ開いてはおらぬ。湯に浸かって空を眺めるのも、たまにはよいな』
僕は岩へ手をつき、ゆっくり湯へ入った。熱すぎないお湯が足から腰へ上がり、肩まで浸かると、張り詰めていた身体がようやく緩む。
今日は、本当に色々あった。
京都へ着いて、部屋へ閉じ込められそうになって、脱出して、みづちさんと戦って。龍二の呪針の話を聞きに来たはずが、ご馳走をいただいたうえ、皇帝の物真似までしてしまった。
せめて今くらいは、何も考えずに休もう。
そう思って目を閉じたところで、戸が開く音がした。
「陰山様。ご一緒しても、よろしおすか?」
振り返ると、巳香さんと巳魅さんがいた。
服装が、さっきと違う。
二人とも僕と同じように大きなタオルを巻き、長い髪をまとめている。普段は揃って見える二人なのに、巳香さんは髪を高めに、巳魅さんは低い位置で結んでいた。
「え、あの……ここ、一緒に入るお風呂なんですか?」
「はい。お気が進まへんようでしたら、私どもはあとにしますえ」
二人は入口で止まったまま、僕の返事を待っている。
嫌なわけではなかった。ただ、綺麗な年上の女性と一緒にお風呂へ入るなんて、まったく予想していなかったのだ。
心の準備ができていません、と説明するにも、うまく声が出ない。二人を立たせたままにしておくのも申し訳なくて、僕は何とか頷いた。
「い、いえ。大丈夫です」
「ありがとうございます」
揃って会釈した二人が、岩場を回ってくる。静かな糸目も、きちんと揃った足取りも、精巧な人形が歩き出したようだった。
僕は反射的に横へずれ、二人分の場所を空ける。さらにもう少し動いたところで、背中が別の岩へぶつかった。
『隣を空けるだけなのに、対岸まで退く奴がいるか』
(距離感が分からないんだよ!)
『湯船の端まで使わねば測れぬほど、難解な距離か』
僕の動きを見ていた巳魅さんが、わずかに首を傾げた。
「そこまで離れはったら、お話ししにくうなってしまいます」
「す、すみません」
謝りながら戻ると、今度はどこまで戻ればいいのか分からない。結局、巳香さんが腰を下ろしたところに合わせて、僕も岩へ背を預けた。
湯面の波が、三人の間でゆっくり重なる。
「お背中、流しましょか」
巳香さんが、戸の向こうの洗い場へ目を向けた。
「え? いや――悪いですよ」
「肩のあたり、まだ強張ってはります。手ぇ回すん、しんどうおへん?」
巳魅さんに言われて腕を動かすと、肩甲骨の間が突っ張った。手足の怠さは抜けても、戦いで力の入ったところは、まだ完全には緩んでいないらしい。
『世話になるなら、素直に頼めばよかろう』
(そう簡単に言わないでよ)
結局、僕は二人と一緒に洗い場へ戻った。椅子へ腰を下ろすと、巳香さんが洗い布を泡立て、巳魅さんが手桶へ湯を汲む。二人とも、浴室を案内してくれたときと同じ、淡々とした顔だった。
「力加減、きつかったら言うておくれやす」
「は、はい」
背中へ布が当たり、自分では届きにくいところをゆっくり通っていく。肩の間を撫でられ、思わず背筋が伸びた。
「痛みます?」
「違います。ちょっと、慣れてなくて」
「ほな、もう少しゆっくりにしましょ」
変に意識しているのが僕だけだと分かって、ますます落ち着かない。
お礼を言うタイミングを考えていると、背後から二人の声が重なった。
「陰山様」
「はいっ」
「お湯、かけますえ。前へ少し倒れておくれやす」
慌てて頷いた拍子に、自分の膝へ額をぶつけかけた。
『湯をかけられるだけで、何故そうまで忙しい』
(今、話しかけないで!)
背中から泡が流れていく。温かな湯に息をついたところで、巳魅さんが手桶を置いた。
「もうよろしおす」
「……ありがとうございました」
何もしていないのに、妙に緊張した。
タオルを整えて立ち上がると、二人は今度は並んで椅子へ座り、まとめていた髪をほどき始めた。
「すぐ戻りますさかい、先に温まってておくれやす」
そう言われたのに、僕はすぐには動けなかった。
巳香さんは手早く泡を立て、巳魅さんは長い髪を指で梳きながら、丁寧に洗っている。髪が顔から離れると、すっと通った鼻筋も、静かに結ばれた唇も、よく似ていることが改めて分かった。いつもの細い目元には、どこか心の和む柔らかさがある。
巳香さんが額の泡を拭う隣で、巳魅さんは湯に顔を少し上向けた。同じ顔なのに、何気ない仕草ひとつで違って見えるのが不思議だった。
二人とも綺麗だな、と思ったところで、僕は慌てて戸へ向き直った。
ただ髪を洗っているだけなのに、僕ばかりが落ち着かなくなっている。
先に湯船へ戻り、今度は端の岩へぶつからないように腰を下ろした。ほどなく髪をまとめ直した二人も戻ってきて、先ほどと同じ場所へ静かに収まった。
◇
「お腹の具合は、もう落ち着きはりました?」
巳香さんが尋ねた。
「はい。あんなに食べたの、久しぶりだったので」
「無理させてしもて、堪忍してください」
「二人が謝ることじゃないですよ」
僕が答えると、巳香さんは湯面を見つめた。
「宗主は強いお方です。せやけど、傷つかへんわけやありませんので」
隣の巳魅さんも、静かに頷く。
「せっかく作らはったもんを、怖がって手ぇもつけんと帰らはる方もいてはって……今日は、ほんまに嬉しそうにしてはりました」
料理を食べ終えたときのみづちさんを思い出す。胸の前で手を叩いて、ひとつも残っていない皿を何度も見ていた。
「でも、僕、嘘をついちゃったので」
口に出してみると、さっきまで以上に気になった。
「皇帝が食べたと思って、喜んでるんですよね?」
「今のところは、そう思うてはります」
巳香さんは、曖昧に誤魔化さず答えた。
「ちゃんと話した方がいいですよね」
「お伝えになるんやったら、陰山様のお言葉で。私どもから、勝手に申し上げるようなことはしませんえ」
責められるより、その言い方の方が胸に残った。
黙り込んだ僕へ、巳魅さんが顔を向ける。
「せやけど、陰山様が頑張ってくださったことまで、嘘にはならしまへん」
僕は思わず彼女を見た。
「私どもは、ちゃんと存じてますさかい」
口元は、いつもと変わらない。ただ、言い終える直前の声が、ほんの少し柔らかくなった。
急に、何と返せばいいのか分からなくなった。
『礼を言われておる。湯に返事をするな』
(ちゃんと聞いてるよ!)
『ならば顔を上げよ。先ほどまで余の真似をしておった胆力は、どこへ消えた』
(あれは、逃げ場がなかったから!)
顔を上げると、巳香さんもこちらを向いていた。
「ここでは、いつもの陰山様でいておくれやす」
その言葉が、妙に嬉しかった。
皇帝だから歓迎されている。そう思っていた場所で、僕自身にもいていい場所ができたような気がした。
「……ありがとうございます」
やっと答えると、二人は同じ角度で小さく頷いた。
お湯が、さっきより熱く感じられた。
◇
「陰山様。もう、私どもの見分けはつきはります?」
しばらくして、巳魅さんが尋ねた。
「今日は髪型が違うので、たぶん」
「ほな、いつもの髪型やったら?」
「……声も、少し違いますよね」
二人がこちらを向いた。間違えたかと思い、僕は慌てて続ける。
「声の高さは、ほとんど同じなんです。でも、巳香さんは声がすっと出て、巳魅さんは、最初にほんの少し息が混じる感じで」
言い終えると、巳香さんが静かに僕を呼んだ。
「陰山様」
澄んだ声が、言葉と同時に届く。
「陰山様」
続いて巳魅さん。同じ高さなのに、声の輪郭が立つ前に、かすかな息の音があった。
「……今の、です」
僕が頷くと、二人は顔を見合わせた。どちらも笑ってはいない。ただ、もう一度こちらへ顔を戻したときには、続きを待っているのだと分かった。
「あと、巳香さんは『様』の最後まで音がはっきりしていて、そこで静かに止まる。巳魅さんは、最後の音がちょっとだけ息に変わるんです。伸ばしてるわけじゃないんですけど」
「ほかにも、あります?」
「質問のとき、巳香さんは言葉を言い切ってから待つ感じで。巳魅さんは、最後の音を少しだけ上げる。気にして聞いてなかったら、分からないくらいですけど」
説明してから、僕はしまったと思った。こんなに細かく聞いていたと言ったら、気持ち悪いと思われるかもしれない。
「……すみません。勝手に、色々」
「なんで謝らはるんどす?」
巳香さんは、少し間を置いて尋ねた。
「顔で分からへんいう方は、よういてはりますけど」
巳魅さんが、指先を湯へ沈める。
「声をそこまで聞き分けてくださる方は、あんまりいてはりません」
「嬉しおす。私の声として、覚えてくださって」
巳香さんの顔は、やっぱり変わらない。それでも、「嬉しおす」の前に置かれた小さな間が、いつもより丁寧に言葉を選んだように聞こえた。
「ほな、髪型が同じでも、間違えんといておくれやす」
巳魅さんの声は、最後だけ僅かに上がった。
「が、頑張ります」
『何故、見分けられると言った直後に自信を失う』
(期待されると、急に不安になるんだよ!)
巳香さんが小さく頷いた。
「次にお呼びするときが、楽しみどすね」
「いきなり試さないでくださいね……」
『識別に成功したのだ。何故そこで敗者のように俯く』
(勝ち負けの話じゃないからね!?)
戸が開いたのは、そのときだった。
「まあ。いつもは口数の少ないあんたらが、今日はよう喋ること。何ぞ、ええことでもあったん?」
みづちさんが立っていた。
薄紫の着物ではなく、二人と同じ大きなタオル姿だった。
胸元で重ねられた白いタオルは、胸のふくらみに沿ってゆるやかな曲線を描いていた。布の縁から谷間がわずかに覗いていたが、みづちは気にする様子もなく、肩にかかった黒髪を後ろへ払った。
長い黒髪はほどかれ、肩の後ろへ流れている。簪も房飾りもないせいか、戦っていたときとも、食卓で笑っていたときとも違う人に見えた。
「陰山様が、よう聞いてくださいますさかい」
巳香さんが、いつもと変わらない顔で答えた。
「つい、お話ししてしもたんどす」
巳魅さんも静かに言葉を継ぐ。その声の終わりだけが、ほんの少し柔らかかった。
「……へえ。そら、よかったこと」
みづちさんは二人を見比べ、それから僕へ意味ありげに微笑んだ。
思わず、声をかけるのも忘れて見入ってしまった。
髪を下ろしただけで、こんなに変わるものなのか。いつもの人をからかうような笑みまで、今は妙に優しく見える。
綺麗な人だということは、最初から分かっていた。ただ、さっきまでは彼女が笑うたび、何を企んでいるのかと身構えていたのに、今はその笑顔をもう少し見ていたいと思ってしまう。
「皇帝はん?」
首を傾げられ、僕は慌てて我に返った。
「あ、いえ。今は、僕です」
「陰山はんに戻ってはったんやね。お邪魔してもええ?」
「はい、大丈夫です」
みづちさんは足元を確かめながら湯へ入り、僕たちの向かいへ腰を下ろした。
「皇帝はんは、またお休み?」
「起きてます。さっきから、ずっと」
『余の所在を逐一報告するな』
(隠す理由もないでしょ)
「ほな、少し代わってもろてもええやろか。お礼、ちゃんと言いたくて」
食事のことだ。
胸の奥が、また重くなった。
今、言うべきかもしれない。あれは皇帝ではなく、僕だったのだと。
けれど、言葉を選んでいる間に、みづちさんは笑った。
「さっき、ほんまに嬉しかったんよ」
その顔を見て、僕はまた言いそびれた。
(皇帝。少しだけ、代わって)
『また余のふりをすればよかろう』
(今度はちゃんと、本人が話してよ)
返事が、少し遅れた。
『……仕方のない奴だ』
◇
湯へ預けていた背中を起こし、余は息を吐いた。
温かな湯と、夜の冷気。満腹の重さこそ残っておるが、枯れかけていた魔力は、身体の隅々へ行き渡り始めていた。
指先へ、ごく僅かな魔力を集める。先ほどまで乱れていた流れが、今は細く、途切れずに収束した。
眼の奥も静かだ。《魔皇眼》を開いて確かめるような愚行はせぬが、修復が進んでいることは、術を使わずとも分かる。
向かいの女が、こちらを見た。
目が合った瞬間、その顔つきが変わる。
「……皇帝はん」
「何だ。呼びつけておいて、黙るでない」
「ふふ。ほんま、すぐ分かるわ」
『食事のときは分かってなかったけどね……』
俗物の小声を、余は聞かなかったことにした。
双子はわずかに姿勢を正した。顔は先ほどと変わらぬが、余へ向ける気配は、客人を迎えるものへ戻っておる。
「お料理、お口に合ったようでよかったわ」
みづちが言う。
「うちの作ったもん、あない綺麗に召し上がってもろたん、初めてやもの」
余は返事をする前に、内へ問いかけた。
(俗物。何を言った)
『美味しいって……』
(それだけか)
『魔力が回復する、とか』
余は目を閉じた。
こやつ、適当なことを言ったのであろうに、肝心なところだけは当たっておる。
「魔力が戻ったというのは、事実だ」
みづちの顔が、ぱっと明るくなった。
「そやろ? ちゃんとお身体に合うように拵えたんやもの」
「《魔皇眼》の負担で傷めた眼まで癒えておる。何を用いた」
「食材だけやのうて、出汁にも手ぇかけたんよ。傷んだとこへ滋養が届くようになぁ」
単に力を多く含ませればよいというものではない。消耗した身体へ取り込ませ、必要な箇所へ巡らせる。その加減を、あの献立で成したというわけか。
「……見事な働きだ」
女が、嬉しそうに頬を緩めた。
『そこは僕も、本当に助かってる』
(ならば、食った甲斐はあったな)
『だからって、次も僕に任せないでよ』
「ほな、また作らせてもらうね。今度は、もっと滋養のつくものを」
余は目を開けた。
「待て。次の献立まで決めるな」
「あら。遠慮せんでええのに」
(俗物。余が寝ている間に、次の宴まで取りつけるな)
『約束はしてないって!』
(では何故、開催が決まりかけておる)
『喜んでもらっただけだよ!』
みづちは余の沈黙をどう受け取ったのか、ますます嬉しそうにしておる。
「皇帝はん、向こうでは、さぞモテはったんやろねぇ」
『そこ、僕も気になる』
(貴様は黙っておれ)
「余に近づこうとする者なら、いくらでもいた」
「女の人も?」
「無論だ」
「まあ。そこは否定しはらへんのね」
「事実を曲げてどうする」
みづちは口元へ手を添えた。
「ほな、どんなお人が好みなん?」
「余に近づく者の話と、余の好みは別だ」
「そやから、今度はそっちを聞いてるんよ」
妙なところで、言葉を逃さぬ女である。
余が黙ると、みづちは勝手に候補を挙げ始めた。
「綺麗なお人? 大人しいお人? それとも、皇帝はんにも負けへんくらい、気ぃの強いお人やろか」
「顔を飾り、機嫌を窺うだけの者には興味がない」
「ほな、逆らうてもええの?」
「己の考えがあるなら申せばよい。だが、無意味に逆らうことを気骨とは呼ばぬ」
みづちが、少し首を傾げた。
「皇帝はんが怖うても、言いたいことはちゃんと言えるお人?」
「己の足で立ち、己の言葉を持つ者であれば、話を聞く価値はある」
「……ふうん」
女は何やら考えておる。
『今の、女性の好みというより、部下の採用基準じゃない?』
(人を見る目を、相手によって変える必要がどこにある)
『そういうところだよ……』
「ほな、お料理を作って待ってるだけではあかんのやねぇ」
みづちの声に、余は目を戻した。
「貴様は、待っておるだけの女ではあるまい」
女の指が止まった。
「余へ術を仕掛け、刃を向けた者が、今さら何を言う」
「……そういうこと、よう覚えてはるんやね」
「忘れる方が難しい」
みづちは顔を背けて笑った。何がそれほど愉快なのか、余には分からぬ。
しばらくは、湯の流れ込む音だけが聞こえていた。
みづちが、庭の向こうへ目を向けたまま口を開く。
「なあ、皇帝はんのいた世界って、どんなところなん?」
「どんな、とは」
「うちらの世界とは、ずいぶん違うんやろ? うちみたいなんも、普通に歩いてたりするん?」
「貴様のように厄介な女が、そう何人もいては困る」
「まあ。うちは種族の話をしてるんよ」
『そこは僕も、種族の話だと思った』
内から余計な相槌が入った。
「人間だけの世界ではない。エルフも、ドワーフも、獣人もおる。魔族もな」
『……本当にいるんだ』
俗物の声が変わった。
先ほどまで女どもを前に狼狽していたくせに、こういう話になると途端に食いつきがよい。
『エルフって、やっぱり耳が長くて、魔法が得意で……?』
(耳は長い。魔法の得手不得手は、そやつによる)
『じゃあ、ドワーフは鍛冶が得意?』
(優れた職人は多い。だが、種族を聞けば、そやつのすべてが分かると思うな)
『あ……うん。そうだね』
珍しく素直な返事であった。
余は、みづちへ視線を戻す。
「それらが同じ街に住み、商いをし、働いておった。少なくとも、余の帝国ではな」
「喧嘩にはならへんの?」
「なる」
みづちが、こちらを見る。
「人間同士でも争うであろう。耳の形を揃えたところで、諍いが消えるものか」
「そら、そうやねぇ」
「ゆえに法がある。相手の種族で裁きを変えては、法を置く意味がない」
余は、湯の中で手を開いた。
「帝国民である以上、種族や生まれによって権利に差はつけぬ。古き家柄を誇る貴族であろうと、この原則を踏みにじることは許さん」
「皇帝はんが、そう決めはったん?」
「他に誰がおる」
『そこ、普通に「そうだ」でよくない?』
みづちは口元を緩めたが、すぐには言葉を返さなかった。
「……こっちでは、蛇いうだけで嫌がられることもあるさかい。ちょっと、不思議やわ」
「蛇であることと、忌むべき者であることは別だ」
「皇帝はんは、そう思わはるんやね」
「当然であろう。貴様の厄介なところは、蛇であることではない」
「せっかく、ええこと言うてくれはったのに」
『最後の一言、我慢できなかったんだね……』
みづちは笑った。その笑みが落ち着いたところで、今度は少し身を乗り出す。
「その帝国は、親御さんから継がはったん?」
「父から継いだのは王国だ。帝国は、余が築いた」
「王国を、帝国に?」
「グランツライヒ王国。人間と亜人が暮らす、魔導と魔法の研究に秀でた国であった。魔族の国に隣接し、その侵攻を食い止める拠点でもあったがな」
「そこで、お生まれになったんやね」
「うむ。王族として生まれ、学院で魔導を学んだ」
『皇帝も、学校に通ってたんだ』
(余を何だと思っておる)
『いや、最初から玉座に座ってそうだから』
(十四で六大属性を極めた頃には、教師どもも教えることに窮しておったがな)
『通ってたって聞いて親近感が湧いたのに、すぐ遠くへ行っちゃった……』
余に親近感など抱かれても困るわ。
頭の中の声を無視していると、みづちが首を傾げた。
「せやけど、お父上の国を、そのまま継ぐんではあかんかったん?」
余は、庭へ目を向けた。
「……父は、戦で死んだ」
みづちの表情が静まった。
「魔族と、我が身を守るために父を売った王族どもの策によってな」
湯口から落ちる水が、小さく跳ねた。
「賢王であった。しかし国を守るために戦い、その国に守られてきた者どもに裏切られた」
父を讃えていた口が、その死をもっともらしく悼んでおった。古き血筋を誇る連中ほど、己の血を流すことは嫌がったものだ。
「王家の血だの、由緒ある家柄だの。連中が縋っておったものが、どれほど薄っぺらか、よく分かった」
「……その方らは?」
「裏切りに加担した王族は、皆殺しにした」
みづちは目を逸らさなかった。余も、それ以上は飾らなかった。
「その後、十八で初代皇帝に即位した。父を売った者どものために、古き王国の形を残してやる義理はない」
『十八で、皇帝に……』
俗物が言いかけ、黙った。
みづちは、しばらくしてから尋ねる。
「魔族の国にも、攻め入らはったん?」
「魔王を討ち、その国を征した」
「お父上の仇を取るために?」
「初めはな」
余は、湯面へ落ちた月の光を見た。
「だが、それでやめる気にはならなんだ。人間であるというだけで亜人を見下す者もおれば、魔族であるというだけで人間を劣等とする者もおる。己がたまたま持って生まれたものを誇り、持たぬ者を踏みつける」
「それを、なくしたかったん?」
「種族も、生まれも、そやつ自身が成したことではない。それだけで、生き方まで決められてよいはずがなかろう」
みづちは、余の顔をじっと見つめていた。
「せやから、世界を一つにしようと?」
「うむ」
「……ずいぶん、大きなことを考えはるんやね」
「考えただけではない。聖王国を除く諸国は、余の旗の下へ従えた」
『規模がおかしいんだよ……』
みづちが、ふっと息を漏らした。
「従えられた王様らには、さぞ恨まれはったやろ」
「恨まれたとも。余の法の下では、血筋だけで他者の上に立つことはできぬからな」
「戦で、大事な人を亡くした者もおったんと違う?」
余は、女へ視線を戻した。
媚びるための問いではなかった。責めるためでもあるまい。ただ、余が何と答えるかを待っておる。
「おったであろうな」
「それでも、進まはった」
「そうだ。余は大陸を戦へ巻き込んだ。それを、法ひとつで帳消しにできるとは思わぬ」
みづちは、黙って聞いていた。
「だが、余の征服が血を流したからとて、征した土地で差別を許してよい理由にもならぬ。奪って終わるのであれば、余が壊した王どもと何が違う」
女が、ゆっくり頷く。
「綺麗なことだけ、言わはるんやないのね」
「貴様に気に入られるため、己の戦を語っておるわけではない」
「うん。そういうところも、聞きたかったんよ」
みづちの声は穏やかだった。俗物も、今度は何も言わなかった。
女が湯の中で姿勢を直すのを待って、余は続けた。
「帝国では、種族を問わず人を用いた。能力と、帝国を支える意志があるならばな」
「魔族でも?」
「無論だ」
「……お父上を討った相手と、同じ種族でも?」
「父を討った者と、同じ種族に生まれた者は違う」
みづちが、小さく息を吸った。
「そこを一緒にしては、余自身が種族で罪を決めることになる」
「……ほんまに、徹底してはるんやね」
「アンデッドであろうと、話が通じ、任を果たすなら用いる」
『ちょっと待って。今、すごいのが混ざった』
(何だ)
『アンデッドって、死んでるんだよね?』
(それがどうした)
『採用条件に、生きてることが入ってないんだ……』
(生きていても、話の通じぬ奴はおる)
『それは、そうだけど!』
余の口元が動いたのを見て、みづちが笑った。
「陰山はん、何か言うてはる?」
「死者を用いることに驚いておる」
「ふふ。皇帝はんの国は、うちらが思うより、ずっと賑やかそうやね」
「少なくとも、退屈な国ではなかった」
「そんな国を築いたのに、暗黒皇帝、なん?」
余は、鼻を鳴らした。
「人間至上を掲げる聖王国から見れば、下賤と蔑む者どもと肩を並べて暮らすなど、暗黒へ堕ちた所業なのだそうだ」
『……それが、呼び名の由来?』
「随分な言われようやね」
「連中の定める光の側へ立つために、帝国民を足蹴にせねばならぬというなら、暗黒で結構」
みづちは一瞬きょとんとし、それから声を立てずに笑った。
「皇帝はんに似合うわ」
「暗黒がか?」
「自分で決めはるところが」
女はそう答え、湯へ浮かべていた指先を引いた。
少し考えるような間を置いて、みづちは尋ねた。
「国を築かはった頃から、ずっとお一人で決めてこられたん?」
「何の話だ」
「国を築くんも、法を決めるんも。皇帝はんのお話、何でも『余が』やさかい」
「無論、臣下はおった」
「家族は?」
余は、すぐには答えなかった。
女の問いに、深い意図はあるまい。
「……弟が、一人いる」
「弟さんが、いはるんやね。歳は近いの?」
「八つほど離れておる」
「ほな、小さい頃は、ずいぶん可愛がらはったんと違う?」
「手はかかった」
みづちの目元が和らいだ。
「魔導の研究中であろうと、書を読んでおろうと、構わず『兄上』と呼びに来る。何を見つけても、まず余に見せねば気が済まぬ奴であった」
「ちゃんと、見てあげはったん?」
「見ぬと、いつまでも帰らぬのでな」
『……追い返さなかったんだ』
俗物が、ぽつりと言った。余は答えなかった。
「弟さんも、魔法を?」
「余が教えた」
「ほな、お兄さんで、お師匠さんでもあるんや」
「魔導の才に恵まれておった。一つ教えれば、そこから別の使い道を考え始める。余が示した手順より、よい方法があるのではないかとな」
「皇帝はんに、そんなこと言わはるん?」
「言うだけならば容易い。ゆえに、やってみせよと命じた」
「できはった?」
「……時にはな」
みづちは、嬉しそうに笑った。
「自慢の弟さんなんやね」
湯の音が、やけにはっきり聞こえた。
あの日、余を捕らえた銀と紫の光が脳裏をかすめる。余を兄上と呼ぶ声は、いつから変わったのであったか。
否。変わってなど、おらなんだのかもしれぬ。
「皇帝はん?」
余は、顔を上げた。
みづちは、先ほどと同じ場所に座っていた。何かを察したようではあったが、続きを催促することはしなかった。
「……よくできた弟ではあった」
それ以上は、言わなかった。内からも声はない。
しばらくして、みづちが静かに口を開いた。
「皇帝はんにも、誰かにお兄さんて呼ばれてた頃があったんやね」
「今も兄であることに変わりはない」
思いのほか、早く言葉が出た。
みづちは瞬きをし、それから小さく頷いた。
「……そうやね」
余は庭の向こうへ目を向けた。夜風が楓の枝を揺らし、こちらの月は、何も知らぬ顔で湯面に浮かんでおった。
◇
「……せやけど、そこまで大きな国を築かはったのに」
少しして、みづちが口を開いた。
「なんで、こっちの世界へ来はったん?」
余は、女を見た。
「国を離れて、よかったん? 皇帝はんがおらへんかったら、困る人もようけいはるやろ」
もっともな問いであった。
余の語る帝国には、玉座があり、臣下がおり、従えた民がおる。それを治める者が、何故、異界の片隅で他人の身体に宿っているのか。
ここまで聞けば、尋ねぬ方が不自然であろう。
「望んで来たわけではない」
みづちの表情が引き締まった。
余は湯から片手を上げ、見下ろした。この太い指も、短い爪も、本来の余のものではない。
「余は、配下の者どもに反旗を翻された」
内にいる俗物が、息を詰めた。
「肉体を封じられ、精神だけを異界へ放逐されたのだ。その果てに辿り着いたのが、この世界であり――こやつであった」
俗物が余の記憶を夢に見たことは、以前にも聞いておる。
だが、余自身の口から、あの場で何が起きたのかを語るのは、これが初めてであった。
『……夢で見た、あの人たちだね』
(そうだ)
『皇帝と、一緒に戦ってきた人たちだったんだ』
(背を預けるに足る者どもであった。少なくとも、余はそう認めておった)
俗物は、それ以上尋ねなかった。
「……信じてはった方らに?」
みづちが尋ねる。
「ともに戦い、国を築いてきた者どもだ」
「理由は、聞かはったん?」
「奴らには、奴らの言い分があった」
余は、上げていた手を湯へ戻した。指先から広がった波が、月の光を崩していく。
「だが、余の覇道を阻み、玉座から引きずり下ろした。その事実は変わらぬ」
あのとき、奴らが口にした言葉を忘れたわけではない。己の目と耳で、改めて確かめねばならぬこともある。
しかし、それをここで語る気にはなれなんだ。
「戻って、仕返しをしはるの?」
「償いはさせる」
答えに迷いはなかった。だが、それだけでもなかった。
「余の覇道は、まだ道半ばだ」
みづちが、静かに顔を上げる。
「幾多の国を征したとて、旗を立てれば帝国が完成するわけではない。法を定めただけで、人の考えまで変えられるものか」
古き王家の名を頼りに、再び他者の上へ立とうとする者はおる。表向きは余の法に従いながら、余が消える日を待ち望んでいた者も。
余が押さえつけていたものが、その後、どう動いたのか。この世界からでは、確かめる術すらない。
「種族も生まれも問わぬと、余が定めた。その法を信じ、帝国民となった者どもがおる」
余は、みづちへ向き直った。
「余が消えたから、あとは知らぬでは済まされぬ」
女は黙って聞いていた。
「ゆえに、元の世界へ戻る。身体を取り戻し、己の玉座へ帰る。余の留守をもって、勝手に終わりにされてたまるか」
『……身体を取り戻すだけじゃ、ないんだね』
俗物が、ぽつりと言った。
(何だ)
『皇帝が、元の世界へ帰りたい理由』
余は答えず、湯面へ目を落とした。
『まだ途中なんだ。帝国も、皇帝が作ろうとしてた世界も』
(そう申しておろう)
『……うん』
いつもなら何か言い返してくる俗物が、今度は素直に頷いた。
みづちは一度だけ目を伏せた。湯の流れる音が、二人の間を埋める。
「ほな、帰らなあかんね」
「無論だ」
「皇帝はんが戻るんを、待ってる人もいはるやろし」
余は、すぐには答えなかった。
反旗を翻した者どもの顔ではなく、帝都の街並みが脳裏をよぎった。同じ通りを行き交う、異なる種族の民。余の定めた法の下で、日々を営んでいた者どもだ。
「……余が戻る場所だ。誰に明け渡す気もない」
みづちは、小さく頷いた。
「帰る方法は、もう見つかってはるん?」
「まだだ」
「ほな、そこからやね」
容易く戻れるとも、己が戻してやるとも言わなかった。ただ、余が帰らねばならぬことを、そのまま受け止めておった。
「うちに分かることやったら、聞いてな。皇帝はんの世界のことは知らんけど、こっちのことやったら、少しはお役に立てるかもしれへん」
「……覚えておこう」
そう答えると、女の目元が和らいだ。
「元の世界に帰らはる前に、話の続きも聞かせて」
「まだ足りぬか」
「帝国の街のことも、そこで暮らす人のことも。聞いてへんこと、ようけあるもの」
みづちは、少しだけ笑った。
「皇帝はんが帰りたい国を、もうちょっと知りたいんよ」
余は女を見た。先ほど、好みを尋ねてきたときのような、からかう響きはなかった。
「……長くなるぞ」
「うん」
みづちは頷き、岩へゆっくり背を預けた。
余も、それ以上は何も言わなかった。内にいる俗物も黙ったまま、庭の向こうへ意識を向けておる。
湯面で崩れていた月が、いつしか元の形を取り戻していた。
夜風がひときわ冷たく吹き抜けたところで、余は静かに息を吐いた。
(少し休む。身体は返すぞ)
『……うん』
今度は抗議もなかった。余は岩へ背を預けたまま、こやつへ身体を明け渡した。
◇
身体の感覚が戻ると、僕はゆっくり息を吐いた。
湯の温かさも、頬へ当たる夜風も、さっきまでと変わらない。それなのに、今聞いた帝国や皇帝の話が、まだ頭の中を巡っていた。
夢で見た光景は知っていた。皇帝が追い詰められ、僕の中へ来ることになったのだということも。
けれど、その向こうに国があって、そこで暮らす人たちがいて、皇帝が今も続きをやろうとしていることまでは、ちゃんと考えたことがなかった。
「……陰山はん?」
みづちさんに呼ばれ、僕は顔を上げた。
「はい。皇帝、少し休むって」
「そか」
みづちさんは頷き、それ以上、皇帝を呼ぼうとはしなかった。
双子も黙っている。隣へ目を向けると、巳香さんは僕へわずかに顔を向け、巳魅さんも小さく頷いた。何か話さなければと思ったけれど、今は言葉がうまくまとまらなかった。
みづちさんは、湯船の向こうの竹垣を見つめていた。楓の枝が揺れるたび、葉の間から覗く月が隠れたり、現れたりする。
僕も同じ方を見ながら、まだ見たことのない街を想像した。
耳の長い人も、獣の姿を持つ人も、同じ道を歩いている。皇帝が帰ろうとしているのは、そんな人たちの暮らす国なのだ。
隣の静けさも、向かいの人の沈黙も、不思議と気まずくはなかった。
みづちさんが一度、指先で湯面に触れた。それから顔を上げそっとつぶやく。
「皇帝はんの世界にいっしょに行きたいわぁ」
今度の声には、返事を引き出そうとする調子がなかった。




