第二十四話 後編 暗黒皇帝、沈黙す
第二十四話 後編
襖が開いた途端、焼いた魚の香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。
案内されたのは、さっきまでいた広間とは別の、広い座敷だった。床の間には掛け軸と一輪挿し。庭はすっかり夜に沈み、軒先の灯りが飛び石を淡く照らしている。
その落ち着いた景色とは対照的に、食卓の上はとんでもないことになっていた。
薄く切られた刺身に、彩りのよい和え物。皮をこんがり焼いた魚の隣には、彩りよく盛られた小鉢が並び、蓋付きの器からも温かな湯気が漏れている。
どれから食べるか迷う以前に、全部の料理へ目を通すだけで時間がかかりそうだ。
日帰りのつもりだった京都で、こんなご馳走をいただけるなんて。本来なら、喜んでいいはずなのに――。
「皇帝はん。ほら、お口開けておくれやす」
席についた僕の隣から、箸が差し出された。その先で、白い魚の身がほろりと揺れる。
みづちさんは、先ほどの豪華な着物から薄紫の小紋へ着替えていた。袖に銀色の細い模様が走り、長い黒髪も低い位置でまとめられている。金の蛇をかたどった簪の下では、紫の房飾りが小さく揺れていた。
戦っていたときより、ずっとくつろいだ格好だ。
ただし、距離までくつろぎすぎではないだろうか。
腕を動かすたびに、彼女の袖が僕の腕へ触れる。箸を持つ指を見たら、その向こうに顔があって、どこへ目を向ければいいのか分からない。
「……どないしはったん?」
「い、いや」
危ない。最初から声が裏返りかけた。
僕は小さく咳払いをして、差し出された魚を口へ入れてもらう。
薄い焼き目の香ばしさと、ふっくらした身の甘み。噛むと温かな汁が広がり、思わず頬が緩みそうになった。
「皇帝はん、お口に合う?」
「うむ。なかなかうまいな。このような味は、余の帝国の宮廷料理人も出せぬわ」
「ほんまに? そない言うてもろたら、嬉しいわぁ」
みづちさんが、ぱっと微笑んだ。
先ほどまで僕をからかっていた笑みとは違う。褒められたことが素直に嬉しいらしく、目元まで柔らかくなっている。
その顔を見て、僕の胸には、どうしようもない罪悪感が湧いてきた。
今、喋っているのは皇帝ではなく、僕なのだ。
◇
こうなったきっかけは、食事の支度が始まる前のことだった。
「陰山はん。ひとつ、お願い聞いてもろてもええ?」
双子が広間を退出したあと、みづちさんがこちらへ身を寄せてきた。
「ご飯の間だけでええさかい、皇帝はんに代わってもろてくれへんやろか」
「……食事のとき、ですか?」
「そう。せっかくやもの、うちも腕によりをかけよう思てな」
膝の上で重ねた手に、少し力が入る。
「皇帝はんに、召し上がってもらいたいんよ」
最後の言葉は、思ったより静かだった。
あの皇帝と真正面から戦っていた人に、そんな顔で頼まれるとは思わなかった。できることなら、応えてあげたいと思ってしまう。
「聞いてみますけど……寝てるみたいなので」
「ほんのちょっとだけ。な、お願い」
僕は頭の中へ意識を向けた。
(……ねえ、皇帝。起きてる?)
しばらく何も聞こえなかった。もう一度呼ぼうとしたところで、ようやく声が返ってくる。
『……何だ、俗物』
いかにも眠そうな声だった。
(みづちさんが、ご飯のときだけ代わってほしいって。皇帝に食べてもらいたくて、料理を作るらしいんだけど)
『面倒だ。貴様がよきにはからえ』
(だから、それじゃ無理なんだって! 僕じゃなくて、皇帝に食べてほしいんだよ!)
『余から何を学んでおる』
(修練に皇帝の物真似なんてあった!?)
『貴様は学び舎でも、皇帝と呼ばれておるではないか』
声に、薄い笑いが混じった。
『ならば、少しくらいそれらしく振る舞ってみせよ』
(あれ、敬意を込めて呼ばれてるんじゃないからね!?)
そこから先は、何度呼んでも返事がなかった。
絶対に分かっていて言っている。
「……どうやった?」
みづちさんが、僕の顔を覗き込む。
正直に伝えるべきだった。皇帝は面倒だから起きないそうです、と。
けれど、期待を隠しきれていない彼女に、それをそのまま言う勇気が僕にはなかった。
返事に詰まっていると、彼女がそっと尋ねる。
「もしかして……代わってくれはったん?」
「……う、うむ」
口が、勝手に答えてしまった。
(何やってるんだ、僕……!)
◇
「ほな、次はこちらを召し上がってみて」
そんなわけで、僕は皇帝になりきって食事をいただくという、修練でも学校でも経験したことのない苦行に挑んでいた。
料理はおいしい。けれど、隣のみづちさんが近すぎて、味わうにも気を抜けない。
「このお刺身な、巳魅にええところを選んで切ってもろたん。盛りつけは、うちがしたんよ。綺麗やろ?」
「……見事だ」
「そうやろ? お料理は、見た目も大事やもの」
嬉しそうに刺身を取り、少しだけ醤油をつける。
なるほど。腕によりをかけたのは、盛りつけの方らしい。
「焼き魚もな、塩はうちが振ったんよ。巳香は焼くんが上手やけど、塩はちょっと遠慮するさかい」
「……ほう」
さっきから、担当している工程がずいぶん限られている気がする。
(腕によりをかけたって、主に双子の腕では……?)
もちろん、そんなことは言えない。僕だって、今ここで皇帝のふりをしている身だ。人のことをどうこう指摘できる立場ではなかった。
「皇帝はん、こういうんはお好きやろか?」
みづちさんは茶碗蒸しの蓋を取り、箸から匙へ持ち替えた。すくったひと口分から、細い湯気が立ち上る。
「まだ少し熱そうやねぇ」
ふっと息を吹きかけてから、僕の口元へ。
こういうとき、皇帝ならどうするのだろう。
平然と食べる。たぶん、そうだ。
僕は目の前の匙に集中して口を開け、舌の上で滑らかな卵がほどけるのを待った。
「……うむ。悪くない」
「もうちょっと褒めてくれはっても、ええのに」
みづちさんが、少し眉を上げる。
心臓が跳ねた。何かまずかったかと思ったけれど、口元には甘えるような笑みがあった。
「む……そうだな。舌触りもよく、出汁の香りも豊かだ」
「そうやろ。うちが蓋を開けたときにも、ほんまええ香りしてたんよ」
(蓋を開けたのが担当!?)
危うく口に出しそうになり、僕は背筋を伸ばし直す。
油断してはいけない。僕と皇帝では、喋り方も態度も違う。少しでも気が緩めば、いつもの僕が顔を出してしまう。
バレたら、無事に帰れるのだろうか。
「皇帝はん。まだ、召し上がれそう?」
食卓へ目を向ける。
焼き魚に刺身、茶碗蒸し。小鉢もいくつか空になっていた。一口ずつ気を張っていたせいか、思った以上に満腹感がある。
でも、ここで「もうお腹いっぱいです」と答える皇帝も、何だか違う気がした。
「うむ。まだ問題はない」
「よかったわぁ。ほな、前菜はこのへんにしときましょか」
僕は空になった器を見て、もう一度、彼女を見た。
(……前菜?)
焼き魚まで出てきたのに、今までの全部が、まだ本番ではなかったのか。
みづちさんが、ぱん、ぱん、と手を叩く。
ほどなく襖が開き、巳香さんと巳魅さんが入ってきた。着替えを済ませた二人は、いつもの糸目に落ち着いた表情を戻し、それぞれ料理を載せた盆を持っている。
「お待たせいたしました」
「こちらへ、失礼いたします」
二人が食卓へ皿を置いた瞬間、鼻の奥へ、今までとはまるで違う匂いが届いた。
濃い薬草のようでもあり、土を掘り返したときのようでもある。その奥に、生臭いものが混じっていた。
黒っぽく艶のあるもの。見慣れない形に丸められたもの。
並べられた料理へ目を落とすと、何が材料なのか考えることを、身体が拒んでいる。
「ここからが、とっておきなんよ。どれも、うちが腕によりをかけてこしらえたん」
みづちさんが、自慢げに胸を張った。
今度こそ、最初から最後まで彼女の手料理らしい。
「皇帝はん、魔力を使いすぎはったみたいやし……しっかり滋養つけて、元気になってもらいたいんよ」
隣で微笑む顔には、からかう様子も、仕返しを企むような色もなかった。
気遣ってくれている。それが分かるからこそ、僕は逃げ道を失っていた。
「……これは」
「イモリの姿焼きなんよ。お隣は、蛙やね」
細長い皿に並んだ黒褐色のものには、頭も、脚も、尻尾もついていた。焼けて縮んだ四肢が胴へ貼りつき、細い指先だけが、何かを掴もうとした形のまま反り返っている。
隣の蛙は後ろ脚を折り畳まれ、腹を上に向けていた。焼けて裂けた皮の隙間から白い肉が覗き、醤油だれの艶が、丸い頭から腿までぬらぬらと照り返している。
目を逸らすと、濃い煮汁の中に、小さな丸いものがいくつも浮かんでいた。
白っぽい表面には、薄く煮汁の色がついている。うずらの卵でも煮たものだろうか。
卵なら、食べられる。
そう思ってよく見ると、器の縁に寄ったひとつが、ゆっくり向きを変えた。
白濁した球の中央に、濃い色の円がある。
それが、こちらを向いた。
「目ぇも、よう味がしゅんでるやろ?」
卵じゃない。目玉だ。
何の目なのかは分からない。大きさが揃っていないところが、かえって嫌だ。
煮汁を吸った薄い膜が、湯気の向こうで震えている。白い部分には細い筋が残り、端についた柔らかそうな組織が、器の縁へ垂れていた。
僕は口を閉じたまま、ゆっくり息を吸う。けれど、甘い煮汁と焦げた皮の匂いに混じって、今度は鉄のような生臭さが鼻へ届いた。
氷を敷いた浅い器へ、赤黒いものが折り重なっている。
薄く切られた部分もあれば、管の形を残したものもあった。切り口は濡れて光り、白い脂らしきものが縁へこびりついている。皿の端から垂れたひと切れの下では、茶色がかった液が氷の間へ滲んでいた。
「こちらは内臓のお刺身。新鮮なうちに召し上がってもらおう思てな」
何の内臓ですか。
そう尋ねかけて、やめた。答えを聞いたあとでも、僕は今と同じ顔で座っていられるだろうか。
「それから、こちらも見ておくれやす」
みづちさんが、蓋付きの小鉢を開ける。
今度は湯気が出ない。縁に白い霜のついた器の中に、淡い灰桃色の塊が盛られていた。
丸くすくったシャーベットのようでいて、表面に妙な皺がある。くねくねと重なった溝の間へ半透明の氷が入り込み、溶け始めた縁からは、白濁した汁がゆっくり流れていた。
「お猿の脳みそでこしらえた、シャーベットなんよ」
唾を飲んだはずなのに、口の中が乾いている。
冷たい菓子の説明を聞いただけで、さっき食べた茶碗蒸しが、胃の中で急に重たくなった。
(……無理だ)
今ならまだ、そう言える。
僕はこういう料理に慣れていません。せっかく作っていただいたのに、すみません。
陰山修なら、それでいい。けれど、今の僕は皇帝なのだ。
「冷たいもんはあとにしましょ。まずは、温かいうちにこちらをどうぞ」
彼女の箸が、イモリへ伸びる。
僕は膝の上で拳を握った。
皇帝なら、未知の料理を前にして怯えたり、露骨に顔をしかめたりするだろうか。
あの男は尊大で、口も悪くて、何でも勝手に決める。それでも、みづちさんの強さを認めるときには、ちゃんと認めていた。
自分を気遣って料理を作った相手に、食卓で恥をかかせるような真似は、たぶん、しない。
少なくとも、僕はそう思いたかった。
「……うむ。任せよう」
「ほな、食べやすいところからにしましょか」
みづちさんは焼けた皮へ箸を入れ、身を少しずつほぐした。ぱり、と乾いた音がして、骨の間から白い肉が離れてくる。
「大丈夫やよ。骨はうちが外すさかい、安心してな」
その優しさが、今はつらい。
目の前へ差し出されたのは、皮のついたひと口分の肉だった。焦げ目の間に細かな凹凸が残っている。
(皇帝。お願い。僕に力を貸して)
頭の中へ呼びかけても、返事はなかった。さっきは眠そうな声でも返してくれたのに、今は気配すら掴めない。
「皇帝はん?」
みづちさんが、少し首を傾げた。
もう、勢いしかない。
僕は鼻で息をするのをやめ、口元へ運ばれたイモリの肉を、ひと口で頬張った。
薄い皮が歯に触れ、その下の肉がむちりと潰れる。最初に感じたのは濃いたれの甘辛さだったが、噛んだ途端、その奥から湿った土のような匂いが抜けてきた。
鼻で呼吸をしていなくても、口の中から上がってくるものまでは防げないらしい。
考えるのをやめて飲み込むと、みづちさんが僕の顔を見た。
「……これは、何という美味だ!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
「すまぬ。これは、もう我慢できん。余、自ら食すとしよう。その箸とやらを貸せい」
「え?」
答えを待たずに箸を受け取る。勢い余って、ほとんどひったくる形になってしまった。
申し訳ない。でも、一口ずつ食べさせてもらっていたら、そのたびに考える時間ができてしまう。
料理を見て、匂いを感じて、口が近づいてくるのを待つ。あの恐怖を、何度も繰り返すわけにはいかなかった。
僕はイモリの皿を引き寄せ、焼けた皮や骨の形を確かめる前に、ほぐれた身を続けざまに口へ運ぶ。
「うまい。うまいぞ!」
そう言っている間だけは、自分が何を食べているのか、考えずに済んだ。
次は蛙。骨から身を外し、できるだけ白い肉だけを見る。食べ慣れたものに似ていなくもない。
似ている。そういうことにする。
必死に言い聞かせ、噛んで、飲み込んだ。
「皇帝はん、そない急がんと。喉に詰まらせはったら大変やわ」
「案ずるな。この程度、造作もない」
そう言った直後、皮の端が喉へ引っかかりかけた。
慌てて湯呑みを取り、お茶と一緒に流し込む。飲み干した僕へ、みづちさんがすぐに継ぎ足してくれた。
「まだようけあるさかい、そう急がんと、ゆっくり召し上がってな」
心配そうな声なのに、頬は嬉しそうに緩んでいる。
その顔を見て、僕は次の皿へ箸を伸ばした。
煮つけの鉢を手前へ引き寄せた途端、目玉と目が合った。
(合ってない。料理だから。もう、合わないから)
さっきは卵に見えたのに、一度正体を知ってしまったら、もう戻れない。
箸でつまむと丸い表面が滑り、一度取り落としてしまう。煮汁が小さく跳ねた。
僕は鉢を持ち上げ、今度こそ口へ運んだ。
歯の間で薄い膜が張り、次の瞬間、ぷつりと破れる。中から広がったものの感触を理解する前に、噛んで飲み込んだ。
もうひとつ。鉢の中を見ないよう、残りも続けて食べる。
「見事だ。余の魔力が、一口ごとに回復していくのが分かるわ」
分からない。今、僕に分かるのは、背中が変な汗で湿っていることだけだった。
「ほんまに? よかったわぁ。頑張ってこしらえた甲斐があったわ」
嬉しそうな声を聞きながら、内臓の皿を手に取る。
箸先へ、ぬるりとした重みが伝わった。口へ入れた途端、冷たい切り身が舌へ貼りつき、噛むと、弾力のある部分と妙に柔らかい部分が一緒に潰れる。
生臭さが鼻の奥を突いた。
涙が出そうになり、僕はぐっと目に力を入れたまま飲み込む。
「……実に、力のある味だ」
「さすが皇帝はんやねぇ。よう分かってくれはるわ」
分かってたまるか。
その言葉も、次のひと口と一緒に飲み下した。
皿が空になるたびに脇へ寄せると、食卓の上が少しずつ広くなっていく。
減っている。ちゃんと、減っている。
それだけを頼りに最後の小鉢を引き寄せると、みづちさんがすかさず匙を渡してくれた。
「最後は、こちらでさっぱりしておくれやす」
猿の脳みそのシャーベットで、さっぱり。
返事をする余裕もなく、僕は匙を受け取った。
すくった塊には、まだ細かな溝が残っている。見ないように口へ入れると、氷の粒が歯に当たり、その下から柔らかなものが崩れた。
冷たい。とにかく、冷たい。
味を考える前に次をすくう。溶けた部分が舌の上へ広がり、甘みとも脂ともつかない後味が残ったけれど、確かめる余裕などなかった。
ひと口、もうひと口。最後に器の底をさらい、僕は匙を置いた。
食卓には、空の皿だけが残っていた。
「……まあ、ほんまに」
みづちさんが器を順に見て、それから僕へ顔を向ける。
「ひとつも残さず、召し上がってくれはったんやね」
「うむ」
頷く以外に身体を動かすと、何かが駄目になる気がした。
みづちさんは胸の前で、ぱちぱちと手を叩いた。
「嬉しいわぁ……こんな綺麗に召し上がってもろたん、初めてなんよ」
その声には、隠しようのない喜びがあった。
僕は食卓へ向き直り、両手を合わせる。呼吸を整え、できるだけ厳かな声を出した。
「馳走であった」
「お粗末さんでした」
みづちさんが、にこやかに頭を下げる。
ようやく、終わった。
僕は胸の内だけで長い息を吐き、そのまま少し、湯呑みを両手で持っていた。
◇
食器を下げに来た双子へ、みづちさんが声をかけた。
「巳香、巳魅。お部屋まで、ご案内しておあげ」
それから僕へ向き直り、柔らかく微笑む。
「お風呂の支度ができるまで、お部屋で待ってておくれやす、皇帝はん」
「うむ。世話になる」
「こちらへどうぞ」
僕はゆっくり立ち上がり、二人のあとへ続いた。
腹が重い。一歩進むたび、今しがた詰め込んだ料理が、確かにそこにあると主張してくる。
廊下へ出ると、夜の冷たい空気が頬に触れた。庭からは虫の声が聞こえ、行灯の光が、磨かれた板の上へ淡く伸びている。
食卓を離れても、口の中にはまだ説明したくない後味が残っていた。
(……よく頑張ったよ、僕)
せめて、自分くらいは褒めてあげたい。皇帝からは、最後まで一言もなかった。
座敷が見えなくなる曲がり角で、前を歩いていた巳香さんが足を止めた。巳魅さんも隣へ並び、二人がこちらへ向き直る。
「皇帝陛下」
反射的に背筋を伸ばす。
「……何だ」
「先ほどは、ありがとうございました」
巳香さんが静かに頭を下げ、巳魅さんもそれに続いた。
「礼を言われるようなことは、しておらぬが」
僕が二人を見比べると、巳香さんが顔を上げる。
「宗主が殿方にお料理を振る舞わはったんは、初めてやあらへんのです」
いつもの細い目はそのままなのに、声は先ほどより柔らかかった。
「せやけど、全部召し上がってくださったんは、あなた様が初めてで」
「あんなに嬉しそうな宗主を拝見したんも、久しぶりやったんです」
巳魅さんが静かに言葉を継ぎ、座敷のある方へ一度だけ目を向けた。
僕は、空の皿を見つめたあと、子供みたいに手を叩いていたみづちさんを思い出す。
褒めた言葉のほとんどは、その場を乗り切るためのものだった。魔力が回復するなんて、確かめてもいない。
でも、食べ終えたときに見せてくれた、あの笑顔まで嘘になるわけではない。
「心より、感謝申し上げます。皇帝陛下」
二人が、もう一度頭を下げる。
どう答えればいいか迷い、口を開きかけたところで、巳魅さんがそっと言い直した。
「……いえ。陰山様」
息が止まった。
僕は二人を見つめ、低い声を作ることも忘れる。
「……分かってたんですか?」
巳魅さんが小さく頷いた。
「お気遣い、ありがとうございました」
隣の巳香さんも、静かに頭を下げた。
その言い方に、からかう響きはなかった。僕が無理をして食べたことも、皇帝のふりを続けていたことも、責めるつもりはないらしい。
張り詰めていた肩から、ようやく力が抜ける。
「いえ……喜んでもらえたなら、よかったです」
いつもの声で答えると、二人が顔を上げた。
揃った糸目の目元が、ふっと和らぐ。かしこまった挨拶のためではない笑みが、少し遅れて口元にも広がった。
「ほんまに、ありがとうございました」
行灯の柔らかな光の中で、巳香さんと巳魅さんは、嬉しそうに微笑んでいた。




