第二十四話 前編 暗黒皇帝、よきにはからえと宣う
第二十四話 前編
向かいに座るみづちさんが、茶器へ手を伸ばした。広間の明かりが袖の縁を照らし、畳に柔らかな影を落とす。
皇帝に身体を預け、ただ見ているだけだった僕に、ふいに畳の感触が戻ってきた。脚へかかる自分の重さと、背中に溜まった疲れ。さっきまで遠くにあったものが、いっぺんに近づいてくる。
(……あれ?)
膝の上の指を曲げてみる。僕が動かそうと思えば、ちゃんと動いた。
『ここからは貴様が聞け、俗物』
皇帝の声が、いつものように頭の中で響く。
(今、初めから話せって言ったところだよね?)
『話をさせるところまでは整えてやった。龍二とやらの事情を知りたいのは貴様であろう』
(そうだけど……)
『あの女の術は分かった。小僧の身の上話は、当人から虐げられていた貴様が聞くがよい』
急にこちらへ回されても、さっきまでの皇帝みたいには振る舞えない。
僕は右手をそっと握った。呪針が残っていたときの嫌な熱はもうない。指を開いても閉じても、引っかからずに動く。
ようやくほっとしたところで、皇帝が続けた。
『ただし、先に言っておくぞ』
(……何?)
『ここは精神世界ではない。修練を重ね貴様の肉体と精神は以前よりは幾分ましになっておる。だが、いまだ妖猫級程度よ』
嫌な予感がする。
『本来その程度では扱えぬ魔導に加え、《暗黒霧》や《暗黒闘鎧》の使用、余の《魔皇眼》まで行使した。そのつけが、しばらく貴様の身体に出るやもしれん』
(そういうことは、使う前に言ってよ!)
『言えば、あの女が攻撃をやめたか?』
(やめないだろうけど! 心の準備くらいさせて!)
右手の呪いは解けた。でも、皇帝が僕の身体で無茶をした分まで、なかったことにはならないらしい。
恐る恐る肩を動かす。今のところ強い痛みはないものの、目の奥には、寝不足の朝に似た重たさが残っていた。
(そのつけって、具体的には……)
『とりあえず余は休む。あとはよきにはからえ』
(質問の途中で丸投げしないで!?)
返事がない。
もう一度呼びかけてみても、頭の中は静かなままだった。身体の持ち主に不安だけ渡して、本当に引っ込んでしまったらしい。
「……皇帝はん?」
顔を上げると、みづちさんがこちらを見ていた。茶器に添えた手を止め、僅かに首を傾げている。
「あ、すみません。僕です」
「……陰山はん?」
「はい。今、戻りました」
彼女の視線が僕の目から口元へ移り、また目へ戻った。同じ顔でも、何かが違うのだろう。
「皇帝はんは、どないしはったん?」
「龍二のことは僕が聞けって。あとは休むそうです」
「……そう」
茶器から、白い指先が離れる。
「自分から話せ言うといて、えらいそっけないんやねぇ」
口元には笑みがあった。けれど、少しだけ落ちた声と伏せられた目が、寂しそうに見えた。
「ほんま、好き勝手なお人やわぁ」
そう言ってからも、彼女は僕の顔を見ている。僕に用があるというより、その奥から、もう一度あの男が出てくるのを待つように。
(……気になるんだ)
ついさっきまで、あんなに激しくやり合っていたのに。
みづちさんは僕の視線に気づくと、袖口を整え、何でもないような顔をした。
「何や、その顔。言いたいことあるん?」
「い、いえ。ありません」
慌てて首を振ると、彼女は少し目を細めたあと、膝の上へ両手を重ねた。
「ほな、陰山はん。何が知りたいん?」
柔らかな声に促され、僕も姿勢を正す。
ここへ来た目的を、忘れるわけにはいかなかった。
「虎壱さんは、どうして自分の弟にあんなひどいことをしたんですか?」
みづちさんは黙って聞いていた。
「それと、みづちさんも。龍二が虎壱さんの弟だって、知ってたんですよね?」
「知ってたよ」
「それなのに、どうして呪針を打ったんですか?」
彼女の指先が、膝の上で僅かに動く。
「ほな、うちの話から先にしよか。虎壱はんから、仕事として依頼されたからや。断る理由はなかったんよ」
「……仕事だから、ですか?」
「そや」
迷いのない返事に、次の言葉が出てこなかった。
「蛇神流針術はな、表向きは鍼治療の名家や。身体の悪いところを診て、鍼を打つ。そっちも、ちゃんとうちの家の仕事やよ」
「表向きは……?」
「裏では、呪いの依頼も請け負う」
治療の話をしていたのと、同じ声だった。
僕は彼女の手へ目を落とす。さっき僕の右手から呪針を抜いてくれた指。その指で、龍二には呪いを施したのだ。
「……いくらで、受けたんですか?」
みづちさんの目が僅かに細くなった。
「虎壱はんは、一応、防人ではうちの上司やけどな。これは防人の任務とはちゃう。あくまで、個人的な依頼や」
命令されたからではない。虎壱さんが個人として頼み、彼女が仕事として引き受けた。
みづちさんは指を一本立てた。
「知り合い価格で、一本、百や」
「……百?」
百円。そんなわけがない。
でも、次に浮かんだ金額も、簡単には口にできなかった。
「それって……百万円、ですか?」
「そやよ」
さらりと頷かれる。
龍二に刺さっていたのは、頭に一本、胸に一本。それから両手の指の爪の間に、一本ずつ。
全部で十二本だから――。
「合わせて、一千二百万やな」
「……一千二百万円?」
「だいぶ勉強したんよ?」
まるで、馴染みのお客さんに値引きをした話だった。
「なんで、そんな大金を払ってまで、弟に呪針なんか……」
値引きの話に相槌を打つ余裕はなく、僕は身を乗り出していた。
虎壱さんが龍二のしたことを知って怒っていたのは、僕も見ている。それでも、あの怒りが、弟へ十二本の呪針を打たせるところまで繋がらなかった。
みづちさんは僕を一度見てから、急須へ手を伸ばす。
「さてなぁ。うちは虎壱はんやないから、ほんまのところは分からへん」
湯呑みへお茶が注がれ、広間に細い水音が響いた。立ち上る湯気とともに、香ばしい匂いが鼻先へ届く。
「ただ、自分らが守るべき日の本の民を、実の弟が虐げとった。それが、死ぬほど許せんかったんとちゃう?」
僕の前へ湯呑みが置かれた。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げると、みづちさんは自分の分にもお茶を注ぎながら尋ねた。
「菅原道真公は知っとる?」
「はい。まあ……学問の神様、ですよね?」
「そや。虎壱はんも龍二はんも、その血を受け継いでんのよ」
「……あの菅原道真の、子孫なんですか?」
「そういうことやね」
湯呑みへ伸ばしかけた手が止まった。
菅原という名字ではあるけれど、まさか本当にそこへ繋がるなんて思わない。
「太宰府へ送られはった道真公にはな、裏の仕事があったんよ」
「裏の仕事……?」
「防人や」
僕は口を開けたまま、彼女を見た。
「教科書に載ってる話と、だいぶ違うんですけど……」
「そら、裏の仕事やもん。教科書に載せたら、裏にならへんやろ?」
そんな当然みたいに言われても困る。
学問の神様が、防人。歴史の授業で覚えた名前に、今まで知らなかった顔ができてしまった。
「せやから、あの兄弟は生粋の防人の血筋やね。代々、守る側に立ってきた家の子らなんよ」
みづちさんは急須を置き、湯呑みを両手で包む。
「そんな家に生まれた龍二はんが、防人の修練から逃げた。まあ、そこまではええ」
「……そこは、いいんですか?」
「向き不向きもあるしなぁ。生まれた家だけで何もかも決められるんも、酷な話やろ」
湯気の向こうで、彼女の目が僕へ向いた。
「せやけど、逃げた先で半端にいきがって、何の罪もない級友に酷いことしとった。そこは、虎壱はんも見過ごせへんかったんとちゃうかな」
僕は温かな湯呑みへ指を添えた。
「……虎壱さんらしいといえば、らしいですけど」
弟だからと庇わなかった、あの人の厳しい顔が浮かぶ。
「うちは依頼を受けて、仕事をした。こんだけの話やね」
みづちさんはお茶を一口飲んだ。僕の湯呑みには、まだ湯気が立っている。
「……じゃあ、龍二の呪針は、どうやったら抜けるんですか?」
彼女の手が止まる。
すぐには答えず、僕の顔をしばらく見つめていた。その目にからかう色はなく、何かを確かめるような静けさがある。
「陰山はん。龍二はんには、相当酷いことされてたんやろ?」
「……はい」
「そない簡単に、許せるもんなん?」
許す、という言葉が胸に引っかかった。
答えられずにいると、みづちさんは少し声を落とした。
「いじめ、いう言葉で世間ではひとまとめにされるんかもしれへんけどな。殴るんは暴行。金を脅し取るんは恐喝。嫌がることを無理やりさせるんは強要や」
湯呑みから指先が離れる。
「犯罪やで。うちの身内がそんな目に遭わされたら、相手を末代まで呪ったるわ」
冗談を言っている顔ではなかった。
この人なら、本当にやるのだろう。怖い言葉のはずなのに、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけほどけた。
皇帝と同じだった。僕がされてきたことを、些細なことみたいに扱わない。嫌だったと、怒っていいことだったと、迷わず言ってくれる。
「……ありがとうございます」
「お礼言われるようなこと、言うてへんよ」
「でも……嬉しかったです」
彼女は黙って、僕の次の言葉を待った。
僕は湯呑みを両手で持ち、掌へ移る温かさを頼りに、言葉を探す。
「龍二を許したっていうのとは、違うんです。今でも、あいつにされたことを思い出すと……」
そこで口が止まった。僕を見つけたときの顔と、何を言っても無駄だと思わせる笑い方は、今も忘れられない。
「でも、あんなに威張ってた龍二が、今は別人みたいで」
僕を見て怯えた、あの顔が浮かぶ。以前は僕に向けられていた笑いが、そこには少しもなかった。
「僕が多少、強くなったのもあるかもしれません。前だったら、怖くてそれどころじゃなかったと思うんですけど……」
湯呑みの中で、お茶が僅かに揺れる。
「今の龍二を見てると、弱い者いじめを見てるようで」
最後は声が小さくなった。自分をいじめていた相手に対して、何を言っているんだろう。僕は湯呑みの縁を見つめたまま、彼女の返事を待った。
みづちさんはしばらく黙っていた。それから湯呑みを置き、僕へ向き直る。
「あのなぁ、陰山はん。自分のしたことのつけは、いつか払わなあかんもんや」
責める声ではなかった。
「龍二はんにとっては、それが呪針やった。うちは、そういうことやと思うよ」
白羊さんも、皇帝も、同じようなことを言っていた。
龍二が理由もなく苦しんでいるわけじゃないことは、分かる。けれど、頷こうとしても、あの怯えた顔が邪魔をした。
僕が黙っている間に、湯呑みから立つ湯気が少しずつ薄くなっていく。
「……まあ、ええわ」
みづちさんが、小さく息を吐いた。
「許す許さんは陰山はんの問題やしな。うちがああだこうだ言うんも、お門違いやわ」
膝の上で両手を重ね、話を戻す。
「呪針の抜き方そのものは、簡単やよ」
「……簡単、なんですか?」
「条件はな」
その言い方が、少し気になった。
「虎壱はんの依頼で、陰山はんとの因果を絡めて打ってあるんよ。龍二はんが心の底から、陰山はんへの罪を償えたと思えたら、針は自然に消える」
「……自分でもう償ったって思えば、それでいいんですか?」
「口先で自分に言い聞かせるんとはちゃうよ。陰山はんに何をしたか、ちゃんと向き合うて、心の底からそう思えるかどうかや」
龍二の身体にあった、十二本の赤い針が浮かんだ。
(……罪の意識は、あったのかな)
あの怯え方には、痛み以外の理由もあったのだろうか。それとも、ただ苦しむのが怖かっただけなのか。僕には、まだ分からなかった。
「もうひとつ、方法がある」
顔を上げる。
「陰山はんが、龍二はんを心から許すことや」
「……僕が?」
「そや。本心から許せたら、陰山はんはあの針に触れられる。そしたら、簡単に抜けるで」
僕は自分の手を見た。
見えているのに触れられなかった、あの針。それを抜くために必要なのは、魔力でも皇帝の力でもないらしい。
(心から、許す……)
口に出すだけなら、できるかもしれない。けれど、「もういいよ」と言う自分を想像しただけで、喉の奥が詰まった。
あいつの顔をまっすぐ見て、本当にそう思える日が、僕に来るのだろうか。
みづちさんは答えを急がせず、お茶を一口飲んだ。
「まあ、そんなところやね。……ところで陰山はん」
湯呑みを置き、少し首を傾げる。
「今日は土曜やけど、今夜は京都に泊まっていくん?」
「え?」
「もう、けっこうええ時間やで」
慌ててスマホを取り出した。画面をつけて、固まる。
二十一時を回っていた。
「……うそ」
もう一度見直しても、時刻は変わらない。
(しまった……!)
日帰りのつもりで来たのだ。話を聞いて、それから帰る。それくらいにしか考えていなかった。
その予定に、皇帝とみづちさんの一騎打ちは入っていなかった。まして、その後の交渉まで長引くなんて。
「あの……日帰りのつもりだったので、宿は取ってなくて」
「そうなん?」
「はい……」
今から駅へ向かって、電車を調べて。頭の中で慌てて段取りを組んでいると、みづちさんがくすりと笑った。
「ええよ。うちに泊まっていったらええわぁ」
「いいんですか!?」
思った以上に大きな声が出た。
みづちさんはにこりと笑う。
「宿泊費、飯付きで五万やね」
「五万!?」
さっきまで一千二百万円の話をしていたのに、こっちは急に自分の財布の話だった。
「あ、あの、それはちょっと……」
「うそうそ。皇帝はんから金取ったら、また金欲女や何や言われてまうもんなぁ」
「……びっくりさせないでください」
「ええ反応するさかい、つい」
彼女は楽しそうに笑い、僕の顔を覗き込んだ。
「皇帝はん、まだ寝てはる?」
「たぶん。静かなままなので」
「ふぅん。ほな、起きはったら言うといて。うちがお宿まで用意したったって」
何でもないような顔をしているけれど、返事を待つ間だけ、こちらを見る目が少し真剣になる。
やっぱり、気になるらしい。
そこには触れず、僕は頭を下げた。
「ありがとうございます。お世話になります」
「よろしゅう。そうと決まったら、いつまでも寝かせとくわけにもいかへんなぁ」
みづちさんが広間の端へ目を向ける。
その視線を追い、僕もはっとした。巳香さんと巳魅さんは、まだ倒れたままだった。
話に気を取られていたとはいえ、意識から抜けていたことに少し罪悪感を覚える。
「あの、お二人は……」
「心配いらへんよ」
みづちさんが胸の前で手を合わせた。指が組み替わり、見慣れない印を形作る。
続いて、両袖が軽く振られた。
衣擦れの音。何も飛んでいないように見えたのに、倒れている二人の身体が、ほとんど同時にぴくりと跳ねる。
「っ……!」
「……ッ!」
次の瞬間、二人が飛び起きた。
見えない糸を引かれた人形みたいに、伏せていた身体が一息で起き上がる。
(起こし方まで鍼なの!?)
二人の目が僕を捉えた。
さっと左右へ分かれ、腰を落とす。袖に隠れた手が動き、僕を挟むように構えた。
反射的に肩が強張る。
この人たちの中では、まだ戦いが終わっていないのだ。目の前にいるのも僕ではなく、自分たちを倒した皇帝なのだろう。
「やめや」
凛とした声が広間を通り、二人の動きが止まった。
みづちさんは座ったまま、双子を見据えている。
「ええ年してお漏らしした未熟もんが、わきまえや」
「……!」
「っ……」
二人が、はっと着物へ目を落とす。色白の頬が耳まで赤くなったのを見て、僕は慌てて視線を下げた。
何も言わない方がいい。「気にしないでください」なんて、絶対に違う。
湯呑みを見つめていると、みづちさんが続けた。
「はよ着替えて、お客人のおもてなししぃ」
「……はい」
「承知しました」
二人は構えを解き、揃って頭を下げた。そのまま足早に広間を出ていく。
ただ、退出する直前に、二人ともこちらを見た。
刺すような視線が、左右から僕へ向けられる。
(それ、やったの僕じゃないんだけど……!)
声には出せなかった。
襖が閉まった。
僕は湯呑みを握ったまま、頭の中の皇帝へ呼びかける。
(……ねえ。おもてなしの間だけ、代わってくれない?)
返事はなかった。




