第二十三話 前編 暗黒皇帝、蛇眼と雌雄を決す
暗黒の霧の向こう。
二つの赤い眼だけが、宙に浮かんでいた。
「蛇はなぁ」
艶を含んだ声が、闇の中を滑ってくる。
「夜目が利くんよ」
なるほど。
確かに余の《暗黒霧〈フィンスターネーベル〉》は、奴の視界を奪えていないらしい。
暗黒闘鎧の両膝。
装甲と装甲、その僅かな継ぎ目へ一本ずつ。
赤い呪針が突き立っている。
「ふふっ」
衣擦れの音。
姿は見えぬ。
だが、女が動いたことだけは分かる。
「そないなごっつい鎧でも、隙間まではなくせへんみたいやねぇ」
直後。
ぞわり。
また、あの感覚。
見えぬ。
余の《魔眼》を通してなお、何も捉えられん。
魔力も。
鍼も。
飛来する物体そのものが存在しない。
ただ、幾多の死線を越えてきた感覚だけが告げている。
来る。
そして。
カツン。
右肘。
僅かに遅れて。
カツン。
左肘。
そこに初めて、赤い鍼が姿を現した。
やはりか。
両膝に二本。
そして両肘に二本。
鎧に顕現した呪針は、これで四本。
「…………」
余は動かない。
みづちは、それをどう受け取ったのか。
「ふふっ」
暗闇の中から、満足そうな笑い声が聞こえてきた。
まあよい。
好きに思わせておけ。
それよりもこの女の術を先ほどから何度か受けたことで、その輪郭が見えてきた。
膝へ現れた鍼は、装甲の継ぎ目。
肘も同じ。
どちらも甲冑そのものではなく、可動のために生じる僅かな隙間へ正確に顕現している。
ならば概念である間は形を持たず、障壁すら素通りする。
しかし、対象へ到達して鍼として顕現した瞬間、その時点からは鍼という形が持つ理に従わねばならんらしい。
つまり呪いという概念の鍼とはいえ、鍼という形を取る以上、鍼が刺さらぬ場所には刺せぬ。
万能ではない。
この術にも、明確な制約が存在する。
制約があるということは。
攻略できるということだ。
「……どないしたん?」
みづちの声がする。
「さっきから、えらい大人しいやん」
余は答えない。
「あらぁ?」
赤い双眸が細くなる。
「もしかして、もう膝も肘も動かへんの?」
愉快そうな声。
勝手にそう思っておれ。
「ほな」
袖が翻る音。
来る。
今度は正面。
先ほどより高い。
狙いは。
カッ。
乾いた音。
ほぼ同時に。
カッ。
二本。
赤い鍼が姿を現した。
右の眼窩に一本。
左の眼窩に一本。
兜の僅かな隙間へ、左右対称に深々と突き立っている。
「…………」
なるほど。
次は両眼か。
生身であれば、二つの眼球を同時に潰していただろう。
「それはなぁ」
みづちが、くすりと笑う。
「巳香と巳魅の分やわぁ」
そういうことか。
先ほど双子が余の眼を狙い。
余は、その返礼として二人を落とした。
その代わりというわけか。
存外、身内への情はあるらしい。
もっとも。
今は好きにさせておけばよい。
やがて。
黒一色だった世界へ、僅かな光が戻り始めた。
《暗黒霧》が薄れていく。
最初に畳が見え、続いて柱、金屏風、倒れたままの巳香と巳魅が浮かび上がった。
薄闇の中から広間が少しずつ輪郭を取り戻し、最後に蛇神みづちの姿が現れた。
「ふふふっ」
女は上機嫌だった。
「やっと霧が晴れたわぁ。これでしっかり見られるなぁ」
赤く染まっていた瞳が、ゆっくりと本来の紫へ戻っていく。
その視線の先。
暗黒闘鎧は。
微動だにしない。
両膝と両肘、そして左右の眼窩。関節と兜の隙間に赤い呪針を突き立てられ、黒き巨躯は沈黙している。
「あらあら」
みづちは口元へ手を添えた。
「うちの呪針、ぎょうさん刺さってもうたねぇ」
足音を忍ばせる必要すらないと判断したのだろう。
ゆっくりと余の前へ近づいてくる。
「もう、動けへんやろ?」
返事はしない。
みづちは暗黒闘鎧の眼前で足を止めると、顔を覗き込んだ。
「…………」
反応がないことを確かめ。
口元が緩む。
「それにしても」
女は黒い巨躯の周囲を歩きながら、上から下まで眺めていく。
「陰山はんの身体で、そないなごっつい鎧まとってると……なんや、ちょっと不格好やなぁ」
…………。
聞こえておるぞ。
「もっと遊べる思てたのに」
みづちは暗黒闘鎧の背後へ回った。
「意外とあっけなかったなぁ」
そして背後から、黒い鎧へ両腕を回し抱き締めた。
「…………」
頬まで背甲へ寄せ。
愛おしいものでも撫でるように、白い指先を黒い装甲の表面へ這わせていく。
「うちが強すぎるんやろか?」
自分で言うか?
「せっかく、ええ男が出てきはった思たのになぁ」
肩甲を撫で。
「顔も見せてくれへんし」
その指が兜へ触れる。
「もう動いてもくれへんし……寂しいわぁ」
声だけ聞けば、恋人にでも甘えているような調子だ。
だが次に女の口から出た言葉は、可愛げとは程遠かった。
「……そうや」
何かを思いついたらしい。
「あとは《隷属》の呪針でも打って、《蛇眼》と合わせたら……うちの使いっ走りくらいにはできるかもしれへんなぁ」
「…………」
「暗黒皇帝はんを顎で使えるんやったら、悪ないやろ?」
ほう。余を隷属させ、使い走りにするつもりか。どこまでも欲深い女よ。
みづちは鎧の胸元から腕をほどき、ゆっくりと右腕を撫で下ろした。
肩、肘、手首。やがて黒い籠手に触れたところで、その指が止まる。
「……あれ?」
背後から身を乗り出し、鎧の右手を覗き込んだ。
「…………おかしいなぁ」
笑みが消える。
「うち、最初に右手へ《血毒》打ったはずやのに……」
黒い籠手には、赤い鍼が一本もなかった。
膝にも肘にも、兜の眼窩にも針はある。にもかかわらず、最初の一本だけがない。
「解除なんか、してへん……」
女の指が籠手から離れた。目を細め、今度は鎧の胸元へ耳を寄せる。何も聞こえぬと悟ったのか、表情が険しくなった。
「……まさか、これ……」
気づいたか。だが、遅い。
《暗黒闘鎧》の足元で、黒い影が僅かに揺れた。
黒は畳を滑るように広がり、みづち自身の影へ触れた。二つの影の境界が溶け、ひとつに繋がる。余はその道を伝って、女の足元へ移った。
「っ……!」
みづちが咄嗟に足を引こうとした。
遅い。
余は影の中から両腕を伸ばし、女の左右の足首を同時に掴んだ。
初めて蛇神みづちの顔から余裕が消えた。
「ちょ、待っ……!」
ズボッ!
「ひゃっ!?」
みづちの身体が畳へ沈んだ。
足首。
膝。
腰。
胸。
肩。
何かに呑み込まれるように、一瞬で影の中へ引きずり込まれていく。
「な、なんやこれっ!?」
最後に残ったのは首だけ。
「…………は?」
蛇神みづち。
防人十二支将隊。
巳を預かる《因達羅隊》隊長。
その女が今、畳から首だけを出していた。
「…………」
ぱちり。
みづちが瞬きをする。
「…………なんや、これ」
先ほどまでの余裕はどこへ消えたのか。
視線だけを忙しなく動かし、自らの身体を探している。
当然、見つからん。
首から下はすべて影の中だ。
そして少し離れた場所、畳に落ちた別の影がゆらりと膨らんだ。
まず、手。
次に腕。
肩。
頭。
黒い水面から浮上するように余は俗物の身体ごと、ゆっくりと影の中から姿を現した。
「な……」
みづちの眼が見開かれる。
余を見る。
次に自分が先ほどまで抱き締めていた暗黒闘鎧を見る。
また余を見る。
そして鎧。
両膝と両肘、左右の眼窩には、赤い呪針が残っている。
だが、右手にはない。
最初に《血毒》を打った相手は、そこにはいなかったのだ。
中身など、初めから存在していなかったかのように、鎧だけが直立している。
「…………なんで?」
「クククッ」
余は笑った。
「気づくのが遅い」
(ぷはっ!)
同時に、俗物の声が頭蓋の内側へ響いた。
(なに!? 何が起きたの!? ずっと真っ暗だったんだけど!)
『見れば分かる』
(分からないから聞いてるんだよ! っていうか、なんであそこに鎧があるの!?)
余は呪針だらけの《暗黒闘鎧》を見る。
『《暗黒霧》を放った瞬間、貴様の肉体ごと《影潜》へ移した』
(え?)
『その後、表に残した暗黒闘鎧だけを影の中から操っておった。それだけのことよ』
(それだけのことじゃないよ!?)
騒がしい奴だ。
(じゃ、じゃあ……あの針は?)
『鎧へ打たれた針はな。最初の《血毒》だけは、貴様の右手に残っておる』
(えっ!? じゃあ、まだ毒が!?)
『魔力循環で抑えておる。だが、術そのものは解けておらん。』
(そんな大事なこと先に言ってよ!)
俗物が悲鳴じみた声を上げた。
(あの人、ずっと誰も入ってない鎧に話しかけて、最後は抱きついてたんだ……)
『そうなるな』
(なんか急に恥ずかしく見えてきた……)
確かにな。
「……ちょっと」
低い声が下からする。
首だけのみづちがこちらを睨みつけていた。
「今、なんかものすごぉ腹立つこと考えてへん?」
「気のせいだ」
「嘘つき!」
ほう。
勘だけは鋭い。
「それより……はよ……出しぃや」
「断る」
「…………」
数秒。
みづちのこめかみが、ひくりと跳ねた。
「っざけんなや、このクソボケがァァァァァッ!!」
「…………」
「人の身体どこやったんじゃボケェ! 今すぐ出さんかい、このクソ陰険ド畜生がァ!!」
先ほどまでの妖艶な女はどこへ消えた。
「聞いとんのかコラァ! そのスカした顔ごと×××××××したろかァ!!」
「…………」
凄まじいな。
(皇帝……この人、人格変わってない?)
『余に聞くな』
「はよ出せや! この×××××××! 人を首だけにしくさって、ええ趣味しとんなァ!」
「貴様.....」
「なんじゃァ!」
「余に向かって、その口の利き方はなんだ」
「知るかァ!」
「帝国であれば、死罪では済まんぞ」
「ここ京都や!!」
「知っておる」
「ほな帝国の法律持ち込むなや、このボケ皇帝!」
「…………」
こやつ.....
余は長く生きてきた。
敵国の王も、魔族も、蛮族も見てきた。処刑台で呪詛を吐き続ける者にも出会った。
だが、ここまで品性のない罵倒を浴びせられた記憶は、さすがにない。
(皇帝、ちょっと引いてない?)
『引いておらん』
(今の間、絶対引いてたよね?)
『黙れ』
まったく。
金欲俗物女も俗物も。
余の周囲には何故こうも騒がしい者ばかり集まるのだ。
だがまだ終わってはいない。
余は首だけのみづちへ歩み寄る。
畳を踏む音が。
一歩。
また一歩。
静まり返った広間へ響いた。
「……なんや」
先ほどまで怒鳴っていたみづちの声が、僅かに低くなる。
余はその前で足を止めて見下ろす。
「先ほど」
「…………」
「余を隷属させる、と言ったな」
みづちの眉が僅かに動いた。
「あとは《隷属》の呪針と《蛇眼》で、余を使い走りにすると」
「……言うたけど?」
「そうか」
ならば。
余は膝を折った。
視線の高さを合わせる。
近い。
互いの吐息すら届く距離。
みづちの表情が変わった。
怒りが薄れわりに、その赤の瞳へ警戒が宿る。
「貴様の《蛇眼》で余を屈服させたいのであろう?」
「……は?」
余はさらに顔を近づけた。
逃げようにも首から下は余の影の中。
顔を逸らすことすら容易ではない。
「遠慮はいらん。貴様自慢の《蛇眼》で、余を魅了し、隷属させてみせよ」
みづちの赤の瞳が細くなる。
「皇帝はん……」
余は黒紫の魔力を両眼へ巡らせた。視界が静かに変わり始める。
空気を漂う微細な力。
みづちの身体を巡る呪力と術式の痕跡。
この女の眼に集まり始めた異質な力。
そのすべてが、鮮明な輪郭を得ていく。
だが今から余が使用する瞳術は俗物が使っている《魔眼》とは違う。
奴が扱っているものなどこの眼が持つ力の、ほんの一端。
黒紫の光が、余の双眸から静かに漏れ出した。
みづちの瞳孔が縦へ裂け、赤の虹彩が妖しい赤へと染まる。蛇の眼と、余の眼。二つの視線が真正面からぶつかった。
「遠慮なくやってみろ」
余の双眸から、黒紫の光が一段と濃く溢れ出す。
「余の《魔皇眼》を見つめてなお、やれるものならな」
みづちの笑みが消え、妖しい赤光を帯びた瞳が細くなる。
「……言うてくれはるやん」
首から下を影に呑まれ、身動きひとつ取れぬというのにその眼だけはまだ死んでいない。
「ほな……後悔せんといてなぁ」
口元に、蛇のような笑みが戻る。
瞬間、赤光が爆ぜた。
空気そのものが歪んだような錯覚。
《蛇眼》。
魅了。
幻惑。
そして、対象の意志そのものへ絡みつく強制力。
そのすべてが視線を介し、余の意識へ雪崩れ込んでくる。
なるほど。
俗物が容易く身体の自由を奪われたのも頷ける。
単に身体を縛る術ではない。
思考へ潜り込み警戒を解き、抗う理由すら曖昧にし最後には己の意志で従ったのだと錯覚させる。
厄介な眼だ。
だが相手が悪かったな。
黒紫。
赤。
二つの眼が、互いの認識へ牙を立てる。
音はない。
だというのに、世界が軋んだ。
みづちの《蛇眼》が余の意識へ入り込み、黒紫の視界を赤へ塗り替えようとする。
ならば好きなだけ入ってくるがよい。
余は押し返さない。
むしろ、その蛇を深くまで招き入れる。
「くっ……!」
みづちの眉間に皺が寄る。
額を汗が伝う。
それでも。
「ふ……ふふっ」
笑っている。
「さすがやわぁ……」
蛇眼の赤光が、さらに強まった。
「皇帝はん……!」
赤が広がる。
余の黒紫を覆い。
一寸。
また一寸。
みづちには、そう見えているはずだ。
「けどなぁ……」
縦に裂けた瞳孔が、限界まで細まる。
「眼ぇ使うんは……うちの十八番なんよ!」
ドンッ!
赤光が蛇の口ように広がり余の視界をすべて呑み込んだ。
「…………」
黒紫の光が消える。
余の身体から力が抜けた。
沈黙。
数秒。
「…………ふ」
みづちの唇が震えた。
「ふふ……」
堪えきれなくなったように、大きく吊り上がる。
「ふふふふっ……!」
勝利を確信した顔。
「勝った!勝ったわぁ.....!」
赤い瞳が歓喜に染まる。
先ほどまでの恐怖も怒りも吹き飛んだらしい。
「さすがの暗黒皇帝はんでも、うちの《蛇眼》には勝てへんかったんやねぇ」
首だけの姿で、随分と得意げなものだ。
みづちが余を見上げる。
「ほな。まずは……うちを影から出してくれる?」
「…………」
余は立ち上がった。
片手を向ける。
影が波打つ。
みづちの肩が現れ。
胸。
腰。
脚。
ゆっくりと全身が影から押し出されていく。
「んっ……」
畳へ手をついたみづちは、肩を回しながら立ち上がった。
「はぁ……ほんま、酷いことしてくれはったわぁ」
首筋を撫でながら余を見る。
「皇帝はん?」
「なんだ」
「…………」
みづちが目を細める。
「誰に向かってそんな口利いてはるん?」
「失礼いたしました」
余は頭を垂れた。
「みづち様」
「…………!」
女の目が輝いた。
「もう一回、呼んでみ」
「みづち様」
「……ふふっ」
肩が震える。
「ふふふふっ!あはははははっ!」
実に楽しそうだ。
「あの皇帝はんが! うちに『様』やて!」
ひとしきり笑い。
「ええなぁ。めっちゃ気分ええわぁ」
みづちは余の顎へ指を添えた。
「お気に召したのであれば何よりです」
「うんうん」
満足げに頷く。
そのとき。
「みづち様」
「ん?」
「ひとつ、お願いがございます」
「あら。なんや?」
「余が所有する財産のすべてを」
告げる。
「みづち様へ献上したく存じます」
「…………」
みづちの指が止まった。
「……いま、なんて?」
「余の財産。そのすべてを、あなた様へ」
「…………ぜんぶ?」
「すべてです」
「……ほんまに?」
「無論」
沈黙。
そして。
「……っしゃああああああああああ!!」
品性が消し飛んだ。
「全部!? ほんまに全部!? 皇帝はんの財産やろ!? 一国の皇帝の!?」
「左様です」
「金貨は!?」
「ございます」
「宝石!」
「ございます」
「金塊!」
「無論」
「宝剣! 魔道具! 美術品!」
「望むものすべて」
「出して!」
即答だった。
「今すぐ全部出してぇ!」
「仰せのままに」
余は右手を掲げた。
空間が裂ける。
「……へ?」
黒い亀裂の向こうから。
何かが落ちた。
チャリン。
一枚の金貨。
みづちの足元を転がる。
「…………」
視線が吸い寄せられた。
チャリン。
もう一枚。
さらに。
チャリン。
チャリン。
チャリチャリチャリチャリチャリッ!
「うそ……」
黄金の雨。
金貨。
銀貨。
金塊。
赤、青、緑。
色とりどりの宝石。
真珠の首飾り。
黄金の杯。
宝玉を散りばめた王冠。
名工が鍛えた宝剣。
帝国が長い年月をかけて蓄えてきた財宝が、空間の亀裂から際限なく溢れ出していく。
「う……」
みづちの赤い瞳がこれまでで最も強く輝いた。
「うっひゃああああああああ!!」
黄金の山へ飛び込む。
「金貨! 金貨や! こっちは宝石!? ちょ、これ何カラットあるん!?」
両腕いっぱいに抱え。
「王冠まであるやん! これ純金!? なぁ純金やろ!?」
頬ずり。
「最高や!」
さらに財宝が降る。
「もっと!」
降る。
「もっと出してぇ!」
まだ降る。
「まだあるんやろ!?」
「無論」
「全部や! 全部ちょうだい!」
望み通り金貨の山が膝へ届く。
腰。
胸。
みづちは夢中で黄金を掻き集めている。
やがて。
「……ん?」
金貨が肩まで積み上がった。
「皇帝はん?」
まだ降る。
「……もうええで?」
止まらない。
「なぁ」
金貨。
金塊。
宝石。
「もうええって」
止まらない。
「ちょ……待って」
ゴッ!
「ぐっ!」
金塊が肩へ落ちた。
「痛っ……!」
続けて。
ゴッ!
「やめ……!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!
「やめぇぇぇぇぇぇぇ!!」
黄金が女を呑み込んだ。
「ぐっ……あ……!」
重い。
金が人を押しつぶす凶器と変わる重さになっていた。
骨が軋む。
肋骨が折れる。
肺が潰れる。
宝石が頬へ食い込み、黄金の塊が身体を圧し潰していく。
「や……め……」
最後に見えたものは。
己がもっとも欲した黄金だった。
◇
「…………っ!」
みづちが目を開けた。
黄金の宮殿。
壁も床も天井もすべてが金で出来ている。
「……なんや、ここ」
周囲には金貨の山。
宝石。
金塊。
どこまでも。
どこまでも。
「……水」
喉が渇いていた。
宮殿を出て街へ行く。
だが誰もいない。
「誰かおらんの?」
返事はない。
店を見つける。
入る。
「水ちょうだい」
金貨を置く。
返事はない。
「一枚」
静寂。
「十枚」
誰も来ない。
「百枚払う!」
何もない。
「なんぼ欲しいん!?」
返事はない。
◇
一日。
二日。
三日。
喉が焼ける。
腹が縮む。
手にはありあまるほどの金貨。
「あるやん……」
震える指で握る。
「こんなに……あるやん……」
金貨を噛む。
歯が痛むだけ。
食えない。
飲めない。
「なんで……」
黄金の山へ縋る。
「金あるのに……」
何も買えない。
「なんでや……!」
金貨を投げる。
「金やろ!?」
返事はない。
「なんでも買えるんちゃうんか!」
黄金だけが空しく音を立てた。
◇
また黄金。
火に追われ背負っていた黄金を捨てようとするも、捨てきれず焼け死ぬ
◇
また黄金。
嵐の中、船が沈むほど財宝をもっていて海に財宝を捨てるも間に合わず溺れ死ぬ。
◇
また黄金。
戦火の中、財宝を守ろうとして殺し殺される。
◇
また。
◇
また。
◇
また。
「もう……」
みづちが呻く。
何度目かも分からない死。
黄金の山の中。
「もう……ええ……」
涙が落ちる。
「金なんか……いらん……」
だが終わらない。
天からまた黄金が降ってくる。
「やめて……」
金貨。
「もう、いらん……」
宝石。
「やめてぇ……」
金塊。
「もう金なんかいらんから……!」
その声を余は黄金の山の上から聞いていた。
「金銀財宝など」
「…………!」
みづちが顔を上げる。
余は黄金を一枚拾った。
「自らの目的を果たすために支払う、代価と手段の一つにすぎん」
「皇帝……はん……?」
「兵を養い、道を拓き、城を築き、人を動かす」
金貨を指で弾く。
黄金がくるくると回転し、山の中へ落ちた。
「そのために余は黄金を使った。だが」
女を見下ろす。
「黄金のために国を築いたことなど、一度もない」
「…………」
「手段を目的に取り違えるな、女」
みづちの唇が震えた。
「金を使っているつもりで、金に使われておるぞ」
余は踵を返す。
「少しは目を覚ませ」
世界が砕けた。
「っ……!」
◇
「う……」
現実の広間。
みづちはまだ首だけを畳から出していた。
「もう……ええ……」
赤い瞳は焦点を失い。
額には汗。
頬には涙。
「金……いらん……」
呻く。
「もう……いらんから……」
余は腕を組んだ。
まだ幻の中か。随分と深く入り込んだものだ。これ以上続ければ、今後金貨を見るだけで吐きかねん。
余は右手を上げ、親指と中指を合わせ、パチン、と指を鳴らした。
「っは……! はぁっ、はぁっ……!」
みづちが大きく息を吸った。畳から首だけを出したまま、赤い瞳を忙しなく動かし、額から汗を滴らせている。頬には涙の筋が残り、唇は小刻みに震えていた。
やがて《蛇眼》の赤が薄れ、本来の黒が戻った。幻覚から抜け出した今、術を維持する余裕もあるまい。
黄金に押し潰され、金貨を握り締めたまま飢え、幾度となく死を味わった。肉体には傷ひとつないが、その意識が受けた苦痛は本物だ。
「どうだ、金欲俗物女。少しは目が覚めたか?」
余の声に反応し、みづちが顔を上げる。
「ひっ……!」
短い悲鳴が漏れた。再びあの地獄へ落とされると思ったのだろう。だが、黒の瞳は余から逃げようとして、途中で踏みとどまった。
「……ふざけんといて」
「ほう?」
「うちが……そないなもんで、負け認める思てはるん?」
掠れた声だった。
「まだ強がるか」
「強がりやろねぇ。怖いで、ほんまに。皇帝はんの眼ぇなんか、二度と見とうないくらいや」
みづちは一度目を閉じ、乱れた息を整えた。再び余を見上げたとき、その頬はまだ濡れていたが、視線だけは定まっていた。
「皇帝はんが、うちとは比べもんにならん化け物やいうことは分かった。まともにやり合うたら勝てへんこともな」
「ならば、敗北を認めよ」
「嫌や」
即答だった。
「うちは蛇神流針術、二十八代宗主。防人十二支将隊、巳を預かる《因達羅隊》隊長や。怖い目ぇ見たくらいで尻尾巻いたら、ご先祖さんに顔向けできへん」
「それで?」
「決まっとるやろ!」
みづちが声を張り上げた。
「負け認めるくらいやったら、死んだ方がマシやッ!!」
怒声が広間に響く。
「矢でも鉄砲でも、幻覚でも何でも持ってこんかい! 何百回でも何千回でも殺してみぃ! うちが負けた言うんを待っとるんやったら、千年でも万年でも待っとき!」
黒の瞳が余を射抜いた。
「最後の最後まで、うちは負けたなんて言わへんでッ!!」
叫び終えると、みづちは肩で息をしようとして、身体が影に埋まっていることを思い出したように顔をしかめた。
勝算があるから吠えているのではない。勝ち目がないと知りながら、それでも自分の名を、背負う者たちの名を地に落とすまいとしている。
「…………」
余はしばらく女を見下ろした。
「ククッ……ククククッ!」
「……なんや?」
「ハッハッハッ! よい! 実によいぞ、女!」
思わず声を上げて笑った。
「余の《魔皇眼》を受け、なお屈せぬか。なるほど、蛇神宗家の二十八代宗主にして《因達羅隊》隊長。その肩書は伊達ではないらしい」
「褒めたかて、負けは認めへんで」
「分かっておる。貴様の意地は認めてやろう」
金に目が眩み、余を使い走りにしようとまでした金欲俗物女。品性には大いに問題があるが、あの啖呵に偽りはあるまい。
余は腕を組み直した。
「だが、女。そもそも余は、貴様を屈服させるために京都まで来たのではない」
「……なんやて?」
「余の器たる俗物を虐げていた、白虎の弟。菅原龍二といったか。奴に打ち込まれた《呪針》について、話を聞きに来たのだ。そもそもさきほど俗物がそう申したであろう?」
みづちの眉が動いた。怒りに任せていた顔に、思案の色が戻る。
「……龍二はんのことか」
「そうだ。あの小僧の所業を許すつもりはない。だが、俗物は事情を知りたがっておる。余も、貴様が何を考えて呪いを施したのかには興味がある」
(……皇帝)
影の中で沈黙していた俗物の声が、久方ぶりに届いた。
『今は黙っておれ』
余は女へ視線を戻す。
「余は貴様の術を知り、貴様は余の力を知った。互いに得るものはあったはずだ。これ以上争ったところで、余の目的には近づかぬ」
「……それで、何が言いたいん?」
「ひとつ、取引をしよう」
みづちの紫の瞳が細まる。
「この勝負、決着は預けておこう。勝ちも負けも、今日のところはつけぬ」
「……お預け?」
「その代わり、条件が二つある。ひとつは、余の器の右手に残る《血毒》を解除すること。もうひとつは、菅原龍二に《呪針》を施した理由と事情を、俗物へ話すことだ」
みづちの視線が余の右手へ落ちた。
「……やっぱり、あの鍼は陰山はんの身体に残っとったんやねぇ」
「無論だ。鎧を動かせても、貴様の呪いまで消したわけではない。余はその事実を認めたうえで、貴様に取引を申し出ておる」
「……ほな、うちには何をくれはるん?」
「影から解放する。そして今日の勝負は不問とする。貴様が泣き喚いた様を誰かに言い立てることもせぬ」
女は黙った。恐怖の残る顔に、ようやく計算高い蛇神の表情が戻ってくる。
「……うちが呪いを解いて、龍二はんの話をしたら、ほんまに勝負はお預け。皇帝はんが勝ったとも言わへんのやね?」
「皇帝に二言はない」
「……ふふっ。ほんま、ずるい男やわぁ」
「ほう?」
「散々うちを追い詰めといて、最後にはうちの面子まで残してくれはる。せやけど、右手の鍼を解くんは、うちにしかできへんと分かっとるんやろ?」
「少なくとも、今ここで貴様に解かせるのが最も早い。余は無用な手間を好まぬ」
「……なるほどなぁ」
みづちは小さく息を吐いた。
「ええわ。龍二はんの件は、別に隠さなあかん話でもない。呪針も解除したる。その条件、乗ったるわ」
「ならば交渉成立だ」
「ただし、今日の勝負はほんまにお預けやで。次に会うたときは、うちが勝つさかい」
「クククッ! 楽しみにしておこう」
余が指先を動かすと、畳の影が静かに波打った。みづちの肩が現れ、腕、胴、脚と順に押し出されていく。
「わっ……!」
女は両手をついて身体を支えた。立ち上がった足元はまだ僅かにふらついていたが、袖を払い、乱れた黒髪を整えると、背筋を真っ直ぐに伸ばした。
「……約束の鍼やね」
みづちは余の右手へ近づき、掌を上に向けるよう目で促した。余が従うと、指先が手首の上で止まる。
「……ほな、抜くで」
みづちは息を整え、空中で指をひとひねりした。右手の皮膚の下に潜んでいた赤い鍼が、初めてその姿を現した。細い光のような針は指先へ吸い寄せられ、音もなくほどけて消える。
右腕に居座っていた不快な熱が引いた。魔力の循環を緩めても、毒の侵蝕は戻らない。
(……あっ、手が軽い! ほんとに治った!)
『騒ぐな。余も確認した』
「これで《血毒》は解けた。文句あらへんやろ?」
「うむ、確かにな。残るは龍二とやらの話だ」
「……ほんま、よう分からん男やねぇ」
(皇帝、今のはちょっとすごかったかも)
『ちょっと、とはなんだ』
(あんなに戦ってたのに、ちゃんと話し合いになったからさ)
『余を誰だと思っておる。グランツライヒ魔導帝国、初代皇帝ヴァルガイア・フォン・ゼクス・クローネンベルクだぞ』
剣で勝つことと、望むものを手に入れることは同じではない。相手が何を守ろうとしているかを見極め、その面目を残して矛を収めさせる。国を治める者にとっては、それも戦のうちよ。
(……うん。ちょっとだけ、皇帝っぽい)
『だから、ちょっととはなんだ!』
まったく、この俗物は。
みづちは向かいに腰を下ろすと、膝の上で両手を重ねた。頬の涙を袖で拭い、いつもの妖艶な笑みを浮かべる。ただし、余を見る黒の瞳には、先ほどまでとは異なる慎重さが残っていた。
「ほな、皇帝はん。そろそろ本題に入ろか」
「うむ」
「菅原龍二はんに打った、あの《呪針》の話やね?」
「そうだ。聞かせてもらおう」
余が頷くと、みづちは茶器へ伸ばしかけた手を止めた。紫の瞳から笑みが消え、先ほどまでとは違う静けさが広間を満たす。
「……ほな、まずは白虎はんが、うちに何を頼みに来はったか。そこから話さなあかんねぇ」
白虎。菅原虎壱。
弟に呪いを施すよう、この女へ頼んだ男の名だ。
余は向かいに座る蛇神を見据えた。
「よかろう。初めから話せ」
金欲俗物女という評価を改めるつもりはない。だが、あの女の意地と誇りだけは、覚えておいてやろう。
勝負は預けた。今は、白虎の真意を聞く番だ。




