第二話 前編 暗黒皇帝、激怒す
ガシャァァァァァァン!!
教室中に、爆発音が響き渡った。
窓際に並んだガラスが、ほとんど同時に砕け散る。透明な破片が朝の光を反射しながら宙を舞い、教室の中へ突風が吹き込んだ。
「きゃああああっ!?」
「な、なんだ!?」
女子たちは悲鳴を上げ、男子の何人かは机の下へ潜り込む。黒板の前に立っていた担任の山田先生ですら、出席簿を抱えたまま固まっていた。
その騒ぎの中心で。
僕だけが、両手で自分の口を押さえていた。
止めたいのに、止まらない。
喉が、僕の意思とは無関係に震えている。
「無礼、者が――」
声にならない声が、喉の奥で潰れた。
続きは、僕自身にも聞き取れなかった。
耳の奥で反響する自分の声と、教室中の悲鳴と、割れたガラスが床へ落ちる音が全部重なって、何を言ったのか分からなくなる。
ただ一つだけ分かるのは。
僕の声じゃない。
僕の口から出ているのに、明らかに別人の声だったということだけだ。
教室中の視線が、僕へ突き刺さっていた。
怯え。
困惑。
そして、気味の悪いものを見る目。
その中には、いつも僕を笑っている三人の顔もあった。
菅原。
藤田。
村上。
三人とも、ほんの一瞬だけ青ざめていた。
けれど、菅原はすぐに口元を歪めた。
恐怖を認めたら負けだとでもいうように。
「……何だ、今の」
菅原が、わざとらしく教室中を見回す。
「おい、聞いたか? ブヒのやつ、ゲームのやりすぎで頭までおかしくなったらしいぞ」
誰かが小さく笑った。
その笑いはすぐに周囲へ広がり、教室の空気が、いつもの形へ戻ろうとする。
僕が笑われる側。
菅原が笑わせる側。
たとえ窓ガラスが全部割れても、その関係だけは変わらない。
少なくとも、この時までは。
話は、数時間前にさかのぼる。
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僕には、名前が二つある。
一つは、陰山シュウ。
両親が僕に付けてくれた、本当の名前だ。
そして、もう一つ。
「ブヒ」
クラスの連中が僕に付けた名前。
最近では、本名よりもこちらで呼ばれる方が多い。
改めて自己紹介をしよう。
僕の名前は陰山シュウ。
十六歳。高校二年生。
スクールカーストというものが本当に存在するなら、僕は間違いなく最下層にいる。
勉強は得意じゃない。
運動はもっと駄目だ。
友達はいない。
唯一、人より詳しいと言えそうなのは、漫画、アニメ、ゲーム、映画、ラノベといったオタク知識くらい。
作品の発売年や監督名、声優の交代時期まで覚えているのに、英単語は翌日には忘れる。
我ながら、脳の記憶領域の使い方を完全に間違えていると思う。
そして、僕は太っている。
これが学校という場所では、思っていた以上に致命的だった。
太った人間に付けられるあだ名は、意外とレパートリーが少ない。
最初は「デブ」。
次に「豚」。
それから「トンカツ」「チャーシュー」「肉まん」「でぶた」。
食べ物へ寄り道しながら、最終的に「ブヒ」へ落ち着いた。
本人としては、途中のトンカツの方がまだましだったと思う。
せめて料理名なら、豚そのものではないからだ。
そんな僕を日常的にいじめてくるのは、主に三人いる。
一人目は、菅原。
暴力担当。
大柄で、短く刈った髪と、いつも相手を値踏みするような目をしている。
兄が半グレ集団の中心人物らしく、その名前だけで高三の不良まで道を譲る。
本人も格闘技ジムへ通っていて、喧嘩が強い。
殴る。
蹴る。
胸ぐらをつかむ。
物を壊す。
力で相手を従わせるのが、呼吸と同じくらい自然な男だ。
漫画に例えるなら、ジャイアンを百倍凶悪にして、歌の代わりに拳を持たせたようなものだ。
二人目は、藤田。
金持ちの家に生まれた、典型的な嫌味な優等生。
父親は僕たちの街の市議会議員らしい。
そのせいか、教師たちは藤田が関わる揉め事には妙に腰が引ける。
藤田自身は、ほとんど手を汚さない。
代わりに、誰が何を嫌がるかをよく知っている。
動画を撮る。
SNSへ流すと脅す。
教師の前では被害者のふりをする。
そして、全部を上品そうな笑顔のままやる。
菅原が拳なら、藤田は毒だ。
三人目は、村上。
僕は、この名前を考えるだけで胸の奥が冷える。
村上は、中学までは僕の親友だった。
少なくとも、僕はそう思っていた。
放課後には僕の家へ来て、一緒にゲームをした。
新しい漫画が出れば貸し合った。
映画の予告を見ては、公開日に一緒に観に行こうと約束した。
「シュウ、このラスボス、絶対味方になるよな」
「いや、こいつは最後まで敵だって」
くだらないことで言い争って、笑った。
僕には友達が少なかった。
だから、村上は特別だった。
高校へ入って、村上が菅原と藤田へ近付くまでは。
最初は、二人が僕をからかっても、村上は黙って見ていた。
次は、一緒に笑った。
そして今では、誰より積極的に僕をいじめる。
「ブヒ、それ拾えよ」
床へ落とされた鞄を指差しながらそう言ったのも、村上だった。
中学時代と同じ声で。
同じ顔で。
裏切られるというのは、殴られるより痛い。
菅原の拳なら、時間がたてば痣は消える。
でも、村上に笑われた記憶は、いつまでたっても消えてくれない。
本格的に三人組のいじめが始まったのは、高校一年の六月だった。
きっかけは、今となっては思い出すのも馬鹿らしいくらい些細なことだった。
菅原が授業中に投げた消しゴムが教師の背中へ当たり、なぜか僕が疑われた。
僕が否定すると、菅原は面白くなさそうに笑った。
それだけだった。
次の日から、僕の机には落書きが増えた。
その次は、上履きがなくなった。
やがて、殴られた。
蹴られた。
財布の金を取られた。
コンビニへ買い物に走らされた。
土下座をさせられた。
恥ずかしい動画も撮られた。
何度も、何度も。
これを大人たちは「いじめ」と呼ぶ。
でも、そんな軽い言葉で片付けていいものじゃない。
これは犯罪だ。
暴行。
傷害。
恐喝。
強要。
脅迫。
学校という箱の中で起きているから、なぜか全部が「いじめ」という柔らかい言葉に変換されているだけだ。
『……理解できぬ』
頭の中で、皇帝の声がした。
朝からずっと、僕の記憶を通して過去の学校生活を見ていたらしい。
「何が?」
『教師は何をしておる』
「見て見ぬふり」
『家族は』
「知らない」
『友は』
僕は少しだけ黙った。
「もういない」
皇帝も黙った。
普段なら、僕の返事へ三倍くらいの言葉を返してくる男が、何も言わない。
その沈黙の方が、怒鳴り声より怖かった。
やがて、低く押し殺した声が響く。
『違う』
「え?」
『これは、いじめなどではない』
皇帝の声から、冗談も虚勢も消えていた。
『犯罪だ』
その一言は、不思議なくらい胸へ落ちた。
僕自身が何度も心の中で繰り返してきた言葉なのに、誰かに言ってもらったのは初めてだった。
『余は暴君の部類にはいる執政者であろう』
「自分で言うんだ」
『逆らう者は討った。国も滅ぼした。反逆者の一族を処刑したこともある』
さらっと怖いことを言う。
けれど、皇帝は続けた。
『だが、民を理由なく虐げる者だけは、余の帝国にも存在を許さなかった』
頭の中で、何かが軋むような気配がした。
それが皇帝の怒りなのだと、なぜか分かった。
『強者が弱者を踏みにじること自体を、余は否定せぬ。力とは、元来そういうものだ』
暴君らしい理屈だった。
『だが、己より弱い者を徒党で囲み、金を奪い、尊厳を弄び、それを娯楽とする。しかも裁くべき者が黙認する』
声が、さらに低くなる。
『それは支配ではない。ただの腐敗だ』
僕は返事ができなかった。
皇帝の言葉は正しいのか、間違っているのか。
分からない。
ただ一つだけ、分かったことがある。
この男は、僕がされてきたことを、笑わなかった。
同情もしなかった。
ただ、怒った。
僕の代わりに。
その事実だけで、胸の奥に押し込めていた何かが、少しだけ動いた。




