第一話 後編 暗黒皇帝、征服をはじめる
その夜、僕は再び夢を見た。
今度は、ただの暗闇ではなかった。
足元には、黒い大理石の床。
周囲には、天井が見えないほど巨大な石柱が並び、その向こうで青白い炎が揺れている。
正面には何十段もの階段。
その頂上に、巨大な玉座があった。
玉座に座る男を見た瞬間、僕は思った。
うわ。
設定が濃い。
漆黒の長い髪。
黄金の王冠。
闇色の外套。
鋭い眼。
端正な顔立ちではあるけれど、全身から「我こそが最終決戦の相手です」という雰囲気が漂っている。
ゲームなら背後にセーブポイントがある。
アニメなら登場と同時に専用BGMが流れる。
映画なら、最初の十五分で一度封印されるタイプだ。
男は玉座に深く腰掛け、足を組んでいた。
僕を見ると、ゆっくり片手を上げる。
「俗物よ」
「はい」
夢だと分かっているせいか、さっきより冷静だった。
「恐れ多くも、余の高潔なる精神をその身に宿す器となれた誉れを知るがよい」
「やっぱり厨二病全開の夢だ」
男の眉がぴくりと動く。
「ちゅうにびょう……?」
「思春期の頃に発症する、独特の世界観を持つ病気みたいなもの」
「余は病んでなどおらぬ!」
「そう言う人ほど重症なんだよ」
「無礼者!」
男が玉座から立ち上がった。
外套が風もないのに大きく広がる。
夢の演出まで凝っている。
「余は皇帝である!」
「でしょうね」
「魔王ではない!」
「まだ何も言ってないけど」
「貴様の目が言っておる!」
「じゃあラスボス?」
「皇帝だ」
「裏ボス?」
「皇帝だ」
「第一部の中ボス?」
「皇帝だと言っておろうがぁぁぁッ!」
大声が広間に反響した。
やっぱりボスキャラだ。
「情緒が皇帝じゃない」
「貴様が余を愚弄するからであろう!」
「大体さ、夢にしても設定が古いんだよ。黒いマント、金の王冠、巨大な玉座って」
「これは魔導帝国の至高玉座である」
「名前まで強い」
「当然だ」
「角とか生えてないの?」
「余を魔族と一緒にするな!」
「翼は?」
「ない!」
「第二形態は?」
「何の話だ!」
男は怒りで肩を震わせた。
僕は少し楽しくなってきた。
夢だから何を言っても怒られない。
現実では、相手の顔色を見て言葉を選ばなければならない。
ここでは、目の前の自称皇帝がどれだけ怒鳴っても、痛い目に遭うことはない。
たぶん。
「で、皇帝さんが僕に何の用?」
「皇帝さん、ではない」
「じゃあ皇帝くん」
「不敬!」
「名前知らないし」
男は胸を張った。
今にも大仰な自己紹介が始まりそうな空気だった。
「余の名は――」
「長そうだから、後でいい」
「なぜ止める!」
「絶対、異名から全部言うだろ」
「当然であろう! 余の偉業を説明するには、まずオーガの部族を平定した経緯から――」
「ほら始まった」
「聞け!」
「三行で」
「皇帝の生涯を三行にまとめるな!」
皇帝は深く息を吸った。
「……余は、世界を統べた」
「一行で終わった」
「貴様が三行と言ったのだろうが!」
「あと二行あるよ」
「必要ない! 今の一行で余の偉大さは十分に伝わった!」
「燃費のいい自己紹介だな」
「燃費とは何だ」
「知らなくていい」
皇帝は何か言いたそうだったが、やがて諦めたように鼻を鳴らした。
「貴様の胸に刻まれた紋様を見たな」
笑いかけていた気持ちが、少しだけ引いた。
「……あれ、あんたの仕業?」
「あの紋様こそ、余が全属性の魔法を統べた証」
皇帝が右手を掲げる。
その掌の上に、六つの光が浮かんだ。
赤い炎。
青い水。
緑の風。
褐色の土。
白い光。
黒い闇。
六色の光は互いに混ざり合い、虹色の小さな渦へと変わった。
夢だと分かっていても、息を呑むほど綺麗だった。
「火、水、風、土、光、闇。相反する六属性を一つに束ねる全属性混合魔法――〈混沌相〉」
「設定盛ったね」
「設定ではない!」
「全属性使える時点で主人公っぽいのに、混ぜるところまで行くんだ」
「主人公とは何だ」
「物語の中心人物」
「ならば余だ」
「部下たちに負けた人が?」
皇帝の顔から、すっと表情が消えた。
あ。
地雷を踏んだ。
「……なぜ、それを知っている」
「夢だからじゃない?」
「貴様は、余の敗北を見たのか」
「敗北って認めるんだ」
「敗北ではない! 七人がかりで、しかも疲弊している時を狙われ、卑劣な時空魔法によって肉体と精神を分離されたにすぎぬ!」
「それを一般的に負けって言うんだよ」
「戦略的撤退だ!」
「肉体置いてきてるけど」
「一時的なものだ!」
「帰れるの?」
皇帝の口が止まった。
ほんの一瞬だけだった。
でも、その一瞬で分かった。
たぶん、帰る方法は分かっていない。
「……帰る」
声の調子が、わずかに変わった。
「余は必ず、元の世界へ帰る」
さっきまでの大げさな威厳ではない。
怒鳴り声でもない。
ただの、短い言葉。
けれどそれが初めて、皇帝の本音に聞こえた。
「帰りたいんだ」
「違う」
「今、完全に帰りたい人の顔だったけど」
「余は帰りたいのではない。帰るのだ」
「はいはい」
「哀れむな!」
すぐに元へ戻った。
少し安心する。
「そのために、貴様には余へ服従してもらう」
「断る」
「……何?」
「断る」
「今、余が直々に命を下したのだぞ?」
「頼み事じゃなくて命令なんだ」
「余に従えることを光栄に思え」
「ブラック企業の社長みたいなこと言うな」
「ぶらっく……?」
「給料も払わず、やりがいと栄誉で働かせる悪の組織」
「余の帝国では、功績に応じて褒美も領地も与えていた!」
「そこは意外とホワイトなんだな」
「余は名君である!」
「女関係以外は?」
皇帝が黙った。
「そこ黙るんだ」
「過去の些細な過ちは、王の器を損なうものではない」
「反乱の原因の半分くらい、それだった気がするけど」
「余の寛大な愛を理解できぬ者どもが狭量なのだ!」
「最低の言い訳だ」
皇帝が咳払いをする。
「ともかく、貴様の肉体には余の精神と魔力の一部が宿っている」
「魔力?」
「そうだ。今はほとんど眠っているが、やがて目覚める」
「どんな感じで?」
「貴様らの世界の言葉で言えば……」
皇帝は少し考えた。
「レベルアップ」
「急にゲーム用語を使うな」
「スキル習得」
「さっきまで主人公も知らなかったくせに」
「覚醒」
「一番それっぽい」
「余は貴様の記憶の一部を読めるのだ」
僕は固まった。
「……は?」
「貴様が知っている言葉や知識は、ある程度理解できる」
「じゃあ、僕の記憶を勝手に見てるってこと?」
「全てではない。表層に浮かんだものだけだ」
「プライバシーは?」
「皇帝の前にそのようなものはない」
「最悪だ」
「貴様の知識は不可解なものばかりだ。漫画、アニメ、ゲーム……戦いを描いたものが多い割に、貴様自身は何の鍛錬もしておらぬ」
「見る専門だから」
「臆病者め」
「娯楽だよ」
「それに、こんびに、とやら」
「コンビニ」
「兵站基地か?」
「違う」
「食糧庫?」
「違う」
「二十四時間稼働する軍需物資補給拠点」
「方向性は近付いたけど、物騒すぎる」
「金銭を払えば食料や飲料、日用品まで手に入るのだろう?」
「そう」
「やはり兵站基地ではないか」
「一般人向けだから」
「兵も一般人から成る」
「話が進まないな」
皇帝は気にせず続ける。
「すまほ、とは魔導通信具か?」
「まあ、近い」
「書物も読める」
「読める」
「遠方の者とも会話できる」
「できる」
「映像を記録できる」
「できる」
「戦場の地図も見られる」
「見られる」
「やはり軍事魔導具ではないか!」
「なんで全部、戦争に結びつけるんだよ」
「皇帝だからだ」
妙に説得力がある。
「では、自動販売機とは?」
「お金を入れると飲み物が出てくる箱」
皇帝の顔が険しくなった。
「中に錬金術師が閉じ込められておるのか」
「怖いよ」
「では誰が飲み物を渡す」
「機械」
「機械が商品を選別し、冷却し、金銭まで管理するのか?」
「そう」
「……この世界、余の世界より進んでいるのではないか」
「魔法はないけどね」
「魔法もなく、あれだけの文明を築いたというのか」
皇帝は初めて、純粋に驚いた顔をした。
少しだけ子どもっぽく見える。
「学校も説明してやろうか?」
「士官学校であろう」
「普通の高校」
「違いは何だ」
「兵士にならない」
「では、何を学ぶ」
「国語とか数学とか英語とか」
「戦術は?」
「ない」
「剣術は?」
「ない」
「魔法学は?」
「ない」
「何のために通うのだ」
「それ、僕も知りたい」
口にした瞬間、気持ちが冷えた。
さっきまで楽しかった会話が、急に遠くなる。
「明日も、学校なんだ」
「行けばよかろう」
「行きたくない」
「ならば行かなければよい」
簡単に言う。
世界を支配していた皇帝には、分からない。
「そういうわけにいかないんだよ」
「なぜだ」
「休んだら、もっと面倒になるから」
「誰に許可を求める必要がある」
「……そういう話じゃない」
スマホが手元に現れた。
夢の中なのに、画面には現実と同じ通知が並んでいる。
皇帝が僕の記憶から引き出したのかもしれない。
『明日は来いよ』
『逃げたら分かってるよな』
『動画、まだ消してないから』
『先生に言ったら、お前の家まで行く』
さっきまで騒がしかった皇帝が、黙った。
「休んだら、次の日にもっと酷くなる」
自分の声が、ひどく情けなく聞こえた。
「先生に言っても、たぶん何も変わらない。親に話せば心配される。それで学校に連絡されたら、余計に面倒なことになる」
「なぜ、そやつらを殴らぬ」
「無理だよ」
「なぜだ」
「僕は弱いから」
即答だった。
考える必要すらない。
相手は三人。
僕より体格がいい。
殴り返したところで勝てない。
勝てなければ、もっと酷い目に遭う。
だから耐える。
笑われても、命令されても、金を取られても、できるだけ早く終わるように黙って従う。
それが一番被害を小さくする方法だった。
「余の器でありながら、弱いなどと口にするな」
「事実だよ」
「事実であろうと、口にするな」
「皇帝には分からないよ」
少しだけ腹が立った。
「あんたは強かったんだろ。世界最強で、誰も逆らえなくて、嫌な相手がいたら倒せた。僕とは違う」
「……余にも、逆らう者はいた」
「最後は負けたけどね」
「今はその話をしておらぬ!」
怒鳴った後、皇帝は口を閉じた。
しばらくの間、何も言わなかった。
夢の空間が、少しずつ崩れ始める。
黒い床に亀裂が走り、石柱が霞んでいく。
目覚めが近いらしい。
「だから、こんな夢を見ている場合じゃないんだ」
僕は呟いた。
「異世界とか、皇帝とか、魔法とか。そんなのはどうでもいい」
明日をどうやって乗り切るか。
それだけで精一杯だ。
夢の景色が暗闇に飲まれていく。
皇帝の姿も、足元から消え始めた。
「安心するがよい、俗物」
最後まで偉そうな声だった。
「何を?」
「余は必ず、元の世界へ帰る」
「うん」
「そのために、貴様の肉体を鍛え、魔力を取り戻す」
「勝手に決めるな」
「貴様が弱いというのなら、好都合だ」
皇帝は不敵に笑った。
「余が強くしてやる」
その言葉に、僕は返事をしなかった。
できなかった。
皇帝の身体が闇へと消える。
最後に顔だけを残し、彼はさらに笑みを深くした。
「そして元の世界へ帰還する前に――」
嫌な予感がした。
「この世界も、余の版図に加えてやろう」
「絶対にやめろ」
「まずは、こんびにとやらを視察する!」
「世界征服の第一歩がコンビニなの?」
「次は自動販売機だ!」
「観光じゃねぇか!」
皇帝の高笑いとともに、夢は完全に崩れ去った。
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目覚まし時計が鳴った。
午前六時四十分。
最悪の朝だ。
制服へ着替え、鏡の前に立つ。
顔色が悪い。
眼鏡をかける。
机の上では、電源を切ったはずのスマホが光っていた。
新しいメッセージ。
『今日は絶対来いよ』
胸の奥が重くなる。
「行きたくない……」
誰にも聞こえないように呟いた、その時だった。
ドクン。
左胸が熱くなる。
「っ……!」
シャツのボタンを外す。
黒かった紋様が、黄金色に輝いていた。
炎。
水。
風。
土。
光。
闇。
六つの紋章が、一つずつ順番に光を放つ。
ドクン。
部屋の空気が震えた。
机の上に置いてあった漫画が、風もないのに音を立ててめくれていく。
ペットボトルの中の水が、重力を無視して宙へ浮かんだ。
「……は?」
頭の中で、昨夜の男が笑った。
『始まったな』
僕は宙に浮かぶ水と、黄金色に輝く胸の紋様を交互に見る。
「ちょっと待て」
『待たぬ』
「夢じゃなかったのかよ」
『だから最初から言っておろう』
「聞いてない!」
『余は皇帝である!』
水の塊が、破裂した。
部屋中に水滴が降り注ぐ。
びしょ濡れになった僕の頭の中で、皇帝の高笑いが響き渡った。
『さあ、俗物よ!』
『征服を始めるぞ!』
「学校に遅刻するだろうがぁぁぁッ!」
僕の最悪な一日は。
こうして、最悪では済まない一日へと変わった。
そしてこの時の僕は、まだ知らなかった。
この胸に宿った男が、かつて一つの世界あと一歩で支配しかけた暗黒皇帝であることも。
学校へ行けば、昨日までとは決定的に違う何かが起きることも。
そして僕自身が、もう二度と。
ただ耐えるだけの陰山シュウには戻れないことも。




