第二十二話 前編 暗黒皇帝、京都へ行く
新幹線が速度を落とし始めると、窓の外を流れていた景色が少しずつ輪郭を取り戻していった。
線路沿いに並ぶ建物。
遠くに霞む山並み。
何本もの線路が寄り集まり、やがて巨大な駅舎が視界いっぱいに広がっていく。
『まもなく、京都、京都です』
車内アナウンスが流れた。
「京都かあ……」
思わず窓の外を眺めながら呟く。
静岡から京都までは、新幹線なら一時間半くらい。
もっと大旅行になるような気がしていたけど、乗ってしまえば案外あっという間だった。
『来たことがあるのか』
(うん。小学六年生の修学旅行で一回だけ)
つまり、京都に来るのは人生で二回目。
ただあの時のことは、ほとんど覚えていない。
清水寺。
金閣寺。
たぶん、ほかにも有名な場所をいくつも回ったはずだ。
クラスのみんなと写真も撮ったと思う。
何を食べたんだっけ。
誰と同じ班だったっけ。
どんな話をしたんだっけ。
思い出そうとしても、記憶には薄い靄がかかっている。
無理もない。
あの修学旅行は、四国での事件からまだそれほど経っていない頃だった。
父さんとメイが、いなくなったあと。
当時の僕は、あれが《異界侵食》なんてものだとは知らなかった。
父さんと妹が消えた。
何をしていても楽しくなかった。
みんなが笑っている時、どういう顔をすればいいのかも分からなくて、修学旅行だというのに早く家へ帰りたいとばかり考えていた気がする。
だから僕の中に残っている京都の記憶には、ほとんど色がない。
『京都、京都です』
もう一度アナウンスが響き、新幹線がゆっくりとホームへ滑り込んでいく。
僕は小さく息を吐いた。
(……よし)
今日は昔を思い出しに来たわけじゃない。
目的がある。
ドアが開くと同時に立ち上がり、僕は京都駅のホームへ降りた。
◇
「うわ……」
京都駅を出た瞬間、人の多さに圧倒された。
キャリーケースを引く観光客。
外国人の家族連れ。
修学旅行らしい制服姿の集団。
バス乗り場へ急ぐ人たちの声に車の走行音、遠くから聞こえてくる案内放送まで混じり合い、駅前はとにかく賑やかだった。
そこからバスへ乗り込む。
窓際の席へ腰を下ろし、スマホで目的地を確認しているうちに、車窓の景色がゆっくり変わっていった。
現代的なビルの間に、瓦屋根の古い家。
細い路地に並ぶ格子戸。
交差点を曲がれば、建物の隙間から突然、大きな寺の屋根が顔を覗かせる。
遠くには街を囲むような山の稜線。
古いものと新しいものが、どちらかを押し退けるでもなく、同じ景色の中に収まっていた。
「…………」
小学六年生の僕もたぶん、この街を見ていた。
同じようにバスへ乗って、同じような景色を窓越しに眺めていたはずなのに。
(……こんな街だったんだな)
『ほう』
皇帝が小さく声を漏らした。
『悪くない』
(珍しいね。皇帝がいきなり褒めるなんて)
『余を何だと思っておる』
(他人の国を基本的に見下してる人)
『滅するぞ』
(ほら、すぐそれだ)
皇帝は僕の抗議を無視した。
『古きものを捨てず、新しき時代の中へ残しておるか』
少しだけ感心したような声。
『街そのものに、積み重ねた年月が見える。余はこういう都は嫌いではない』
おお!
これは日本人として黙っていられない。
(でしょ?)
『なぜ貴様が誇らしげなのだ』
(京都だからね)
『意味が分からん』
(日本が世界に誇る古都だよ。千年以上の歴史があって、昔は日本の都だったんだから)
『ふむ』
(寺とか神社とか、歴史的な建物もたくさん残ってるし。それだけじゃなくて、文化とか伝統とか……えーっと)
『…………』
(とにかく、すごい街なんだよ)
『急に説明が雑になったな』
(細かいところはいいの!)
『随分と詳しいように語っておったではないか』
(まあね)
ふふん。
心の中で胸を張る。
もっとも僕、京都に来るの人生でたった二回目なんだけど。
『…………』
(何?)
『いや』
皇帝が鼻で笑った。
『浅い知識で、よくそこまで得意げになれるものだと感心しておった』
(うるさいな!)
そんなやり取りをしながら、もう一度窓の外を見る。
古い町家の軒先。
寺の塀。
赤い鳥居。
自転車で走っていく学生。
五年前には、何も見えていなかった。
いや、見ようとしていなかったのかもしれない。
僕は頬杖をつきながら、流れていく京都の街を眺めた。
人生二回目なのになんだか今日、初めて京都へ来たような気がした。
◇
目的の停留所でバスを降りる。
観光客で溢れていた駅前とは違い、この辺りはずいぶん静かだった。
石畳の細い道。
低い塀の向こうから枝を伸ばす松。
どこかから微かに漂ってくる線香の匂い。
時折、自転車が僕の横を通り過ぎるくらいで、聞こえてくるのは風に揺れる木々の音ばかり。
「えーっと……」
スマホを見る。
現在地を示す青い点。
もう一度、琴葉さんから教えてもらった住所を確認する。
「この辺りのはずなんだけど……」
顔を上げて。
「…………え?」
足が止まった。
目の前にあったのは、治療院という言葉から想像していた建物とは、まるで違うものだった。
まず、でかい。
道路に面して長い土塀が続き、その中央には立派な木造の門。
門の向こうには、瓦屋根を幾重にも重ねた大きな建物が覗いている。
お寺?
いや、神社?
どっちにしても。
(ここ……治療院だよね?)
『余に聞くな』
スマホを見る。
住所は合っている。
もう一度、目の前の建物を見る。
やっぱり、でかい。
「……白羊さんに教えてもらった住所は、ここだよな」
恐る恐る門へ近づく。
その横に、年季の入った木製の看板が掛かっていた。
黒ずんだ木の表面に、流れるような達筆。
『蛇神流針術治療院』
「…………」
読めた。
ちょっとだけ自信なかったけど、たぶん読めた。
(ここだ)
『随分と古い建物だな』
(歴史ありそうだよね)
そう答えながら門の横へ目を向ける。
「…………ん?」
そこだけ異様に新しい。
真新しいインターホン。
しかもカメラ付き。
重厚な木造の門。
苔むした石。
年季の入った看板。
その横で青いランプを光らせる最新式のインターホン。
(世界観!)
『何を一人で騒いでおる』
(いや、もうちょっとこう……呼び鈴とかあるでしょ!)
『便利ならばよいではないか』
(皇帝に正論言われた)
ここで立っていても仕方がない。
「よし……」
ボタンを押した。
ピンポーン。
妙に現代的な電子音が、古めかしい門の向こうへ吸い込まれていく。
数秒。
『はい』
女性の声が返ってきた。
『蛇神流針術治療院どす。ご予約のお方どすか?』
「あ、いえ。蛇神みづちさんに用があって来ました」
『…………宗家へ?』
さっきより少しだけ声の調子が変わる。
『失礼どすけど、どちら様で?』
「陰山修といいます」
『陰山様……』
向こうで何かを確認しているような気配。
けれど、すぐに。
『申し訳ありまへん。宗家は長年ご贔屓いただいてる方の治療しか、お受けしてまへんので』
「あ……」
やっぱり。
琴葉さんの言った通りだ。
昨日。
白虎堂で蛇神みづちに会いたいと伝えた時、琴葉さんは少し困った顔をしていた。
『おそらく、普通にお名前を出しただけでは取り次いではいただけません』
そして帰り際、僕に教えてくれた。
『ですので、こうおっしゃってくださいませ』
「…………」
正直、あんまり言いたくない。
どう考えても物騒だから。
『どうした、俗物』
(これ、本当に言っていいのかなって)
『ここまで来て何を怖じ気づいておる』
(怖じ気づいてるんじゃなくて!)
でも、琴葉さんを信じるしかない。
僕は息を吸った。
「防人禍等級《大禍》案件で来ました」
『…………』
沈黙。
さっきまで聞こえていた微かな雑音まで消えたように感じる。
『…………大禍?』
明らかに声が変わった。
『お兄さん。それ、冗談で言うてはるんやったら……ただでは済みまへんで』
ぞくり。
怒鳴られたわけでもない。
なのに、さっきまでよりずっと怖い。
『クククッ』
(何がおかしいの!?)
『面白くなってきたではないか』
(僕は全然面白くないよ!)
まだ終わりじゃない。
琴葉さんから教えられた言葉には続きがある。
「冗談ではないです。白虎堂の紹介で来ました」
『…………』
一秒。
二秒。
三秒。
長い。
やがて。
『……少々、お待ちおくれやす』
プツッ。
通話が切れた。
「…………」
風が吹き、塀の向こうで木の葉がさらさらと揺れた。
しばらくして。
カタン。
門の向こうで、何かが外れる音がした。
◇
古びた木が擦れる低い音。
門の隙間から、最初に見えたのは白い足袋と草履だった。
誰かが出てくる。
蛇神みづち。
龍二に《呪針》を刺した張本人。
すこし身構えて待っていると、門の向こうから二人の若い女性が姿を現した。
「…………ん?」
二人とも落ち着いた色合いの着物姿。
同じ身長。
同じ髪型。
同じ着物。
そして顔まで瓜二つ。
「双子ー!?」
「…………」
「…………」
「あ、す、すみません!」
初対面の女性に向かって、いきなり「双子ー!?」はない。
でも二人は笑いもしなければ怒りもしなかった。
まったく同じ無表情で僕を見ている。
「お兄さん、陰山修さんどすな?」
「あ、はい」
「宗家がお会いになるそうです」
もう一人が身体を翻す。
「こちらへ、どうぞ」
声の高さも話す速度もそっくりだった。
僕は二人のあとを追って門を潜った。
「うわ……」
門から母屋まで続く石畳。
その両側には真っ白な玉砂利。
丁寧に剪定された松に、苔むした庭石。
長い年月を過ごしてきたことが一目で分かる石灯籠。
駅前の喧騒が嘘みたいだった。
「綺麗な庭ですね」
「…………」
「…………」
「あの、この建物ってかなり古いんですか?」
「…………」
「…………」
完全無視。
(僕の声、聞こえてるよね?)
『聞こえておるだろう』
(じゃあ無視されてるの!?)
『そのようだな』
悲しい。
それよりも。
「…………速っ」
二人とも走ってはいない。
着物の裾もほとんど揺れていない。
なのに速い。
(何この人たち!? 競歩の選手!?)
『歩法だ』
(歩法?)
『重心がほとんど上下しておらん。足運びにも無駄がない』
言われてみれば、二人の頭の高さがほとんど変わらない。
しかも歩幅まで同じ。
『ただの使用人ではないようだな』
(やっぱり?)
『とはいえ未熟だ』
(皇帝基準で評価するのやめようよ)
距離が開いた。
「ちょ、待ってくださーい!」
僕は小走りで追いかけた。
◇
母屋へ入ってからも長かった。
磨き上げられた木の廊下。
障子越しに差し込む柔らかな光。
歩くたび、床板が微かに軋む。
右へ。
左へ。
また右へ。
(広すぎない?)
『知らん』
(何度も聞くけど治療院だよね、ここ?)
『余に聞くな』
やがて双子が同時に止まった。
一枚の襖が開く。
「こちらへ」
案内されたのは広めの茶室のような和室だった。
床の間には掛け軸。
その横には、季節の花が一輪だけ生けられている。
「しばし、お待ちおくれやす」
「しばし、お待ちおくれやす」
「…………はい」
タイミングまで一緒。
襖が閉じた。
◇
五分。
「…………」
十分。
「…………」
三十分。
「…………遅くない?」
スマホを見る。
間違いなく三十分以上経っている。
蛇神みづちはおろか、双子すら戻ってこない。
(皇帝)
『なんだ』
(僕、忘れられてない?)
『知らん』
痺れた足を伸ばして立ち上がり、襖へ近づく。
「すみませーん」
返事なし。
引手へ指を掛ける。
「ん?」
動かない。
もう一度。
「んんっ……!」
びくともしない。
(皇帝)
『なんだ?』
(これ……やばくない?)
『気づくのが遅いわ、阿呆』
(やっぱり!?)
『こういう状況の時、まず如何にするか貴様は余から何を学んできた?』
「ごめん。すぐにやるよ」
目へ魔力を流す。
視界が切り替わった。
まずは《魔眼》にて状況や相手を分析する。
皇帝に叩き込まれた状況判断の鉄則だ。
「あ……」
襖の裏側。
何枚もの札から淡い力の筋が伸び、複雑に絡み合っているのが見える。
(僕、監禁されちゃってるよ)
『ふん』
(ふん、じゃないよ!)
『貴様の手は飾りか?』
(でも勝手に壊したら怒られない?)
『招いた客を閉じ込めておるのだぞ。余の帝国であれば敵対行為、宣戦布告も同然よ』
(そこまで!?)
『余が許す。やれ』
(ここ皇帝の帝国じゃないよね!?)
とはいえ、このまま待っているわけにもいかない。
右手の人差し指へ魔力を収束する。
「《剛爪》」
鋭い魔力の爪が長く伸びた。
襖の合わせ目へ当て。
一閃。
バチンッ!
魔眼の視界で、襖の裏の札が全て真っ二つに裂けた。
光の筋が途切れる。
「よし」
襖を開いた。
そして。
「…………は?」
廊下があった。
いや。
廊下なんて言葉で片づけていいのか、分からなかった。
十歩ほど先で三つに分かれている。
右。
左。
正面。
その先でも二つ。
さらに奥では三つ。
柱と障子と襖、渡り廊下が際限なく枝分かれしていた。
一歩外へ出る。
「…………え?」
右へ伸びていたはずの廊下が、いつの間にか頭上を横切っている。
「はあ!?」
見上げる。
廊下。
その上にも廊下。
欄干から下を覗く。
「うそ……」
下にもある。
一層。
二層。
三層。
数えることすらできない。
何本もの木造廊下が縦横に絡まり、途中で折れ、交差し、ありえない角度で上下へ伸びている。
階段を上っているのに、その先はなぜか下の階。
正面へ続いていた渡り廊下が途中で垂直に折れ、そのまま天井へ吸い込まれている。
襖を開けば、さらに廊下。
障子の向こうにも廊下。
まるで巨大な日本家屋を何十軒もばらばらにして、狂った人が好き勝手につなぎ直したみたいだった。
(皇帝)
『なんだ』
(この建物、外からこんなに大きくなかったよね!?)
『当然だ』
嫌な予感がして振り返る。
「…………」
壁。
「え?」
さっきまでいた茶室が消えている。
(皇帝)
『なんだ』
(さっきまでいた部屋、なくなったんだけど)
『見れば分かる』
(これ結構やばくない!?)
『騒ぐな。魔法でいうところの《迷宮》に近い』
(これが……)
迷宮。
その言葉だけならゲームで何度も聞いた。
でも実際に放り込まれると、全然楽しくない。
『《魔眼》を解くな』
さらに意識を目へ集中させる。
「…………あれ?」
景色が揺れた。
廊下も。
柱も。
階段も。
水面へ映した景色みたいに、僅かに輪郭が歪んでいる。
(幻覚……?)
『そうだ。目に映る道を追わず術を見ろ』
術を見る。
僕は呼吸を整えた。
似たようなことをしたことがある。
一花さんとの鬼ごっこ。
《魔眼》で影の奥を見た時だ。
あの時、僕は影と影を結ぶ《影路》を見つけた。
なら今回もわかるはず。
見えている景色じゃない。
景色の裏側を見る。
「…………」
一本。
また一本。
偽物の廊下を意識から外していく。
すると。
「あ」
何もない空間に、一筋だけ異質な力の流れが見えた。
その先にぼんやりと、一枚の襖が浮かび上がる。
「見つけた」
『行け』
「よし!」
駆け出す。
存在しない廊下もありえない階段も全部無視。
何もないように見える空間へ手を伸ばした。
指先が引手へ触れる。
「ここだ!」
ガラッ!
勢いよく襖を開き。
「うわっ!?」
敷居につまずいた。
どたんっ!
「痛っ……!」
『締まらんな』
(うるさい!)
額を押さえながら顔を上げる。
そして。
「…………え?」
息を呑んだ。
◇
広い。
さっきの茶室とは比較にならない。
高い天井を黒々とした太い梁が走り、奥には金を使った豪華な襖絵。
艶のある柱。
巨大な掛け軸。
部屋の最奥だけが一段高くなっている。
まるで戦国時代の城にある大広間。
そこで僕は三人の女性に見下ろされていた。
左右には、さっきの双子。
相変わらず同じ姿勢。
同じ無表情。
そして二人の中央の上座に、一人の女性がいた。
「…………」
一瞬、目を奪われた。
年齢が分からない。
二十代にも三十代にも見える。
しかし四十代だと言われても信じる。
艶のある長い黒髪は複雑に結い上げられ、左右には大きな髪飾り。
紫と金の装飾が揺れ、その髪の間には、蛇を象った装飾まで絡みついている。
白を基調に黒と紫を重ねた衣装は、和服とも中国の古い衣装とも違う。
細い金の刺繍が走り、肩から落ちる薄布の奥には豊かな身体の線が覗く。
露出は少なくない。
なのに、不思議と下品には見えなかった。
むしろ古い名家の女主人。
そんな言葉の方が似合う。
そして何より目を引くのが、顔。
切れ長の目。
紫がかった瞳。
口元には小さな黒子。
右目の周囲には、蛇が這うような紋様が刻まれている。
「…………」
綺麗だ。
でもそれだけじゃない。
見つめていると、背中の奥がぞわぞわする。
近づきたくなる。
なのに、本能は離れろと言っている。
甘い香りのする毒みたいな人だった。
『俗物』
(何?)
『鼻の下を伸ばすな』
(伸ばしてないよ!)
『伸びておる』
(伸びてないって!)
慌てて立ち上がる。
双子は無表情。
絶対、転んだところを見られた。
恥ずかしい。
でも中央の女性だけは違った。
僕を見ながら、ゆっくり口元を緩める。
「……へえ」
柔らかい声。
右目の蛇まで一緒に笑ったような気がした。
「お兄さんが、陰山シュウはん?」
「……はい」
「思ってたより、おもろい子やね」
間違いない。
この人が《呪禁道》蛇神流針術、二十八代宗主。
防人十二支将隊。
巳を預かる《因達羅隊》隊長。
蛇神みづち。
「はじめまして。陰山修です」
「ご丁寧にどうも」
みづちさんは頬杖をついたまま笑っている。
「それにしても、びっくりしたわぁ」
「え?」
「巳香と巳魅《迷い家の術》、初見で抜けてきはった人なんて、久しぶりやもの」
「…………」
やっぱり。
「じゃあ、あの部屋に閉じ込めたのも……」
「閉じ込めた?」
みづちさんが首を傾げる。
「人聞き悪いわぁ。ちょっと待ってもろてただけやのに」
「襖、開かなかったんですけど」
「古い建物やさかい。建て付け悪かったんと違います?」
「札が貼ってありましたよ!?」
「まあ」
口元へ指を添える。
「よう見てはる」
(絶対わざとだ、この人!)
『クククッ。白々しい女だ』
同感。
みづちさんは僕の右手へ視線を落とした。
「そうすると、あの封札まで切らはったんやね」
「す、すみません。それは……」
「ええのよ」
にこり。
「壊した分は、あとで請求させてもらいますし」
「お金取るの!?」
思わず叫んだ。
琴葉さん。
あなたが言っていた通りです。
『ほう』
皇帝が感心した。
『《金欲俗物》の名に偽りなしだな』
(本人には絶対言わないでよ!?)
みづちさんは僕の反応がおかしかったのか、くすくす笑っている。
でもその目だけは、まったく笑っていなかった。
「ところで」
声の温度が、ほんの少し変わった。
「白虎堂の紹介いうことは、虎壱はんから?」
「あ……いえ」
僕は首を振った。
「白羊さんからです」
「琴葉ちゃんか」
その名前を聞いた瞬間。
みづちさんの笑みが、ほんの少し深くなった。
「相変わらず、うちのこと苦手なんやろねぇ」
「…………」
否定できない。
ものすごく言葉を濁してたから。
「それで?」
みづちさんが身体を起こす。
金と紫の髪飾りが小さく揺れた。
「《大禍》案件なんて物騒な言葉まで使うて、うちに何の用?」
「菅原龍二のことで聞きたいことがあります」
その名前を出した瞬間。
空気が変わった。
ほんの少しだけ。
でも確かに。
「…………龍二はん」
「はい」
「なるほど」
みづちさんが目を細めた。
「《呪針》のこと?」
「!」
やっぱり知ってる。
いや。
本人が刺したんだから当然だ。
「どうして、あんなものを龍二に刺したんですか」
「どうして、かぁ」
頬杖。
長い指先が口元へ触れる。
「本人からは聞いてへんの?」
「聞きました。でも、僕はあなたからも聞きたいんです」
皇帝に言われたから。
龍二の話だけで決めつけるな。
虎壱さんにも。
蛇神みづちにも。
それぞれの言い分がある。
だから。
「龍二がしたことは許されないと思ってます。でも、だからって、あんな呪いをかけていいのかは別だと思うから」
「…………」
みづちさんが黙った。
僕を見る。
さっきまでの妖艶な笑みは、まだ残っている。
でも何かが違う。
「ふぅん」
右目を囲む蛇の紋様。
その中心にある紫の瞳が、僕を捉えた。
「陰山シュウはん」
「はい」
「うち、一つだけ確かめたいことがあるんよ」
「……何ですか?」
「ほんまに」
みづちさんの目が細くなる。
「あなたが《大禍》なん?」
「え?」
その瞬間だった。
右目の蛇の紋様が。
動いた。
「…………え?」
錯覚。
そう思った。
刺青が動くはずなんてない。
なのに蛇が瞼の周囲を這った。
紫色の瞳が細く縦に割れる。
蛇の眼。
「っ……!」
目を逸らそうとした。
できない。
「な……」
首が動かない。
瞼も。
身体も。
呼吸だけがやけに大きく聞こえる。
みづちさんの瞳以外、何も見えなくなっていく。
「大丈夫」
甘い声。
「怖がらんでもええよ」
声が耳へ入る。
違う。
頭の中へ直接染み込んでくる。
「こっち、おいで」
右足が一歩、前へ出た。
「…………え?」
僕は動かしていない。
止まれ、そう思った。
なのに左足も前へ。
「な、に……これ……」
「ええ子やね」
みづちさんが微笑む。
僕の身体が、もう一歩。
(皇帝!)
返事がない。
(皇帝!?)
止まれ。
止まれ!
頭では叫べる。
意識だってある。
なのに身体だけが、僕の言うことを聞かない。
「そのまま」
みづちさんが手を伸ばした。
細く白い指。
「うちのところまで、おいで」
足が動く。
一歩。
また一歩。
近づく。
紫色の瞳へ。
蛇の眼へ。
(皇帝!!)
『俗物!』
ようやく声がした。
低い。
今まで聞いたことがないほど。
『この女.....気に入らんな』
(え?)
足が止まった。
「…………?」
みづちさんの眉が、初めて僅かに動いた。
僕は動かしていない。
止めてもいない。
いや違う。
僕じゃない。
『俗物よ。しばし引っ込んでおれ』
(皇帝……?)
瞬間。
ぞくんっ!
身体の奥から、何かが押し上がってきた。
知っている。
この感覚。
学校や白虎堂でだけ経験した。
僕の身体なのに僕の身体じゃなくなる。
「ちょっ……!」
右手が持ち上がる。
勝手に指を一本ずつ開き、握り、確かめる。
首を左右へたおし、肩を回す。
(皇帝!?)
僕の意思とは関係なく、背筋が伸びた。
さっきまでみづちさんに引き寄せられていた足が、逆に一歩前へ出る。
そして僕の口が僕の意思とは関係なく動いた。
「女」
「…………」
声は僕のもの。
なのに僕の声じゃない。
「余の器に」
口元が勝手に吊り上がる。
「随分と無礼な真似をしてくれたな」
空気の温度が上がった気がする。
「っ!?」
紫黒。
僕の身体から噴き出した魔力が畳の上を走った。
襖が鳴る。
掛け軸が大きく揺れ、部屋の空気が一瞬で重くなる。
双子が動いた。
さっきまで人形みたいだった二人が、同時に左右へ跳ぶ。
速い。
着物の袖から何かを抜いた。
針?
いや。
僕にはもう、それを確認する余裕すらなかった。
(皇帝! 何する気!?)
『黙って見ておれ』
(僕の身体なんだけど!?)
『知っておる』
(じゃあ勝手に戦おうとするなぁぁぁ!)
心の中で叫んでも、身体は返ってこない。
皇帝は僕の右手を開いた。
指先から紫黒の魔力が溢れる。
でも蛇神みづちは逃げなかった。
驚きもせずに上座に座ったまま。
僕を。
いや僕の中から出てきた皇帝を見ている。
そして。
「……ふふっ」
笑った。
さっきまでよりずっと楽しそうに。
「やっと」
みづちさんがゆっくり立ち上がった。
長い黒髪が肩から流れ、金と紫の装飾がしゃらりと鳴る。
艶やかな衣装の袖が畳の上を撫でた。
右目の蛇の紋様が妖しく色を帯びる。
「出てきはった」
「…………」
え?
やっと?
どういう意味?
皇帝も気づいたらしい。
僕の目が細くなる。
「貴様」
僕の声なのに背筋が冷たくなるほど低い。
「初めから、余を引きずり出すつもりであったな」
「さあ?」
みづちさんは小さく首を傾げた。
「なんのことやろねぇ」
『チッ』
(皇帝?)
『この女』
怒ってる。
かなり。
『余の存在を確かめるため、俗物へ術を掛けおった』
(ええええ!?)
ということは僕が完全に餌!?
「蛇神みづちとやら」
皇帝が僕の口で、その名前を呼んだ。
呼び捨てやめて!
十二支将隊の隊長だから、この人!
「余の臣下でもない者が」
一歩。
僕の足が前へ出る。
「余へ術を向けた」
「直接向けたんは、陰山シュウはんにやけど?」
「同じことよ」
(同じじゃないよ!?)
そこで、みづちさんの笑顔が変わった。
さっきまでの、人をからかふうような笑みじゃない。
獲物を見つけた蛇。
そんな笑顔。
「なるほどなぁ」
白い指が袖へ入る。
抜き出された時。
指の間には細い針が三本。
紫色の光を纏っていた。
左右の双子もおなじく針を構える。
逃げ道はない。
(ちょっと待って!)
嫌な予感どころじゃない。
(皇帝!)
『なんだ?』
(話し合い! 僕ら今日は話し合いに来たんだからね!?)
『向こうが先に仕掛けた』
(だからって!)
『安心せよ』
(何を!?)
僕の右手が持ち上がる。
魔力が集まる。
『殺しはせん』
(安心できる要素が一個もないよ!!)
みづちさんの《蛇眼》が妖しく光った。
右目を囲む蛇の紋様が、まるで生きているみたいに蠢く。
「これはこれは……」
彼女は針を指の間で弄びながら、艶やかに笑った。
「「これは、うちも真剣にお相手せんとあきまへんなぁ。下手したら……こっちが頭から喰われてしまいそうやわ」
僕の口も笑った。
皇帝の笑い方で。
「クククッ」
(お願いだから笑わないで!)
紫黒の魔力と。
蛇眼から溢れる妖しい光。
二つが、大広間の中央でぶつかる。
空気が軋しむ中、皇帝は僕の身体で、悠然とさらに一歩前へ出た。
「よかろう」
(よくない!)
「その身をもって知るがいい」
(何を!?)
僕の右手に紫黒の魔力が収束する。
「誰の器に手を出したのかをな」
(だから僕の身体ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!)
龍二の《呪針》について話を聞くだけだったはずの僕の京都旅行は到着から数時間で暗黒皇帝と十二支将隊《巳》との戦いへと突入しようとしていた。




