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第二十一話 後編 暗黒皇帝、因果を説く

 道場の外で、救急車のサイレンが止まった。


 甲高かった音が途切れたかと思うと、今度は玄関の方から複数の足音が近づいてくる。


「具合の悪い方は?」


「こっちです!」


 桜井さんが手を上げた。


 僕も龍二のそばから離れ、救急隊員が入れるよう場所を空ける。


 ほんの数分前まで、龍二は両手で頭を抱え、床に蹲っていた。


 顔から血の気が引き、額には脂汗。身体を震わせながら、


『痛い……痛い痛い痛い痛い……!』


 そう叫んでいた。


 ところが。


「…………あれ?」


 思わず目を瞬いた。


 救急隊員が到着した頃には、龍二は何事もなかったみたいに身体を起こしている。


 額にはまだ汗が残っているものの、荒れていた呼吸は落ち着き、顔色もさっきとはまるで違った。


「菅原くん?」


「……大丈夫」


「いや、大丈夫って……」


 あれだけ痛がってたのに?


 救急隊員が龍二のそばへ膝をつき、手際よく状態を確認していく。


「突然、激しい頭痛があったと聞いています。今はどうですか?」


「もう痛くないです」


「吐き気や眩暈は?」


「ないです」


「手足の痺れは?」


「それも大丈夫です」


 受け答えもしっかりしている。


 意識もはっきりしていて、少なくとも今だけを見れば、さっきまで床を転げ回るほど苦しんでいた人間には見えなかった。


「突然の強い頭痛ですから、念のため病院で検査を受けることをお勧めします」


「…………」


 龍二は少し考えてから、静かに首を横へ振った。


「本当に、もう大丈夫です」


「ですが、一度きちんと診てもらった方が」


「すみません」


 そう言って立ち上がると、救急隊員たちへ深々と頭を下げる。


「せっかく来ていただいたのに、お騒がせしました」


「…………」


 僕と桜井さんは顔を見合わせた。


 丁寧。


 ものすごく丁寧だ。


 以前の龍二だったら、救急車を呼ばれたこと自体に悪態の一つくらいついていた気がする。


 いや、今はそこじゃない。


 救急隊員たちは何度か受診を勧めたものの、本人の意思が変わらないと分かると、症状が再び現れた場合はすぐ医療機関を受診するよう念を押した。


 やがて玄関の扉が閉まり、少し遅れて救急車のエンジン音が遠ざかっていく。


 道場に静けさが戻った。


 窓から差し込む西日が、磨かれた板張りの床を橙色に染めている。


 その真ん中に立つ龍二を見た。


 聞きたいことは山ほどある。


 蛇神。


 呪針。


 虎壱さん。


 そして何より、停学していた約一か月の間に、龍二の身に何があったのか。


「菅原」


「……ん?」


「話、聞かせてくれない?」


 龍二の目が僕へ向いた。


「停学中に何があったのか。さっきの頭痛のことも」


「…………」


 しばらく返事はなかった。


 けれどやがて、龍二の口元がわずかに緩む。


 学校で何度も見た、あの薄っぺらい笑顔とは少し違った。


「……ありがとな」


「え?」


「話、聞いてくれるんだな」


 ほんの少しだけ、僕の知っている龍二に戻ったような気がした。


「聞くだけだからね」


「ああ。それでいい」


 僕たちは道場の端へ移動した。


 龍二が壁際に腰を下ろし、僕も少し距離を空けて座る。桜井さんは僕の隣だ。


 龍二は膝の上で両手を組むと、何度か指を動かしてから、ぽつりと話し始めた。


「俺の兄貴のことは……もう知ってるよな」


「虎壱さん?」


「ああ」


 もちろん知っている。


 学校では反グレの幹部。そんな噂まで流れていた男。


 だけど、本当は違う。


「兄貴が《防人》だってことも?」


「知ってる。本人から聞いたから」


「兄貴から?」


「うん」


 龍二が少し驚いた顔をしたあと、何かに納得したように頷いた。


「じゃあ……親父とお袋のことも?」


「聞いてる」


「四国のことも?」


「……うん」


 十年前。


 四国で発生した、大規模な異界侵食。


 今では《死國》と呼ばれている場所。


 龍二の両親も防人だった。


 そして、あの四国で。


 母親は死亡。


 父親は今も行方不明。


 それは虎壱さんから、すでに聞いている。


 そして僕にとっても、四国は決して他人事じゃない。


「そこまで知ってるなら……話は早いな」


 龍二が小さく息を吐いた。


「俺も昔は、防人になろうとしてたんだ」


「……菅原が?」


「ああ」


 それは初耳だった。


「親父も防人。お袋も防人。兄貴も防人。だったら俺も、そうなるんだと思ってた。ガキの頃はな」


 口元に浮かんだのは、自嘲するような笑み。


「でも、無理だった」


「無理?」


「修練についていけなかった」


 膝の上で組まれた指に、力が入る。


「キツかったんだよ。身体も、心も……全部」


 ぽつり、ぽつり。


 絞り出すように言葉が落ちていく。


「兄貴にはできた。親父にもできた。お袋にもできた」


 握られた拳が、わずかに震える。


「俺だけ、できなかった」


 その声に、ほんの少しだけ昔の龍二が混じった。


 苛立ち。悔しさ。それ以上に、自分自身への怒り。


「結局、俺はすぐ逃げた。防人になるのも諦めた」


「…………」


「それからずっと、自分が弱いってことにイライラしてたんだ」


 僕は黙って聞く。


「兄貴を見るたびに思った。なんであいつにはできて、俺にはできないんだって」


 俯いていた龍二の視線が上がり、真っ直ぐ僕を見る。


「そんな時に……陰山、お前がいた」


「僕?」


「ああ」


 一瞬、言葉に詰まる。


「俺より……弱いやつ」


「…………」


 胸の奥に、嫌な感覚が戻ってきた。


 それでも目は逸らさなかった。


「運動もできない。喧嘩もできない。何言っても言い返してこない」


 龍二の視線が落ちる。


「お前を馬鹿にしてる時だけ、自分が強くなったような気がしてた」


 道場が静かになる。


「俺より下がいる。俺は底辺じゃない」


 拳を握り締め、自分自身へ言い聞かせるように。


「そう思いたかった」


 龍二が頭を下げた。


「……最低だよな」


「…………」


 僕は、すぐには答えられなかった。


 事情を聞いたからって、あの頃のことが消えるわけじゃない。


 龍二にされたことが、なかったことになるわけでもない。


 でも初めてだった。


 こいつがどうして僕をいじめていたのか。


 龍二自身の口から聞いたのは。


「それで……」


 龍二が顔を上げる。


「今、その償いをさせられてる」


「償い?」


「ああ」


 人差し指で、自分の頭を指した。


「ここ」


 次に胸の中心。


「ここ」


 そして両手を僕たちへ差し出す。


「それと、ここ」


「手?」


「正確には……全部の爪の間」


「…………」


 嫌な想像をしてしまい、思わず自分の指先を見る。


「まさか……」


「《呪針》が刺さってる」


 龍二が言った。


 隣で桜井さんの表情が強張る。


 僕も玄一郎さんの言葉を思い出していた。


 《呪禁道》蛇神流針術。


 そして《呪針》。


「誰が……刺したの?」


 桜井さんが尋ねる。


 龍二は少しだけ黙ったあと。


「蛇神みづち」


 そう答えた。


「防人十二支将隊。巳を預かる《因達羅隊》の隊長だ」


 玄一郎さんが口にしていた蛇神。


 やっぱり、その人だった。


「でも、蛇神に頼んだのは……」


 龍二の顔が歪む。


 僕はもう分かっていた。


 それでも龍二自身の口から、その名前が出る。


「兄貴だ」


「虎壱さんが……」


「ああ」


 吐き捨てるように言いかけた龍二が、不意に口を閉じる。


 そして自分の頭へ触れた。


 さっきの激痛を思い出したんだろう。


 次に口を開いた時には、慎重に言葉を選んでいた。


「蛇神みづちに言われた」


 自分の頭を指す。


「汚い言葉を使ったら、頭」


 次に胸。


「誰かを恨んだり憎んだりしたら、心臓」


 最後に両手を広げる。


「誰かに暴力を振るおうとしたら、両手の爪の間」


 僕はその十本の指を見つめた。


 何も見えない。


 傷も、針も、血すらない。


「条件を破ると、そこに刺さってる《呪針》が反応する」


「反応って……」


「痛むんだよ」


 龍二の顔から、わずかに血の気が引く。


「めちゃくちゃ」


 その声だけで十分に、さっきの光景が蘇る。


 床に膝をつき、頭を抱え、脂汗を流して叫んでいた龍二。


「どれくらいの間、痛いの……?」


 桜井さんが聞く。


「数分くらいだと思う」


「数分?」


「ああ。けどな……」


 声が震えた。


「あれ食らってる時は、何十分にも何時間にも感じる」


 唇が引きつる。


「狂いそうになるくらい痛えんだよ」


 その一言だけは、今の穏やかな龍二から出たとは思えないほど切実だった。


「じゃあ……さっき頭が痛くなったのって」


 ほとんど答えの出ている疑問を、確信に変えるため口にする。


「…………」


 龍二が黙る。


 頭痛の直前、龍二の口から出た言葉は確か。


『あのクソ兄貴のせいで……!』


「あ……」


「そうだよ」


 龍二がものすごく嫌そうな顔をする。


 頭を掻こうとして、途中で手を止めた。


「兄貴を罵る言葉を使ったから」


「…………」


「それだけで頭の《呪針》が発動した」


 龍二の口元から乾いた笑いが漏れる。


 誰も何も言えなかった。


 西日だけが、三人の間に長い影を落としていた。


     ◇


 その日の夜。


 自宅へ戻った僕は、ベッドの上で仰向けになり、ぼんやり天井を見つめていた。


 頭から離れない。


 床に蹲り、脂汗を流して。


『痛い、痛い痛い痛い……!』


 そう叫んでいた龍二の姿。


 頭。心臓。そして両手、十本の指の爪の間。


 そこに刺さっているという《呪針》。


(皇帝)


『なんだ』


(どう思う?)


『何がだ』


(龍二のことだよ)


『知らん』


 即答。


(いや、ちょっとくらい考えてよ!)


『何を考える必要がある』


 心底どうでもよさそうな声だった。


『痛むだけなのであろう?』


(……龍二の話だと)


『死にはせんのだな?』


(たぶん)


『ならばよい』


(よくないでしょ!)


 思わず身体を起こした。


(あんな痛がり方してたんだよ?)


『だからどうした』


 淡々としている。


 流石、修練と称して僕を何度も精神世界で殺した男だ。


 痛みに対する基準が根本的におかしい。


『余が白虎と同じ立場であれば、同じことをしたやもしれん』


(え!?)


 ちょっと待って。


(皇帝も龍二に《呪針》刺すの?)


『手段まで同じとは申しておらぬ』


 皇帝の声が少し低くなる。


『だが、あの小僧は長きにわたり貴様を虐げたのであろう?』


(まあ……うん)


『ならば、自らが他者へ与えた苦痛の重さを知る必要はある』


「…………」


『よい薬ではないか』


(薬って……)


『死なぬのであろう?』


(そこ基準にするのやめてよ)


『甘いな、俗物』


 鼻で笑う気配がした。


『己の行いに何の代価も伴わぬと知れば、人は容易く同じ過ちを繰り返す』


(でもさ)


『なんだ』


(痛みで反省させるって、どうなの?)


 少しだけ皇帝が黙った。


(悪いことしたら痛い目に遭わせる。それで本当に反省したことになるのかな?)


『勘違いするな』


 返ってきた声は、さっきまでより重かった。


『痛みそのものが反省なのではない』


(じゃあ何?)


『結果だ』


「…………」


『己が為したことには、必ず結果が伴う』


 皇帝の声が静かに響く。


『奪えば奪われる。傷つければ恨まれる。信を踏みにじれば、いずれ己も信を失う』


 まるで誰かに言い聞かせるというより、皇帝自身が何度も見てきたものを語っているみたいだった。


『王であろうと、英雄であろうと、俗物であろうと同じことよ』


(…………)


『己が犯したことへのツケは、いずれ己で払わねばならん』


 なるほど。


 ちょっとだけ。


 本当にちょっとだけ、納得しかけた。


 でも。


「…………あ」


 気づいてしまった。


『なんだ?』


(皇帝)


『申せ』


(それ、ものすごいブーメランになってない?)


『…………』


 沈黙。


(皇帝もさ)


『…………』


(弟とか、仲間の英雄たちに裏切られて、最後は封印されたんだよね?)


『…………』


(それって、皇帝がそれまでやってきたことのツケが……)


『俗物』


(はい)


『もう寝ろ』


(逃げた!)


『今宵は休みだが、明日も修練だ』


(絶対いま自分でも思ったでしょ!)


『思っておらぬ』


(じゃあ反論してよ)


『くだらぬ問答に付き合う義理はない』


(いつもなら十倍くらい言い返してくるじゃん)


『黙れ』


(図星なんだ)


『黙れと言っておる!』


 分かりやすい。


 ものすごく分かりやすい。


 精神世界で顔を合わせていたら、たぶん今頃、玉座の肘掛けでも握り潰している。


 思わず少し笑ってしまった。


『何がおかしい』


(なんでもない)


『不敬な俗物め』


 でも笑ったあとに、また龍二の顔が浮かんだ。


「…………」


 やっぱり、このままにはできない。


(皇帝)


『まだ何かあるのか』


(虎壱さんに会ってみる)


『好きにせよ』


(龍二から聞いただけじゃ分からないし)


 龍二の話が事実なら、蛇神みづちに《呪針》を刺すよう頼んだのは虎壱さんだ。


 でも、僕が知りたいのはそこだけじゃない。


 なぜ虎壱さんは、実の弟にあそこまでのことをしたのか。


 どういう考えで、蛇神みづちに《呪針》を頼んだのか。


 それに玄一郎さんの話では、《呪針》には僕自身も何らかの形で関わっている可能性がある。


 だったら本人に聞くしかない。


(白虎堂に行こう)


『好きにせよ。ただし』


(ん?)


『白虎の言い分も聞け』


「…………」


『弟の言葉のみで裁くな。事の是非を決めるならば、双方の言葉を聞いてからにせよ』


 意外だった。


(皇帝って、そういうところちゃんとしてるよね)


『余を何だと思っておる』


(暴君)


『滅するぞ』


 いつもの皇帝だ。


 でも、言っていることは正しい。


 虎壱さんに直接、話を聞こう。


     ◇


 翌日の放課後。


「ごめん、桜井さん。今日の稽古、休ませてもらっていい?」


「うん、大丈夫だよ」


 事情は昨日の道場で一緒に聞いている。


 だから桜井さんも、僕がどこへ行こうとしているのかすぐ察したらしい。


「菅原くんのお兄さんのところ?」


「うん」


「……そっか」


 少し心配そうな顔をしてから。


「気をつけてね、陰山くん」


「ありがとう」


 桜井さんと別れ、僕は一人で歩き出した。


 向かう先は決まっている。


 白虎堂。


 表向きは古美術商。


 でも、その実態は。


 防人、四方神将。


 西方守護《白虎》、菅原虎壱さんと繋がる場所。


 訪れるのは、これで二度目だ。


 一度目に訪れた時。


 きっかけは、銭湯で出会ったコーヒー牛乳好きの妙な男から渡された、一枚の名刺だった。


 《魔眼》を使わなければ見えない仕掛け。


 そこに隠されていたのは、僕ではなく。


 僕の中にいる皇帝を白虎堂へ招くためのメッセージだった。


 そして訪れた、この場所で。


 あの妙な男が菅原虎壱。


 龍二のお兄さんであり、《防人》の四方神将《白虎》だと知った。


 さらに。


 《防人》とは何なのか。


 十年前、四国で何が起きたのか。


 《死國》とは何なのか。


 僕を撃ち抜いた紫色の光が、偶然降ってきた流星ではなかったことも。


 あの時、白虎堂へ呼ばれていたのは僕じゃなく、皇帝だった。


 でも今日は違う。


 僕自身が、虎壱さんに聞きたいことがある。


 菅原龍二。


 自分の弟に、虎壱さんはなぜあそこまでのことをしたのか。


 それを確かめるため。


 僕は二度目の白虎堂へ向かった。


     ◇


「こんにちはー」


 引き戸を開ける。


 からん。


 小さな鈴の音が、静かな店内に響いた。


 久しぶりに訪れた白虎堂。


 店の中へ足を踏み入れると、古い木の匂いと、微かな香の匂いが鼻をくすぐる。


 窓から差し込む午後の日差し。


 棚に並んだ茶器や古びた壺。壁には掛け軸。


 僕には価値なんてさっぱり分からないけど、うっかり倒したら高校生の小遣いでは人生が終わりそうな品ばかりだ。


 前回来た時と、ほとんど変わっていない。


 なのに今では、見え方がまるで違う。


 前回はこの店の水墨画から、人が三人も出てきた。


 棚の奥に何気なく置かれている、古びた木箱。


 幾重にも封印が施され、その中には禍々しい力を宿した勾玉が収められている。


 そして普通の店員さんだと思っていた綺麗な女性まで、防人十二支将隊の隊長だった。


(改めて考えると、とんでもない店だよな)


『今さら気づいたのか』


(最初は普通の古美術商だと思ってたんだよ)


『店内へ入った時点で、幾つもの異質な気配があったであろう』


(あの時の僕に分かるわけないでしょ)


『だから貴様は俗物なのだ』


(その理屈はおかしい!)


「いらっしゃいませー」


 店の奥から、柔らかな声が聞こえた。


「少々お待ちくださいませ」


 衣擦れの音が近づいてきて。


「あら?」


 奥から姿を現した女性が、僕を見て目を丸くする。


「陰山様」


「あ、こんにちは。白羊さん」


「まあまあ」


 白羊琴葉さん。


 淡い藤色の和服に、長い黒髪。


 柔らかな物腰と上品な微笑み。


 相変わらず、和服がものすごく似合う綺麗な人だ。


『俗物』


(何)


『顔が緩んでおる』


(緩んでないよ!)


『己の顔すら制御できぬとは。修練が足りんな』


(相変わらず綺麗な人だなって思っただけじゃん)


『ならば余が精神世界に美女を百人ほど用意してやろう。煩悩を捨てるまで百日間、ひたすらその中で素振りだ』


(何その天国か地獄なのか分からない精神修行!?)


『喜べ。特別訓練だ』


(答えに困るよ!)


「陰山様?」


「あ、いえ! なんでもないです!」


 慌てて姿勢を正す。


 すると琴葉さんは、何かに気づいたように僕の顔を見つめた。


 いや、正確には。


 僕を見ているようで、僕ではない誰かを見ていた。


「そうでしたわ」


 琴葉さんは居住まいを正すと、僕へ向かって丁寧に頭を下げた。


「陛下も、ご機嫌麗しゅうございますか」


(…………)


 僕に向けられた挨拶じゃない。


 僕の中にいる、もう一人への挨拶だ。


『ほう』


 皇帝の声が、露骨に機嫌を良くした。


『やはり防人の中では、この女が最も礼節というものをわきまえておるな』


(そういうところだけ評価基準が皇帝なんだよなあ)


『当然であろう。余は皇帝ぞ』


(はいはい)


『容姿も悪くない。立ち居振る舞いにも品がある』


(急にどうしたの)


『俗物』


(何?)


『今宵、寝所へ誘え』


(なんでそうなるの!?)


『何を驚いておる。余が直々に寵愛してやろうと言っておるのだ。女にとってこれ以上の誉れがあるか』


(あるよ! というか僕の身体で誘うことになるんだけど!?)


『些細な問題だ』


(僕にとっては最大級の問題だよ!)


「陰山様?」


「いえ、本当になんでもないです」


 僕は真顔になった。


『なぜ断る』


(絶対言わないからね!)


 危ない。


 危うく防人十二支将隊の隊長を、僕の寝室へ誘わされるところだった。


 すると琴葉さんが僕をじっと見つめた。


 紫色の瞳が顔から肩、腰へと下がり、最後に足元で止まる。


「…………」


「な、なんですか?」


「いえ」


 琴葉さんは少しだけ首を傾げた。


「陰山様。あちらからこちらまで歩いていただけます?」


「歩く?」


「ええ」


 言われるまま数歩進む。


 琴葉さんの視線が僕の足元を追った。


 やがて。


「やはり」


「?」


「以前より、ずっと立ち姿が良くなっておりますわ」


「立ち姿?」


「重心がぶれません。それに歩法も」


「歩法まで見てたんですか?」


「もちろんですわ」


 袖で口元を隠し、柔らかく笑う。


「この前、猿飛様や翔子と立ち合われた時より、さらにお強くなられましたね」


「そんなの分かるんですか?」


「これでも防人十二支将隊の隊長でございますもの」


 そうだった。


 見た目だけなら、老舗旅館の若女将みたいなのに。


 この人も、とんでもなく強い。


『当然だ』


 皇帝が割り込んできた。


『誰が鍛えていると思っておる』


(はいはい)


『なんだ、その返事は』


(桜井さんにも剣術教えてもらってるからね)


『無論、基礎を疎かにせぬことはよい。だが』


 急に偉そうな声が一段増した。


『貴様の魔力制御、身体能力、戦闘判断、そして生存能力。それらをここまで引き上げた者は誰だ』


(皇帝です)


『聞こえぬ』


(ヴァルガイア皇帝陛下のおかげです)


『うむ』


 満足した。


 チョロいな、この皇帝。


『俗物。今、余を侮辱したか?』


(してません)


『貴様の思考は分かりやすい』


(心まで読めるみたいに言うのやめて!)


 僕は琴葉さんへ向き直った。


「あの、白羊さん」


「はい」


「今日、虎壱さんいますか?」


 その名前を出した途端、琴葉さんが少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「虎壱様でしたら、しばらくこちらへはお戻りにならないと思いますわ」


「え?」


「防人のお仕事で、《死國》周辺へ向かわれておりますの」


「死國に?」


「正確には、その周辺ですわ」


 琴葉さんの表情から、ほんの少しだけ笑みが薄れた。


「最近、境界付近が少々騒がしくなっておりまして。虎壱様はそちらの対応へ」


「…………」


 死國。


 その言葉を聞くだけで、十年前の、黒く塗り潰された空が頭をよぎる。


「大丈夫……なんですか?」


「あら?」


「だって死國ですよね」


 僕は一度、虎壱さん本人から聞いている。


 今の防人が全戦力を投入しても、平定できない場所。


 そんな場所の周辺へ向かったという。


 でも琴葉さんは少し驚いた顔をしたあと。


「ふふっ」


 柔らかく笑った。


「大丈夫ですわ」


 迷いはなかった。


「虎壱様は、ああ見えて本当にお強いのです」


「…………」


「あの方は、ご自身のことをあまりお話しになりませんけれど」


 どこか誇らしそうに琴葉さんが続ける。


「危険な任務へ赴かれたことなど、一度や二度ではございません。その度にご自身が生きて帰るだけではなく、一緒に戦った方々まで連れて帰ってこられました」


「へえ……」


「ただ強いだけの方ではございません」


 その声が少し柔らかくなる。


「どれほど危険な状況でも周囲を見て、誰を退かせ、誰を前へ出すべきかを考えていらっしゃる」


 紫色の瞳が細められた。


「ご自分が傷つくことより、仲間が帰れなくなることを嫌う方ですわ」


『ほう』


 皇帝が小さく反応した。


(どうしたの?)


『兵を生かして帰すことを知る者か。白虎の名は飾りではないらしい』


(皇帝が褒めるの珍しいね)


『余は価値ある者を正当に評価しておるだけだ』


(自分で言う?)


『何か問題でもあるか』


(ないです)


「四方神将《白虎》の名は、伊達ではございませんわ」


 琴葉さんが微笑む。


 その表情を見ながら、ふと思った。


(……皇帝)


『なんだ』


(白羊さん、虎壱さんのこと好きなのかな?)


『…………』


(なんか今、すごく嬉しそうじゃない?)


『俗物』


(何?)


『他者の色恋を詮索する暇があるならば、魔力循環の一つでも反復せよ』


(ちょっと気になっただけじゃん)


『くだらん』


(皇帝は気にならないの?)


『ならぬ』


(ほんとに?)


『余は一国を統べた皇帝ぞ。臣下同士が誰を好こうが、その程度のことで一々騒ぐものか』


(へえ)


『なんだ、その「へえ」は』


(別に)


『不愉快だな、貴様』


(なんで!?)


 いやいや、今はこんなことを考えている場合じゃない。


「あの、虎壱さんが帰ってきたら、伝えてもらえますか?」


 僕は本題へ戻った。


「もちろんですわ」


「ちょっと相談したいことがあるって」


 琴葉さんの表情が少し変わった。


「お急ぎでしょうか?」


「……できれば」


「承知いたしました。虎壱様へ連絡しておきますわ」


「ありがとうございます」


 これで、とりあえず虎壱さんには伝わる。


 でも、もう一人。


 会っておきたい人がいる。


「あの、白羊さん」


「はい?」


「もう一人、防人の関係者で聞きたいことがある人がいるんですけど」


「どなたでしょう?」


「蛇神みづちさんって……知ってますか?」


 ぴたり。


 琴葉さんの笑顔が止まった。


「…………」


「白羊さん?」


「…………ええ」


 明らかに返事が遅い。


「存じておりますわ」


 笑顔は笑顔。


 なのに口元が、ほんの少しだけ引きつっている。


(あれ?)


『なるほど』


(皇帝も分かった?)


『うむ。あの女、よほど蛇神とやらが苦手らしい』


(分かりやすいよね)


『戦場であれば致命的だな』


(何でも戦場基準にしないでよ!)


「もしかして……蛇神さんのこと苦手ですか?」


「…………」


 数秒の沈黙。


「少々」


 認めた。


「何かあったんですか?」


「いろいろと」


「いろいろ?」


「ええ」


 琴葉さんは微笑んだまま。


「いろいろ、ですわ」


「…………」


 聞かない方がよさそうだ。


『追及せぬのか』


(この顔見て聞ける!?)


『敵の弱みを知る好機であろう』


(敵じゃないから!)


「それで陰山様が蛇神さんに、どのような御用でしょう?」


 琴葉さんが話を戻した。


「実は……」


 僕は昨日の出来事を話した。


 龍二が桜井さんの家へ来たこと。


 突然、激しい頭痛を起こしたこと。


 そして。


 頭。


 心臓。


 両手、十本の指の爪の間。


 そこへ《呪針》を刺されていると、龍二本人から聞いたこと。


 決められた条件を破れば、その場所に狂いそうなほどの激痛が走ることも。


 さらに玄一郎さんから、《呪針》には僕も何らかの形で関わっている可能性があると言われたこと。


 そこまで話し終えた頃、琴葉さんの笑顔は消えていた。


「なるほど……」


「白羊さんは、どう思います?」


「そうですわね」


 すぐには答えなかった。


 視線を落とし、しばらく考えてから。


「お気の毒だとは思います」


 静かに口を開く。


「わたくし自身は、痛みによって人を従わせるやり方を好みません」


「…………」


「ですが」


 紫色の瞳が僕を見る。


「自らが為したことの責任から、逃げ続けることも違うと思っております」


『聞いたか、俗物』


(聞いてるよ)


『先に余が申した通りではないか』


(ちょっと嬉しそうにするのやめて)


『道理は誰が語ろうと道理だ』


「陰山様にしたことが、謝罪だけで消えるわけではございません」


 琴葉さんは続ける。


「謝れば終わり。反省すればすべて元通り。そのように都合よくはいきませんもの」


 そして。


「自分がしたことのツケは、いつか自分で払わなければならないものです」


『うむ。その通りだ』


(はいはい)


『なんだ、その返事は』


(さっき聞いたから!)


 だけど、琴葉さんはそこで小さく息を吐いた。


「とはいえ」


「?」


「蛇神さんは、やり方が少々……」


 珍しく言葉に詰まっている。


「少々?」


「…………悪趣味ですわ」


(悪趣味って言った!)


『ほう。言い切ったな』


 あの琴葉さんが、ものすごく上品な顔で仲間をさらっとディスった。


「十本すべての爪の間など……」


 自分の指先へ視線を落とす。


「一本で十分でしょうに」


「そこなんですか!?」


『論点が独特だな、この女』


(皇帝に言われたくないと思う)


『何か申したか?』


(何も)


「それで」


 僕は改めて聞いた。


「蛇神さんには、どうしたら会えますか?」


「…………」


 また琴葉さんの動きが止まった。


「お会いになるおつもりですの?」


「はい」


「おすすめはいたしませんわ」


「そんなに?」


「そんなにです」


 驚くほど即答だ。


「でも、龍二に《呪針》を刺した本人なら、直接聞いてみたいんです」


「…………」


「どうしてあんなことをしたのか。それに、外す方法があるのかも」


 琴葉さんは僕の顔をじっと見つめた。


 やがて諦めたように小さく息を吐く。


「分かりました」


「じゃあ」


「場所だけは、お教えいたします」


「ありがとうございます!」


「ただし」


 すっと人差し指が立つ。


「そこへ行けば必ず蛇神さんに会える、とは思わないでくださいませ」


「え?」


「蛇神さんは……」


 言葉を選ぶように、琴葉さんが視線を泳がせる。


「ご自分に利益のない相手とは、なかなか会おうとなさらない方ですの」


「…………」


 嫌な予感がする。


「つまり?」


「蛇神さんに会いたいのでしたら」


 琴葉さんが少しだけ身を寄せ、声を落とした。


「この人間に会えば、自分にどんな得があるのか」


「得……」


「ええ」


 そして上品な微笑みを浮かべたまま。


「そう思わせることが、あの方に会うためには重要かと」


「なんでですか?」


 少しの間を置いて。


「なにしろ、あの方」


 琴葉さんは実に穏やかな声で言った。


「お金が何よりお好きですから」


「…………」


『俗物』


(僕じゃないよ!)


『クククッ。貴様以上の俗物が現れるとはな』


(その称号、喜んで譲るよ!)


『ならぬ』


(なんで!?)


『俗物は貴様だ。あの女には別の称号をくれてやる』


(いらないと思うよ!?)


『《金欲俗物》ではどうだ』


(絶対本人の前で言わないでね!)


『なぜ余が一介の女に遠慮せねばならん』


(やめて! 会う前から敵を作らないで!)


 蛇神みづち。


 《呪禁道》蛇神流針術。


 防人十二支将隊。


 巳を預かる《因達羅隊》隊長。


 龍二へ《呪針》を刺した張本人。


 そして、お金が何より好きな人。


 なんだろう。


 まだ会ってもいないのに、ものすごく面倒なことになりそうな予感がする。


「白羊さん」


「はい」


「ありがとうございます」


「いいえ」


 琴葉さんが柔らかく微笑む。


「ただし、陰山様」


「はい?」


「蛇神さんにお会いになるのでしたら」


 その目だけが、少し真剣になった。


「くれぐれも、あの方のペースに呑まれませんように」


「…………」


「お気をつけくださいませ」


 その言い方に僕はさっきより少しだけ、蛇神みづちという人に会うのが怖くなった。


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