第二十一話 前編 暗黒皇帝、赦せぬ者の懇願を聞く
一花さんとの、命懸けという言葉では少々足りない鬼ごっこから、現実世界で三週間ほどが過ぎた。
その間、僕が何をしていたかというと。
学校。
道場。
精神世界。
だいたい、この三つをぐるぐる回っていた。
放課後になれば、ほぼ毎日のように桜井さんの家へ行き、虚空一刀流の稽古。
桜井さんから教わっているのは、まだ基本中の基本だ。
構え、足運び、間合い、素振り。そして、いくつかの基本の型。
派手な技なんて一つもない。
もちろん《虚空斬》なんて夢のまた夢だ。
というか。
一花さんのアレを見たあとだと、僕が習っているものと同じ「虚空一刀流」と名乗っていいのかすら怪しい。
「えいっ!」
ブン。
「やっ!」
ブン。
僕がやっているのは、こんな感じ。
一方の一花さんは。
隕石を賽の目に斬り刻み、その破片を足場に空を駆け上がる。
空間を斬る。
皇帝が空から落とした巨大な黒雷すら、空間ごと斬り離して消し飛ばす。
同じ流派とは思えない。
虚空一刀流。
修行を極めると途中で何か別の生き物に進化するんじゃないだろうか。
とはいえ、地味だからといって疎かにはできない。
一花さんも。
皇帝も。
基本の大切さだけは、何度も口にしていた。
だから昼間は桜井さんに教わり、夜になれば今度は皇帝の精神世界へ入る。
その日に教わった型を。
一回。
十回。
百回。
千回。
ただし、回数だけこなせばいいわけじゃない。
足。
腰。
肩。
肘。
手首。
剣筋。
呼吸。
一振りごとに確認し、少しでも違和感があれば止めて、また最初から。
それと並行して繰り返すのが、《魔導六大制御法〈ゼクス・コントローレ〉》。
《同調〈レゾナンツ〉》。
《変換〈ヴァンドルング〉》。
《生成〈クヴェル〉》。
《循環〈クライス〉》。
《収束〈ケルン〉》。
《放出〈シュトース〉》。
六つの制御を一つずつ。
正確に。
速く。
そして最後には、六つを途切れさせることなく連続させる。
少しでも乱れれば。
『遅い』
「はい!」
『魔力を垂れ流すな、俗物』
「はい!」
『剣筋が歪んでおるぞ』
「はい!」
『腰が浮いた』
「はい!」
『返事だけは一流になったな』
「それ褒めてないよね!?」
だいたいこんな感じである。
しかも、それだけでは終わらない。
皇帝が用意した魔物。
人間の戦士。
騎士。
魔法使い。
弓使い。
時には、明らかに今の僕が戦っていい相手じゃない奴まで出てくる。
戦う。
負ける。
死ぬ。
戻る。
反省する。
また戦う。
最近では「死ぬ」の扱いがゲームのリトライくらい軽くなりつつある。
自分でも、それがちょっと怖い。
精神世界でどれくらいの時間を過ごしたんだろう。
最初の頃は数えていた。
十日。
一か月。
三か月。
半年。
でも、いつからか数えるのをやめた。
現実ではたった三週間。
だけど僕の感覚では、もう一年以上は修行している気がする。
その甲斐があったのか。
剣術の才能なんて欠片もないと思っていた僕でも、少しは形になってきたらしい。
先日も、道場で基本の型を一通り終えたあとだった。
「陰山くん」
「ん?」
桜井さんが木刀を肩に乗せ、ニコッと笑った。
「剣の才能あるよ」
「…………え?」
思わず後ろを振り返った。
「何してるの?」
「いや、ほかの陰山くんに言ったのかなって」
「陰山くん、この道場に一人しかいないけど」
「だよね」
生まれて初めて言われた。
まさか剣の才能がある、なんていってもらえる日が来るなんて。
運動とは無縁。
体育ではなるべく目立たず、休み時間は教室の隅。
そんな人生を十七年ほど送ってきた僕に。
ちょっと嬉し....
いや、かなり嬉しかった。
『フン』
皇帝が鼻を鳴らす。
『一振りごとにあれだけ余が矯正しておるのだ。三週間経って木偶のままであれば、そちらの方が問題であろう』
(今ちょっといい気分だったんだから黙っててよ!)
もっとも桜井さんは知らない。
僕が夜な夜な精神世界で、普通の人なら一生かけてもやらないような回数の反復練習をしていることを。
これ才能って言っていいのかな?
どちらかというと圧倒的な時間外労働の成果じゃない?
◇
当然、そんな生活には副作用もあった。
「陰山」
「…………」
「陰山!」
「…………はいっ!?」
ビクッと顔を上げる。
教室。
黒板。
数式。
呆れ顔の数学教師。
そして、クラス全員が僕を見ていた。
「また寝てたな」
「……すみません」
教室に笑いが起きる。
最近、学校の授業をほとんど聞けていない。
理由は簡単。
眠い。
とにかく眠い。
夜になれば精神世界へ行き、剣を振って魔力を練って、魔物や戦士と戦い、時には殺される。
肉体そのものは布団で寝ているはずなのに、精神的には全然寝た気がしない。
そりゃ授業中にも寝る。
最初の頃は先生たちも、
「陰山、起きろ」
「最近たるんでるぞ」
なんて注意してくれていた。
それが三週間も続けば。
「…………もういい。寝てろ」
「先生!?」
ついに諦められた。
ごめんなさい。
でも、できれば見捨てないでほしい。
僕、まだ高校二年生です。
一方、体育だけは真逆だった。
「皇帝! 頼むから陸上部来てくれって!」
「だから入らないって!」
「一回! 一回だけ大会出てくれ!」
「出ないよ!」
「絶対全国行けるって!」
最近では体育の授業が終わるたび、誰かしら運動部の人間が寄ってくる。
野球部。
サッカー部。
陸上部。
バスケ部。
なぜか柔道部まで来た。
先日の走り幅跳びなんて。
体育教師がメジャーを手にしたまま、しばらく砂場の横で固まっていた。
「……陰山」
「はい?」
「お前、これ……インターハイの記録超えてるぞ」
「…………え?」
知らんがな。
そんなつもりで跳んでない。
少し《身体狂化》を使って、普通に走って、普通に跳んだだけだ。
その日の放課後は陸上部の顧問に捕まった。
公式大会に出ろ。
一度だけでいい。
絶対に結果が出る。
お前なら全国を狙える。
熱心という言葉だけでは少し足りないくらいしつこく誘われた。
でも断った。
『なぜだ』
皇帝には本気で不思議そうに聞かれた。
『貴様が修め、貴様が行使する魔導であろう。ならば、それも貴様自身の力だ。何が問題なのだ』
(いや……そうなんだけどさ)
言っていることも分からなくはない。
僕自身が習得した魔導だ。
誰かに背負って走ってもらっているわけでもない。
だけど。
(やっぱり、フェアじゃない気がする)
『理解できんな』
(だろうね)
『勝てる力があるのに、わざわざ封じて敗北する方が余には理解し難い』
(体育祭くらいならともかく、公式大会は違うよ)
『何が違う』
(そこを説明するの難しいな……)
価値観の違い。
たぶん、それでしかない。
力を持っているなら使う。
それが当たり前だった皇帝の世界。
ルールの中で同じ条件を競う、僕たちの世界。
どちらが正しいというより、そもそもの物差しが違うんだと思う。
そんな毎日を送っていたから、その噂を聞いた時も最初は大したことだとは思わなかった。
「なあ、皇帝」
昼休み。
クラスメイトの一人が僕の机へ寄ってきた。
「知ってるか?」
「何が?」
「あいつ、戻ってくるらしいぞ」
「あいつ?」
一瞬、誰のことか分からなかった。
「菅原だよ。菅原龍二」
「…………」
約一か月の停学。
それを終えて龍二が学校へ戻ってくる。
その名前を頭の中でもう一度繰り返して、僕は自分でも驚いた。
心臓はいたって普通。
息も苦しくない。
手も震えない。
頭も痛くならないし、吐き気もしない。
何も起きなかった。
以前の僕なら菅原の名前を聞くだけで身体が勝手に反応した。
廊下で似た声が聞こえれば身構え、後ろ姿を見ただけで道を変える。
名前だけで鼓動が速くなり、ひどい時には頭痛や吐き気までした。
なのに今は。
「……そっか」
出てきた言葉はそれだけだった。
『クククッ』
頭の中で皇帝が笑う。
『ようやく分かったか、俗物』
(何が?)
『貴様が、いかに小さき者を相手に悩んでいたかということがだ』
「…………」
昔なら、その言い方に少しくらい腹が立ったかもしれない。
でも今は。
(そうだね)
素直にそう思えた。
この三週間。
いや僕にとっては一年以上にも感じる時間。
何度、一花さんに殺された?
何体の魔物と戦った?
何人の戦士や騎士や魔法使いを相手にした?
空間を斬る剣を見た。
隕石を見た。
皇帝と一花さんの、人間をやめたような戦いまで目の前で見た。
それに比べれば菅原龍二はただの高校生だ。
もちろん。
あいつにされたことを忘れたわけじゃない。
許したわけでもない。
でももう怖くはない。
(龍二の相手なんかしてる場合じゃないし)
『ほう』
(僕、忙しいんだよ)
放課後は道場。
夜は修行。
魔導六大制御法も。
剣術も。
《影潜》も。
まだまだ未熟。
やることなんて、いくらでもある。
だから菅原が戻ってくる。
その話を聞いた時、僕は本気でそう思っていた。
この時までは、もう僕には関係のない話だと。
◇
そして翌朝。
朝のホームルームが始まってすぐ、担任の山田先生が教卓の前で軽く咳払いをした。
「えー、みんなに話しておくことがある」
教室に残っていたざわめきが、少しずつ消えていく。
「今日から菅原が学校に戻ってくる」
その名前が出た瞬間、あちこちから小さなどよめきが起こった。
「マジで?」
「今日から?」
「停学終わったんだ」
僕はそっと胸の上に手を置いてみた。
やっぱり鼓動に何の変化もない。
「今回の件については、菅原本人も十分反省している。停学期間も終わったことだし、先生としては、みんなにもあまり蒸し返さず温かく迎えてやってほしい」
そう言って、山田先生が教室の入り口へ顔を向ける。
「菅原。入ってこい」
ガラッ。
引き戸が開いた。
入ってきた龍二を見て。
「…………え?」
思わず二度見した。
髪がない。
いや、正確にはある。
あるけど。
坊主になっていた。
以前の龍二は、それなりに髪型にも気を使っていたはずだ。
それが今では、頭の形がはっきり分かるほど短く刈り込まれている。
一瞬、教室が静まり返った。
直後。
「ぶはっ!」
誰かが吹き出す。
「龍二、お前出家したのかよ!」
「反省しすぎだろ!」
「刑務所帰りかよ!」
「お勤めご苦労さまでーす!」
教室が一気に笑いに包まれた。
「お前ら! そういうこと言うな!」
山田先生が慌てて止める。
でも僕は笑えなかった。
坊主頭がおかしかったからじゃない。
龍二の反応がおかしかったからだ。
「…………」
何も言わない。
伏せ目がちに床を見つめ、口元に薄い笑みを浮かべている。
僕の知っている龍二なら絶対にこんな反応はしない。
『あぁ!? 誰が刑務所帰りだ!』
それくらいは言ったはずだ。
下手をしたら机を蹴っていた。
龍二は、人から馬鹿にされることをとにかく嫌う。
なのに。
「菅原?」
山田先生も少し戸惑ったように龍二の顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
「はい」
小さな声。
「大丈夫っす」
それだけ言って、また薄く笑った。
『…………』
皇帝も何も言わない。
前より大人しくなった。
そう言ってしまえば、それだけなのかもしれない。
一か月の停学で本当に反省した。
喧嘩っ早い性格も改めた。
先生が言った通りなら、むしろいいことのはずだ。
なのに、なんだろう。
この違和感は。
「……なんか変わった?」
「めっちゃ大人しくなってね?」
「停学で懲りたんじゃない?」
「坊主も反省アピール?」
そんなヒソヒソ声が、教室のあちこちから聞こえてくる。
龍二にも聞こえているはずなのに、視線を上げることすらなく、自分の席へ向かう。
そして椅子を引く音まで妙に小さく、静かに腰を下ろした。
僕も前を向く。
別にいい。
昨日、自分で決めたばかりじゃないか。
もう龍二のことなんて僕には関係ない。
そう思った時、視線を感じた。
「…………?」
振り向いたほんの一瞬、龍二が僕を見ていた。
目が合う。
すると龍二は、逃げるように視線を落とした。
口元にはやっぱり、あの薄い笑みが残っていた。
◇
昼休み。
僕は桜井さんと食堂に来ていた。
最近では昼休みになると一緒に食堂へ行き、昼ご飯を食べるのがすっかり僕たちのルーティンになっている。
最初の頃こそ、
「皇帝が桜井さんと飯食ってるぞ」
「なんで?」
「どういうこと?」
なんて視線を浴びていたけど。
三週間も続けば、さすがに慣れて……。
いなかった。
今日も痛い。
ものすごく痛い。
主に男子からの視線が。
右を見る。
男子生徒二人組と目が合った。
サッと逸らされた。
左を見る。
別の男子がこっちを見ている。
やっぱり逸らされた。
いや分かってるよ。
僕だって逆の立場なら思う。
なんであいつが桜井さんと?
そう思う。
桜井葵。
かわいい。
明るい。
誰にでも優しい。
そして普通にモテる。
そんな女子と毎日のように二人で昼ご飯を食べているんだから、そりゃ目立つ。
もっとも彼らには一つだけ見えていないものがある。
僕の向かいに座った桜井さんの前に築かれた大量の食器。
「いただきまーす!」
満面の笑みで両手を合わせる桜井さん。
本日のラインナップ。
カツカレー。
ラーメン。
唐揚げ定食。
焼きそば。
そして、なぜか締めの親子丼。
安定の五食。
いや締めに親子丼って何?
普通は一食目で終わるやつだよ?
「んーっ! おいしー!」
カツカレーを頬張った桜井さんの頬が緩む。
「…………」
うん、今日もかわいい。
食べている量は全然かわいくないけど……。
『相変わらずよく喰う娘だ』
(そこもかわいいんだよ)
『余には理解できぬ』
(皇帝には一生分からなくていいです)
「陰山くん?」
「ん?」
「食べないの?」
「あ、食べる食べる」
危ない。
見惚れてた。
僕も慌てて定食へ箸を伸ばす。
「そういえば陰山くん、昨日教えた型どうだった?」
「あれから練習したよ」
「もう?」
「うん。ちょっとだけ」
精神世界で三十日くらい。
とは言えない。
「陰山くんって、本当に真面目だよね」
「あはは……」
真面目というか、夜中に異世界の暗黒皇帝から、
『腰が浮いておるぞ、俗物!』
と怒鳴られながら、延々と木刀を振っているだけです。
「でも、最後の踏み込みがどうしてもうまくいかなくて」
「あー、あそこね。陰山くん、ちょっと上半身が先に行く癖あるかも」
「やっぱり?」
「今日もやろっか」
「お願い」
「うん!」
それからまた剣術の話をして。
最近見たアニメの話をして。
ゲームの新作について話して。
「絶対あのキャラ裏切るって」
「えー! 裏切らないよ!」
「いや、あの意味深なカット絶対伏線だって」
「陰山くん、疑いすぎ!」
「桜井さんが人を信じすぎなんだよ」
くだらないことで笑う。
こういう時間が最近の僕は大好きだった。
今日も放課後は桜井さんの家の道場へ行く。
昨日の型をもう一度見てもらって、帰ったら精神世界で反復。
また皇帝に怒鳴られるんだろうな。
そんなことを考えながら味噌汁を飲んでいた。
その時だった。
「菅原! お前どうしちゃったんだよ!」
食堂中に大きな声が響いた。
「…………?」
箸が止まる。
ざわついていた食堂が一瞬静まり、周囲の生徒たちが一斉に声のした方へ顔を向けた。
少し離れたテーブル。
そこに龍二がいた。
そして、その正面に立っているのは藤田。
顔を真っ赤にしている。
「前のお前ならそんなこと言わなかっただろ!」
バンッ!
藤田の掌がテーブルを叩き、食器が跳ねた。
「何があったんだよ! 停学中になんかあったのか!?」
龍二は怒らない。
朝と同じ。
伏せ目がちに薄い笑みを浮かべている。
「藤田くん」
静かな声だった。
「そんな大きな声出さないで」
「…………は?」
藤田が固まる。
龍二は周囲へ視線を向けた。
「みんな、びっくりしてるよ」
「…………」
僕もたぶん桜井さんも、そして食堂にいる大半の生徒も同じことを思っただろう。
誰だ? こいつ。
「菅原……お前……」
藤田の顔から怒りが消え、代わりに困惑が浮かぶ。
『…………』
(皇帝?)
『妙だな』
短い言葉だった。
でも、それだけで十分だった。
皇帝も感じている。
朝から引っかかっていた違和感。
やっぱり気のせいじゃない。
龍二の何かが決定的に変わった。
◇
放課後。
僕はいつものように、桜井さんの家にある虚空一刀流の道場へ来ていた。
引き戸を開ければ、乾いた木の匂い。
磨き込まれた板張りの床。
壁際には木刀が整然と並び、高い窓から差し込む西日が床を橙色に染めている。
初めて来た日と同じ景色。
なのに三週間も通っていると、少しだけ自分の居場所になったような気がしていた。
白い稽古着に黒い袴。
赤いリボンで長い髪を結んだ桜井さんが、僕の向かいで木刀を構えている。
「…………」
「陰山くん?」
「え?」
「またぼーっとしてる」
「あ、ごめん」
桜井さんが木刀を下ろした。
「もしかして……菅原くん?」
「うん」
僕も構えを解く。
「やっぱり変だったよね?」
「うーん……」
桜井さんは少し考えてから頷いた。
「確かに、そうかも」
朝のホームルーム。
昼休みの食堂。
どちらも、僕の知っている龍二とはまるで違っていた。
坊主になったとか。
大人しくなったとか。
そんな表面的なことじゃない。
何かが引っかかる。
「でもさ」
桜井さんが木刀を胸元に抱き、頬を少し膨らませた。
「陰山くんに今までたくさん酷いことしたんだから、バチが当たったんだよ」
「バチ?」
「うん」
珍しく少し怒った顔。
「私、まだ菅原くんのこと許してないからね」
「…………」
僕は思わず苦笑した。
僕本人より怒ってない?
でも、ちょっと嬉しかった。
「ありがとう」
「なんで陰山くんがお礼言うの?」
「なんとなく」
「変なの」
桜井さんが笑う。
僕も笑った。
だけど龍二にいじめられていた頃。
僕だって綺麗なことばかり考えていたわけじゃない。
むしろ逆だ。
明日から学校に来なくなればいい。
どこか遠くへ引っ越せばいい。
事故にでも遭って、いっそ死んでくれればいい。
そう思ったことは、一度や二度ではなかった。
だから龍二がおかしくなったのなら。
ざまあみろ。
そう思えばいい。
少し前の僕なら、きっとそう思っていた。
なのに胸の奥には、小さな棘みたいなものが引っかかっている。
なんだろう……この感じ。
『俗物』
(ん?)
『構えが崩れておるぞ』
「あ」
パシンッ!
「あいたっ!」
桜井さんの木刀が僕の太腿を軽く叩いた。
「ほら、陰山くん! 稽古中にぼーっとしない!」
「ご、ごめんなさい!」
「もう一回、最初からね」
「はい!」
いかん。
今は稽古中だ。
僕は息を吐き、木刀を中段に構え直した。
右足。
左足。
腰。
肩。
左手は臍の少し前。
剣先は相手の中心から外さない。
初日に桜井さんから教わった基本。
あの時は木刀を構えるだけでぎこちなかった。
今は少なくとも、考えなくても身体が位置を覚えている。
「いくよ、陰山くん」
「うん!」
それからしばらく何度も型を繰り返した。
桜井さんに足運びを直され。
皇帝からも、
『遅い』
だの。
『腰が高い』
だの。
『一花の正眼を見て何を学んだ』
だの。
好き放題言われながら木刀を振り続ける。
やがて龍二のことが頭から消えかけた。
その時だった。
「おおーい、葵!」
道場の外から聞き覚えのある声が飛んできた。
「お客さんじゃよ」
「あ、おじいちゃん」
桜井さんが木刀を下ろす。
桜井玄一郎さん。
黒い和服。
後ろで束ねた長い白髪。
白い髭。
そして片手には、いつもの杖。
桜井さんのお祖父さんであり、この道場の主でもある。
そして僕が初めてここへ来た日に、いきなり《空斬り》を二回も放ってきた人でもある。
首への一撃。
続けて袈裟。
どちらも何とか避けたけど、初対面の高校生にやる挨拶では絶対にない。
「お客さん?」
「うむ。葵にというより……」
玄一郎さんの目が僕へ向く。
「陰山くんにもじゃな」
「僕にも?」
誰だろう。
「入ってもらってよいかの?」
「あ、はい」
玄一郎さんが身体をずらす。
廊下の奥から、一人の男子生徒が姿を現した。
「…………え?」
坊主頭。
伏せた目。
でも朝や昼休みに浮かべていた薄い笑みはない。
代わりにあるのは、疲れ切った顔。
「菅原……?」
そこに立っていたのは、間違いなく菅原龍二だった。
◇
龍二は道場へ入ってきても、しばらく何も言わなかった。
僕を見る。
視線を落とす。
また見る。
何かを言おうとして、やめる。
そんなことを何度か繰り返したあと、龍二はようやく口を開いた。
「陰山くん」
「……何?」
その呼び方を聞いた瞬間、頭に浮かんだのは停学になる前のことだった。
職員室の前。
龍二の隣には、兄の虎壱さんがいた。
古美術商《白虎堂》の店主であり、防人でもある人。
あの日の龍二も、僕を「陰山くん」と呼んだ。
そして、頭を下げた。
許してください、と。
僕が反射的に許そうとした時、それを止めたのは虎壱さんだった。
簡単に許さなくていい。
謝るのは龍二の責任で、許すかどうかは僕が決めることだから。
そう言ってくれた。
だから呼び方は、あの時と同じ。
なのに今の龍二は、あの時とは何かが違って見えた。
「こんなこと……」
龍二が拳を握る。
「君に頼める筋合いなんて、まったくないと思うんだけど」
そして深く頭を下げた。
「許してほしい」
「…………」
あの日と同じ言葉。
でも今回は、隣に虎壱さんはいない。
先生もいない。
誰かに頭を下げろと言われたわけでもない。
龍二は一人でここまで来た。
そして。
「助けて」
「……は?」
思わず聞き返した。
許してほしい。
それだけなら、前にも聞いた。
でも助けてほしい?
「どうしたんだよ、急に」
木刀を下ろす。
「許してほしいっていうのは分かるけど……助けてほしいって?」
「…………」
龍二は答えない。
代わりに。
「菅原くん」
桜井さんが僕の隣へ出た。
声がいつもより低い。
「許してほしいなんて、虫が良すぎるよ」
「桜井さん……」
「だって、そうでしょ?」
桜井さんは龍二をまっすぐ睨む。
「陰山くんに今まで散々酷いことしておいて、自分が困ったら助けてくださいって。そんなの勝手すぎるよ」
「…………うん」
龍二は言い返さなかった。
「本当に……その通りだと思う」
「だったら」
「だけど!」
突然、龍二が顔を上げた。
桜井さんが言葉を止める。
「もう……限界なんだよ」
顔が歪んでいた。
怒っているんじゃない。
怯えている。
僕が一度も見たことのない、菅原龍二の顔。
「限界って……何が?」
「全部だよ」
龍二の両手が震える。
「学校でも……家でも……ずっと……」
「菅原?」
「全部……」
歯を食いしばる。
そして憎悪を吐き出すように言った。
「あのクソ兄貴のせいで……!」
その瞬間。
「ッ……!」
龍二の身体が大きく震えた。
「え?」
「ぐっ……!」
両手で頭を押さえ、膝が折れる。
ドンッ!
鈍い音が板張りの道場へ響いた。
「菅原!?」
「いっ……!」
指が坊主頭へ食い込む。
「痛い……痛い、痛い痛い痛い……!」
「菅原くん!?」
さっきまで怒っていた桜井さんの表情も一変した。
「どうしたの!? 大丈夫!?」
「頭が……っ!」
龍二が床へ蹲る。
「頭がぁ……痛い……!」
演技?
一瞬だけ、その可能性も考えた。
僕を騙すためにやっているんじゃないか。
でも違う。
額から脂汗が噴き出し、顔から血の気が引いている。
息は浅く速く、肩だけでなく身体全体が小刻みに震えていた。
こんなの、演技でできる顔じゃない。
「陰山くん、救急車!」
「う、うん!」
ポケットへ手を伸ばす。
その時。
『待て』
「……え?」
皇帝の声。
いつものような嘲笑はなかった。
『通報は娘に任せろ。貴様はその男に近づけ』
(どうして?)
『早くしろ』
低い。
鋭い。
「桜井さん、救急車をお願い。僕は菅原を見てる」
「分かった!」
桜井さんがスマホを取り出して一一九を押す。僕は龍二のそばへ膝をついた。
「菅原」
「痛い……っ、痛い……!」
『もっと近くだ』
言われるまま顔を寄せる。
皇帝が黙った。
数秒。
『…………なるほど』
(何?)
そして、ほんの少しだけ声が冷たくなった。
『どうやらこれは、ただの頭痛ではないぞ』
その直後。
「葵、どうしたのかの?」
廊下から声が飛んできた。
龍二の叫びを聞きつけたのだろう。
玄一郎さんが道場へ入ってくる。
「おじいちゃん! 菅原くんが急に……! 今、救急車を呼んでる!」
「すごく頭が痛いみたいで!」
「痛い……っ、痛い痛い……!」
「…………む」
玄一郎さんの顔から、いつもの笑みが消えた。
龍二のそばへ腰を落とし、顔を覗く。
「菅原くん、わしの声が聞こえるかの」
「……聞こえ、る……痛い……」
玄一郎さんは龍二の呼吸を確かめ、桜井さんに住所を救急隊へ伝えるよう告げた。それから龍二の肩に手を添え、無理に動かさず見守る。
視線が頭、首、胸元へゆっくりと動く。
そして眉間に深い皺が刻まれた。
「これは……」
「分かるんですか?」
返事はない。
玄一郎さんは龍二を見つめたまま、低く呟いた。
「蛇神のやつの仕業か……」
「蛇神?」
「蛇神?」
僕と桜井さんの声が重なった。
顔を見合わせる。
「そういう病気の名前ですか?」
「いや」
玄一郎さんが立ち上がる。
「病ではない」
「え?」
「葵、電話はもうつながったかの」
「うん。救急車が来る。菅原くんの様子も伝えたよ」
「そうか。陰山くん、すまんが葵と一緒に様子を見ていておくれ。わしは別のところにも確かめる」
黒い和服の懐から取り出したのはスマホ。
なんだろう。
見た目とのギャップがすごい。
画面を何度か操作し、耳へ当てる。
「おお、久しぶりじゃのう」
誰に電話してるんだ?
「いやいや、そんなおべんちゃらはええ」
いつもの玄一郎さんだ。
そう思ったのも、そこまでだった。
「それよりの」
声が変わる。
「孫娘の学友に、どうやらお前さんたち蛇神針流の《呪針》が刺さっておるようなんじゃ」
「…………」
「誰の差し金じゃ?」
低い。
怒鳴ってはいない。
でも道場の空気が張り詰めた。
『ほう』
皇帝が小さく反応する。
『爺め。やはりただの剣士ではないな』
(…………)
僕もそう思う。
昔、国を守る仕事をしていた。
でも自衛隊ではない。
それに《空斬り》。
桜井さんの身体に流れていた、猿飛さんや雉子谷さんと同質の力。
そして今、龍二を一目見ただけで何かを見抜いた。
(やっぱり玄一郎さんって……)
『今は黙って見ておれ』
(またそれ?)
『答えを与えられる前に、自ら考える癖をつけよ』
ほんとにこういう時だけ師匠みたいなこと言うんだから。
玄一郎さんは電話の相手の話をしばらく聞いていた。
「うむ……うむ」
そして。
「……なに?」
眉が動く。
「そうか……」
短い沈黙。
「……兄の虎壱が関わっておると?」
「…………え?」
思わず声が漏れた。
虎壱さん。
その名前なら、もちろん知っている。
龍二の兄。
そして、古来より日本を守ってきた防人という組織の偉い人でもある。
停学になる前、学校で龍二と一緒にいた虎壱さんは、僕にはっきり言っていた。
愚弟のしでかしたことに、きちんとケジメをつけるために来た、と。
あの時は、学校への謝罪や龍二本人に頭を下げさせること、その全部をひっくるめて「ケジメ」なんだと思っていた。
でも。
(虎壱さんが……関わってる?)
『知った名が出たな、俗物』
(うん。でも……)
僕は床で苦しむ龍二を見る。
停学になる前には、こんな様子はなかった。
少なくとも、僕の前で龍二がこんな痛みに苦しんでいるところなんて一度も見たことがない。
変わったのは、この一か月。
龍二が学校から消えていた、停学中だ。
(停学してる間に……何があったんだ?)
『さてな』
皇帝の声が低くなる。
『今ある断片だけで答えを決めるな。見誤るぞ』
(……うん)
その通りだ。
虎壱さんが関わっている。
それだけで、何をしたのかまで分かったわけじゃない。
玄一郎さんは深いため息をついた。
「分かった。もうええ」
通話を切ると、スマホを懐へ戻した。
そして。
「陰山くん」
「はい?」
「ちょっとええかの」
「僕ですか?」
「うむ」
手招きされ、道場の隅へ移動する。
少し離れたところでは、桜井さんが救急隊との通話を終え、龍二のそばへしゃがみ込んでいた。
「菅原くん、聞こえる? 救急車、もう向かってるからね」
「痛い……っ」
龍二は苦しそうに頷いた。僕も目を離せずにいた。
「玄一郎さん。菅原は……」
「ご学友にな」
玄一郎さんが、自分の頭を指差した。
「針が刺さっておる」
「針?」
反射的に龍二を見る。
坊主頭。
だから余計に分かる。
針なんてどこにもない。
「どこにですか?」
「そういう針ではない」
「……え?」
「目には見えんよ」
玄一郎さんの目が細くなる。
「これは、ただの針ではなくての」
少し躊躇うように言葉をつなぐ。
「《呪禁道》」
『ほう…………』
皇帝がわずかに反応した。
「蛇神流針術の《呪針》じゃ」
「じゅ……じゅごんどう?」
また知らない単語が出てきた。
『呪術の類いか』
(皇帝、分かるの?)
『術理までは知らぬ。だが、あの男には不可思議な力が食い込んでおる』
(食い込んでる……?)
『肉体ではない。もっと深いところだ』
「陰山くん?」
「えっ?」
玄一郎さんが不思議そうに僕を見ていた。
「あ、いえ! 何でもないです!」
危ない。
皇帝と話していると、たまに口に出る。
玄一郎さんは僕の顔をじっと見た。
「…………」
「な、なんですか?」
「いや」
いつもの好々爺みたいな笑みに戻る。
「何でもないよ」
なんだろう。
今の間。
「それでな、陰山くん」
「はい」
「聞いた話じゃと、あの子は以前……陰山くんに随分と酷い仕打ちをしておったようじゃの」
「…………」
僕は龍二を見る。
床に蹲り、頭を押さえて苦しそうに息をしている。
「はい」
否定する理由はなかった。
「それは……確かです」
「そうか」
玄一郎さんは目を細めた。
「ならば、その仕打ちが術の楔に使われておるのかもしれん」
「楔……?」
「あの子が君にしたこと。そして、君の中に残った感情じゃ。まだ術の仕組みまでは分からん。掛けた者を突き止め、解く方法を探すしかない」
玄一郎さんは言葉を切り、僕の顔を見た。
「陰山くん。これは君のせいではない。あの子を許すかどうかも、君が決めることじゃ」
「…………」
その言葉で。
また、あの日の虎壱さんを思い出した。
『簡単に許さなくていいよ』
謝ることと、許すことは別。
虎壱さんも、そう言っていた。
あの時の僕は、言われて初めて気づいたんだ。
謝られたからって。
僕がすぐに「いいよ」と言わなきゃいけないわけじゃない。
今だって、それは同じだ。
『ククッ』
皇帝が喉の奥で笑った。
でも、いつもの人を馬鹿にした笑いじゃない。
『面白い術を考える者がおるものだ』
(皇帝……?)
『爺の見立てが正しければ、貴様の感情が何らかの形で術に利用されておる可能性はある。だが、それ以上はまだ分からぬ』
(……うん)
『誰が、いつ、何のために仕込んだのか。それすら判然としておらぬうちから、答えを作るな』
僕は小さく息を吐いた。
(分かってる)
龍二は僕を何度も馬鹿にして笑って、傷つけて。
学校へ来ることすら怖くさせた。
今はもう、龍二のことは怖くない。
でも。
『どうした、俗物』
「…………」
『昨日まで、あの男などもはや恐るるに足らぬと言っておったではないか』
(怖くないのと……)
拳へ力が入る。
(許せるってのは、別ものだよ)
皇帝が黙った。
ほんの少しの沈黙。
『……なるほどな』
それ以上、何も言わなかった。
僕は龍二を見つめる。
助けたいと思う気持ちはある。
でも、許してほしいと言われて、すぐに許せるわけじゃない。
それでいい。
あの日、虎壱さん自身がそう教えてくれた。
なのに。
その虎壱さんの名前が、今度は龍二を苦しめている《呪針》の話から出てきた。
その時、道場の外から救急車のサイレンが近づいてきた。
桜井さんが立ち上がる。
僕も龍二のそばへ戻ろうとして、ふと足を止めた。
龍二が苦しみ出す直前に吐き捨てた言葉。
『あのクソ兄貴のせいで……!』
そして玄一郎さんが電話口で聞き返した。
『兄の虎壱が関わっておると?』
虎壱さんは、龍二の兄だ。
そして停学になる前、僕の目の前で龍二に頭を下げさせた人でもある。
あの時の龍二には、こんな異変はなかった。
だったら。
何かが起きたとすれば。
龍二が学校から姿を消していた、この一か月。
停学中。
(虎壱さん……)
床で苦しむ龍二を見つめる。
(この一か月の間に、龍ニに何をしたんだ……?)
救急車のサイレンが、道場の前で止まった。




