第二十話 前編 暗黒皇帝、龍殺不敗と斬り結ぶ
帝国大闘技場。
幾度となく帝国の戦士どもが技を競い、己の力を示してきた場所。その中央で、余は一人の女と向かい合っていた。
距離は十数歩。女は静かに立っている。
短く切り揃えられた黒髪。その佇まいには余計な力など微塵もなく、呼吸も穏やかだ。
一見すれば、どこにでもいる若い女に見えなくもない。
だが、その程度の見立てしかできぬ者は、次の瞬間には首と胴が泣き別れておるだろう。
桜井一花。
余が誇る《円卓の英雄〈レゲンデンルンデ〉》第三席。
《龍殺不敗》。
かつて邪龍すら単身で斬り伏せた、グランツライヒ魔導帝国屈指の剣士である。
一花の腰には、一振りの刀が差されている。
黒を基調とした鞘に、桜を思わせる意匠をあしらった名刀――《無双桜》。
かつて余が一花へ贈ったものだ。
もっとも、目の前にいる一花は、かつて余に仕えた本人ではない。
姿、声、癖、剣技、戦い方。余が知る桜井一花という人間を、余の記憶から再構築した存在だ。
ゆえに、余が知らぬ一花をこの者が見せることはない。
それでも、こうして《無双桜》へ手を添え、余の前に立つ姿を見ると――。
「…………」
懐かしいものだ。
「殿?」
「なんでもない」
一花がわずかに首を傾げる。
余は口元を吊り上げた。
「それでは始めるとするか」
「はい」
そして観客席へ視線を送る。
そこには、先ほど第二位階《妖猫級〈カッツェ〉》へ昇格したばかりの俗物が、一人で座っていた。
「俗物」
「なに?」
「よく見ておけ」
余は一花から視線を外さぬまま告げる。
「今の貴様では理解できぬ攻防も多かろう。だが、一つたりとも見逃すな」
「いや、見逃すなって言われても、一花さんの動き速すぎて見えないんだけど……」
「案ずるな」
「え?」
「そのために、余たちの戦いの解説役を用意しておいた」
「解説?」
余は右手を上げ、指を鳴らした。
パチン。
瞬間、俗物の頭上に紫黒の魔法陣が浮かび上がった。
「え?」
魔法陣から、黒い何かがぽとりと落ちる。
「うわっ!?」
俗物が慌てて身体を仰け反らせた。
その隣へ軽やかに着地したのは、一匹の黒猫だった。
「…………」
艶やかな黒い毛並みに、鋭く光る金色の瞳。そして、ゆらりと揺れる尾は途中から二つに分かれている。
小さな身体に似合わず、その身には確かな魔力を宿している。
妖猫。
ザザ。
余の帝国配下にいた魔獣の一体であり、一花と同じく余の記憶から再構築した存在だ。
「分からぬことがあれば、其奴に聞け」
「…………」
俗物はザザを見る。
ザザも俗物を見る。
「…………」
「…………」
しばし。
一人と一匹が見つめ合った。
そして、俗物がぽつりと呟いた。
「かわいい.....」
何を言っておる。
「猫ちゃんだ」
俗物の顔が緩んだ。
「皇帝、猫ちゃんじゃん!」
「見れば分かる」
「この子が解説してくれるの?」
「そう言っておろう」
「でも」
俗物がザザへ顔を近づける。
「猫ちゃんに僕たちの言葉、分かるの?」
「…………」
ザザの目が細くなった。
余は額へ手を当てる。
「たわけ」
「え?」
「其奴がただの猫だと思ったか」
「違うの?」
「妖猫だと言っておろうが」
「でも見た目は完全に猫……」
その瞬間だった。
「陛下の頼みだから仕方なくだがニャ」
「…………え?」
俗物の動きが止まった。
ザザが面倒そうに前脚で顔を擦る。
「解説してやるニャ」
「…………」
「しっかり見て、ありがたく学べニャ」
ザザの口元が、猫とは思えぬほど意地悪く歪んだ。
「デブ」
「…………」
俗物が目を見開く。
「しゃべったぁぁぁぁぁ!?」
うるさい。
闘技場中に声が響いたではないか。
「皇帝! この猫ちゃん喋れるの!?」
「妖猫と言っておろうが!」
「だって猫だよ!?」
「だから妖猫だ!」
「猫が喋ってる!」
「貴様は先ほどから何を見ておる!」
ザザが二股の尾をゆらりと振った。
「うるせえ奴だニャ」
「しかも口悪い!」
「頭の悪そうなお前に言われたくねえニャ、デブ」
「僕たち初対面だよね!?」
「初対面だがどーしたニャ」
くだらん。
いつまでやっておる。
「俗物」
「なに!」
「ザザは魔獣だ。貴様なんぞより遥かに長く生きておる」
「え?」
「魔導、魔法、戦闘。そのいずれにおいても、現時点の貴様より遥かに豊富な知識を有しておると心得よ」
「…………」
俗物が改めてザザを見る。
ザザは前脚を舐めている。
「この猫ちゃんが……?」
「猫ちゃん言うニャ」
ザザが即座に返した。
「一応、僕の先輩ってことか……」
「一応じゃねえニャ」
「うん、そうだね」
俗物が素直に頷く。
「よろしく、ザザ」
「…………」
ザザの前脚が止まった。
ゆっくりと俗物を見る。
「さんをつけろニャ」
「え?」
「ザザさんと呼べニャ」
そして、口元を意地悪く歪めた。
「デブ」
「なんで僕だけ名前ですらなく悪口で呼ばれるてるの!?」
「クククッ」
悪くない。
どうやら解説役の選定は正解だったようだ。
さて、戯れはここまででよかろう。
余は一花へ視線を戻す。
「では、参るぞ。一花」
一花が静かに頭を下げる。
「承知しました、殿」
一花の右手が《無双桜》の柄へ添えられた。
鍔と鯉口が触れ合う、微かな音。
それだけで、帝国大闘技場を満たしていた空気が変わった。
ほう。
懐かしい。
この女が本気で剣を抜こうとするときの気配だ。
一花が腰をわずかに落とし、黒髪が闘技場を吹き抜ける風に揺れた。
そして、朗々と名乗りを上げる。
「《円卓の英雄〈レゲンデンルンデ〉》第三席」
「《龍殺不敗》」
右足が半歩前へ。
「虚空一刀流免許皆伝」
柄を握る指へ力が込められる。
「桜井一花」
口元に浮かぶのは、先ほど俗物へ向けていた穏やかな笑みではない。
一人の剣士が、強者を前にした時にだけ見せる顔。
「来ませい、殿」
「クククッ」
よかろう。ならば余も、久方ぶりに楽しませてもらうとしよう。
剣士と魔導士。
この二者が相対した場合、互いが求める間合いは真逆となる。
剣士が欲するのは、一歩、あるいは半歩。己の刃が相手の命へ届く距離。
対して魔導士が欲するものは、その逆だ。
距離を取り、剣士の必殺の間合いへ入らず、遠方から魔法を浴びせ続ける。
近づかれれば離れ。
離れれば撃つ。
極めて単純で、そして極めて高い有効。
魔導士が剣士を相手取るならば、それが常道である。
もっとも、それは相手が尋常な剣士ならば、の話だがな。
余の眼前に立つ女は違う。
一流――その程度の言葉では足りぬ。
超一流。それでもまだ、一花という剣士を表すには安い。
間合いを取れば安全。
遠距離ならば剣士は何もできぬ。
そのような常識を信じた魔導士どもは、この女の前でことごとく死んでいった。
だが、まあよい。まずは常道通り、小手調べといくか。
「《飛翔〈ヒンメルスフルーク〉》」
魔法を発動する。
足が地を離れた。
十尺、二十尺、さらに上へ。
黒衣を風にはためかせながら、余は帝国大闘技場の上空へ一気に駆け上がった。
眼下。
一花は追わぬ。
地上から静かに余を見上げている。
《無双桜》もまだ鞘の中。
ふむ。ならば、余はさらに術式を組む。
詠唱など必要ない。思考とほぼ同時に魔力が術式を構成し、上空へ巨大な魔法陣を描いていく。
この帝国大闘技場からは空が見える。
故に、初手はこれでよかろう。
紫黒の光が空を覆った。
観客席から声が飛んでくる。
「えっ、なにあれ!?」
俗物か。
横にいるザザが、ちらりと空を見上げた。
「騒ぐニャ、デブ。まだ術式を展開しただけだニャ」
「いや、魔法陣でかすぎない!?」
「でけえニャ」
「ザザさんもそう思うんじゃん!」
「うるせえニャ。黙って見てろニャ」
ふん。
ザザに任せて正解だったな。
余は一花から目を離さぬまま、右手を掲げた。
「《隕石落下〈メテオア・シュトゥルツ〉》」
魔法陣が輝く。
直後。
空が。
消えた。
「…………は?」
観客席から俗物の間抜けな声が聞こえる。
魔法陣より出現したのは、岩などという言葉では到底足りぬ巨大な質量。
隕石。
帝国大闘技場を完全に覆い尽くすほどの巨体が、空を埋め尽くしている。
「ちょっ……!」
大気が震えた。
「でかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
俗物の絶叫。
直後。
ゴォォォォォォォォォォォォッ!!
隕石が落下を開始した。
空気を押し潰し、その摩擦で炎を纏って
凄まじい速度で一花めがけて落ちていく。
「ザザさん! これで小手調べなの!?」
「陛下にとっちゃニャ」
「どこが?」
「知らねえニャ。俺に文句言うなニャ、デブ」
「一花さん死んじゃうって!」
「アホ」
ザザの呆れた声。
「誰の心配してやがるニャ」
「え?」
「黙って見てろニャ。すぐ分かる」
ほう。
ザザめ。
よく分かっておるではないか。
並の相手ならば、まあ、これでほぼ詰みだ。
回避するには攻撃範囲が広すぎる。
防御するならば、あの質量と速度が生み出す破壊力を正面から受け止めねばならぬ。
術式そのものを破壊したところで遅い。
すでに現出した隕石は消えぬ。
並の剣士なら、空を見上げた瞬間に己の死を悟るだろう。
だが、余の相手は並ではない。
余が誇る《円卓の英雄》、その第三席に座する女だ。
この程度で終わってもらっては困る。
百尺、五十尺、二十尺。
巨大な隕石の影が闘技場を覆い尽くす。
轟音。
暴風。
地面すら震え始めた。
その中心で、一花は動かない。
「一花さん!」
俗物の声が響く。
「黙って見てろっつっただろうがニャ、デブ!」
そして、一花の右手が動いた。
キィン。
澄んだ音。
隕石の轟音すら切り裂いて、余の耳へ届く。
《無双桜》が抜かれた。
刹那。
「…………ほう」
隕石の表面へ一筋の線が走る。
二本。
三本。
十。
百。
数えることに意味などない。
縦。
横。
斜め。
無数の線が、一瞬にして巨石全体へ走っていく。
亀裂ではない。あれはすべて、斬撃による切断面。
「虚空一刀流ッ!」
一花の剣気を帯びた声が、帝国大闘技場を震わせた。
「《賽ノ目斬り》ィィィィィッ!!」
瞬間。
巨大隕石が崩れた。
否、斬り刻まれた。
ズズズズズズズズズズズズズッ!!
闘技場を覆い尽くしていた巨石が、無数の立方体へ分解される。
「…………」
観客席では、俗物が口を開けたまま固まっている。
「…………え?」
ようやく漏れたのは、間の抜けた声だった。
「…………は?」
クククッ。
よい顔だ。
「何したの!?」
「斬ったんだニャ」
ザザが当然のように答える。
「それは僕にも分かるよ!」
「じゃあ聞くニャ、デブ」
「そういう意味じゃない!」
「見たまんまだニャ。《無双桜》から飛ばした斬撃で、あの隕石を一瞬で賽の目に刻んだ」
「一瞬で!?」
「だから《賽ノ目斬り》なんだろうがニャ」
「名前の説明を聞いてるんじゃないよ!」
騒がしい奴だ。
だが、俗物。驚くにはまだ早いぞ。
一花は隕石を斬っただけではない。
無数の岩塊が地上へ降り注ぐ。
その一つへ。
一花が跳んだ。
タンッ!
「え?」
足場にする。
次。
タンッ!
さらに次。
タンッ!
「ちょっ……」
一花が駆ける。
落下していく無数の岩塊を。
逆に。
上へ。
上へ。
上へ。
「嘘でしょ!?」
「口閉じろニャ、デブ。舌噛むぞ」
「なんで隕石の破片を走れるの!?」
「足場があるからだニャ」
「そういう問題!?」
タンッ!
一花がまた一つ。
岩塊を蹴る。
そのたびに。
余との距離が縮まる。
速い。
迷いがない。
次にどの岩塊がどこへ落ちるのか。
その軌道を瞬時に読み。
最小限の動きで足を置き。
さらに次へ。
十。
二十。
瞬く間に一花が上空へ駆け上がってくる。
これだ。
並の剣士を相手取る常道など。
この女には意味がない。
距離を取ればよい?
空へ逃げれば剣は届かぬ?
笑わせる。
ならば届く場所まで来るだけだ。
「ザザさん!」
「あ?」
「一花さん飛べるの!?」
「飛べねえニャ」
「飛んでるじゃん!」
「走ってんだニャ」
「空を!?」
「隕石の上だニャ。目ぇついてんのか、デブ」
「そんな無茶苦茶な!」
クククッ。
実に良い。
最後の岩塊。
一花の足が沈む。
そして。
ドンッ!!
岩塊が砕け散った。
反動。
一花の身体が、矢のように宙へ射出される。
一花の黒髪が激しくなびく。
両手には《無双桜》。
その切っ先が真っ直ぐに余を捉えた。
目が合う。
一花が笑った。
剣士の笑み。
「殿!」
《龍殺不敗》が空を駆ける。
「お覚悟!」
クククッ。
そうでなくてはな、一花。
「虚空一刀流奥義」
一花が《無双桜》を振りかぶる。
刃へ魔力が集まるわけではない。
炎も。
雷も。
光すら纏わぬ。
だというのに。
余の魔眼は捉えていた。
刃の周囲。
空間そのものが、微かに歪んでいる。
「《虚空斬》――ッ!!」
来たか。
ほぼ初手から。
己が持ち得る最高火力の手札を切る。
クククッ。
そうだ。
一花とは、そういう剣士だ。
敵の力量を見極めるために、わざわざ弱い技から順に試すような真似はせぬ。
斬れるのであれば。
初手で斬る。
殺せるのであれば。
初手で殺す。
実に単純。
そして戦場においては、何より正しい。
一花の可憐な姿を侮り、
女だからと油断し、
その細腕で何ができると嘲笑った敵国の歴戦の剣士どもが、次の瞬間には首と胴を離れ離れにされたことなど、一度や二度ではない。
まったく。
愚かな連中だった。
剣士を見た目で量るなど。
己の首を差し出しているのと変わらぬ。
「ザザさん! あれ!」
観客席から俗物の声が飛ぶ。
「なんかヤバいやつだよね!?」
「なんかじゃねえニャ」
ザザの声。
「あれが虚空一刀流奥義、《虚空斬》だニャ」
「前に皇帝から聞いたやつ!?」
「だったら分かるだろ。目ぇかっ開いて見とけニャ、デブ」
「だから言い方!」
騒がしい。
だが、ザザの言う通りだ。
よく見ておけ、俗物。
これが、虚空一刀流の極致。
一花が《無双桜》を振り下ろす。
まだ刃は余へ届いていない。だというのに、切っ先の延長線上にある空間が音もなく裂け始めた。
斬撃が飛んでくるのではない。剣圧でもない。
斬るという現象そのものが、空間を伝って余へ迫る。それが《虚空斬》だ。
通常の《障壁》など論外。
幾重もの結晶壁を展開し、城砦すら守り抜く高位魔法《水晶壁〈クリスタルヴァント〉》であろうと意味はない。
まして、余が有する最高位の防御魔法《暗黒障壁〈フィンスターボルヴェルク〉》ですら防げぬ。
一花が斬るのは壁ではない。その壁が存在する空間そのものだからだ。
「えっ」
観客席から、俗物の間抜けな声が聞こえた。
「じゃあ皇帝、防げないの?」
「そうだニャ」
ザザがあっさり答える。
「まともに受けりゃ、陛下でも斬られるニャ」
「ダメじゃん!」
「だから黙って見てろニャ、デブ」
ふん。ザザめ、よく分かっておるではないか。
《虚空斬》は防げぬ。
ならば、完成する前に剣筋を狂わせればよい。
余の魔眼が、《無双桜》の刃を包む空間の歪みを捉える。あと僅かでも振り抜かれれば、切断の軌道が確定する。
その寸前。
余は《無双桜》へ人差し指を向けた。
「《重圧〈シュヴェーアクラフト〉》」
紫黒の魔法陣が、刀身へ絡みつく。
対象は一つ。
一花でも、周囲の岩塊でもない。《無双桜》の刀身、その一点のみ。
土の魔力が重量を増幅し、闇の魔力がその力を刀身へ封じ込める。外へ漏れた力が俗物やザザを巻き込むことはない。
山のごとき重圧が、《無双桜》へ一気にのしかかった。
ガクンッ!
一花の剣先が沈む。
細腕が軋み、振り下ろしかけた身体ごと地面へ引かれる。空中にいる以上、踏ん張る足場もない。
「一花さん!?」
俗物の声が響く。
だが、一花は《無双桜》を手放さなかった。
抗うのではない。
自ら重圧へ身を預け、落下する力まで斬撃へ組み込む。腰を捻り、両腕の角度を変え、狂わされたはずの剣筋を強引に余へ戻してきた。
「ぬっ……!」
まったく。
どこまでも規格外な女だ。
一花が《無双桜》を振り抜いた。
空間が裂ける。
余は《飛翔〈ヒンメルスフルーク〉》を全開にし、宙で身を捻った。
間に合わぬ。
無音の切断が、余の左肩を掠めて駆け抜ける。
黒衣が裂け、遅れて鮮血が宙へ散った。
その背後、帝国大闘技場の外壁に、端から端まで一本の線が走る。
次の瞬間、分厚い石壁の上半分が音を立てて滑り落ちた。
ズズズズズズズズズズンッ!!
「…………」
観客席では、俗物が口を開けたまま固まっている。
「い、今の……皇帝、斬られたの?」
「肩を掠めただけだニャ」
「だけって……壁まで真っ二つなんだけど!?」
「陛下が剣筋を逸らしてなきゃ、真っ二つになってたのは陛下のほうだニャ」
「やっぱりダメじゃん!」
「うるせえニャ。この一合は陛下の読み勝ちだニャ」
勝手なことを言いおる。だが、悪くない。
余は左肩の傷へ指を滑らせた。指先についた血を見て、口元が自然と吊り上がる。
「余の《重圧》を受けて、なお軌道を戻すか」
一花は答えない。
空中で両手を返し、《無双桜》の切っ先を真下へ向けた。
余が《重圧》を解くよりも早く、その柄から手を離す。
超重量を与えられた《無双桜》が、凄まじい勢いで落下を始めた。
直後、一花が宙で身を翻す。
そして落ちていく《無双桜》の柄頭へ、片足を乗せた。
「はぁ!?」
俗物の素っ頓狂な声が響く。
一花は片足だけで均衡を保ち、刀とともに一直線に落下していく。
己へ課された重圧さえ、地上へ降りるための力へ変えたか。
まったく、どこまでも余の想像を越えてくれる。
キィィィィンッ!!
《無双桜》の切っ先が、帝国大闘技場の石床へ突き刺さった。
超重量を受けた刃は硬い石を易々と貫き、深々と地面へ食い込む。
その柄頭の上。
一花は片足一本で立っていた。
背筋を伸ばし、両腕を自然に下ろしたまま微動だにしない。
その頭上から、《賽ノ目斬り》によって細かく刻まれた無数の岩塊が、黒い豪雨となって降り注いだ。
ドドドドドドドドドドドドッ!!
「うわぁぁぁぁぁぁっ!?」
無数の破片が石床を砕き、激しい衝撃が闘技場を揺らす。
観客席へ飛来した岩塊は、紫黒の光へ触れた瞬間、けたたましい音を立てて弾き飛ばされた。
戦いを始める前に、余が俗物とザザを守るため張っておいた《暗黒障壁〈フィンスターボルヴェルク〉》だ。
あの程度の破片で傷一つつくほど、余の障壁は柔ではない。
だが、一花の周囲には障壁など存在せぬ。
それでも、一花は動かなかった。
身を屈めることすらしない。
岩塊は一花のすぐ左右へ、前後へ、次々と突き刺さっていく。
その身体を中心とした僅かな一画にだけ、破片は一つとして落ちてこない。
偶然ではない。
一花は巨大隕石を斬り刻んだ、あの刹那。
すべての岩塊がどこへ落ちるのか。その軌道まで計算し、自らが立つための安全地帯を作り上げていたのだ。
岩塊が地を叩くたび、土煙が高く噴き上がる。
やがて闘技場全体が、もうもうと立ち込める砂塵に覆い尽くされた。
「一花さんは!?」
「騒ぐニャ。よく見ろ、デブ」
「何も見えないよ!」
「なら黙って待てニャ!」
最後の岩塊が落ち、轟音が止む。
余は《飛翔〈ヒンメルスフルーク〉》を解き、ゆっくりと闘技場へ降り立った。
やがて風が砂塵を払い、その向こうから一花の姿が現れる。
石床へ突き立った《無双桜》。その柄頭の上で、一花は先ほどと寸分違わぬ姿勢を保っていた。
衣服にも、肌にも、傷一つない。
「…………」
俗物が声を失っている。
その時だった。
一花の空いている足が、二度霞んだ。
コッ、コッ。
瓦礫の中から二つの石ね塊が跳ね上がり、鋭い風切り音を立てて余へ飛来する。
ヒュンッ!
余は両手を上げ、それぞれを掴み取った。
手の中に収まったのは、寸分違わぬ大きさに切り揃えられた二つの立方体。
「これは……」
掌の中で転がし、六つの面を確かめる。
それぞれの面には、一から六までを示す点が正確に刻まれていた。
向かい合う面の合計は、いずれも七。
正真正銘のサイコロだ。
「サイコロ!?」
ようやく我に返った俗物が叫ぶ。
クククッ。
巨大隕石を一瞬で斬り刻み、落下する岩塊を足場として余へ迫り、《重圧》を受けながら《虚空斬》の軌道を戻す。
それだけでも人の領域を遥かに越えておるというのに。
この女は、あの刹那に二つの石片を選び、その六面へ目まで刻んでいたのだ。
「あの最中に、これを作る余裕まであったとはな」
余は二つのサイコロを掌で弄びながら、口元を吊り上げた。
「つくづく凄まじい女よ」
一花は柄頭の上に片足で立ったまま、わずかに微笑んだ。
「《賽ノ目斬り》と申しましたゆえ」
「クククッ。名に偽りなしか」
余の笑い声が、半壊した帝国大闘技場へ響き渡った。




