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第十九話 後編 暗黒皇帝、第二階位をさずける

「……できた」


 思わず笑みがこぼれた。


 六回殺されても見つけられなかった逃げ道を、ようやく自分の力で一つ見つけた。


 《影潜》と《魔眼》。


 二つを組み合わせることで、ドルンがやっていたことに、ほんの少しだけ近づけた。


「はぁっ……はぁっ……」


 いや、喜んでいる場合じゃない。


 鬼ごっこはまだ終わっていない。どれだけ時間が経ったのか分からないけど、一刻には絶対に届いていないはずだ。


(ここから……どうする?)


 影から出た僕は、荒い呼吸を整えながら周囲を見回した。


 木々と岩、生い茂った草。さっきまでいた巨大な大木はもう見えず、一花さんの気配もない。かなりの距離を稼げたはずだ。


(だったら、《身体狂化》で一気に……)


 魔力を練りかけたところで、六回目に一花さんから言われた言葉が脳裏をよぎる。


『魔力の残滓や気配を消さなければ、隠れても意味がありませんよ』


 《身体狂化》を使えば速く走れる。でも、その分だけ大量の魔力を放つことになる。


 一花さんは、僕が《影潜》した大木の陰に残った、ほんのわずかな魔力まで見抜いた。今ここで《身体狂化》を使えば、居場所を知らせる看板を背負って逃げるようなものだ。


(やめよう。速さじゃ勝てない。それはもう、嫌というほど分かった)


 僕は腰を落とし、呼吸を整えた。


 足音を殺し、枝を踏まず、葉も揺らさない。魔力の使用もできるだけ抑える。


 今度は、ただ逃げるんじゃない。


(隠れながら、離れるんだ)


 僕は周囲に溶け込むように、ゆっくりと森の奥へ歩き始めた。


     ◇


 どれくらい進んだだろう。


 十分か、二十分か、それとももっとか。森の中には時間を確かめるものなどなく、太陽の位置を見たところで、僕に正確な時刻なんて分からない。


 ただ、一つだけ分かることがあった。


(……来た)


 足を止めた瞬間、背中が粟立った。


 まだ遠い。でも、間違いなくいる。一花さんが僕を追ってきている。


 周囲を見回すと、少し先に岩と木が重なってできた濃い影があった。


(あそこだ。走るな、焦るな。まだ距離はある)


 気配を抑えたまま影へ近づき、魔力を全身へ薄く、均等に行き渡らせる。


「《影潜〈シャッテンタウヘン〉》」


 ズブッ、と足元から影へ沈んでいく。


 膝、腰、胸。最後に頭まで呑み込まれると、森の光が完全に消えた。


(《魔眼》)


 暗闇の中に無数の影路が浮かび上がる。今度は迷わず、一花さんの気配から離れる方向へ腕を伸ばした。


 影を掻くたび、身体が黒い流れに乗って運ばれていく。一つ、二つ、三つと影を渡り、十分に離れたところで地上へ顔を出した。


「ぷはっ……!」


 大きく息を吸って周囲を確認する。一花さんの姿も、気配もない。


(よし……)


 そこから再び気配を殺して歩き、見つかりそうになったら影へ潜る。距離を稼いだら外へ出て、また静かに移動する。


 それを何度も繰り返した。


 最初はうまくいっていた。少なくとも、僕にはそう思えた。


 けれど四度目に影から出た瞬間、膝から力が抜け、思わず両手をついた。


「はぁっ……はぁっ……!」


(……きつい)


 おかしい。さっきより明らかに魔力が練りにくい。


 全身を覆う薄い膜を作るだけなのに、魔力が思うように身体の表面へ集まってくれない。走ってもいないし、《身体狂化》も使っていない。それなのに身体は鉛のように重く、腕も脚もひどくだるかった。


(《影潜》って、思っていたより消耗が激しいのか?)


 いや、ただ影へ沈むだけなら、ここまでじゃない。


 《魔眼》で影路を見つけ、離れた影まで無理やり身体を運ぶ。そのたびに、僕を守っている魔力の膜がごっそり削られているんだ。


 泳いだこともないような距離を、休まず泳ぎ続けたような疲労が身体の奥に溜まっている。


(それでも、止まれない)


 一花さんに見つかったら、そこで終わりだ。


 僕は震える膝を叩き、再び歩き始めた。


     ◇


 やがて時間の感覚は完全に失われた。


 喉が焼ける。脚は重く、頭もぼんやりする。身体が限界に近づいていることだけは、嫌でも分かった。


「はっ……はっ……はっ……!」


 そのとき、また一花さんの気配を感じた。


(来た……!)


 しかも、さっきまでとは違う。


 ただ後ろから近づいてくるんじゃない。僕が逃げようとする先へ回り込み、影から出る場所まで先読みするように、鋭い気配が迫ってくる。


(なんで急に……!)


 考えている暇はない。


 僕はふらつきながら木の根元へ向かった。そこには身体を隠せそうな、大きな影が落ちている。


(もう一回だけ……!)


 身体の奥に残った魔力をかき集めようとするが、ほとんど反応しない。


(来い……!)


 何度も呼びかけるように力を込め、ほんのわずかに残った魔力を絞り出す。それを全身へ広げ、どうにか薄い膜を作り上げた。


「《影潜》……!」


 身体が影へ沈むと同時に《魔眼》を発動し、影路を探す。


(遠くへ……少しでも遠くへ……!)


 腕を動かし、影を掻く。


 一度、二度、三度。


「ぐっ……!」


 重い。身体に巨大な重りでも括りつけられたように、前へ進まない。それでも必死に腕を動かした。


(もっと離れないと……!)


 もう一度影を掻いた瞬間、全身を覆っていた魔力の膜が大きく揺らいだ。


(え……?)


 膜が薄くなり、身体のあちこちで途切れ始める。慌てて魔力を足そうとしたが、もう何も出てこない。


(まずい、魔力が……!)


 次の瞬間、影の世界そのものが僕を拒絶した。


「うわっ!?」


 巨大な波に巻き上げられたように、上下も分からないまま暗闇の中を引きずられる。魔力の膜が完全に消えた直後、身体が地上へ吐き出された。


「ぐはっ!」


 地面を二度、三度と転がり、木の根に背中を打ちつけてようやく止まる。


「はぁっ……! はぁっ……! はぁっ……!」


 息ができない。胸が痛く、腕も脚も、身体のすべてが重かった。


(逃げないと……)


 手をついて立ち上がろうとするが、膝が震えて力が入らない。それでも無理やり身体を起こし、一歩ずつ足を前へ運んだ。


 もう魔力は練れない。《身体狂化》も《影潜》も、今は《魔眼》すら使えそうになかった。


(待てよ……逆に、魔力が残っていないなら、残滓を追われることもないんじゃないか?)


 だったら、最後に消すべきものは気配だけだ。


 少し先に、背の高い草が密集した茂みがある。僕は枝を掴み、木に肩を預けながら、足を引きずるようにしてそこまで辿り着いた。


 茂みの中へ倒れ込むと、指一本動かすことさえできなくなった。


(あと……どれくらいだ?)


 一刻は約二時間。でも、今が一時間なのか、一時間半なのか、それともまだ半分にも届いていないのか、もう何も分からない。


 僕にできることは、一つしかなかった。


(消せ……気配を、少しでも)


 乱れた呼吸を抑え、身体から力を抜く。葉を揺らさず、音も立てず、自分がここにいるという痕跡を少しでも薄くする。


(頼む……あと少しだけ、見つからないでくれ)


 森は静かだった。


 風が葉を揺らし、遠くで鳥が鳴いている。自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。


 ドクン。


 ドクン。


 ドクン。


 そして――。


「…………っ!」


 背筋が凍った。


 一花さんの気配。遠くじゃない。もう、すぐ近くまで来ている。


(嘘だろ……)


 息を止め、身体を縮める。


 来るな。こっちを見るな。


(見つかるな……!)


 足音はほとんど聞こえない。それでも、気配だけがゆっくり、確実に近づいてくる。


 やがて茂みの向こうで草を踏む、かすかな音がした。


「陰山殿」


「…………」


(終わった……)


 恐る恐る顔を上げると、一花さんがすぐそこに立っていた。


 花飾りを添えた黒髪は乱れておらず、呼吸も表情もいつもと変わらない。こちらは今にも死にそうだというのに、額に汗の一滴すら浮かんでいなかった。


 一花さんの視線が、一瞬だけ僕の足元へ落ちた。


 シャリン。


 澄んだ音とともに、刀が鞘から抜かれた。


「七殺目。お覚悟を」


(結局これかぁぁぁぁぁっ!!)


 逃げられない。身体は動かず、魔力も残っていない。


 一花さんの腕が動き、白刃が僕へ向かって振り下ろされる。


(あと何分だったんだよ……!)


 十分か、五分か。それとも、あと一分だったのか。


 ここまで逃げたのに。


 もう、終わった。


 そう思った刹那――。


『それまで!』


「…………!」


 森全体を震わせるような声と同時に、一花さんの刀が僕の眼前でぴたりと止まった。


 低く、尊大で、聞くだけで誰の声なのか嫌でも分かる。


(皇帝……!)


 木々の上から黒衣を翻し、一人の男がゆっくりと降り立った。


(この人、空も飛べるの!?)


 いや、暗黒皇帝なんだから、それくらいできてもおかしくない……のか?


 もう、何がおかしくて、何がおかしくないのか分からなくなってきた。


 皇帝は地面に降り立つと、悠然と腕を組んだ。


『一刻だ、俗物』


「…………え?」


『聞こえなかったか。一刻が経ったと言っておる』


 言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。


「僕……逃げ切った?」


『クククッ。七度目にして、ようやくな』


「…………!」


 全身から力が抜け、そのまま地面へ仰向けに倒れた。


「や……やったぁぁぁぁ……!」


 本当は叫びたかったのに、もう大声を出す体力すら残っていない。


『まったく、随分と無様な逃走であったがな』


「今くらい普通に褒めてよ!」


『褒めておるではないか』


「どこが!?」


 皇帝は僕の抗議を鼻であしらうと、一花さんへ視線を向けた。


『して、一花。貴様から見てどうであった』


「魔力による強化で距離を取ることをやめ、気配を抑えながら移動する。私が近づけば影へ潜り、別の場所へ逃れる。六度目までとは、まるで違いました」


 一花さんは刀を納め、静かに僕を見下ろした。


「ただし、新たな技を得たことに浮かれ、その消耗を把握しないまま使い続けた点は感心いたしません。逃走とは生き延びるためのもの。逃げるために力を使い果たし、その先で動けなくなってしまえば意味がありません」


「……はい」


 耳が痛い。でも、何も言い返せなかった。


「《影潜》と《魔眼》を同時に扱うのであれば、魔力の配分と移動距離を覚えなさい。今の陰山殿は、潜れるから潜っただけです」


「はい……」


「さらに、魔力が尽きたことで残滓は薄くなっていましたが、痕跡への注意が足りません。草、枝、足跡、呼吸。追う者が見ているのは、魔力と気配だけではありません」


「……次から気をつけます」


 魔力を使わなくても、気配を殺しても、一花さんは僕が残した跡そのものを見ていた。完敗だ。


「はい。ですが、その未熟さを差し引いても、よく逃げ切りました」


 一花さんの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「お見事でした、陰山殿」


「…………!」


 褒められた。


「でも、さっき本気で斬ろうとしたよね?」


「それとこれとは別です」


「別なの!?」


「はい」


 どうやら本当に別らしい。


『しかし、まさかこの短時間で《影潜》を形にするとはな』


 皇帝が愉快そうに口元を吊り上げた。


『未熟ではある。ドルンのものとは比べるべくもない。魔力効率は悪く、移動速度も遅い。気配も残滓も完全には消せておらん』


「…………」


 やっぱりダメ出しが始まった。


『そのうえ最後のほうなど、《影潜》というより――』


 皇帝の口元が、さらに意地悪く歪む。


『《影溺》であったがな』


「誰が影で溺れてたんだよ!」


『貴様だ、俗物』


「分かってるよ!」


『クククッ!』


 楽しそうだな、この人。


『だが、己で考え、己の持つ力を組み合わせ、格上から生き延びる術を生み出した。その一点については褒めてやろう』


「…………」


 散々馬鹿にされたあとだからだろうか。


 その一言が、妙に嬉しかった。


『もっとも、一花が二分程度の力しか使っておらぬとはいえ、だがな』


「…………」


 二分。つまり、二パーセント。


 僕が六回殺され、必死に《影潜》まで作り出し、魔力をすべて使い果たしてようやく逃げ切った相手が、たったの二パーセント。


「……化け物じゃん」


 一花さんが、わずかに首を傾げた。


「陛下」


『なんだ』


「五分ほどです」


「…………え?」


 皇帝の眉がわずかに動く。


「二分のままでは、途中から陰山殿を捉えられなくなりましたので」


「…………」


 今、なんて言った?


 五分。五パーセント?


 一花さんは、いつもと変わらない口調で続けた。


「影を使った逃走に切り替えたあと、五分ほどまで上げさせていただきました」


 さっき、追跡の圧が急に変わった瞬間を思い出す。


(あれが……五パーセント)


 皇帝は一花さんを見つめ、一花さんもまた静かに皇帝を見つめ返す。


 数秒の沈黙のあと、皇帝の口元がゆっくりと、心底嬉しそうに吊り上がった。


『……ほう。五分か』


「はい」


『クククッ……』


 皇帝の笑みがさらに深くなる。


 対して僕は、地面に倒れたまま二人を交互に見た。


「えっと……」


 ちょっと待って。


 五分。つまり五パーセント。


 《影潜》を編み出し、《魔眼》と組み合わせて影から影へ移動して、最後には魔力をすべて使い果たした。それでようやく引き出せたのが五パーセント。


「たった、五パーセント……」


 僕の呟きを聞いて、皇帝が鼻を鳴らした。


『たった、だと?』


「だって、五パーセントでしょ?」


『俗物め。己が誰から五分の力を引き出したのか、理解しておらぬようだな』


「誰って……一花さん」


『それを理解しておらぬと言っておる』


「…………?」


 皇帝が一花さんへ目を向ける。


 一花さんは何も言わず、ただ静かに立っていた。さっきまで僕を七回目の死へ送りかけていた人とは思えないほど穏やかだ。


『かつて《ヴァルグレン山脈》に巣食い、三つの城塞都市を滅ぼした邪龍《アッシュヴルム》』


「…………」


 いきなり物騒な話が始まった。


『討伐へ向かった軍を幾度となく退け、数千の兵を屠った邪龍を――』


 皇帝の紫の瞳が一花さんを捉える。


『単身で斬り伏せた』


「…………え?」


 僕はゆっくり一花さんを見る。


 一花さんは、ほんの少し首を傾げた。


「昔のことです」


「いやいやいや! 昔とか、そういう話じゃないから!」


「そうなのですか?」


「龍を一人で倒したの!?」


「はい」


 軽い。返事が軽すぎる。


「一人で!?」


「はい」


「ドラゴンを!?」


「邪龍です」


「そこ重要!?」


『クククッ!』


 皇帝が楽しそうに笑う。


『円卓の英雄、第三席』


 風を受け、漆黒の外套が揺れた。


『《龍殺不敗》桜井一花』


 一花さんは何も言わず、その名を受け入れるように静かに皇帝を見つめている。


『我がグランツライヒ魔導帝国が誇る英雄。その一花から五分の力を引き出したのだぞ』


 皇帝の視線が僕へ戻った。


『誇れ、俗物』


「…………」


 五パーセント。


 数字だけ見れば、ほんのわずか。でもそれは、三つの城塞都市を滅ぼした邪龍を、一人で斬った人の五パーセントだ。


 たぶん、すごい。ものすごくすごいんだと思う。


 でも――。


(もう、基準がよく分からなくなってきた……)


 5パーセント以下の力で僕を六回殺し、七回目も寸前まで追い詰めた人。


 その人を部下にしていた皇帝。


 そして今、僕の頭の中には、その皇帝が住んでいる。


「…………」


 考えるのはやめよう。頭がおかしくなりそうだ。


『さて』


 皇帝の声が変わった。


「…………?」


 低く、重い。それまで僕をからかっていた声音とは明らかに違う。


 皇帝が黒い外套を揺らしながら僕の正面まで歩いてくる。その紫の瞳が、地面に倒れた僕をまっすぐ見下ろした。


『立て、俗物』


「え?」


『立て』


「いや、僕いま、一歩も動けないんだけど」


『立て』


「…………はい」


 逆らえない。


 両腕に力を込め、震える膝を押さえながら、どうにか身体を起こす。脚は笑い、身体は今すぐ地面へ戻りたがっていたが、それでもなんとか皇帝の前に立った。


 その瞬間、空気が変わった。


「…………」


 知っている。この感じには、覚えがある。


 《魔導六大制御法〈ゼクス・コントローレ〉》の最低基準に到達し、第一位階への叙位を告げられた、あのときと同じだ。


 今、僕の前にいるのは、いつも頭の中で僕を俗物と呼ぶ口の悪い男じゃない。


 一つの帝国を築き、その頂点に君臨した皇帝だ。


『陰山シュウ』


「…………!」


 反射的に背筋が伸びた。


『余は貴様が己と敵との実力差を見極め、格上を相手に生存する術を身につけたことを認める』


「…………」


 胸が鳴った。さっきまでの疲労が、一瞬だけ遠くなる。


『よって、グランツライヒ魔導帝国初代皇帝――』


 一花さんが静かに姿勢を正した。


『ヴァルガイア・フォン・ゼクス・クローネンベルクの名において』


「…………!」


 分かっている。次に何を言われるのか。


 それでも、心臓がうるさい。


 皇帝の右手が、まっすぐ僕へ向けられた。


『貴様を第二位階――妖猫級〈カッツェ〉魔導士として、正式に認める』


「…………」


 言った。


 今度は、最後まで。


『なんだ、その顔は』


「皇帝」


『なんだ』


「今回は最後まで言えたね」


『…………』


「前は目覚ましに負けたもんね」


『…………』


 皇帝のこめかみが、ほんの少しだけ動いた


「でもさ、皇帝」


『なんだ』


「蜥蜴の次が猫って、急にかわいくない?」


『…………』


「いや、妖怪の猫なんだろうけど、猫は猫というか……」


『貴様の世界の愛玩動物と同列に語るな。妖猫は蜥蜴など比較にならぬほど狡猾で、残忍な魔獣だ』


「でも、猫なんだよね?」


『やはり取り消すか』


「妖猫級、最高に格好いいです!」


危ない。せっかくの第二位階認定が、人生最速で取り消されるところだった。


 そのとき、パチ、パチ、と静かな音が聞こえた。


「…………?」


 一花さんが手を叩いている。


 いつもの涼しげな顔。でも、その口元には、ほんの少しだけ柔らかな笑みが浮かんでいた。


「おめでとうございます、陰山殿」


「…………ありがとうございます」


 素直に頭を下げる。


 皇帝に認められたのも嬉しいけど、六回も僕を殺した一花さんから祝ってもらえると、なんだかものすごく嬉しかった。


『浮かれるな、俗物』


「もうちょっとくらい浮かれさせてよ!」


『第二位階程度で何を喜んでおる。余の帝国では、ようやく魔導士として駆け出した程度よ』


「今、正式に授けたの皇帝だよね!? 急にありがたみがなくなったんだけど……」


『ましてや貴様の《影潜》など、未完成も甚だしい』


「…………」


 始まった。


『だが、覚えておけ』


 皇帝の表情が、わずかに厳しくなる。


『逃げるとは、ただ敵から遠ざかることではない。生き残ることだ』


「…………」


『そのためなら走れ。隠れろ。欺け。時には戦え。そして何より――考えることをやめるな』


 短い言葉だった。


 でも、妙に胸へ残った。


『今日、貴様が生き残れたのは、《影潜》を得たからだけではない。己の思い込みを捨て、持てる力を組み合わせ、逃げ方を変え続けたからだ』


「…………うん」


『励め、俗物。第二位階へ上がった程度で満足するな。今日の成功など、貴様がこれから踏む道の最初の一歩にすぎぬ』


「はいはい……」


『返事は一度だ』


「はい!」


 軍隊か。


 いや、元皇帝だから軍隊より厳しいのかもしれない。


 第二位階、妖猫級〈カッツェ〉。


 僕は自分の手を見る。


 何かが急に変わったわけじゃない。魔力が増えたわけでも、身体が強くなったわけでもない。


 それでも、初めてここへ来た頃は、魔力があることすら知らなかった僕が、今は自分で魔導を組み立て、一花さんから逃げ切った。


(第二位階……)


 少しだけ。本当に少しだけ、前へ進めた気がした。


『さて』


「ん?」


『試練を越えた褒美だ』


「…………褒美?」


 その二文字を理解した瞬間、疲労で死にかけていた身体が一瞬だけ元気になった。


「褒美!? なになに!?」


『現金な奴め』


「だって褒美でしょ!? 何くれるの!?」


『食いつくな、鬱陶しい』


「食いつくよ!」


 皇帝からの褒美。魔道具か、伝説の武器か、それともものすごい防具か。


 いや、そもそも精神世界の物を現実へ持って帰れるのか?


 だったら、魔法?


『二つある』


「二つも!?」


 思わず声が裏返った。


 皇帝が呆れたように僕を見る。


『一つ。貴様が望む魔法を一つ、余が授けてやろう』


「…………」


 数秒、意味を理解するまで時間がかかった。


「…………本当に?」


『余に二度も言わせるな』


「やったぁぁぁぁぁ!!」


 疲労なんて吹き飛んだ。いや、身体はまったく動かないけど、気持ちだけは飛び跳ねている。


「何でもいいの!?」


『余が知る魔法で、今の貴様に扱える範囲ならばな』


「なんだ、何でもじゃないじゃん!」


『では取り消すか』


「何でもありません!」


 危ない。また余計なことを言った。


 それでも、好きな魔法を一つ選べる。


 攻撃、防御、回復、それとも飛行。さっき皇帝は普通に空を飛んでいた。


(飛行魔法……いや、待て。せっかく一つ選べるんだ。もっと真剣に考えたほうがいい)


 異世界を支配した暗黒皇帝が知っている魔法だ。頭の中で夢が爆発的に膨らんでいく。


「皇帝!」


『なんだ』


「ちょっと待って。真剣に考えるから」


『好きにせよ』


「ちなみに時間制限は?」


『ない』


「最高!」


『俗物め』


 皇帝が鼻で笑う。


「それで、もう一つは?」


『少しは余韻というものを覚えろ』


「褒美の前に余韻なんていらないよ!」


『まったく……』


 皇帝はため息をつき、一花さんへ目を向けた。


 僕もつられて一花さんを見る。一花さんは静かに立ったまま、その表情を変えない。


 皇帝が不意に笑った。


 さっきまでの呆れた笑いじゃない。口元だけを吊り上げた、何かを企んでいるときの笑い方だ。


『もう一つは、貴様に本物を見せてやる』


「本物?」


『そうだ』


 皇帝が一歩前へ出る。黒い外套が風を孕んだ。


『一花』


「はい、陛下」


『久方ぶりに余の相手をせよ』


 一花さんの目が、ほんのわずかに見開かれた。


「…………え?」


 待って。今、なんて言った?


 一花さんは皇帝を見つめ、皇帝もまた一花さんを見つめ返す。


 そして一花さんは、静かに頭を下げた。


「御意」


「…………ちょっと待って。相手って、何の?」


『決まっておろう』


 皇帝が不敵に笑う。


『模擬戦だ』


「…………」


 僕は一花さんを見る。


 三つの城塞都市を滅ぼした邪龍を、たった一人で斬った人。


 僕を六回殺し、五パーセントの力で七回目の死の寸前まで追い込んだ、円卓の英雄第三席《龍殺不敗》桜井一花。


 次に皇帝を見る。


 その一花さんが、かつて仕えていた男。


 グランツライヒ魔導帝国初代皇帝、ヴァルガイア・フォン・ゼクス・クローネンベルク。


挿絵(By みてみん)


「皇帝と一花さんが……戦うの?」


『そう言っておる』


「本当に?」


『何度も言わせるな』


 一花さんが静かに刀の柄へ手を添えた。その口元が、ほんのわずかに持ち上がる。


 さっき僕を祝ってくれた柔らかな笑みとは違う。


 剣士の顔だった。


「陛下」


『なんだ』


「手加減は?」


『無用だ』


「承知いたしました」


「…………」


 ちょっと待って。なんだか話が急に物騒になってない?


 皇帝が僕を見る。紫の瞳が、愉快そうに細められた。


『光栄に思え、俗物』


 そして暗黒皇帝は、不敵に笑った。


『余と《龍殺不敗》の戦いなど、そう見られるものではないぞ』


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