第十九話 前編 暗黒皇帝、鬼ごっこを静観する
第十九話 前編
七度目の鬼ごっこが始まった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
枝をかわし、地面から飛び出した根を跳び越え、落ち葉を蹴散らしながら森の奥へ走る。
《身体狂化》で強化した脚が地面を蹴るたび、身体が弾丸みたいに前へ飛び出した。
速い。自分でもそう思うのに、背中へ突き刺さるような気配だけは、さっきからずっと消えてくれない。
(いる……!)
一花さんだ。
姿は見えず、足音もほとんど聞こえない。
それでも、どれだけ速度を上げようと、木々の間をすり抜けようと、引き離せた気がしなかった。
(追いつかれる……いや、違う)
今回は一花さんを振り切る必要なんてない。
走りながら左右へ視線を走らせる。
探しているのは逃げ道ではなく、できるだけ大きく、濃い影だった。
木漏れ日が揺れる森には、いくつもの影が落ちている。
けれど細かな光に分断されたものばかりで、僕の身体を丸ごと沈められそうな場所が、なかなか見つからない。
(どこか……!)
そのとき、周囲の木々より二回りは太い幹が目に入った。
深い皺の刻まれた大木から、太い根が四方へ伸びている。
張り出した枝葉が陽光を遮り、その根元には黒々とした影が広がっていた。
「……あった!」
迷わず進路を変えた途端、背後の気配がわずかに近づいた。
急げ。
まだ振り返るな。一花さんの姿を確認したところで、斬られる可能性が上がるだけだ。
大木まで十メートル。五メートル。あと三メートル。
影へ飛び込む寸前、《身体狂化》を解除した。
脚から力が抜け、勢いに乗った身体が前へ傾く。身体の内側へ巡らせていた魔力を、今度は表面へ切り替える。
強化を続けたまま潜るより、まずはさっき成功した手順をなぞりたかった。
この勢いが消える前に、全身を包め。
(さっきと同じだ……!)
影は、ただ暗くなった地面じゃない。光の届かない、真っ黒な海だ。
そこへ潜る僕には、魔力ででき
たウェットスーツが必要になる。
魔力を生み出し、巡らせる。向ける先は身体の内側ではなく、表面。全身を薄く、均等な膜で包み込むように。
「《影潜〈シャッテンタウヘン〉》!」
大木の影へ足を踏み入れた。
ズブッ、と地面に着くはずだった足が沈む。
そのまま膝から腰へ、腹から胸へと、黒い影が僕を呑み込んでいった。
(いけ……!)
肩が沈み、最後に頭まで潜り込む。
直後、森の光が消えた。
◇
暗い。
目を開けているのか、閉じているのかすら分からなかった。顔の前へ持ってきた手も見えず、上下左右の感覚まで曖昧になっていく。
さっき試したときと同じだ。手足は動かせるのに、そこから別の影へ移動することはできない。
今の僕にできるのは、潜るだけ。
(でも、それでいい)
今回は移動する必要なんてない。ここで一刻、捕まらずにいられればいいんだ。
じっとしていると、風の音や葉の擦れる音が聞こえてきた。ただ、水の中から地上の音を聞いているみたいに、どれも遠く、ぼやけている。
(外の様子は……見えないか)
一花さんがどこにいるのかも分からない。
見つからない代わりに、こっちからも何も見えない。
もし刀を振り上げた一花さんが、入口のすぐそばに立っていたとしても、僕には分からないわけで。
(……想像するんじゃなかった)
急に、影の中まで安全じゃない気がしてきた。
一分くらい経っただろうか。それとも、まだほんの数十秒なのか。暗闇の中にいると、時間の感覚までおかしくなる。
そのとき、微かな音がした。
ザッ……。
身体が強張った。
外で、何かが近づいてくる。ぼやけた足音が少しずつ大きくなり、やがて僕が潜ってきた入口のあたりで止まった。
(……来た)
息を殺す。
いや、そもそも呼吸音は外へ漏れるのか? 分からないけど、怖いものは怖い。
僕は口元を押さえ、できるだけ身体を小さくした。
しばらくして、水の向こうから聞こえてくるような声が落ちてきた。
「おかしいですね」
一花さんだ。間違いない。
「気配と魔力の残滓が、ここでぴたりと途絶えています。はてさて……陰山殿は、どこへ消えたのでしょう」
心臓が跳ねた。
近い。
頭のすぐ上に立っているみたいに聞こえる。それなのに、一花さんは僕を探している。
(効いてる……!)
六回、何をやっても駄目だった。走っても追いつかれ、戦えば斬られ、隠れても見つかった。
でも今は違う。初めて、一花さんが僕を見失っている。
思わず拳を握りかけて、ふと別の疑問が頭をよぎった。
(……待てよ。僕、これ、何分潜っていられるんだ?)
確認していない。一度も。
さっき成功したときは潜れたことに浮かれて、その後は移動できるかどうかしか試していなかった。
平泳ぎして、クロールして、犬かきまでして、結局進めないまま出てきた。
(犬かきしてる場合じゃなかっただろ、僕!)
一刻は、およそ二時間。
もし《影潜》が五分しか維持できなかったら? 途中で魔力が尽きて、一花さんの足元へ僕だけポンッと飛び出したら?
最悪すぎる。けれど、もう潜ってしまったし、入口のそばには一花さんがいる。今さら出られるわけがない。
(こうなったら……我慢比べだ)
身体を覆う魔力へ意識を向ける。
薄い膜は、まだ全身を途切れることなく包んでいた。
消耗も今のところ急激ではなく、息だって普通にできている。
影の中なのに、空気を吸っている感覚がある。胸も苦しくない。
(これも、この魔力のおかげなのか?)
僕と影の間に境界を作る膜が、呼吸まで可能にしているのかもしれない。
原理なんて全然分からないけれど、膜が身体を包んでいる感覚だけは確かだった。
僕はドルンの《影潜》を思い出し、影を海だと考えて、そこへ潜るための魔力をまとった。
その結果、実際に影の中へ入れている。
なら、今はこの膜を保つことだけ考えよう。
(絶対に出ないぞ……)
七度目にして初めて、鬼ごっこが追いかけっこから我慢比べに変わった。
そう思った、そのときだった。
「……なるほど。影の中ですか」
全身が固まった。
(なんでぇぇぇぇぇっ!?)
声に出しかけ、慌てて口を塞ぐ。
落ち着け。
まだ確信したとは限らない。
僕を炙り出すためのハッタリかもしれない。
「気配と魔力の残滓がここで途絶え、足跡も、この大木の前まで。ですが、陰山殿が空を飛べるとも、地中へ潜れるとも聞いておりません」
(めちゃくちゃ絞り込まれてるぅぅぅっ!)
「それに、この影……ほんのわずかですが、魔力が残っていますね」
駄目だ。
完全にバレてる。
自分では綺麗に潜れたと思っていたのに、一花さんには入口に残った魔力まで分かるらしい。これが経験の差なのか。
「見事です、陰山殿」
(……え?)
「先ほどまでは、私からどう距離を取るかばかり考えておられた。
ですが今回は、自らの存在を私の知覚から外す方法を考えた。
良い判断です」
穏やかな声が、ぼやけて聞こえてくる。
褒められた。
あの一花さんに。
六回殺されて、ようやく。
(やった……!)
思わず頬が緩んだ。
めちゃくちゃバレてるけど、それでも今までとは違う。
少なくとも一度は立ち止まらせ、僕が何をしたのか考えさせるところまでいったんだ。
そこで、もう一つ気づく。
(でも……どうするんだ?)
一花さんは、僕が影に潜んでいると分かった。
けれど、僕の正確な位置まで見えているわけではないはずだ。
この《影潜》は、影そのものを別の空間として利用している。
一花さんがどれだけ強くても、ドルンみたいにここへ潜って追ってくることまでは、できないんじゃないか?
(これ、バレても意外と大丈夫なんじゃ……?)
「ですが」
その一言で、嫌な予感がした。
「潜るところまでは見事でも、退路を用意せずに留まるのは感心しませんね。
そこが安全とは限らないでしょう?」
(なんで?)
シャリン、と微かな金属音が響いた。
この音は知っている。
刀を抜いた音だ。
(ちょっと待って。なんで刀抜いたの?)
僕、影の中なんだけど。
斬れないよね? 地面にできてる黒いやつだよ?
「虚空一刀流」
待って。
嫌だ。
その言葉のあとに続くもの、絶対ろくなものじゃない。
「《残影斬〈ざんえいざん〉》」
ゾクッ、と背筋を冷たいものが走った。
考えるより先に身体を捻り、大きく仰け反らせる。
直後、何も見えないはずの暗闇を、鋭い光のような斬線が裂いた。
「――うわっ!?」
顔のすぐ前を何かが通り過ぎる。その縁が頬をかすめ、一瞬遅れて鋭い痛みが走った。
僕は勢いのまま身体を反らし切り、斬撃の軌道から逃れた。
頬に触れると、指先が濡れている。
(血……)
ほんの少し反応が遅れていたら、今の一撃で顔ごと斬られていた。
意味が分からない。一花さんは外にいる。
僕は影の中にいる。それなのに、ここまで斬撃が届いた。
(影ごと斬ってきた!?)
いや、あの人ならやる。
虚空一刀流は、空間すら斬る剣だ。
だったら影を斬る技があったって、おかしくない。
(おかしいよ!!)
心の中で即座に訂正した。
なんなんだよ、この流派! 空間を斬ったり、影を斬ったり、剣術ってそういうものじゃないだろ!
「……その声なら、まだ動けるようですね」
外から声が聞こえ、僕は口を押さえた。
しまった。悲鳴は外へ聞こえてたのか。
「では、もう一太刀」
(やめてぇぇぇぇぇっ!!)
その悲鳴を心の中で叫び終えるより早く。
ヒュンッ!!
暗闇を、二本目の斬撃が走った。
「うわっ!?」
咄嗟に身体を丸める。
頭上すれすれを白い斬線が駆け抜け、僕の髪を数本だけさらって闇の奥へ消えていった。
「っ……!」
今のも、たまたま避けられただけだ
ここにいたら死ぬ。次も避けられる保証なんてない。
僕からは一花さんが見えない。
いつ、どこから、どんな斬撃が飛んでくるのかも分からないまま、同じ場所で待っているなんて無理だ。
(移動しないと!)
ドルンは、影から影へ自由自在に移動していた。なら僕だって――いや、さっきはどう泳いでも進めなかった。
手足は動かせるのに、身体を押し出す手応えがなかったんだ。
そもそも、どこに別の影があるのかさえ分からない。
(……見えないなら)
頭の中に、使い慣れた技が浮かんだ。
外の景色は見えなくても、魔力なら。
(見えるようにすればいい!)
意識を両目へ集中させ、魔力を巡らせる。
「《魔眼》!」
視界が変わった。
真っ暗だった世界に、幾筋もの線が浮かび上がる。色が明るくなったわけではない。闇の奥にあった魔力の輪郭が、濃淡の違いとして目に映っている。
細いものも、太いものもある。途中で途切れたものも、遠くまで続くものも。
それらが、僕のいる場所から四方八方へ伸びていた。
(……水路? いや、影を繋いでる?)
潜っている大木の影から、別の影へ。そこから、さらに別の影へ。
森に落ちた無数の影の間を、魔力の筋が道のように渡っている。
(影路……!)
ドルンにはこれが見えていたのか?
考えかけた瞬間、外から衣擦れの音がした。
刀を構え直している。
(今は、そんなことどうでもいい!)
一番太く、遠くまで伸びている影路へ意識を向けた。
ただ腕を動かすだけでは駄目だった。なら、身体を覆う魔力ごと、この道へ繋げば――。
薄い膜を、影路を流れる魔力へ馴染ませる。
それまで空を掻いていた指先に、初めて、わずかな抵抗が生まれた。
「動け……!」
両腕で暗闇を掻いた。
ズッ、と身体が影路へ滑り込む。
その直後、背後を鋭い斬線が走り抜けた。
「ひっ――!」
さっきまで僕のいた暗闇が、白く裂ける。
止まっていたら、今ので斬られていた。
(いける、いける……!)
もう一度、腕を掻く。今度は大きく。
身体を包む膜が影路の流れを捉え、僕を前へ引いていった。
泳ぐ動作は同じでも、さっきとは手応えが違う。ただ闇の中でもがくのではなく、見つけた道へ魔力を合わせ、その流れに乗っている。
行き先が見えたから、魔力を繋ぐ先も分かったんだ。
(離れないと……!)
大木の影から、少しでも遠くへ。
《魔眼》に映る分岐を選び、太い影路を辿って進む。曲がり角を一つ、二つと抜けるうちに、一花さんの声も、外の音も遠ざかっていった。
どれだけ移動したかは分からない。外の景色が見えるわけではなく、地上での距離も掴めない。
それでも、同じ場所には留まっていない。そのことだけは確かだった。
(もっと……!)
あの《残影斬》が届かないところまで行きたい。
さらに腕を伸ばしたとき、胸に違和感が生まれた。
「……っ?」
息を吸う。吸えるのに、さっきまでと違って足りない。
胸の奥がじわじわと締めつけられ、身体を覆う膜にも、頼りない揺らぎが生まれていた。
(まずい……)
《影潜》を維持し、《魔眼》を使いながら、影路へ魔力を合わせて移動している。
その分、膜を保つ魔力が足りなくなったのか。それとも、潜っていられる時間に限界があるのか。
原因は分からない。ただ、移動を続けるほど膜の感覚が薄れ、それに合わせるように息苦しさが増している。
(もう少し……あと少しだけ)
まだ一花さんから十分離れたとは思えない。
けれど腕を掻くたび、胸が苦しくなる。頭までぼんやりし始め、《魔眼》に映る影路の輪郭も揺れた。
「ぐっ……!」
駄目だ。ここで意識を失ったら、逃げた意味がない。
(出る!)
影路の先へ目を凝らした。
細い道の集まる先に、比較的大きな影の広がりがある。そこへ向かって、最後の力で身体を押し出す。
移動を止め、残った魔力を全身の膜へ戻す。入口へ沈んだときとは逆に、影の外へ浮かび上がるイメージを強く描いた。
上へ。光のある場所へ。
「ぷはぁぁぁぁぁっ!!」
影から飛び出し、その勢いのまま地面へ両手をついた。
「はぁっ……! はぁっ……!」
空気が肺へ入ってくる。
うまい。空気って、こんなにうまかったんだ。
「死ぬ……! 普通に死ぬ……!」
胸を押さえながら何度も息を吸い、ようやく顔を上げた。
周囲に一花さんの姿はない。さっき潜った巨大な大木も見当たらず、木々の並びさえ違っていた。
(……逃げられた?)
少なくとも、あの影からは脱出できた。
七度目にして初めて、僕は影から影へ移動し、一花さんから距離を取ることに成功したんだ。
もちろん、一刻逃げ切ったわけじゃない。少し離れたからといって、あの人が追ってこられないとも限らない。
退路を用意せずに留まるのは感心しない――一花さんの言葉が、今になって胸に落ちた。
僕は潜れたことだけで安心していた。
見つからない場所へ入るのと、そこから逃げられるようにしておくのは、別のことだったんだ。
それでも、《影潜》と《魔眼》を組み合わせたことで、ドルンのやっていたことに、ほんの少しだけ近づけた。
まだどれくらい潜れるかも分からないし、今回は移動の途中で息が続かなくなった。
使いこなすには、試さなければならないことが山ほどある。
「……逃げれた」
木々の向こうへ目を配りながら、それでも笑みがこぼれた。
六回殺されても見つけられなかった逃げ道を、ようやく、自分の力で一つ見つけた。




