第十八話 後編 暗黒皇帝、鬼ごっこを仕掛ける
第十八話 後編
息を殺す。
呼吸の音すら聞かれないように、僕は口元を手で押さえていた。
背中には、ざらついた大木の幹。
頭上では枝葉が幾重にも重なり、隙間から差し込む光が地面にまだらな影を落としている。
風が吹くたび、葉が擦れ合った。
サワサワという音に混じって、遠くで鳥の鳴き声がする。
それ以外は何も聞こえない。
足音も。
気配も。
一花さんの声も。
(……いないよな?)
心臓がうるさい。
ドクン、ドクンと鳴るたびに、ここにいるぞと森中へ知らせている気がしてならない。
僕はいま、木の陰に隠れている。
理由は簡単。
見つかったら殺されるからだ。
こういう場面、ホラー映画で何度も見たことがある。
殺人鬼に追われた主人公が、クローゼットとかベッドの下とか物陰とかに隠れて、必死に息を殺すやつ。
画面の前で見ていた頃は思っていた。
なんでそこに隠れるんだよ。
絶対見つかるだろ。
もっと遠くまで逃げろよ、と。
まさか、その主人公たちの気持ちを自分で味わえる日が来るなんて。
人生、何があるか分からない。
いや。
味わいたくもなかったんだけど。
(…………皇帝)
心の中で呼んでみる。
返事はない。
(皇帝?)
やっぱり、何も聞こえなかった。
もちろん、いないわけじゃない。
ここは皇帝の精神世界だ。
僕がどこにいるのか。
何をしているのか。
たぶん皇帝には全部分かっている。
呼びかければ声を返すことだってできるはずなのに、それでも何も言ってこない。
(……見てるんだろうな)
助ける気がないだけで。
今回の修練が始まる前、皇帝は言っていた。
これは戦場で生き残るための修練。
勝てない敵を前にしたとき、どう判断し、どう逃げ、どう生き残るか。
敵の位置を教えてもらいながら逃げるんじゃ意味がない。
分かってる。
分かってるけど。
(こういうときくらい、いつもの偉そうな声が聞こえてもいいのに……)
なんだか妙に心細い。
いつもは人の頭の中で好き勝手しゃべって、馬鹿にして、笑って、頼んでもいないのに口を挟んでくるくせに。
いざ黙られると、こんなに静かになるなんて知らなかった。
……いや。
待てよ。
今の状況って、よく考えたらかなりまずいんじゃないか?
ホラー映画。
殺人鬼。
物陰に隠れる主人公。
しかも頼りになる相棒とは連絡がつかない。
これって。
(……だいたい見つかるやつじゃん)
「陰山殿」
すぐ近くから声がした。
「魔力の残滓や気配を消さなければ、隠れても意味がありませんよ」
「――っ!?」
いた。
近い!
どこ!?
考えるより先に地面を蹴った。
「うわあああああっ!」
木陰から飛び出す。
直後。
背後から、風を切る音がした。
ザンッ!!
振り返らない。
振り返る余裕なんてない。
それでも視界の端に、さっきまで僕が隠れていた場所が映った。
大木。
茂み。
周囲の草木。
そのすべてに無数の斬線が走る。
一瞬遅れて。
バラバラバラッ!!
「ひぃぃぃっ!?」
大木も枝も葉も、まとめて微塵になった。
木屑が舞い上がり、細かな葉の破片が雨みたいに降り注ぐ。
(あそこにいたら僕もああなってたよね!?)
当然、返事はない。
(皇帝! 見てる!? いま僕、危うくみじん切りだったんだけど!?)
沈黙。
(絶対見てるよね!?)
やっぱり返事はなかった。
「くっそぉぉぉ!」
逃げる。
もう隠れるのは無理だ。
とにかく距離を取る!
「《身体狂化》!」
魔力を全身へ巡らせる。
ドンッ!
踏み込んだ地面が爆ぜ、身体が一気に加速した。
景色が後方へ吹き飛んでいく。
木々の間を縫い、枝をかわし、全速力で駆け抜ける。
速い。
以前の僕とは比較にならない。
精神世界で散々死に続けてきた。
身体の動かし方も、《身体狂化》の扱いも、最初の頃とはまるで違う。
一花さんがどれだけ強くても、これは戦いじゃない。
勝つ必要なんてないんだ。
逃げればいい。
この速度なら。
(これなら――!)
ドスッ。
身体が地面へ落ちた。
「……え?」
何が起きたのか分からなかった。
勢いのまま地面を滑り、土と枯れ葉が顔にぶつかる。
「ぐっ……!」
痛い。
でも、それより。
何かがおかしい。
立たないと。
早く。
逃げないと。
両手を地面につき、身体を起こそうとする。
なのに下半身がついてこない。
「……え?」
振り返った。
数メートル後ろ。
そこに。
僕の両脚があった。
「…………」
靴も。
ズボンも。
見慣れた自分の脚。
ただし、膝より上から先が僕の身体と繋がっていない。
「…………え?」
理解するまでに数秒かかった。
遅れて切断面から血が噴き出す。
「うわあああああああああああああっ!!」
絶叫が森に響き渡った。
「脚! 僕の脚ぁぁぁぁぁっ!!」
痛い。
怖い。
意味が分からない。
いつ斬られた!?
斬撃なんて見えなかった。
一花さんが近づいてきた気配すらなかった。
(皇帝!)
思わず呼ぶ。
(皇帝っ!!)
返事はない。
(ちょっとくらい何か言ってよ!)
静寂。
聞こえるのは、自分の荒い呼吸だけ。
そこでようやく分かった。
本当に助けてくれないんだ。
これは僕が一人で切り抜けなきゃいけない修練なんだ。
「くっ……!」
逃げなきゃ。
両脚がなくても、まだ死んでない。
両腕を地面につく。
土を掴み、必死に身体を前へ引きずった。
「ぐっ……うぅ……!」
一メートル。
二メートル。
遅い。
笑えるほど遅い。
いや。
笑えない。
全然笑えない。
そのとき。
背後で枯れ葉を踏む音がした。
サクッ。
「…………」
心臓が跳ねた。
サクッ。
近づいてくる。
ゆっくり。
急ぐ様子すらない。
サクッ。
分かる。
一花さんだ。
後ろにいる。
もう逃げられない。
でも、怖くて振り返れない。
ホラー映画を見ていたときなら、絶対に思った。
後ろを見ろよ。
敵が来てるぞ。
早く確認しろって。
無理だ。
絶対無理。
見たくない。
振り返ったら、そこに一花さんがいる。
刀を持って。
僕を殺すために足音が止まった。
すぐ後ろで。
「これで六殺ですね」
「…………」
穏やかな声だった。
怒ってもいない。
息も乱れていない。
まるで今日の天気でも話すような口調で、僕の死亡回数を数えている。
「い、一花さん……」
「はい」
普通に返事が返ってきた。
「できれば……もうちょっと、手加減を……」
「していますよ」
「これで!?」
思わず振り返った。
一花さんは数歩後ろに立っていた。
花飾りを添えた艶やかな黒髪。
右手には刀。
その切っ先から、僕のものらしき血が一滴だけ落ちる。
なのに本人は涼しい顔をしていた。
「はい。殿からは、陰山殿の実力に合わせるよう命じられておりますので」
「両脚なくなってるんですけど!?」
「ですから、まだ生きているでしょう?」
「手加減の基準がおかしい!!」
一花さんが少しだけ首を傾げた。
本気で何がおかしいのか分かっていない顔だ。
「私が本気で斬っていれば、先ほどの一太刀で終わっています」
「それ手加減の説明として一番聞きたくないやつ!」
「ですが、陰山殿」
「な、なんですか……」
「先ほどよりは、よくなっていますよ」
「……え?」
意外な言葉だった。
「初めの頃は、私から距離を取ることしか考えておられませんでしたから」
一花さんが刀を軽く払う。
刃に残っていた血が、枯れ葉の上へ細い線を描いた。
「ですが今回は身を隠し、気配を殺そうとした。考えて逃げるようになってきています」
「……全然通用しませんでしたけど」
「当然です」
「そこはちょっと濁してくれてもよくない!?」
ほんの少し、一花さんの口元が緩んだ。
「次は、魔力も隠してください」
「次があることは確定なんですね……」
「もちろんです」
やっぱり怖い。
でも。
今の言葉で少しだけ分かった。
ただ逃げればいいわけじゃない。
《身体狂化》で速く走ればいいわけでもない。
相手が何を見ているのか。
何を感じ取っているのか。
どうすれば見つからないのか。
どうすれば追跡を振り切れるのか。
考えろ。
たぶん皇帝が何も言わないのも、そのためだ。
自分で考えて。
自分で判断して。
生き残る。
(……次はもう少し)
いけるかもしれない。
いや。
せめて七回目は、もっと長く逃げてやる。
「一花さん」
「はい」
「僕、次は――」
「では、六度目はここまでですね」
「……え?」
ヒュッ。
首筋に冷たいものが走った。
「待って。一花さん、ちょっと待っ――」
視界が傾く。
空。
木々。
地面。
世界がぐるりと回った。
コロン。
頬が土に触れる。
妙に視点が低い。
数メートル先に、人間の身体が倒れていた。
脚がない。
首もない。
見覚えのある服。
見覚えのある体型。
そして首から盛大に血を噴き出している。
(…………)
僕はようやく理解した。
(あれ、僕の身体じゃん)
そこで意識が途切れた。
♢
「うわあああああああっ!!」
森のど真ん中で、僕は絶叫した。
「く、首ぃぃぃっ!!」
両手で首を掴む。
ある。
繋がってる。
何度も指を這わせて確かめるけれど、傷どころか血の一滴もついていない。
「首ある……!」
よかった。
首がある。
いや、普通はあるんだけど。
「足ぃぃぃっ!!」
今度は慌てて両脚を触る。
右。
ある。
左。
ある。
膝も曲がる。足首も動く。太腿だってちゃんと胴体に繋がっている。
「ある……両方ある……」
はぁぁぁぁぁ……。
胸を撫で下ろし、その場にへたり込んだ。
精神世界で死ぬのは初めてじゃない。
オークなんて十二回も僕を殺している。
魔狼の群れには十五回殺された。
剣燐のグラウや闇牙のドルンには何度殺されたか覚えていない。
ここでは死んでも元に戻る。
それはもう分かっている。
分かっているんだけど。
「…………」
首に手を当てたまま、一花さんの姿を思い出す。
花飾りを添えた黒髪。
穏やかな声。
涼しげな表情。
そして、どこまでも冷たく研ぎ澄まされた剣。
僕の両脚を斬り落としたときも首を刎ねたときも、あの人の表情はほとんど変わっていなかった。
「うぅ……」
ぶるりと身体が震える。
怖い。
普通に怖い。
鬼ごっこが始まって、これで六度目。
つまり。
「僕……六回殺されてるんだよな……」
ルールそのものは簡単だった。
皇帝が精神世界に作り出した、この広大な森。
ここで一刻。
つまり、およそ二時間。
桜井一花から逃げ延びる。
ただそれだけ。
捕まったら負け。
子供でも分かる簡単な鬼ごっこだ。
ただし、一つだけ普通の鬼ごっこと違うところがある。
鬼が《龍殺不敗》桜井一花。
そして、捕まったら殺される。
「どこが鬼ごっこなんだよ……」
六度挑戦して、一つだけ嫌というほど理解した。
一花さんに見つかったら、ほぼ詰み。
絶対に逃げ切れない。
速さが違いすぎる。
それなら戦えばいいんじゃないか。
そう思ったこともある。
三度目の挑戦だった。
逃げても追いつかれるなら、逆に迎え撃つ。
《魔眼》を発動。
《身体狂化》で肉体を強化し、さらに《障壁》まで展開した。
今の僕にできることを全部ぶつければ、勝てなくても一太刀くらいは防げると思った。
結果。
障壁ごと一刀両断された。
何が起きたのか理解するより先に、僕の身体は綺麗に二つになっていた。
「手も足も出ないって、こういうことなんだな……」
呟いてから、ふと思う。
もし今、皇帝の声が聞こえていたら。
『クククッ。俗物よ、先ほどは文字通り出す足すらなくなっておったがな』
とか言いそうだ。
「…………」
想像したら腹が立ってきた。
でも皇帝の声は聞こえない。
ここは皇帝の精神世界だ。
僕がどこにいるのかも、何をしているのかも、六回殺されたことだって全部分かっているはず。
それでも何も言ってこない。
「自分でなんとかしろってことか……」
返事はない。
やっぱり心細い。
いつもなら頼んでもいないのに口を挟んでくるくせに、肝心なときだけ黙っている。
でも、文句を言っても仕方ない。
このまま七度目を始めたところで、結果は同じだ。
「……よし」
僕はその場で胡坐をかいた。
背筋を伸ばし、膝の上に手を置く。
「ふぅぅ……」
長く息を吐いた。
目を閉じ、意識を内側へ集中させる。
焦るな。
考えろ。
六回とも、何が起きた?
一度目。
開始と同時に、とにかく一花さんから離れようと全力で走った。
結果は数秒。
背後を取られ、斬られた。
二度目。
直線で逃げるから駄目なんだと思った。
《身体狂化》を使い、木々の間を縫いながら何度も方向を変えた。
それでも駄目。
気づいたときには、僕が逃げようとした先に一花さんが立っていた。
まるで僕の行動が最初から分かっていたみたいに。
三度目。
逃げても駄目なら戦う。
《魔眼》
《身体狂化》
《障壁》
使えるものは全部使った。
そして障壁ごと斬られた。
「……あれは忘れよう」
思い出しただけで、お腹の辺りがムズムズする。
四度目。
もう一度、逃走。
今度は《身体狂化》の出力を上げ、ひたすら距離を稼いだ。
かなり離れたと思った。
それなのに、一花さんは迷うことなく僕を追ってきた。
五度目。
ようやく速さだけじゃ駄目なんじゃないかと考えた。
森の地形を利用しながら逃げ、途中で《身体狂化》を解除。
沢を渡り、進路を変え、それまでより慎重に身を隠した。
今までで一番長く逃げられた。
それでも見つかった。
そして六度目。
さっきだ。
大木の陰に身を潜め、息を殺した。
足音も立てなかった。
自分では完璧に隠れたつもりだった。
でも、一花さんは僕がそこにいると最初から分かっていた。
そして言った。
『魔力の残滓や気配を消さなければ、隠れても意味がありませんよ』
「魔力の残滓……」
目を閉じたまま呟く。
「それに、気配……」
この二つを消す。
でも、どうやって?
そもそも魔力を生み出さなければ、《身体狂化》は使えない。
魔力を使わず、この身体だけで走ったところで一花さんから逃げ切れるはずがない。
だから魔力を使う。
使えば速くなる。
でも、痕跡が残る。
その痕跡を一花さんが追ってくる。
「…………」
なんだこれ。
詰んでない?
しかも問題はそれだけじゃない。
魔力を全力で使った。
《身体狂化》も使った。
《魔眼》も使った。
《障壁》も張った。
今の僕が持っている手札を全部切って、それでも一花さんにはまるで通用しなかった。
速さで勝てない。
戦っても勝てない。
隠れても見つかる。
「……ん?」
そこまで考えたところで、何かが引っかかった。
「逃げる……?」
僕はずっと、逃げる方法ばかり考えている。
いや正確には走って逃げる方法ばかり考えている。
鬼ごっこなんだから、鬼から走って逃げなきゃいけない。
いつの間にか、そう思い込んでいた。
「でも……別に走らなくてもいいんじゃないか?」
目を開く。
一花さんは、僕がどれだけ速く走っても追いついてくる。
当然だ。
あの人は強い。
たぶん、僕が今まで戦った相手の誰よりも。
猿飛さん。
雉子谷さん。
下手したら虎壱さんより強いかもしれない。
剣鱗のグラウより剣が鋭く。
影牙のドルンより速く。
千穿のシュヴァルツより遥か遠くまで斬撃が届く。
あの三人が束になってかかっても、一花さんなら涼しい顔のまま斬り伏せてしまう気がする。
「…………」
改めて考える。
「勝てるわけないじゃん……」
一刻逃げろ。
皇帝はそう言った。
一花さんに勝てとは、一言も言っていない。
だったら。
「ドルンみたいに影に潜るか、シュヴァルツみたいに空でも飛べれば……」
そこまで口にして。
僕は止まった。
「……ん?」
影に潜る?
脳裏に、あの戦いが蘇った。
影牙のドルン。
奴が得意としていた魔導。
「《影潜〈シャッテンタウヘン〉》……」
ドルンの身体が影へ沈む。
そして、別の影から現れる。
初めて見たときは、そんなの反則だと思った。
でも。
「あれって……」
魔法じゃない。
少なくとも、僕にはそう見えた。
何かを召喚したわけでもなければ、術式を発動させたわけでもない。
魔力を使い、自分自身を影へ沈ませていた。
「だったら……魔導?」
魔導は、決められた呪文を唱えれば発動するものじゃない。
魔力をどう操るか。
何を起こしたいのか。
それを自分の中で組み上げ、形にする。
もちろん、ドルンとまったく同じものをいきなり再現できるとは思わない。
でも。
あいつがやっていたことの原理を真似するくらいなら。
「僕にも……できるんじゃないか?」
そう口にしてから、自分で自分の考えを疑った。
「…………」
いやいやいや。
できるわけない。
影だぞ?
ただ光が遮られて暗く見えているだけ。
穴でもなければ、水でもない。
そんなところに人間が入れるわけ――。
「……あ」
そこで、また思考を止める。
入れるわけがない。
誰が決めた?
皇帝に何度も言われた。
自分で限界を決めるな。
魔導において、イメージは力になる。
「影の中に……潜る」
近くにある岩へ視線を向けた。
大きな岩の足元。
陽の光を遮り、濃い影が落ちている。
ドルンが影へ沈んだ瞬間を思い出す。
あのとき影が揺れた。
まるで泥みたいに。
「泥……いや」
違う。
もっと深い。
身体全部が沈む場所。
「海……?」
影の海。
なんとなく、その言葉がしっくりきた。
光の届かない、真っ黒な海。
そこへ潜る。
でも、人間はそのままじゃ海の中では生きられない。
潜るためには。
「ウェットスーツ……?」
自分で言って、何を考えているんだと思った。
影に潜るためのウェットスーツ。
そんなもの、この世界のどこにあるんだ。
……いや。
作ればいい。
「魔力で……」
目を閉じる。
意識を集中させ、魔力を生み出して全身へ巡らせる。
ただし《身体狂化》とは違う。
筋肉へ流し込むんじゃない。
身体の表面。
皮膚のすぐ外側へ。
薄く。
もっと薄く。
頭。
首。
胸。
背中。
両腕から指先。
腰。
両脚。
そして足先まで。
全身を隙間なく魔力で包んでいく。
「もっと……薄く……」
魔力が身体の表面を覆う。
服の上から、さらにもう一枚。
目には見えない膜を纏っていく感覚。
ウェットスーツ。
そうだ。
影という海へ潜るための、魔力のウェットスーツ。
そして。
「収束……」
全身を覆った魔力を逃がさないよう、身体の表面へ収束させる。
薄く。
密に。
できるだけ均等に。
少しでも意識を乱すと、肩に魔力が偏った。
「違う……」
一度ほどいて、やり直す。
今度は右腕が厚い。
「もう一回……」
焦るな。
これは散々やった。
同調。
変換。
生成。
循環。
収束。
放出。
皇帝に何度も何度も繰り返させられた、魔導六大制御法。
あのときは、こんな地味なことを延々やって何になるんだと思っていた。
でも今なら分かる。
魔力を作る。
巡らせる。
必要な場所へ集める。
六つの基礎を何度も繰り返したからこそ、その一つ一つを繋げられる。
それができなければ、こんな真似はできない。
「…………よし」
今度は均等だ。
全身を薄い魔力の膜が覆っている。
目を開いた。
岩の影を見る。
ここから先は地面じゃない。
影だ。
黒い海。
そして今の僕は、そこへ潜るためのものを身につけている。
できる。
なぜか、そう思った。
根拠なんてない。
成功する保証もない。
でもできないと思った瞬間、本当にできなくなる気がした。
皇帝も言っていた。
己で限界を作るな。
なら信じろ。
影は海だ。
僕はそこへ潜れる。
「……いける」
岩の前まで歩く。
右足を上げ、影の中心へゆっくり下ろしていく。
普通なら、足の裏が地面に触れる。
でも地面があると思うな。
ここから先は海だ。
そっと足を下ろした。
「…………!」
地面の感触が来ない。
ズブッ。
右足が影の中へ沈んだ。
「え……?」
足首まで入っている。
でも地面そのものが陥没したわけじゃない。
岩も。
土も。
周囲の草も。
何一つ変わっていない。
ただ岩が作り出した黒い影。
その部分だけが、小さなプールみたいに僕の足を呑み込んでいる。
「……いけた」
心臓が高鳴った。
さっきまでとは違う。
恐怖じゃない。
「いける……!」
右足を引き抜く。
痛みもない。
身体に異常もない。
だったら今度は全部だ。
僕は大きく息を吸い込んだ。
岩の影へ両足を乗せる。
膝。
腰。
腹。
胸。
少しずつ身体が沈んでいく。
水に潜っている感覚とも違う。
冷たくもない。
濡れもしない。
なのに確かに、身体だけが地面の下へ沈んでいく。
肩。
首。
そして頭まで。
音もなく黒い影が、わずかに揺らいだ。
次の瞬間、僕の身体は完全に影の中へ消えた。
「…………」
暗い。
真っ暗だ。
上も下も分からない。
手を伸ばしてみても、何にも触れない。
それなのに身体はどこかに固定されているような、不思議な感覚があった。
「すごい……」
声は出る。
息もできる。
苦しくない。
身体にも異常はない。
僕は本当に影の中にいる。
「できた……!」
思わず拳を握る。
「できたぞ!」
これなら一花さんから逃げられる。
ドルンは、このまま影の中を移動して別の影から出ていた。
だったら僕も。
「よし……」
前へ進むイメージ。
暗闇の向こうに別の影を思い浮かべる。
そして身体を前へ。
「…………」
動かない。
「……あれ?」
もう一度。
今度は強く前へ進むイメージを作る。
「…………」
一ミリも動かない。
なら。
泳ぐ?
両腕を前へ伸ばし、影の中を掻いてみる。
「…………」
進まない。
平泳ぎ。
駄目。
クロール。
駄目。
「…………」
最後に犬かきまで試してみた。
やっぱり駄目だった。
「潜れただけじゃん……!」
暗闇の中で僕の声だけが虚しく響く。
ドルンみたいに影から影へ移動するなんて、とてもできそうにない。
たぶん、何かが足りない。
魔力の使い方なのか。
イメージなのか。
それとも僕が知らない、別の技術があるのか。
少なくとも今の僕にできるのは、影へ潜るところまで。
ドルンの《影潜》には、まだ遠い。
「……でも」
動けない。
なら動かなければいい。
僕は暗闇の中で、自分の手を見る。
当然、何も見えない。
その瞬間、一つの考えが浮かんだ。
「これ……隠れるだけなら使えるんじゃないか?」
影から影へ移動する必要なんてない。
一花さんに見つからなければいい。
走って逃げ続ける必要もない。
一刻。
二時間。
ただ生き残れば、僕の勝ちだ。
「…………」
暗闇の中で、口元が少し緩んだ。
六回。
一花さんには、何をやっても通用しなかった。
走っても。
戦っても。
隠れても。
全部駄目だった。
でも今度は違う。
少なくとも、今までとは違う逃げ方ができる。
「……いけるかもしれない」
七度目。
初めて僕は、一花さんから逃げ切る方法が見えた気がした。




