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第十八話 前編 暗黒皇帝、撤退を説く

 帝国大闘技場《グローセ・アレーナ》。


 かつてグランツライヒ魔導帝国の騎士や魔導士たちが、その力を競い合った巨大な闘技場。


 その中央で、僕はひたすら木剣を振っていた。


「百九十八……百九十九……二百……!」


 振り下ろした木剣を止めた瞬間、肩から前腕にかけて鈍い疲労が広がった。


 昨日、桜井さんの道場で教えてもらった中段の構え。


 足幅を意識し、肩から余計な力を抜き、腕だけではなく身体全体で振る。


 頭では分かっている。


 でも実際にやってみると、これが難しい。


『腰が浮いておる』


「分かってるよ」


『腕だけで振るな。足から腰、腰から肩へ力をつなげろ』


「それも分かってるって!」


『できておらぬから言っておる』


「……はい」


 正論なのが腹立たしい。


 僕はもう一度、木剣を構えた。


『勘違いするなよ、俗物』


「何を?」


『余は貴様を剣士にするつもりなどない』


「そうなの?」


 昨日あれだけ剣術道場に興味を示していたから、てっきり剣まで覚えさせられるのかと思っていた。


『貴様に何十年も剣を振らせるほど余も暇ではない。

剣を振るという動作は、足、腰、背、肩、腕を連動させる訓練として都合がよいだけだ』


「なるほど……」


『魔力を扱うにしても同じだ。

身体がバラバラに動いていては、いずれ限界が来る』


 言われてみればそうかもしれない。


 これまで魔力を使う時は、どうしても「魔力をどう動かすか」ばかり考えていた。


 でも魔力で強化するのは自分の身体だ。


 その身体自体を上手く使えなければ意味がない。


「じゃあ、あと何回?」


『八百』


「また千回やらすつもりだったの!?」


『口を動かす暇があるなら振れ』


「鬼だ……」


『皇帝だ』


「そこは毎回訂正するんだね」


 返事の代わりに、冷たい視線が飛んできた。


 僕は黙って木剣を振った。


          ◇


『そこまでだ』


「終わったぁ……」


 最後の一本を振り終え、僕は木剣を地面に置いた。


 腕が重い。


 肩も熱を持っている。


 その場に座り込みたいところだけど、皇帝がそんなものを許してくれるはずもなかった。


『次だ』


「休憩は?」


『ない』


「知ってた」


『六大制御法《ゼクスコントローレ》の基礎を行う』


 僕は木剣から手を離し、両手を軽く開いた。


 魔導六大制御法《ゼクスコントローレ》。


 魔力を扱うための六つの基礎制御。


 魔力同調《レゾナンツ》


 魔力変換《ヴァンドルング》


 魔力生成《クヴェル》

 

 魔力循環《クライス》


 魔力収束《ケルン》


 魔力放出《シュトース》


 何度も練習してきたおかげで、以前よりはかなりスムーズに扱えるようになった。


 だけど。


『循環《クライス》』


「はい」


 意識を身体の内側へ向ける。


 胸の奥にある魔力を動かし、肩から腕へ。


 さらに指先から戻し、腹、腰、脚、足先へと巡らせていく。


 一周。


 二周。


『遅い』


「これでも前より速いんだけど」


『循環させようと考えてから魔力が動くまでに間がある』


「そりゃ考えないと動かせないから」


『だから遅いと言っておる』


 皇帝が腕を組んだ。


『次、変換《ヴァンドルング》』


 巡らせていた魔力を身体能力へ変換する。


 脚へ流し込み、踏み込む。


 ドンッ!


 石床を蹴った瞬間、身体が数メートル前へ飛び出した。


「おっ!」


『止まるな。収束《ケルン》』


「っ!」


 今度は魔力を右腕へ集める。


 一点へ。


 さらに圧縮。


『放出《シュトース》』


「はっ!」


 掌から紫黒の魔力が撃ち出された。


 一直線に飛んだ魔力弾が、闘技場の壁へ激突する。


 ドォン!


 石片が弾け飛び、壁の一部が抉れた。


「今のかなりよくない?」


『三流』


「評価厳しすぎない?」


『循環』


「え?」


『変換』


「ちょ、待って」


『収束』


「だから!」


『放出』


「一気に言うなよ!」


 僕は慌てて魔力を操作する。


 当然、途中で流れが乱れた。


 掌に集めた魔力が霧散する。


『遅い』


「順番にやらないと無理だって!」


『それが問題だ』


 皇帝の声から、いつもの軽い調子が消えた。


『今の貴様は、循環させてから変換し、変換してから収束し、そこから放出しておる』


「だって、それが手順でしょ?」


『修練ではな』


 皇帝が僕を指差す。


『実戦では違う』


「……」


『戦場で敵が貴様の魔力操作を待ってくれると思うか?』


「思わないけど」


『ならば考えてから動かすな』


「無茶言うなぁ……」


『無意識で行え』


 皇帝はあっさりと言った。


『循環しながら変換し、必要な場所へ収束させ、そのまま放出する。必要とあらば生成も同時に行え』


「そんなの頭こんがらがるよ」


『だから身体に覚えさせる』


 その言葉で、さっきまでやっていた素振りとつながった。


 考えながら足を動かすんじゃない。


 考えながら腰を回すんじゃない。


 身体が一つの動作として勝手につながるまで繰り返す。


 魔力も同じということか。


『今の貴様では、術理を一つ処理する間に三度は首が飛ぶ』


「三回も?」


『最低でもな』


 嫌な最低ラインだ。


「じゃあ今日は、これを延々やるの?」


『いや』


 皇帝の口元が僅かに上がった。


 嫌な笑い方だ。


『もっと効率のよい方法を使う』


「その顔で言われると嫌な予感しかしないんだけど」


『安心せよ。今日は少々趣向を変えるだけだ』


「皇帝がそう言って安心できたこと、一回もないよ」


『その前に』


 皇帝が片手を上げた。


『今日のゲストを紹介しておこう』


 パチン。


 指が鳴った。


 その音と同時に、闘技場の奥にある巨大な石扉が震えた。


 ゴゴゴゴゴゴ……。


 重々しい音を立てながら、左右へ開いていく。


 扉の先には暗闇が広がっていた。


「……誰?」


 答えはない。


 代わりに、暗闇の奥から足音が聞こえてきた。


 カツ。


 カツ。


 ゆっくりと。


 急ぐ様子もなく、一歩ずつ。


 そして闘技場の光の中へ、一人の女性が姿を現した。


 年齢は二十代半ばくらいだろうか。


 黒髪は肩のあたりで真っ直ぐに切り揃えられている。


 黒を基調とした着物風の装束に、最低限の防具。


 腰には一本の刀。


 綺麗な人だった。


挿絵(By みてみん)


 だけどなぜだろう。


 歩いているだけなのに、身体の奥が勝手に緊張していく。


 猿飛さんのような荒々しい圧力はない。


 雉子谷さんのような鋭さとも違う。


 ただ静かだった。


 あまりにも静かすぎて、逆に怖い。


 女性は僕の数メートル前まで来ると足を止めた。


 そして僕ではなく、皇帝へ視線を向ける。


「殿」


 それまでほとんど感情のなかった表情が、僅かに柔らかくなった。


『久しいな、一花』


「はい」


 女性は静かに膝をついた。


「再び御前に参ることが叶い、光栄にございます」


「……一花ってあの?」


 その名前よりも。


 僕の頭に引っかかったのは、昨日から何度も聞いている名字だった。


『何を呆けておる、俗物』


「いや、この人って……」


 僕は女性を見る。


「もしかして、名字は桜井?」


 女性がこちらへ顔を向けた。


「いかにも。桜井一花と申す」


「桜井一花……」


 昨日、桜井葵さんが話したご先祖様の肖像画の人だ。


「もしかして……虚空一刀流の?」


 一花さんの目が、ほんの少しだけ細くなった。


「よくご存じで」


「やっぱり!」


 偶然じゃない。


 絶対に何か関係がある。


「皇帝、この人って桜井さんの」


『余は他人の半生をペラペラと語る趣味はない』


「え?」


 予想外の答えだった。


『聞きたいことがあるなら本人に聞け』


「本人って……」


 皇帝は一花さんを顎で示した。


『もっとも、これは余の記憶から再現した桜井一花に過ぎぬがな』


「……記憶?」


『本人そのものではない。この精神世界に、余が記憶している一花を再現しておる』


「そんなことまでできるの?」


『貴様はいったい余を誰だと思っておる』


「暗黒皇帝陛下」


『分かっておるではないか』


 満足するところなのか、そこ。


 僕は一花さんをまじまじと見た。


 記憶から作られた存在。


 そう言われても、目の前にいる姿は人間そのものだ。


「じゃあ……質問してもいいですか?」


「殿がお許しであれば」


『好きにせよ』


 許可が出たので、一花さんへ向き直る。


「一花さんって、日本の人ですよね?」


「日の本に生まれ育ちました」


 言い回しに時代を感じる。


「じゃあ、いつ頃の人なんですか?」


「戊辰の戦が続いていた頃にございます」


「戊辰戦争!?」


 思わず大声が出た。


 教科書の中の話じゃないか。


「じゃあ一花さん、本当に幕末の人?」


「後世では、その頃を幕末と呼ぶのでございますか」


「そうだけど……」


 百年以上どころの話じゃない。


 僕の方が混乱してきた。


「じゃあ、どうして皇帝の世界に?」


 一花さんは一瞬だけ黙った。


 やがて、遠いものを見るように目を細める。


「戦の最中でございました」


 静かな声だった。


「敵方より砲撃があり、数十の砲弾が味方の陣へ向けて放たれました」


「数十発……」


「後方には多くの兵がおりました。このままでは直撃すると判断し、私は砲弾の軌道へ入りました」


「ちょっと待って」


 僕は思わず手を上げた。


「砲弾の軌道に自分から入ったの?」


「はい」


「なんで!?」


「斬るためですが」


 当たり前みたいに答えられた。


「砲弾を!?」


「はい」


「刀で!?」


「他に何で斬るのでございましょう」


「そういう意味じゃないよ!」


 一花さんは不思議そうな顔をしている。


 本気らしい。


「一つ、二つと斬り落としました。数えてはおりませぬが、数十はあったかと」


「数十……」


 頭がおかしい。


 いい意味なのか悪い意味なのか分からないけど、とにかく普通じゃない。


「怖くなかったんですか?」


 そう尋ねると、一花さんは少し考えた。


「怖かったのでしょうな」


「……え?」


「今となっては、よく覚えておりませぬ」


 静かな声のまま続ける。


「ですが、怖いからと退けば、後ろの者たちが死にます」


 それだけだった。


 自分が死ぬかもしれないことより、後ろにいた人たちを選んだ。


 一花さんは淡々と話しているけれど、僕には到底できそうにない。


「そして最後の一発を斬った時でございました」


 一花さんの指が腰の刀へ触れた。


「砲弾が目前で爆ぜました」


 僕は息を呑む。


「爆炎と衝撃に呑まれ、死を覚悟いたしました」


「じゃあ……どうやって?」


「逃げ場がございませんでした」


 一花さんはゆっくりと目を閉じた。


「前には爆炎。後ろには守るべき者。左右へ退いても間に合わぬ」


 そして目を開く。


「ならば」


 一花さんの右手が、刀を抜くように僅かに動いた。


「逃げ道そのものを斬ればよい、と」


「……そんな発想になる!?」


「なりました」


 即答だった。


 やっぱりこの人、どこかおかしい。


「その瞬間、初めて理解いたしました」


 一花さんの声が僅かに低くなる。


「剣で斬れるものは、人や物だけではない」


「……」


「虚空一刀流奥義」


 一花さんの指先が虚空をなぞる。


「《虚空斬》」


 空気が一瞬だけ歪んだ気がした。


「私はあの瞬間、空間の境界そのものを斬りました」


「空間の境界……?」


「私にも、当時は何を斬ったのか理解できておりませんでした」


 一花さんは静かに続ける。


「ただ、斬り開いた裂け目へ呑み込まれ、気がつけば見知らぬ土地におりました」


「それが皇帝の世界?」


「左様にございます」


 なるほど。


 いやなるほどじゃない。


 刀で空間を斬ったら異世界に飛んだってこと?


「ただし、爆発を完全に逃れたわけではございませんでした」


 一花さんは自分の身体へ目を落とした。


「全身に火傷と裂傷を負い、骨も何本か折れていたように記憶しております」


「それで生きてたんですか……?」


「動かねば死ぬだけでしたので」


 さらっと言うなぁ。


「見知らぬ土地を数日さまよい、ついには歩くこともできなくなりました」


 一花さんの表情が、ほんの少し柔らかくなった。


「その折、殿に救われたのでございます」


「皇帝が?」


『なんだ、その顔は』


「いや……人助けとかするんだなって」


『貴様は余をなんだと思っておる』


「暗黒皇帝」


『滅するぞ』


「さっきそれで正解だったじゃん!」


 一花さんの口元が僅かに緩んだ。


 笑った。


 本当に少しだけ。


「殿は私の傷を癒やし、食事と衣服を与えてくださいました」


『瀕死の異邦人が城の近辺で倒れておっただけだ。放置すれば景観が悪いので拾った』


「絶対それ照れ隠しでしょ」


『黙れ俗物』


 図星っぽい。


「それで、一花さんは皇帝の配下に?」


「はい」


 一花さんの返事に迷いはなかった。


「故郷へ戻る術もなく、命まで救われた身。ならば、この命を殿の御為に使うのが筋と考えました」


「命を救われたから?」


「始まりは」


「……始まり?」


 一花さんの視線が皇帝へ向かう。


「始まりは、恩義にございました」


 それ以上は続けなかった。


 だけど。


 なぜか、その言葉の後にもっと深い何かがある気がした。


「その後は?」


『そこまでだ、一花』


 皇帝が遮った。


 一花さんは何も言わず、静かに頭を下げる。


「御意」


 教えてくれないのか。


 ますます気になる。


 僕は話題を変えることにした。


「そういえば、その刀は?」


 一花さんが腰の刀へ目を落とした。


「《無双桜》」


「無双桜……」


「殿より賜った一振りにございます」


『一花のために鍛えさせた業物だ』


 黒塗りの鞘には、淡い桜の意匠が施されている。


 綺麗な刀だ。


 でも、見ているだけで妙な寒気を感じる。


「一花さんって、皇帝のところではかなり強かったんですよね?」


『強いか弱いかなど』


 皇帝が笑う。


『貴様自身で確かめればよい』


「……その言い方、嫌な予感しかしない」


「殿」


 一花さんが静かに立ち上がった。


『なんだ』


「お話は、これでよろしいでしょうか」


『十分だ』


 皇帝が僕を見る。


 口元が笑っていた。


『さて、俗物』


「何?」


『おしゃべりは終わりだ』


 パチン。


 皇帝が指を鳴らした。


          ◇


「っ!?」


 一瞬で空気が変わった。


 石の匂いが消える。


 代わりに鼻を突いたのは、湿った土と草木の匂い。


「……森?」


 帝国大技場は消えていた。


 僕の周囲には、太い木々が幾重にも立ち並んでいる。


 枝葉に覆われた空は薄暗く、木々の隙間を白い霧が流れていた。


 遠くから水の音がする。


「また急に場所変えないでよ……」


『慣れろ』


「無茶言うなぁ」


 数十メートル先。


 一花さんもいる。


 さっきと変わらない静かな表情で立っていた。


 ただ一つ。


 右手だけが、《無双桜》の柄に置かれている。


「……何するの?」


『実地訓練だ』


「六大制御法《ゼクスコントローレ》の?」


『それだけではない』


 皇帝が僕の前に立つ。


『先ほど言ったであろう。今の貴様は考えてから魔力を動かしている』


「うん」


『それでは遅い』


 皇帝が一花さんを見る。


『ゆえに、考える暇そのものをなくす』


「……待って」


 嫌な予感が猛烈な勢いで現実になり始めた。


『それにもう一つ』


 皇帝の表情から笑みが消える。


『戦場において、敵を倒すことだけが勝利ではない』


「え?」


『己より遥かに強い敵と遭遇することもある』


 皇帝は淡々と続ける。


『その時、己の力量も理解せず挑む者は勇者ではない。ただの愚か者だ』


 一花さんが《無双桜》の鍔へ親指をかける。


 カチッ。


 僅かに刀身が鞘から浮いた。


『弱者が強者に勝つ方法を教えるのではない』


 皇帝の瞳が僕を捉える。


『強者と遭遇した時に、死なぬ方法を教える』


「……つまり?」


『逃げろ』


「え?」


『今から一花が貴様を追う』


「…………」


 一花さんを見る。


 一花さんも僕を見ている。


「鬼ごっこ?」


『そうだ』


「なんだ……」


 少しだけ力が抜けた。


 なんだ。


 逃げるだけなら、戦うよりマシだ。


『ただし捕まれば死ぬ』


「全然普通の鬼ごっこじゃない!!」


 一花さんが《無双桜》を抜いた。


 スラリ。


 漆黒の刀身。


 その表面に淡い桜色の紋様が浮かび上がる。


 空気が変わった。


「……」


 さっきまで普通に話していた人だ。


 怒ってもいない。


 表情すらほとんど変わっていない。


 なのに。


 怖い。


 身体が勝手に逃げろと言っている。


「一花さん?」


「はい」


「本当に斬る気ですか?」


「殿より御命令があれば」


「あると思います?」


 一花さんは皇帝を見る。


『ある』


「ほらぁ!」


 皇帝は構わず続ける。


『この修練では一花を倒す必要はない』


「倒せって言われても無理そうだけど」


『理解が早くて結構』


「褒められた気がしない」


『地形を見ろ。音を聞け。相手を観察しろ。そしてゼクスコントローレを考えずに使え』


 循環。


 変換。


 収束。


 必要なら生成や放出。


 それらを瞬時に使い分けながら、一花さんから逃げる。


 なるほど。


 さっきの修練は全部、このためだったのか。


『一直線に逃げるだけなら獣でもできる』


 皇帝が僕の額を指で軽く突いた。


『頭を使え、俗物』


「……分かったよ」


『目標は一刻』


「一刻?」


『この森で一花から逃げ切れ』


「一刻って……二時間!?」


『体感時間だ』


「それでも長い!」


 僕は一花さんを見る。


「ちなみに……一花さんってどれくらい強いんですか?」


 一花さんは答えようとした。


 でも皇帝の方が先だった。


『第三席』


「え?」


『円卓の英雄第三席。《龍殺不敗》』


「龍殺……?」


 一花さんが静かに補足する。


「竜を斬ったことがございます」


「ドラゴン!?」


「はい」


「一匹?」


「最初は」


「最初は!?」


「その後も幾度か竜種とは戦いましたが、幸い一度も敗れてはおりませぬ」


「それを幸いで済ませるの!?」


 まずい。


 想像していたより遥かにまずい相手だ。


「皇帝」


『なんだ』


「これ、本当に僕が逃げる相手?」


『そうだ』


「人選おかしくない?」


『安心せよ。一花』


「はい」


『最初は手加減してやれ』


「承知いたしました」


 よかった。


 少なくとも最初から全力ではないらしい。


「ちなみに、どれくらい?」


 一花さんは少し考えた。


「まずは二分ほどで」


「二割か……」


 それなら。


「いえ」


 一花さんが首を振った。


「二分にございます」


「…………」


 ちょっと待って。


 一割が十分。


 一分が百分の一。


「二パーセント!?」


「左様にございます」


「二パーセントで何する気!?」


 皇帝が笑った。


『見れば分かる』


「見たくない!」


 一花さんが《無双桜》を下段に構える。


 その瞬間、全身に鳥肌が立った。


 さっきまでの一花さんが消えた。


 いや姿は同じで表情だって変わっていない。


 なのに目の前にいるのは、もうただの女性じゃない。


 剣士だ。


 生き残るために砲弾へ飛び込み、空間そのものを斬り、世界で竜を斬り続けた。


一人の天才剣士。


『俗物』


「な、何?」


『覚えておけ』


 皇帝の声が低く響く。


『退くことを恥じるな』


 一花さんが一歩、前へ出る。


『力の差を認めろ』


 もう一歩。


『使えるものはすべて使え』


 木。


 岩。


 川。


 斜面。


 霧。


 全部。


『そして』


 一花さんの身体が沈む。


『生き延びよ』


 僕は唾を飲み込んだ。


『逃走もまた、立派な戦術である』


 一花さんの口元が、ほんの少し笑った。


「御覚悟を」


「その笑顔が一番怖いんですけど……!」


 皇帝が片手を上げる。


『では』


 静寂。


『始め』


 一花さんが消えた。


「え?」


 本当に消えた。


『走れ、俗物!』


 考えるより先に身体が動いた。


 循環。


 変換。


 魔力を脚へ。


 石の上でやった時より速く。


 考えるな。


 動かせ。


 地面を蹴る。


 身体が一気に前へ飛び出した。


 その直後、背後で。


 ズバァァァァンッ!!


 凄まじい音が森に響いた。


「っ!?」


 振り返る。


 さっきまで僕が立っていた場所。


 その後ろにあった巨大な木に、一本の線が走っていた。


挿絵(By みてみん)


 ズズズズズ……。


 上半分が滑る。


 ドォォォォン!!


 地面が震えた。


「…………」


 僕の頬が引きつる。


「手加減って言ったよね!?」


『しておる』


「どこが!?」


 一花さんが《無双桜》を振り払う。


「二分にございます」


「本当に二パーセントで大木斬ったの!?」


『純粋な腕力ではない。《無双桜》と虚空一刀流の剣技あってのものだ』


「説明されても安心できないよ!」


 一花さんがこちらを見る。


 そして一歩、踏み出した。


 ゾクッ。


 全身が警鐘を鳴らす。


『止まるな!』


「言われなくても!」


 僕は森の奥へ全力で駆け出した。


 枝をかわす。


 岩を飛び越える。


 魔力を循環させる。


 脚へ変換。


 足裏へ収束。


 蹴る。


 考える暇なんてない。


 背後から。


 サッ。


 サッ。


 枯れ葉を踏む軽い音が聞こえる。


 僕は全力で走っている。


 なのにその足音がどんどん近づいてくる。


「なんで追いついてくるんだよぉぉぉぉぉ!!」


『相手が一花だからだ』


「答えになってない!!」


 一花さんから返事はない。


 ただ背後から、静かな声だけが聞こえた。


「まずは真っ直ぐ逃げる癖を直されるのがよろしいかと」


「追いかけながら指導しないでください!」


 次の瞬間、背中に凄まじい悪寒が走った。


『右だ!』


「っ!」


 反射的に地面を蹴る。


 身体が横へ飛ぶ。


 直後、今まで僕が走っていた場所を、桜色の斬撃が駆け抜けた。


 前方の岩が音もなく真っ二つに割れた。


「岩までぇぇぇぇぇ!?」


『よそ見をするな、俗物!』


「誰のせいだと思ってんだよ!」


 僕は再び走った。


 この日、僕は初めて知ることになる。


 戦いには敵を倒すための技術だけではなく

敵から生き延びるための技術も必要なのだと。


 そして円卓の英雄第三席

《龍殺不敗》桜井一花から逃げ切ることが

オーク五体を倒すことなんか比較にならないほど難しいということを。


 僕が身をもって理解するまで。


 そう時間はかからなかった。


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