第十七話 前編 暗黒皇帝、犬に吠えられる
「……詰みだと思います」
言った。
言ってしまった。
《魔牢》の中から、二人が僕を見ている。
右。
半透明の紫黒の壁に囲まれた猿飛さん。
左。
同じく《魔牢》に閉じ込められた雉子谷さん。
そして、その真ん中。
僕。
「はぁ……っ、はぁ……」
肩で息をする。
喉が焼けるように熱い。
心臓なんてさっきから胸骨を内側から殴り続けている。
汗が眼鏡の縁を伝い顎から落ちた。
ぽたり。
乾いた地面に小さな染みができる。
誰も喋らない。
修練場を満たしているのは、僕の荒い呼吸と、夜風に揺れる木々の音だけ。
…………。
もしかして言い方、まずかった?
「あ、あの……」
僕が耐え切れずに口を開いた、その時。
「……っは」
猿飛さんが俯いた。
肩が震えている。
怒った?
やっぱり怒った!?
「ははっ……マジかよ」
顔を上げる。
怒っていなかった。
悔しそうに眉を寄せているのに、口元には笑みが浮かんでいる。
「俺っちと翔子ちゃんが二人がかりで、坊ちゃん一人に詰まされたっての?」
「翔子ちゃんって呼ばないで」
雉子谷さんが即座に返す。
眼鏡を押し上げる指が、いつもより少し乱暴だった。
「あーし、今かなり機嫌悪いから」
「俺っちのせいじゃなくね?」
「半分くらい猿飛さんのせい」
「なんで!?」
「最後、完全に盾にされた」
「そこ俺っちも被害者なんだけど!?」
いつもの二人だ。
そのやり取りを聞いた瞬間、
胸の奥で張り詰めていた糸が、ぷつんと切れた。
「あ……」
膝から力が抜ける。
がくん。
「うわっ」
尻餅。
そのまま両手を後ろについて空を仰いだ。
「はぁぁぁぁぁぁ……!」
無理。
もう無理。
本当に、一歩も動きたくない。
《身体狂化》が切れた途端、身体から一気に力が抜けた。
まるで、ぱんぱんに膨らんでいた風船から空気が抜けていくみたいに。
脚なんて自分のものじゃないみたいに震えている。
『立て』
「無理!」
即答。
『勝者が地に尻をつくな。見苦しい』
「勝者にも肺と脚はあるんだよ!」
『その程度で音を上げるとは。貧弱な肉体め』
「そこは一か月じゃどうにもならなかったんだから仕方ないでしょ!」
『言い訳まで醜いな』
(誰の修行のせいだと思ってんの!?)
頭の中で言い返した時。
ぱん。
手を叩く乾いた音が響いた。
「そこまでだ」
虎壱さんが修練場の端から、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
いつもの穏やかな表情。
けれど金色の瞳だけは、まっすぐ僕たち三人を捉えていた。
「陰山君」
「は、はい……」
「まずは二人を出してあげてくれるかな」
「あ」
忘れてた。
「す、すみません!」
慌てて手を上げる。
「猿飛さん、雉子谷さん、今――」
「いや」
猿飛さんが遮った。
「このままでいいっすよ」
「……え?」
猿飛さんは《魔牢》の中でしゃがみ込む。
そして、右手首に巻かれた黒い金属製の装具へ指をかけた。
――あれ。
どこかで見た。
模擬戦が始まる前。
確か、雉子谷さんの足首にも似たものがあった。
防人の装備だと思って、それ以上気にしてなかったけど。
「虎壱さん」
猿飛さんが顔だけを向ける。
「もう外していいっすよね、これ」
虎壱さんは少しだけ間を置いた。
「構わないよ。勝負は終わった」
「やっとかぁ」
かちん。
小さな金属音。
手首。
反対側。
そして足首。
黒い装具が、一つずつ外されていく。
最後の一つを外した瞬間。
ドンッ!
「え?」
地面が鳴った。
猿飛さんが置いた装具。
たった一つで、乾いた土が僅かに沈んでいる。
「…………」
何これ?
「ふぅぅぅ……」
猿飛さんが大きく息を吐きながら、首を左右へ倒す。
ごきっ。
肩を回す。
その仕草自体はいつもと変わらない。
なのに。
ぞわっ。
腕に鳥肌が立った。
空気が違う。
立っているだけ。
それだけなのにさっきまでより、猿飛さんが大きく見える。
「やっぱ外すと軽いわぁ」
「……軽い?」
僕は地面へめり込んだ装具を見る。
あの鉄甲、一体何キロあるの?
隣では雉子谷さんも無言で自分の戒具を外し始めていた。
手首。
足首。
かち。
かちん。
最後の一つが外れる。
瞬間。
ふわっ。
三つ編みが揺れた。
風なんて吹いていない。
白金色の光が、雉子谷さんの身体から薄く立ち昇っている。
強い。
魔眼を使わなくても分かる。
今まで力が抑えられていた?
「……あの」
聞きたくない。
でも聞かずにはいられない。
「それ……なんですか?」
「模擬戦用の戒具」
答えたのは雉子谷さんだった。
「かいぐ?」
「身体能力と術式出力を制限するもの」
「…………」
身体能力.....
だけじゃない!?
「ちょっと待ってください」
僕は猿飛さんを見る。
「じゃあ、さっきまで……」
「俺っちも翔子ちゃんも」
猿飛さんがにやりと笑った。
「重り背負って、術まで縛られてたってこと」
「…………」
しゅるしゅるしゅる。
何かが萎んでいく。
さっきまで胸の中にあった。
もしかして僕、すごく強くなったんじゃない?
みたいな小さな自信が。
「じゃあ……」
俯く。
「僕、別に勝ったわけじゃ……」
「それは違うよ」
虎壱さんの声に顔を上げる。
「二人に制限を課したのは事実だ」
誤魔化さない。
いつもの柔らかい声のまま、はっきり言う。
「君はまだ高校生だ。実戦経験だってない。最初から二人に全力で戦わせるつもりはなかった」
「…………」
「でもね」
虎壱さんの金色の瞳が僕を見る。
「制限したのは二人の力だ」
一歩。
こちらへ近づく。
「状況判断まで制限した覚えはない」
「……状況判断?」
「忍は君の感覚を奪い、死角へ入り続けた。雉子谷は君の動きを読んで、逃げる先へ矢を置いた」
さっきの戦いが頭の中へ蘇る。
見えなかった猿飛さん。
聞こえなかった皇帝の声。
逃げた先へ飛んできた矢。
何度も。
何度も。
詰みかけた。
「それでも君は、考えることをやめなかった」
虎壱さんが言う。
「確かに、二人の力は戒具で制限されていた。でも、経験も、判断力も、戦い方まで失っていたわけじゃない」
「…………」
「十二支将隊の隊長二人を最後には封じた」
胸の奥。
さっき萎んだ何かがほんの少し戻ってきた。
「だから」
虎壱さんが微笑む。
「胸を張っていい」
「……はい」
小さな声。
でも今度はちゃんとそう答えられた。
「ま、そういうことっすよ」
猿飛さんが笑う。
「試合は坊ちゃんの勝ち」
「猿飛さん……」
「ただし」
嫌な予感。
猿飛さんがにやっと笑う。
「俺っちたちが、このまま出られなかったらね」
「……え?」
拳を握る。
次の瞬間。
轟ッ!!
風が爆ぜた。
「うわっ!?」
思わず顔を庇う。
修練場が揺れた気がする。
《魔牢》の中。
猿飛さんを中心に、凄まじい風が渦を巻いている。
さっきまでと違う。
明らかに。
「ちょ、ちょっと待って!」
猿飛さんの姿が消えた。
いや。
いる。
狭い《魔牢》の中。
残像。
一つ。
二つ。
四つ。
八つ。
増える。
壁。
天井。
地面。
あらゆる方向へ足をつき、猿飛さんが跳ね回る。
拳。
蹴り。
鎖。
風。
そのすべてが、同じ一点へ叩き込まれる。
びしっ。
「……え?」
《魔牢》に。
亀裂。
びし。
びしびしびしっ!
「嘘……」
『よく見ておけ』
皇帝。
『これが、あの猿の本来の動きだ』
次の瞬間。
バギィィィン!!
《魔牢》が砕けた。
紫黒の破片が、夜の修練場へ光となって舞う。
その中から猿飛さんが歩いて出てきた。
「ふぃー」
肩をぐるぐる回す。
「いやぁ、硬ぇ硬ぇ」
「…………」
僕はたぶんものすごく間抜けな顔していたと思う。
「壊した……」
「あ?」
「僕の《魔牢》……」
「そりゃまあ」
猿飛さんが笑う。
「戒具外していいならね」
そんな簡単に。
「次はあーし」
雉子谷さんが弓を構えていた。
まだ《魔牢》の中。
眼鏡の奥の瞳が、壁をなぞっている。
上。
右。
左。
そして一か所で止まった。
「……ここ」
小さく呟く。
弦を引いた。
白金色の光が集まる。
眩しい。
でも猿飛さんとは違う。
力任せじゃない。
雉子谷さんが見ているのは。
一点。
《魔牢》を覆う紫黒の魔力。
その中にある、ほんの僅かに色の薄い場所。
(まさか……)
『気づいたか』
皇帝。
『あの小娘。魔力の薄い箇所を見抜いた』
ぞくっ。
背筋が震える。
あんな小さな場所を?
「陰山君」
雉子谷さんが僕を見る。
「この術、かなりいい」
「え?」
「でも」
指が離れる。
「どこも同じ強度じゃない」
閃光。
白金の線が闇を裂いた。
ドッッッ!!
正確に一点。
魔力が最も薄い場所。
一瞬の静寂。
ぴし。
小さな亀裂。
そこから一気に。
ばきばきばきばきっ!
パァン!
《牢獄》が砕け散る。
光の破片を浴びながら、雉子谷さんが歩いて出てきた。
「…………」
僕は何も言えない。
猿飛さんは力と速さ。
雉子谷さんは観察と精度。
同じ《魔牢》を全然違う方法で破った。
これが十二支将隊。
「勘違いすんなよ、坊ちゃん」
猿飛さん。
「え?」
「今だから壊せたんすよ」
足元の戒具を指差す。
「これ付けたままじゃ、さっきみたいにはいかねぇ」
雉子谷さんも頷く。
「あーしも。さっきの出力じゃ、魔力の1番薄いところを射抜いても壊し切れなかった」
「…………」
だから試合は僕の勝ち。
でもこの人たちはもっと強い。
『一度勝った程度で、相手の底を知ったつもりになるな』
皇帝が言った。
いつもの嘲る声じゃない。
静かだった。
『強者とは、底を見せぬから強者なのだ』
(……うん)
悔しい。
怖い。
でも少し嬉しかった。
まだこんなに強さには先がある。
「陛下」
虎壱さんが口を開いた。
僕ではなく僕の中へ。
「一つお聞きかせください」
『申せ』
皇帝が僕の口から答える。
「この戒具」
虎壱さんの視線が地面へ落ちる。
「最初から気づいていたんですね」
「え?」
沈黙。
そして皇帝が鼻で笑った。
『当然であろう』
(えーーーー!)
『あの程度の児戯で、余の目を欺けると思うたか。虎よ』
虎壱さんが苦笑する。
「やはり.....」
「ちょっと待って!」
僕は思わず割り込んで声を出す。
「皇帝、知ってたの!?」
『知っていたが?』
「なんで教えないんだよ!」
『教える必要がどこにある?』
「あるでしょ!」
『貴様はあの二人を格上だと思っていた。だからこそ、一手一手を必死に考えた』
「…………」
皇帝が鼻で笑った。
『これは修練だ。貴様を安心させるための余興ではない』
「いや、だからって……!」
『現に勝ったではないか』
「結果論!」
「ぶはっ!」
猿飛さんが吹き出した。
「皇帝さん、マジ容赦ねぇな!」
『猿』
「はい?」
『次は戒具を外して余とやるか』
「いやぁ、俺っち今日ちょっと腰の調子が」
「さっき軽いって言ってた」
雉子谷さん。
「翔子ちゃん、そういうの拾わなくてよくない?」
「翔子ちゃんって呼ばないで」
空気が少しだけ緩んだ。
戒具を外した二人から感じていた圧も、いつの間にか消えている。
またいつもの猿飛さんと雉子谷さんに戻っている。
その時。
「陰山君」
虎壱さんが僕を見る。
「はい」
「一月前」
その言葉で分かった。
白虎堂を訪れたあの日。
皇帝が虎壱さんに言った言葉。
『一月、余に寄越せ』
そして猿飛さんと雉子谷さんを指して。
『その二人を、この器に、一対一で打ち破らせる』
無茶だと思った。
絶対に無理だと思った。
なのに。
「正直に言うよ」
虎壱さんは少し困ったように笑った。
「私は、陛下の言葉を完全には信じていなかった」
皇帝は何も言わない。
「一月で、君が忍や雉子谷と戦えるところまで来るとは思っていなかったんだ」
「…………」
「まして」
虎壱さんの視線が
二人へそして僕へ戻る。
「二人同時に封じるとはね」
猿飛さんが頭を掻く。
「面目ないっす」
雉子谷さんも。
「……あーしも」
虎壱さんが微笑んだ。
「二人とも明日から修練内容を増やそうか」
猿飛さんの笑顔が固まった。
「え?」
「忍は、視界を奪われた状態での対多数戦」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「雉子谷は、近接戦闘を想定した回避訓練を追加しよう」
「…………マジ?」
「二人とも今回、自分の得意な間合いを崩されているからね」
にこっ。
虎壱さんが笑う。
「同じ負け方は、二度しないように」
「いや虎壱さん、笑顔で言う内容じゃないっすよ!?」
「あーしも明日から……?」
「もちろん」
「…………」
(虎壱さん……やっぱりこの人も怖い)
そして虎壱さんは僕を見た。
真っ直ぐ。
「陰山君」
「はい」
「君は、強くなったよ」
胸の奥にその言葉が落ちた。
静かに。
でも重く。
僕が強くなったのか。
自分ではまだよく分からない。
精神世界では何度も死んだ。
逃げた。
泣いた。
吐いた。
皇帝に怒鳴られた。
何度も。
何度も。
もう嫌だと思った。
それでも今日あのとても強い二人と戦えた。
勝てた。
……まあ。
戒具なんてものを付けた、飛車角落ちどころじゃないハンデありだったけど
鼻の奥が少し熱い。
『泣くなよ、俗物』
(泣かないよ!)
『ならば胸を張れ』
(……うん)
ゆっくり背筋を伸ばす。
脚はまだぷるぷる震えているけど。
それでも胸を張った。
虎壱さんが小さく笑った。
その時だった。
「――ずいぶん甘ぇ戦いしてんな、猿」
低い声が夜の修練場へ落ちた。
「…………あ?」
猿飛さんの笑顔が消える。
僕は振り返った。
修練場の入口。
そこに一人の男が立っていた。
白い羽織。
その下は黒。
背が高い。
短い黒髪が、獣の毛みたいに荒く跳ねている。
腰には一本の刀。
黒い鞘。
派手な飾りはない。
なのになぜかそこから目を離せなかった。
「……来てたんすか」
猿飛さんの声。
さっきまでと違う。
軽くない。
男が歩いてくる。
ざっ。
砂を踏む。
次。
…………。
音が消えた。
「え?」
さっきまで十メートル以上離れていたはずなのに。
もう近い。
(いつ……?)
『ほう』
皇帝の声。
楽しそうだった。
『良い歩法だ』
男が僕の前で止まる。
鼻が僅かに動いた。
すん。
「……くせぇな」
「えっ」
反射的に自分の服を嗅いだ。
汗。
ものすごく汗。
そりゃ一か月分……じゃないけど。
今日だけでも相当臭いかもしれない。
「す、すみません……」
「は?」
男が眉を寄せる。
「何謝ってんだ、デブ」
「いや、臭いって……」
「お前も汗くせぇけど、そっちじゃねえ」
「僕も臭いんじゃん!」
最悪だ!
男の目が僕を射抜く。
いや違う。
僕じゃない。
もっと奥。
ぞくっ。
背中を冷たいものが這った。
「……やっぱりな」
男の右手が腰へ下がる。
刀の柄。
親指が鍔へ触れる。
カチ。
小さな音。
それだけ。
刀身は一ミリも見えていない。
なのに僕の喉が。
ひゅっと鳴った。
斬られる。
そう思った。
理屈じゃない。
刀を抜いてすらいない男を見て。
身体が勝手にそう判断した。
その瞬間、猿飛さんが動いた。
ヒュッ。
僕と男の間へ入る。
「そこまでにしといてもらえます?」
「どけ、猿」
「嫌っすね」
笑っている。
でも目は笑っていない。
「坊ちゃんは俺っちたちの客人だ」
「だからどうした」
「刀から手ぇ離せって言ってんすよ」
「…………」
男の親指がほんの少し鍔を押した。
カチ。
その瞬間、猿飛さんの右足が。
半歩、後ろへ滑った。
「…………」
僕は見逃さなかった。
さっき僕の《魔牢》を力ずくで叩き割った人が一歩下がった。
『俗物』
(な、なに?)
『覚えておけ』
皇帝の声が低くなる。
『隠密、攪乱、奇襲、猿の技量は低くはない』
(うん)
『だが』
皇帝の意識が目の前の男へ向いた。
『一対一。互いに殺すことのみを目的とするならば』
僅かな間。
『あやつが一枚上だ』
(え?)
心臓が跳ねた。
猿飛さんよりこの人が?
何もしてないのに。
「忍」
虎壱さんの声。
「そこまでだ」
「俺っちは何もしてないっすよ」
「犬塚も」
犬塚。
その名前どこかで。
「…………あ」
思い出した。
一か月前。
白虎堂で虎壱さんが。
犬もいれば、と言って。
猿飛さんがものすごく嫌そうな顔をした。
――犬塚。
『そり合わねー』。
『思想の不一致』。
その人?
男。
犬塚さんが虎壱さんを見る。
数秒。
そして。
ふっ。
鍔から親指を離した。
それだけで肺へ空気が戻ってきた。
「はぁ……」
僕。
息止めてたんだ。
「相変わらず気に食わねえな、猿」
「俺っちも犬塚さんとは、そり合わねぇんすよねぇ」
犬塚さんが眉をひそめる。
「そりが合わねえ?俺はお前の顔見てると、ぶん殴りたくなるだけだ」
「それ、そりが合わないより酷くないっすか!?」
雉子谷さんが眼鏡を押し上げる。
「一か月前にも言った」
「翔子ちゃん、そういうの覚えてなくてよくない!?」
「翔子ちゃんって呼ばないで」
雉子谷さんが眼鏡を押し上げる。
虎壱さんが小さく息を吐いた。
「犬塚。まずは挨拶を」
「面倒くせえな」
犬塚さんが僕を見る。
「やっぱりこの人が……」
「あ?」
「い、いえ!」
犬塚さんが鼻を鳴らす。
「戌を預かる」
白い羽織が。
夜風に揺れた。
「迷企羅将隊、隊長」
腰。
黒鞘の刀。
「犬塚迅牙だ」
十二支将隊の隊長。
猿飛さんや雉子谷さんと同じ隊長。
そして犬塚さんが僕を見る。
すん。
また鼻を鳴らした。
「陰山修」
「な、なんで僕の名前……」
「聞いてる」
一歩。
近い。
「お前」
「はい……」
「噂どおりの奴、飼ってやがる」
どくん。
心臓が跳ねた。
『誰が誰に飼われているだと』
皇帝が明らかに不機嫌になる。
犬塚さんの鼻が動く。
「人間の匂いに、とんでもねーモンが混じってやがる」
目が細くなる。
「俺が今まで嗅いだこともねえほど濃い」
「…………」
「異界の臭いがな」
ぞわっ。背筋が冷える。
猿飛さんが口を挟む。
「犬塚さん」
「あ?」
「坊ちゃんは人間っすよ」
「んなこと分かってる」
「じゃあ刀に手ぇ掛ける必要ないでしょ」
「中の奴は別だ」
「何もしてねえ」
「今はな」
「だからって」
猿飛さんの声から笑いが消えた。
「何もしてねえ奴を、異界と関わってるってだけで斬るのは違うでしょうが」
犬塚さんの目が細くなる。
「……猿」
「なんすか」
「いつからそんな甘ちゃんになった」
「甘いとか辛いとかじゃねえっすよ」
一歩。
猿飛さんが僕の前へ出る。
「坊ちゃんは俺っちたちと戦って、勝った」
「…………」
「敵じゃない」
犬塚さんが鼻で笑う。
「だから?」
「そこから先は」
猿飛さんも笑う。
でも全然楽しそうじゃない。
「俺っちの目の前じゃやらせねえって話っす」
空気が張り詰める。
犬塚さんの親指。
また鍔へ。
「忍」
虎壱さん。
短い一言。
猿飛さんが息を吐いた。
「……へいへい」
犬塚さんも舌打ちする。
「チッ」
(仲悪っ……)
雉子谷さんがぽつりと言う。
「いつものこと」
「いつもなんですか!?」
怖い組織だな、防人!
犬塚さんが僕を見る。
「勘違いすんな」
「え?」
「俺は異界のモンが嫌いだ」
静かな声だった。
だからこそ怖かった。
「鬼だろうが、妖だろうが、何だろうが関係ねえ」
腰の刀。
鞘を軽く叩く。
「妖刀――八房」
八房。
名前だけなのに妙に耳に残った。
「こいつで斬る」
「…………」
「こっち側で」
一瞬。
犬塚さんの目に何かが浮かんだ。
怒り?
いやもっと深い何か。
「ガキが泣く原因になるモンは、全部な」
(……ガキ?)
聞こうとした。
でも犬塚さんの視線が僕の奥へ戻る。
「中のそいつが、人間に牙を剥いたら」
親指が八房の鍔へ。
「俺が斬る」
ぞくっ。
『ほう』
皇帝。
『随分と吠える犬だ』
(皇帝、お願いだから煽らないで!)
『本人には聞こえておらぬ』
(そういう問題じゃないよ!)
『だが』
皇帝の声が少し変わった。
『抜かぬか』
(え?)
『あの男』
犬塚さんを見る。
『気配を殺している。あれほど殺気を放ちながら、剣を鞘から抜く、その瞬間までな』
(それって……)
僕は犬塚さんの構えを見た。
ゲームや漫画でなら、何度も見たことがある。
(居合……?)
『そう呼ぶのか』
皇帝が、ほんの少し楽しそうに笑う。
『なるほど。面白い剣だ。
抜かぬからこそ恐ろしい剣もある』
僕は犬塚さんの腰を見る。
妖刀《八房》。
できればあれが抜かれるところは一生、見たくない。
「陰山君」
虎壱さんの声が空気を戻した。
「はい」
そして僕の中の皇帝へ。
「陛下」
『なんだ』
「お見事です」
皇帝は答えない。
虎壱さんは続ける。
「一月前。あなたは私に言った」
声が少しだけ低くなる。
「私たち防人は、自分たちで限界を決めている、と」
空気が静かになった。
猿飛さん。
雉子谷さん。
犬塚さん。
全員が虎壱さんを見る。
「私はあの時」
虎壱さんが言う。
「今の防人では、死國を平定することはできないと言った」
覚えている。
あの日。
迷いなく虎壱さんは無理だと言った。
「今でも、簡単にできるとは思っていない」
虎壱さんの声は穏やかだった。
強がらない。
誤魔化さない。
「死國には、私たちが把握し切れていないものが多すぎる。今の戦力で踏み込めば、また多くの仲間を失う」
夜風が修練場を抜ける。
木々が。
ざわ。
ざわ。
低く揺れた。
「でも」
虎壱さんの金色の瞳がまっすぐ僕とその奥の皇帝を捉える。
「一月前とは、少し考えが変わりました」
「…………」
「無理だと決めるのは」
小さく息を吐く。
「まだ早かったのかもしれませんね」
皇帝は何も言わない。
「陛下」
虎壱さんが姿勢を正した。
そして深く頭を下げた。
「どうか」
猿飛さんの笑顔が消える。
雉子谷さんも真っ直ぐ虎壱さんを見る。
犬塚さんだけは腕を組んだまま何も言わない。
「防人に、お力を貸していただけないでしょうか」
僕の心臓がどくんと鳴った。
あの虎壱さんが頭を下げている。
四方神将。
白虎。
十年前から日本を守り続けている人が皇帝に。
「死國を取り戻したい」
静かな声だった。
「私は」
僅かに虎壱さんの拳が握られる。
「もう一度、あの場所へ行きたい」
その言葉に僕は十年前の出来事を思い出した。
四国。
黒い空。
父さん。
メイ。
そして。
虎壱さん自身もあそこでたくさんのものを失った。
「そのために」
虎壱さんは顔を上げない。
「陛下のお力を」
沈黙。
長い。
誰も動かない。
僕も何も言えなかった。
これは僕だけが決める話じゃない。
胸の奥で皇帝が何を考えているのか分からない。
やがて。
『白虎よ』
僕の口から声がした。
低い。
いつもの皇帝の声。
虎壱さんがゆっくり顔を上げる。
『余は、一度口にした言葉を違えぬ』
一月前、皇帝は虎壱さんに約束した。
僕を強くする。
その言葉を今日、果たした。
そして。
『よかろう』
「……陛下?」
『貴様らが余の力を求めるのであれば』
黒紫の魔力が胸の奥でゆらりと揺れた。
『三つ』
皇帝の声が夜の修練場へ響く。
『三つ、約してやろう』
「三つ……?」
虎壱さんが呟く。
僕も思わず息を呑む。
皇帝が防人に。
約束?
『一つ』
声が響く。
『余は今後も、この器を鍛え続ける』
「…………」
『今日程度で完成したなどと思うな』
(思ってないよ!)
『器はまだ未熟だ。脆い。弱い。愚鈍極まりない』
(約束の途中で悪口入れる必要ある!?)
猿飛さんが堪え切れず。
ぶふっ。
「笑わないでください!」
「すんません、坊ちゃん」
皇帝は無視する。
『二つ』
空気がもう一度、引き締まる。
『この器と余に害意を向けぬ限り』
皇帝の声が低くなる。
『余は貴様ら防人を敵とはせぬ』
猿飛さんの表情が変わった。
雉子谷さんも虎壱さんも黙って聞いている。
犬塚さんだけが僅かに眉を動かした。
虎壱さんが口を開く。
「それは」
慎重に言葉を選ぶ。
「私たちと手を組んでいただける、という意味でしょうか」
『思い上がるな』
即答。
虎壱さんが僅かに目を見開いた。
『余が貴様らの軍門へ下るわけではない』
皇帝。
やっぱり。
皇帝。
『余は余だ』
声に揺るぎがない。
『貴様らは臣下ではない。余もまた、貴様ら防人の一員となる気など毛頭ない』
そして。
『利が一致する間』
静かに。
『互いを敵とせぬ。それだけのことだ』
数秒、虎壱さんが小さく笑った。
「ええ」
頷く。
「それで十分です」
犬塚さんが鼻で笑った。
「つまり」
組んでいた腕を解く。
「信用はしねえってことか」
『当然であろう』
「ハッ」
犬塚さんが笑った初めて。
少しだけ楽しそうに。
「気に入った」
「え?」
「俺もあんたを信用する気はねえ」
『奇遇だな、犬』
「……」
猿飛さんが。
二人を交互に見る。
「なんか」
嫌な予感。
「この二人、案外相性いいんじゃ――」
「黙れ、猿」
『黙れ、猿』
同時。
「…………」
僕。
猿飛さん。
雉子谷さん。
虎壱さん。
全員が数秒、固まった。
「いやそこだけ息ぴったりなの!?」
「俺っち今、異界の皇帝と犬塚に同時に怒られたんすけど!?」
雉子谷さんが眼鏡を押し上げる。
「珍しい経験」
「翔子ちゃん慰めて!」
「翔子ちゃんって呼ばないで」
犬塚さんが。
「うるせえ」
『騒がしい猿だ』
「追撃やめてもらえます!?」
空気が緩んだ。
でも皇帝の約束はまだ終わっていない。
『そして』
声が落ちる。
『三つ』
夜風が止んだ。
僕の心臓がなぜか強く鳴る。
『死國へ攻め入る時が来たならば』
「…………」
父さん。
メイ。
二人が消えた場所。
『余も往こう』
「……!」
息を呑んだ。
虎壱さんの瞳が僅かに揺れる。
『そして余自身の目で見定めてやる』
黒紫の魔力が胸の奥で静かに燃える。
『この国を十年にわたり蝕んできた異界の輩とやらが何者なのかをな』
皇帝が笑った。
もちろん姿は見えない。
でも分かる。
傲慢で不遜で誰よりも皇帝らしい笑み。
「…………」
虎壱さんが拳を握った。
その手が僅かに震えていた。
「ありがとうございます」
『礼など要らぬ』
虎壱さんは今度は頭を下げなかった。
真正面から僕の奥にいる皇帝を見る。
「承知いたしました。陛下」
『フン』
犬塚さんが。
ぼそり。
「異界の奴と手を組むなんざ、反吐がでる」
「犬塚!」
虎壱さんが語気を強める。
「分かってる」
犬塚さんは僕を見る。
いや僕の中の皇帝を見る。
「だが虎壱さんの判断には従う」
八房。
黒い鞘へ指を置く。
「だが信用はしねえ」
『好きにせよ』
「それと」
犬塚さんの犬歯が。
ちらりと覗く。
「人間に牙剥いた瞬間」
目が細くなる。
「俺が斬る」
『やってみるがよい』
(なんで煽るの!?)
『俗物』
(なに!?)
『余が誰であるか忘れたか』
(忘れてないから困ってるんだよ!)
猿飛さんが。
ふうと
大きく息を吐いた。
「それにしても」
虎壱さんが小さく笑う。
「一月前には想像していなかったな」
「え?」
「今日、こんな話をすることになるなんてね」
一月前、僕はこの人たちの前でまともに立つことすら怖かった。
猿飛さん。
雉子谷さん。
絶対に勝てないと思った。
今日は一応は形としては勝てた。
でももちろん戒具を外した二人は僕よりずっと強かった。
そしてその二人と同じ十二支将には犬塚さんみたいな人までいる。
皇帝曰く殺し合いなら猿飛さんより上。
この人たちでさえまだ届かない場所。
死國。
僕はそこへいつか行かなければならない。
父さん。
メイ。
二人が消えた場所へ。
「…………」
怖い。
当然、怖い。
でも一月前とは少しだけ違う。
自分の手を見る。
震えている。
疲労で情けないくらい。
それでもこの手で全力を出し切って戦った。
『俗物』
(なに?)
『いつまで座っている』
「…………」
忘れてた。
立つために脚に力を入れる。
ぷるっ。
「あ」
崩れた。
「うわっ!」
べしゃ。
地面へ。
「…………」
猿飛さんが吹き出した。
「ぶはっ!」
雉子谷さんが顔を背ける。
肩がちょっと震えてる。
「笑った!?」
「笑ってない」
「絶対笑ったよね!?」
虎壱さんまで笑っている。
「虎壱さん!?」
「ごめん、こめん。ちょっとだけ」
「ちょっとじゃない!」
『……先が思いやられるな』
「皇帝まで!」
「…………」
一人。
笑ってないのは犬塚さん。
じっと僕を見る。
なんだろう。
怖い。
また臭いとか言われる?
そして。
「おい、デブ」
「は、はい!?」
犬塚さんが八房を腰に差したまま。
背を向ける。
「次会う時までに」
ちらりと振り返りながら、
「もうちょいマシになっとけ」
「え?」
「中の奴斬る時」
ニィッ。
牙が見えた。
「お前まで真っ二つにしたら、寝覚めが悪ぃ」
「やっぱり斬る気なんですか!?」
「場合による」
「何の場合!?」
犬塚さんが笑う。
猿飛さんが盛大にため息を吐いた。
「ほら。だから俺っち苦手なんすよ、この人」
「聞こえてんぞ、猿」
「耳まで良すぎるんだよ!」
「その程度も聞こえねえなら隊長辞めろ」
「何その基準!?」
笑い声が夜の修練場へ広がった。
長かった。
本当に長かった。
現実ではたった一か月。
でも僕にとっては。
何年にも感じた。
何度も死んだ。
何度も逃げた。
何度も立ち上がった。
ようやくここまで来た。
もちろんこれで終わりじゃない。
むしろきっとここからなんだ。
それでも今日くらいは少しだけ自分を褒めてもいいと思う。
僕は一か月前より少しだけ強くなった。
そして僕の中にいる皇帝はあの日の約束を確かに果たした。




