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第十六 後編 暗黒皇帝、約束を果たす

僕は今、二人の人間と向かい合っている。


けれど、ここはいつもの帝国大闘技場じゃない。


足元にあるのは、乾いた砂でも石畳でもなく、きれいに均された土。

周囲を囲む木製の柵。壁際には竹刀、木刀、槍、薙刀、鎖鎌まで、用途の違う武器がずらりと並べられている。


天井の高い、防人の修練場。


そこにいるのも、オークでも魔狼でも、魔猿でもない。


人間だ。


それも――。


「坊ちゃん、本当にやるんですかい?」


目の前で困ったように頭を掻いているのは、十二支将隊の隊長、猿飛忍さん。


「そもそも坊ちゃんの中の皇帝が勝手に決めたことだし。俺っちたちは、この勝負なしでもいいんっすよ?」


その隣。


身の丈ほどもある長弓を手にした雉子谷翔子さんも、いつもの少し眠たそうな目で僕を見ていた。

けれど、その視線だけは冗談じゃない。


「そうそう。あーしたち、あんまり手加減できるタイプじゃないし」


雉子谷さんが弓の弦を指で軽く弾く。


びん、と低い音が修練場に残った。


「だから陰山くん、正直に言ってほしい。嫌ならやらなくていい」


二人とも、本気で心配してくれているんだと思う。


当然だ。


一か月前、皇帝が虎壱さんと勝手に決めた約束。


僕を一か月鍛えて、この二人を一対一で倒させる。


あの時の僕は、当然そんなことできるわけがないと思っていた。


いや、正確には絶対無理だと思っていた。


でも、この一か月。


精神世界では二年以上。


僕は何度、死んだ?


魔狼に喉を食い破られた。

オーガに潰された。

剣で刺され、焼かれ、引き裂かれた。


そして、そのたびに立ち上がった。


怖くなくなったわけじゃない。

痛くなくなったわけでもない。


ただ。


あの頃の僕とは、少し違う。


僕はゆっくり息を吸った。


「やります」


猿飛さんの眉が下がった。


「……マジっすかぁ」


大きなため息と一緒に肩まで落ちる。


「わっかりましたぁ。虎壱さんにあとでどやされねーように、なるだけ手加減しますからねぇ」


それから僕と雉子谷さんを交互に見て、


「じゃあ坊ちゃん。俺っちと雉子谷、どっちとやります?」


来た。


言わなきゃ。


……言いたくない。


でも、言わなきゃ。


「あのー……」


「ん?」


「ちょっと、言いにくいんですが……」


雉子谷さんが僅かに首を傾けた。


「なに? やっぱりやめる?」


「そーそー。坊ちゃんが怪我しても誰も得しねーっすよ。あのスカした皇帝のいうことなんかほっといて、俺っちたちから虎壱さんに上手く説明しときますって」


『誰がスカした皇帝だ』


頭の中から低い声が響いた。


今そこ?


僕は小さく息を吐く。


そして。


「二人同時でもいいですか?」


沈黙。


……あ。


言っちゃった。


空気が変わった。


さっきまで少しだけ緩かった修練場の温度が、ぐっと上がった気がする。


猿飛さんの笑顔が消えた。

雉子谷さんも弓を弄っていた指を止めている。


「……坊ちゃん」


猿飛さんが僕を見る。


声はまだ柔らかい。

でも、目が違う。


「それ、皇帝に言わされてる……んじゃねーよな?」


「違います」


「坊ちゃん、本気なの?」


いつもの間延びした調子が消えていた。


「それとも俺っちたち防人を舐めてる?」


胸が、少し縮む。


一か月前なら、これだけで「すみません」と謝っていたかもしれない。


でも。


『目を逸らすな』


皇帝の声。


分かってる。


「……本気です」


雉子谷さんが細く息を吐いた。


「あーしも、そういう冗談好きじゃない。撤回するなら、今しかない」


僕は首を横に振る。


「冗談じゃありません。できたら、お二人とも本気で僕と戦ってください」


「あーしと猿飛さん。二人がかりでも大丈夫ってこと?」


「はい」


「へぇ……」


猿飛さんが笑った。

でも、全然楽しそうじゃない。


「俺っちたちも、ずいぶん安く見積もられたもんだなぁ」


「ほんとに」


雉子谷さんが即答する。


「皇帝には、本気じゃなかったとはいえ足蹴にされたし」


……あ。

覚えてる。


「でもなんか」


雉子谷さんが僕を上から下まで見る。


眼鏡。

パーカー。

お腹。

そして、また顔。


「その見た目でそういうこと言われると、あーし本当に腹立つ」


ぐさっ。


戦う前に精神へ矢が刺さった。


(皇帝。僕、今ちょっと違う意味でダメージ受けた)


『知らん』


(知ってよ)


猿飛さんが壁際を親指で指した。


その手首に、黒い金属製の手甲が巻かれているのが見えた。

そういえば、雉子谷さんの足首にも似たような黒い装具がある。


防人の装備かな。


まあ、今はどうでもいい。


「坊ちゃん。獲物、選びなよ」


壁際に並ぶ模擬戦用の武器。


木刀。

槍。

短剣。

棒。

盾。

そして、猿飛さんが使うものと同じ鎖鎌。


僕はそれを見る。


この一か月。

何度も武器を持った敵と戦った。


オーガの棍棒。

ケンタウロスやシュヴァルツの弓矢。

ドルンのダガー。

グラウの長剣。


数え切れないほどの爪と牙。


でも、僕自身は。


「……あのー」


猿飛さんの眉がまた動いた。


「今度はなんすか?」


「言いにくいんですけど……」


僕は両手を見る。


「素手で大丈夫です」


しん。


また修練場が静かになった。


今度はさっきより、まずい。


雉子谷さんが完全に無表情になっている。

猿飛さんは口を半分開けたまま。


数秒。


「……坊ちゃん」


「はい」


「俺っちさぁ、割と我慢強いほうだと思ってたんだけど」


猿飛さんが頬を掻いて笑う。


「さすがに今のは、ちょーっとムカついたわ」


「同感」


雉子谷さんも一歩前へ出た。


「あーし、陰山くんってもっと大人しい子だと思ってた」


「僕もそう思います」


「自分で言う?」


「すみません」


条件反射で頭が下がりかける。


『下げるな』


皇帝。


『今から戦う相手に、なぜ頭を垂れる』


いや、これ僕の性格なんだけど。


『ならば今だけ捨てろ』


無茶言うな。


『煽れ』


…………は?


『聞こえなかったか。煽れ』


(無理だよ!)


『ならば余が言葉を授けてやる』


やめて。

絶対ろくなことにならない。


『安心せよ。貴様の言葉として多少は品よく整えてある』


多少?


「坊ちゃん?」


猿飛さんが怪訝そうに僕を見る。


「あ、いや……」


口の中が乾く。


敵じゃない。

殺されるわけじゃない。


なのに魔物と向き合った時とは違う怖さがある。


『言え』


……くそ。


僕は二人を見た。


「すみません」


「だから謝んなくていいって」


「そうじゃなくて」


息を吸う。


「武器を持ったほうがいいのは……僕じゃなくて、お二人のほうだと思います」


猿飛さんの笑みが消えた。


雉子谷さんの目も細くなる。


(皇帝、もういい!?)


『まだだ』


まだあるの!?


「この一か月、僕……お二人より強くて速い相手と戦ってきました」


猿飛さんの頬が僅かに引きつった。


「……へぇ」


「それに、雉子谷さんの矢より速い攻撃も、たぶん何度も避けてます」


「たぶん?」


「すみません、速度測ってないので……」


「そこ急に弱気になるんだ」


『余計なことを言うな』


無茶言うなよ!


僕はもう一度二人を見る。


「なので、できれば最初から本気でお願いします。じゃないとたぶん……」


言いたくない。

本当に言いたくない。


『言え』


「攻撃、当たらないと思うので」


…………。


終わった。


僕の人生。

少なくとも今日の僕の身体。


終わった。


猿飛さんが俯いた。

肩が震えている。


笑ってる?


いや違う。


「……っは」


顔を上げる。


「ははっ。言うようになったじゃん、坊ちゃん」


犬歯が見えた。


楽しそうだ。

でも、目が笑ってない。


雉子谷さんも小さく息を吐く。


「猿飛さん」


「あいよ」


「手加減」


「んー……最低限でいっか」


「賛成」


猿飛さんが壁際から模擬戦用の鎖鎌を取る。

本物より刃を潰し、鎖も軽量化されている。それでも振り回せば十分危ない。


雉子谷さんも弓を構えた。


「あーしも、ちょっとだけ腹立った」


ちょっと?


絶対ちょっとじゃない。


二人が距離を取る。


猿飛さんは前。

雉子谷さんは後ろ。


前衛と後衛。


一か月前、皇帝が「教材」と呼んだ二人。

その二人を、今から僕一人で相手にする。


『俗物よ』


(なに?)


『震えておるぞ』


(そりゃ震えるよ!)


『恐怖か?』


僕は拳を握る。


違う。


……いや、怖いけど。


それだけじゃない。


「陰山くん」


雉子谷さんが弦を引く。

淡い光が指先へ集まり始めた。


「最後に確認。今からあーしたち二人でいく」


「はい」


「後悔しない?」


僕は少しだけ笑った。


「たぶん、すると思います」


「…………」


「でも、やります」


雉子谷さんの口元がほんの僅かに上がった。


「そ」


猿飛さんが鎖鎌を肩へ担ぐ。


「じゃ、坊ちゃん」


じゃらり。


鎖が床を擦った。


「模擬戦用だから死にはしねーけど。当たると、いてーぜ」


雉子谷さんも弓を引き絞る。

光の矢が形成された。


「あーしの矢も死なない程度にはしてる。せいぜい怪我しないように、しっかり避けてみて」


二対一。


近距離と遠距離。


普通に考えれば、かなりまずい。


「始め!」


合図と同時に、猿飛さんの右腕が動いた。


鎖鎌が唸る。


ヒュォッ!


弧を描きながら、僕の側頭部へ。


速い。


少なくとも一か月前の僕なら、たぶん「うわっ!」と目を閉じていた。


でも今は見える。


鎖。

分銅。

手首。

肩。

猿飛さんの踏み込み。


全部。


(……あれ?)


身体を半歩引く。


ぶぉんっ!


鎌が鼻先を通り過ぎ、風圧で前髪が揺れた。


「っ!?」


猿飛さんの目が僅かに開く。


僕も少し驚いていた。


速い。

間違いなく速い。


でも、ドルンのダガーに比べたら――遅い。


刃の軌道が見える。

次にどこへ来るのかも分かる。


返ってきた鎖を首を傾けてかわし、続く横薙ぎには腰を落とす。


「……マジ?」


猿飛さんの口から初めて、軽口じゃない声が漏れた。


鎖鎌を引き戻しながら僕を見る。

さっきまでの「高校生の相手をしている」目じゃない。


「この一か月、皇帝がなにやったのか知らねーけど……坊ちゃん、もうふつーの高校生じゃねーな」


顔が引き締まる。


その瞬間。


ヒュンッ!


右から光。


僕は反射的に上体を沈めた。


頭上を光の矢が抜ける。


「あっぶ……!」


「あれ避ける?」


雉子谷さんが二射目を番える。


いや。

矢筒には触れていない。


弦を引くたび淡い光が収束し、新しい矢を形作っていく。


「あーしらの身内でいる? 猿飛さんの鎖鎌、あんな避け方できる人」


「いるにはいるけどよぉ!」


猿飛さんが鎖を振る。


今度は鎌じゃない。

反対側の分銅。


低い軌道で足首を狙ってくる。


跳ぶ。


そこへ。


ヒュッ!


雉子谷さんの矢。


空中。

避けにくい場所。


(うわっ!)


『障壁だ』


分かってる!


右手を向ける。


生成。

収束。

放出。


「《障壁》!」


半透明の壁が空中に生まれた。


バシィッ!


光の矢がぶつかり、紫黒の火花が散る。


着地。


その瞬間には、猿飛さんが目の前。


「ほいっと!」


鎌。

首。


僕は身体を反らし、刃が喉の前を通過したところで右足へ魔力を集中させた。


循環。

収束。


床を蹴る。


「っと!」


後ろへ滑るように距離を取る。


その着地点へ。


また矢。


(休ませてよ!)


『敵に休息を乞う馬鹿がどこにおる』


心の中くらい言わせて!


一本目は頬の横。

二本目は肩の横。


三本目。


これを避けると、猿飛さんの鎖が来る。


なら。


左手を向け、斜めに《障壁》を展開。


矢が表面を滑るように逸れた。


間髪入れず鎖鎌。


障壁を解除し、魔力を足へ回して横へ一歩。


鎌が空を切る。


「……ちょっ」


猿飛さんの眉が上がる。


「坊ちゃん、それ全部考えてやってんの?」


「え?」


考えて?


……いや。


たぶん、身体が勝手に選んでる。


どこへ避ければ次の攻撃へ繋がらないか。

何を防いで、何を避けるべきか。

魔力をどこへ回すか。


この一か月。

何百回、何千回と同じことをやった。


間違えれば、死んだ。


だから間違えない方法を、身体が覚えた。


『俗物』


(なに?)


『煽れ』


(また!?)


『今だ』


(嫌だよ! なんで僕、戦いながら友好的な人間関係まで破壊しなきゃいけないの!?)


『相手の冷静さを削ぐのも戦術だ』


(さっきそれで怒らせたばっかりじゃん!)


『だから効く』


最悪の教師だ。


「坊ちゃん?」


猿飛さんが鎖鎌を構え直す。


僕はものすごく嫌々、口を開いた。


「あの……もうちょっと、連携したほうがいいと思います」


沈黙。


雉子谷さんの眉が動く。


「……してるけど?」


ですよね!

知ってます!


『続けろ』


(鬼かよ!)


「その……今のままだと、一人ずつ攻撃されてるのと、あんまり変わらないので……」


空気がまた熱くなった。


(皇帝ぇぇぇぇぇ!)


『上出来だ』


どこが!?


雉子谷さんが無言で弦を引く。

光がさっきより明らかに強い。


「陰山くん」


「はい」


「あーし、今のでちょっと傷ついた」


「すみません!」


『謝るな!』


無理だよ!


でも、猿飛さんは。


「ははっ」


意外にも笑った。


「いやいや。ここでいちいちブチギレててもしゃーねーっての」


あれ?

怒らない?


猿飛さんが片方の口角を上げる。


「皇帝の入れ知恵だろ、それ」


「えっ」


バレてる。


『チッ』


舌打ちした!?


「なんか分かってきたわ。坊ちゃん、素で人煽れるタイプじゃねーもんな」


その評価は嬉しい。

たぶん。


「……ただし」


鎖鎌を握る手が変わった。


ふっと重心が沈み、空気が鋭くなる。


「煽られっぱなしってのも、性に合わねー。そろそろ坊ちゃん、俺っちも少し本気出しますぜ」


指を立てる。


「忍法――《ましら》」


ぞわっ。


嫌な感覚。


猿飛さんが消えた。


「っ!」


違う。


消えてない。


速い。


足音が右、左、正面。


一人だった猿飛さんが二人、三人、四人へ増える。


残像。


(これ……!)


見たことがある。


一か月前。

皇帝が僕の身体を使って戦った時。


高速移動と残像で、相手の認識を狂わせる猿飛さんの術。


あの時は何が起きているのか全然分からなかった。


でも今なら。


「《魔眼》」


紫黒の光が視界に宿る。


世界が変わる。


速さそのものが落ちたわけじゃない。

ただ、見える情報が増えた。


足。

重心。

床を蹴る瞬間。

猿飛さんの脚へ集まる力。


魔力じゃない。


でも似てる。


僕が《疾駆》を使う時みたいに、力を下半身へ集中させ、それを一気に解放している。


(だから速いんだ……!)


だけど怖くない。


もっと速い相手を、僕は知っている。


脳裏を銀色の軌跡が走った。


ドルン。


笑いながら二つのダガーを振るう、小柄な魔猿。


一歩、二歩。

そう思った時にはもう懐にいた。


何度斬られた?

何度、喉を裂かれた?

何度、背後を取られた?


そしてあいつには、もう一つ厄介な術があった。


地面へ沈む影。


ドルンの身体が黒い沼へ溶けるように消える。


《影潜〈シャッテンタウヘン〉》。


影から影へ潜り、死角へ回り込む。


最初は何度もやられた。


だから考えた。


出てくる場所が分からないなら、そもそも出られなくすればいい。


ドルンが影へ潜った瞬間、僕は自分の影の上から《障壁》を叩きつけた。


影ごと蓋をするように。


そして数秒後。


障壁の下から。


『ウキャァーー!?』


情けない鳴き声が聞こえた。


……あれはちょっと面白かった。


『戦闘中だぞ』


分かってる!


意識を戻す。


正面。

残像。


右。

これも違う。


左。

残像。


そして正面から来る一人。


これもフェイント。


なら本体は。


(後ろ!)


振り向かない。


必要ない。


右手を背後へ向ける。


「《障壁》!」


ドンッ!


「ぶへっ!?」


振り返る。


半透明の障壁へ猿飛さんが顔面から突っ込み、鼻を押さえながらよろめいていた。


「いっっってぇぇぇ!」


「す、すみません!」


「いや謝るところじゃねーけど!」


猿飛さんが鼻をさすりながら、目の前の障壁へ触れる。


こんこん。


「……やっべ。これ坊ちゃんが作ったのか!?」


「はい」


「一か月でこんな術を!?」


ヒュンッ!


その横を光の矢が抜ける。


「皇帝が作ってるんじゃね?」


雉子谷さんだ。


会話しながら普通に撃ってくる!


一本。

二本。

三本。


速い。


さっきより明らかに光の矢の密度が高い。


普通の障壁では受け続けられない。


僕は左腕を前へ出した。


記憶。


白い羽根。

空を埋めるほどの矢。


シュヴァルツ。


あいつの放つ魔力の矢は、一発一発が速く、重かった。


《障壁》を一枚。

二枚。

三枚。


重ねても砕かれた。


だったら、広く作る必要なんてない。


守る場所だけ。

もっと小さく。

もっと厚く。

もっと硬く。


魔力を左腕へ集中。


「《魔盾〈マギーシルト〉》!」


左前腕に紫黒の魔力が円形に凝縮する。


盾。


直径は大きくない。

でも、密度が普通の《障壁》とは違う。


ドンッ!


一射。


盾が揺れる。


二射。


火花。


三射。


それでも割れない。


「……は?」


雉子谷さんの指が一瞬だけ止まった。


僕は盾を傾け、四本目の矢を表面で滑らせる。


「まじか……」


猿飛さんも鼻を押さえている場合じゃなくなったらしい。


「なんだよ、あの術」


「知らない。少なくとも防人の術じゃない」


雉子谷さんが淡々と答える。


「だよなぁ。坊ちゃんみてーな平和なパンピー高校生が、一か月そこらで覚えられる術じゃねーだろ」


…………。


(パンピーって)


『パンピーとはなんだ?』


(久しぶりに聞いた気がする)


『そこか?』


いやだって一応、僕パンピーなのは否定できないし。


「あーしら」


雉子谷さんが新しい矢を生成する。


今度は一度に三本。


「ちょっとまずくない?」


猿飛さんが鎖鎌をくるりと回した。


「あー。ちょーっとまずいかもな」


雉子谷さんの視線が僕を射抜く。


「陰山くんには悪いけど、あーしたちも、もうちょっとエンジンかけないと」


猿飛さんも鎖鎌を肩へ担ぎ直した。


さっきまで浮かんでいた軽い笑みは、もうほとんど残っていない。


「皇帝だけなら、まだ知らず……坊ちゃんにまで、防人の隊長がこの程度って思われちゃあなぁ」


鎖鎌の柄を握り直す。


「俺っちらも、立つ瀬がねーぜ」


その瞬間。


鎖鎌の周囲で、空気が揺れた。


「……え?」


目に見えるほどの何かが現れたわけじゃない。


なのに分かる。


鎖の周囲を巻くように、風が流れている。


刃先が僅かに動くだけで、ひゅる、と細い音を立てて空気が裂けた。


『属性付与か』


皇帝の声が低く響く。


(属性付与?)


『武器へ己の属性を纏わせておる。猿めは風か』


その言葉とほぼ同時に。


「あーしらが、大したことないって思われるのも困る」


雉子谷さんが弓を持ち上げた。


「あーしら、一応……防人の隊長なんで」


弦を引く。


淡い光。


今までと同じ。


そう思ったのに。


違った。


弦の前へ生まれた矢が、さっきまでとは比べものにならないほど強く輝いている。


白。


いや、白金色。


直視すると目の奥が痛いほどの光。


『なるほど』


皇帝が鼻を鳴らした。


『貧乳小娘は光か』


(その呼び方やめなよ!)


『事実を述べただけだ』


絶対本人に聞かせるなよ。


皇帝は二人を見る。


そして、わずかに声の調子を変えた。


『器。油断するな』


(え?)


珍しい。


皇帝が僕に注意を促した?


『風は速度と軌道を変える。単純な威力だけを見ておれば足元を掬われるぞ。そして光は、貴様の闇と互いに食い合う性質が強い』


(相性悪いってこと?)


『そう思っておけ。先ほどのように雑に受けるな。魔力の消耗が早まる』


「……分かった」


思わず声に出た。


猿飛さんが片方の眉を上げる。


「皇帝と作戦会議っすか?」


「ち、違います!」


「いや絶対そうじゃん」


雉子谷さんが即座に突っ込む。


そこは否定できない。


猿飛さんが小さく笑う。


そして。


鎖鎌を持つ右腕を下げ、左手の人差し指と中指を立てた。


胸の前で印を結ぶ。


空気が変わった。


「忍法……《みざる》」


瞬間。


ゴォォォォォォッ!!


「うわっ!?」


突風なんて生易しいものじゃない。


修練場の中で突然、小さな竜巻が生まれたみたいだった。


風が顔を叩く。

髪が引っ張られ、服が激しくはためく。

巻き上がった砂粒が頬へ容赦なく打ちつけてくる。


目が。


開けられない。


「っ……!」


魔眼を使っても、そもそも目そのものを開けられない。


腕で顔を庇う。


『器、風そのものに惑わされるな。猿の位置を――』


「忍法」


また猿飛さんの声。


「《きかざる》」


ヴォンッ。


空気が耳の周りを包んだ。


「っ!?」


次の瞬間。


音が消えた。


違う。


消えたんじゃない。


唸るような風圧だけが耳の奥へまとわりつき、それ以外の音を全部押し潰している。


自分の息すら聞こえない。


(皇帝?)


返事がない。


(皇帝!)


やっぱり聞こえない。


いや、頭の中で話してるのに!?


どういう仕組みなんだよ!


でも、今はそれを考えてる場合じゃない。


見えない。

聞こえない。


しかも二対一。


普通なら怖い。


一か月前の僕なら、間違いなくパニックになっていた。


でもいつか皇帝に言われた言葉を思い出す。


目が使えぬなら、別の方法を探せ。


敵は、こっちが困ってるからって待ってくれない。


ならどうする?


僕は両足を開き、深く呼吸する。


生成。


身体の中へ魔力を生み、循環させる。


いつもなら必要な場所へ集める。


腕。

脚。

拳。

目。


だけど今回は違う。


身体の中だけじゃない。


外へ。


もっと外へ。


魔力を皮膚から滲ませる。


薄く。

広く。


僕の身体を中心に、半径数メートル。


水の中へインクを垂らすように、魔力を広げていく。


六大制御法。


《同調》。

《変換》。

《生成》。

《循環》。

《収束》。

《放出》。

それらを、少しだけ違う形で組み合わせる。


精神世界で。


目に見えない敵。

気配を消す敵。

背後から襲う敵。


何度も、何度も殺されて。


ようやく身体へ覚え込ませた。


《六大制御法〈ゼクス・コントローレ〉》応用。


《近接感知〈ナーベライヒ・ジン〉》。


広げた魔力が、何かに触れた。


右に一つ。


左斜め前、二つ。


上。


三つ。


(来る)


見えない。


聞こえない。


でも。


分かる。


首を傾ける。


何かが頬の横を通過し、風圧だけが触れた。


一歩後ろ。


次。


腰を捻る。


さらに一つ。


これは避けきれない。


左腕。


魔力を収束。


円形。

凝縮。


《魔盾〈マギーシルト〉》!


腕へ重い衝撃。


閉じた瞼の向こうまで白い光が透ける。


(雉子谷さんの矢……!)


次。


右から小さく速い気配が四つ。


身体を沈める。


一つ目は頭上。

二つ目は肩の横。


三つ目。


間に合わない。


魔盾。


音は聞こえない。


だけど、左腕へ伝わった硬い感触で分かる。


矢じゃない。


弾いた何かが視界の端へ落ちた。


ほんの一瞬だけ薄目を開ける。


床へ突き刺さっていたのは、手裏剣。


刃の周囲に小さな風の渦がまとわりついている。


(猿飛さん……!)


光の矢。

風を纏った手裏剣。


見えない。

聞こえない。


そんな状態で四方八方から飛んでくる。


挿絵(By みてみん)


でも。


不思議と僕は焦っていなかった。


広げた魔力が、次の攻撃へ触れる。


前、二つ。


右後ろ、一つ。


上から光の矢。


その奥に、風を纏った刃。


一歩。


避ける。


さらに一歩。


魔盾で弾く。


十秒。


二十秒。


もっと長かった気もする。


やがて。


耳を覆っていた風の唸りが、少しずつ遠ざかっていった。


頬を叩いていた砂も落ちていく。


舞い上がっていた砂塵が薄れ、視界が戻った。


「はぁ……はぁ……」


猿飛さんが肩で息をしている。


額には汗。

鎖鎌を握る右腕も、さっきより少し下がっていた。


その後ろ。


「はぁ……っ、はぁ……」


雉子谷さんも同じ。

弓を構えてはいるけど、呼吸は明らかに乱れている。


やっぱり、あの術はずっと使い続けられるものじゃない。


……なんて。


冷静に分析している場合じゃなかった。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」


苦しい。


二人以上に。


僕のほうが圧倒的に息が上がっていた。


肺が痛い。


心臓が胸の内側から叩きつけるみたいに暴れている。


喉は焼けるように乾き、吸っても吸っても空気が足りない。


視界まで少し揺れる。


(やば……)


膝へ手をつく。


頭がくらくらする。


精神世界での一か月。


僕は確かに強くなった。


魔力を生成できる量も。

扱える量も。

反応速度も。

戦闘中に状況を判断する力も。


比べものにならないくらい上がった。


でも、一つだけ。


どうにもならないものがある。


現実の僕の身体だ。


精神世界でどれだけ走っても、戦っても、死にかけても。


現実世界の僕の身体が、いきなりアスリートみたいになるわけじゃない。


十七歳。


帰宅部。


九十キロ。


(酸素……酸素が足りない……!)


頭に回ってない。

吐きそう。


『俗物』


「……!」


聞こえた。


風が止んだからだ。


さっきまで掻き消されていた皇帝の声が、再び頭の中へ響く。


一拍。


『……ほう』


(え?)


『随分と無様な呼吸だな』


今の「ほう」は何!?


(しょうが……ないだろ……!)


『ふん。だが、十分だ』


(え……?)


『貴様の守は、存分にあやつらへ示した』


守。


避けた。

防いだ。

見えない攻撃にも対応した。


猿飛さんと雉子谷さん。


二人の攻撃を。


僕は耐え切った。


『ならば』


皇帝の声が低くなる。


『次は攻を示せ』


心臓が、どくんと鳴った。


顔を上げる。


猿飛さん。

雉子谷さん。


二人とも疲れている。


僕ほどじゃない。


でも、最初とは違う。


なら。


ここしかない。


僕は小さく頷いた。


「……いきます」


猿飛さんの目が細くなる。

雉子谷さんが弓を持ち上げた。


僕は最後の力を振り絞るように魔力を生み出す。


でも、今までとは違う。


いつもの魔力じゃない。


思い出す。


グラウ。


どうしても届かなかった。


何度やっても力で負け、押し潰された。


そして、皇帝に命じられた。


怒れ、と。


胸の奥。


普段なら押し込めてしまうもの。


悔しさ。

苛立ち。

怒り。


それを燃やし、魔力へ変換する。


熱い。


血管の中へ熱した鉄でも流し込まれたみたいに、身体中が熱を持つ。


筋肉が軋み、心臓がさらに強く脈打った。


「《身体狂化〈ケルパー・ラゼライ〉》」


ドンッ!


地面を蹴る。


「っ!?」


景色が後ろへ吹き飛んだ。


速い。


自分でも怖いくらい。


でも、真っ直ぐ雉子谷さんへ向かうんじゃない。


狙うのは猿飛さん。


この二人と戦って、嫌というほど分かった。


一人ずつなら、戦える。


猿飛さんの速さにも目は慣れてきた。

雉子谷さんの矢も、軌道さえ見えていれば対処できる。


でも。


二人が揃うと、話がまるで違う。


猿飛さんが前から僕を動かす。


右へ逃げれば、そこへ雉子谷さんの矢。


後ろへ下がれば鎖鎌が追ってくる。


上へ逃げても、雉子谷さんは僕じゃなく――僕が降りる場所を狙っている。


さっきからそうだ。


あの人は、僕を射ているんじゃない。


僕の次の一歩を射ている。


僕は二人の攻撃を防いでいたんじゃない。


二人に、防がされていた。


だったら。


どう崩す?


『俗物』


皇帝の声が響く。


『ドルンとシュヴァルツとの戦いを思い出せ』


(え?)


ドルンと、シュヴァルツ?


頭の中に、二つの影が浮かぶ。


目の前から一瞬で消え、死角へ潜り込んでくるドルン。


離れた場所から、僕の逃げ先を射抜いてきたシュヴァルツ。


近距離と遠距離。


速さで動かす敵と、その先を狙う敵。


……同じだ。


猿飛さんが僕を動かし。


雉子谷さんが、その先を射る。


二人が強いから厄介なんじゃない。


二人の攻撃が、繋がっているから厄介なんだ。


だったら。


やることは一つ。


(まず、二人を離す!)


繋がりを断つ。


猿飛さんと雉子谷さん。


僕が狙う場所は、二人の間。


いや。


正確には、猿飛さんと雉子谷さんを結ぶ一直線。


そこへ僕自身をねじ込む。


僕。

猿飛さん。

雉子谷さん。


三人が一直線に重なった。


「猿飛さん!」


雉子谷さんが弓を構えながら声を上げる。


けれど撃てない。


僕を狙えば、その射線上には猿飛さんがいる。


「邪魔!」


「分かってるって!」


猿飛さんが横へ飛ぼうとする。


でも、その前に。


「はやっ……!」


届く。


猿飛さんの顔が驚きに変わった。


僕はさっき見た《ましら》の動きを思い出す。


力を脚へ集中。

一方向へ走るんじゃない。


相手の認識を、ずらす。


右。


そう見せて左。


さらに一歩。


「なっ!?」


猿飛さんの視線が僕を追う。


でも、そこにはもういない。


背後。


取った!


「まじかよ……!」


振り向く猿飛さん。


拳を握る。


けれど、さすがは防人の隊長。


猿飛さんの姿がぶれた。


消える。


「えっ!?」


後ろ。


今度は僕が取られた。


「甘いぜ、坊ちゃん!」


膝蹴り。


背中。


いや、腰。


だったら。


生成。

収束。

展開!


「《障壁》!」


「っぶね!」


猿飛さんの膝が触れる寸前。


無理やり身体を捻り、攻撃を止めた。


避けた。


いや。


違う。


(避けさせた!)


その一瞬。


猿飛さんの重心が浮く。


『止まるな!』


分かってる!


踏み込む。


拳。


猿飛さんが下がる。


一歩。

二歩。

三歩。


速い。


でも。


見える。


ドルンより遅い。


フェイント。

残像。

死角。


この一か月、もっと嫌らしい相手と何度も戦った。


猿飛さんの肩が沈む。


次は右。


そう見せて左。


だったら先に。


僕が左へ入る。


「なっ!?」


猿飛さんの目が見開かれた。


懐。


取った。


魔力を右拳へ。


循環。

収束。


「《剛拳》!」


拳を突き出す。


ドンッ!


「ぐっ……!」


猿飛さんの腹へ入った。


身体がくの字に折れる。


ほんの一瞬だけ。


動きが止まる。


「ごめんなさい!」


『謝るなと言っておろうが!』


だって!


でも、これで終わりじゃない。


両手を開く。


魔力を四方へ。


前。

後ろ。

右。

左。


さらに上。


障壁。


一枚じゃない。


複数。


猿飛さんを囲むように、同時展開。


ガガガガガッ!


半透明の壁が四方を塞いだ。


「……は?」


猿飛さんが顔を上げる。


前。

右。

左。

後ろ。


そして上。


逃げ道はない。


《障壁》応用。


《魔牢〈マギーゲフェングニス〉》。


「ちょ、坊ちゃん!?」


ごめんなさい。


あとで謝ります!


これで二対一じゃない。

一対一。


僕はもう走り出している。


最後の一人、雉子谷さん。


「……っ!」


雉子谷さんの表情が変わった。


弦を引く。


でも矢は僕に向いていない。


僕の右斜め前。


(そこへ避けると思ってる……!)


だったら避けない。


真っ直ぐ行く。


一射。


左腕。


「《魔盾〈マギーシルト〉》!」


ガァンッ!


重い。


今までより、ずっと。


魔盾の表面で光が弾け、紫黒と白金の粒子が激しく飛び散った。


でも止まらない。


一歩。


踏み込む。


「来ないで!」


二射目。


今度は正面。


ガンッ!


「っ!」


腕が痺れる。


盾の表面に亀裂。


まだいける。


距離。


あと数メートル。


「……だったら!」


雉子谷さんが三射目を放つ。


白金の光。


真正面。


受ける。


バキィッ!!


魔盾が砕けた。


「うわっ!」


紫黒の破片が散り、左腕が弾かれる。


痛い。


やっぱり相性が悪い。


皇帝の言った通りだ。


光の矢を三発。


それだけで《魔盾》が壊された。


でも。


雉子谷さん。


もう遅い。


三発を防いでいる間に。


僕はここまで来た。


「っ!」


雉子谷さんが後ろへ跳ぶ。


その先。


僕がさらに追う。


弓を引こうとする指が止まった。


近すぎる。


僕は両手を開く。


生成。

収束。

展開。


前。

後ろ。

右。

左。


そして上。


ガガガガガッ!


「……え?」


雉子谷さんが止まった。


周囲は全部、半透明の障壁。


さっき猿飛さんを閉じ込めたものと同じ。


「これ……」


雉子谷さんが障壁へ触れる。


コン。


硬い音。


逃げ道はない。


僕は肩で息をしながら二人を見る。


右。


《魔牢》の中で猿飛さんが障壁を叩いている。


「ちょ、待って! これどーやって出んの!?」


左。


同じく《魔牢》に閉じ込められた雉子谷さん。


そして僕。


「はぁ……っ」


もう無理。


《身体狂化》も限界。


脚が笑ってる。


肺も痛い。


でも。


なんとか立ってる。


挿絵(By みてみん)


僕は二人を見た。


「あの……」


息を整える。


「えっと……」


言っていいのかな。


これ。


また煽ってると思われない?


でも。


たぶん。


これは。


「……詰みだと思います」


沈黙。


猿飛さんと雉子谷さんが。


《魔牢》の中から。


僕を見た。

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