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第十六話 前編 暗黒皇帝、怒れと命じる

「……これ、どうやって勝つの……?」


僕の呟きだけが、帝国大闘技場《グローセ・アレーナ》の石壁へ虚しく吸い込まれていった。


正面には、《剣鱗のグラウ》。


灰色の鱗。


黒い革鎧。


右手には、何の変哲もない一本の剣。


たったそれだけ。


なのに――二十回。


僕はこいつに殺されている。


斬られた。


刺された。


首を刎ねられた。


心臓を貫かれた。


《障壁》ごと胸を切り裂かれたこともある。


それでも僕の攻撃は、一度として届いていない。


「二十回だよ?」


『そうだな』


遥か上の観覧席。


玉座へ頬杖をついた皇帝は、退屈そうに答えた。


「二十回も殺されてるんだよ!?」


『数える程度の知能は残っておるようで何よりだ』


「心配するとこそこ!?」


『安心せよ』


「その言葉、もう信用してないから」


『あと百回も死ねば、何か掴めるやもしれぬ』


「増やす前提やめてよ!」


叫んだ瞬間、グラウが動いた。


「っ!」


今度は見失わない。


右足。


踏み込み。


肩がわずかに沈む。


抜き身の剣が、銀色の軌跡を描いた。


「《障壁〈バリエーレ〉》!」


透明な壁。


展開。


その中央ではない。


端。


ほんの一点へグラウの剣先が触れた。


カン。


軽い音。


次の瞬間。


ピシッ。


蜘蛛の巣状の亀裂が一気に広がった。


「やっぱりそこ狙うのか!」


《障壁》が砕けるより先に後方へ跳ぶ。


《疾駆〈シュトゥルム・ラウフ〉》。


脚へ魔力。


距離を取る。


右手。


人差し指。


「《魔弾〈マギー・ゲショス〉》!」


撃つ。


でもグラウは、僕が撃つ前から動いていた。


「……また!」


魔弾が石床を穿つ。


グラウはその横。


もう次の一歩を踏み込んでいる。


速い。


いや。


違う。


何かがおかしい。


「《魔弾》!」


二発目。


避ける。


三発目。


避ける。


四発目。


撃つ瞬間には、もうそこにいない。


「なんで……!」


『俗物』


「何!?」


『貴様は何を見ておる』


「グラウだよ!」


『見えておらぬから聞いておる』


「見えてるよ!」


グラウが迫る。


右から剣。


《障壁》で受ける。


また砕かれる。


その隙に《疾駆》で懐へ。


「《剛拳〈クラフト・ファウスト〉》!」


拳。


グラウの顎。


――届かない。


ほんの数センチ。


グラウは必要最低限だけ上体を反らしていた。


直後。


腹へ冷たいものが入る。


「……え」


腹から、血に濡れた剣先が突き出していた。


一瞬、何が起きたのかわからない。


遅れて、背中から焼けつくような痛みが突き抜ける。


「が……っ」


グラウが剣を抜いた。


血が石床へ散る。


膝から力が抜けた。


最後に見えたのは。


同じ構えへ戻るグラウだった。


乱れた呼吸もない。


勝ち誇った顔もしない。


ただ――僕を殺した。


それだけ。



♢ ♢ ♢



「っはぁ!!」


息を吸う。


腹を押さえる。


傷はない。


でも刺された感触だけは残っている。


「……二十一」


『何だ』


「二十一回目!」


『一つ増えたな』


「嬉しくない!」


僕は石床へ座り込んだ。


グラウは少し離れた場所で、剣を下げて待っている。


こいつ本当に何なんだ。


オークみたいな馬鹿力があるわけじゃない。


トロールみたいに再生もしない。


ゴーレムみたいな核があるわけでもない。


魔法すら使わない。


剣一本。


ただそれだけなのに勝てない。


「……速すぎるんだよ」


『違う』


皇帝の声。


顔を上げる。


「何が?」


『そやつが速いのではない』


「いや速いでしょ」


『貴様が遅い』


「同じことじゃん!」


『だから死ぬ』


「むかつく!」


でも引っかかった。


速いんじゃない?


じゃあ何だ。


僕は立ち上がった。


グラウを見る。


灰色の鱗。


剣。


足。


肩。


目。


そしてふと思い出す。


ケンタウロス。


矢を見てから避けようとして、何度も射抜かれた。


あの時、皇帝は言った。


――矢を見てから避ける者は、いつか射抜かれる。


見るのは矢じゃない。


射手。


「…………」


じゃあ僕はグラウの何を見てた?


剣。


ずっと剣を見ていた。


振られてから避ける。


撃たれてから反応する。


それじゃ遅い。


僕は小さく息を吐いた。


「……もう一回」


皇帝の眉が、わずかに上がった。


『ほう』


グラウが構える。


僕も腰を落とす。


剣を見るな。


肩。


腰。


脚。


重心。


呼吸。


右足。


僅かに沈む。


肩が開く。


腰が回る。


来る。


その瞬間には僕はもう動いていた。


銀色の刃。


頬のすぐ横に風が走る。


「――っ!」


避けた。


完全に。


グラウの瞳が、ほんの僅かに動いた。


「……避けた」


初めて剣が僕の身体へ届かなかった。


「避けた!」


『浮かれるな』


「今くらい褒めてよ!」


次。


グラウの左足。


踏み込み。


僕は右へ。


違う。


フェイント。


「うそっ」


切り返された剣が胸へ走る。


避けきれない。


熱い。


血。


視界が落ちた。


♢ ♢ ♢    


「惜しかったのにぃぃぃぃ!!」


『惜しい死体だな』


「そんな言葉ないよ!」


それでも今までとは違った。


一度、避けた。


なら次も避けられるはず。


♢ ♢ ♢


そこから僕とグラウの戦いは続いた。


三十回。


四十回。


五十回。


死んだ回数なんて、そのうち数えるのをやめた。


いや正確には数えたくなくなった。


剣を見る。


死ぬ。


肩を見る。


少し長く生きる。


足を見る。


また死ぬ。


重心を見る。


避ける。


呼吸を見る。


さらに一歩。


一日。


十日。


一か月。


精神世界には季節がない。


同じ空。


同じ闘技場。


同じ石床。


時間の流れを知らせてくれるものなんて何もなかった。


だから僕は、時間を「できるようになったこと」で数えるようになった。


一か月目。


グラウの最初の一太刀を避けられるようになった。


二か月目。


三太刀まで。


三か月目。


初めて、《魔弾》がグラウの頬を掠めた。


ほんの、紙一枚みたいな傷。


それでも灰色の鱗の上を、赤い線がゆっくり流れていく。


「……当たった」


僕は呆然とそれを見る。


「皇帝……」


『何だ』


「当たった!」


『見れば分かる』


「初めてなんだけど!?」


『三か月もかけて擦り傷一つとは。見事な才能だな』


「普通ここ感動するとこじゃない!?」


それでも嬉しかった。


最初は二十回死んでも、触れることすらできなかった。


今は違う。


届く。


だったら。


いつか――勝てる。


♢ ♢ ♢


グラウと対峙して、四か月が経とうとしていた。


僕は、グラウの剣筋をかなり読めるようになっていた。


肩。


腰。


足。


重心。


呼吸。


柄を握る指。


剣先を見るんじゃない。


身体全部を見る。


右肩が沈む。


来る。


「っ!」


横薙ぎ。


半歩。


避ける。


次。


左足。


踏み込み。


突き。


分かる。


僕は身体を捻った。


――はずだった。


「がっ……!」


胸。


熱い。


剣先が、着ている服ごと肉を貫いている。


「……なんで」


見えていた。


分かっていた。


それなのにグラウは剣を引き抜く。


血が石床へ散った。


視界が落ちる。


♢ ♢ ♢


次。


右。


分かる。


避ける。


……遅い。


銀色の刃が首を走った。


♢ ♢ ♢


「っはぁ!!」


復活した僕は、石床へ両手をついた。


肩が上下する。


傷はない。


でも、殺された感触は嫌というほど残っている。


「……なんでだよ」


『何がだ』


皇帝の声。


僕は顔を上げた。


「見えてるんだよ」


グラウを見る。


「もう、何をしてくるか分かる」


右。


左。


踏み込み。


フェイント。


切り返し。


昔みたいに、消えたようには見えない。


なのに。


「身体が……間に合わない」


一瞬。


静寂。


それから。


『ようやくか』


「……何が?」


皇帝が玉座から立ち上がる。


長い外套が、観覧席の床を擦った。


『ようやく貴様は、グラウではなく自分の弱さへ辿り着いた』


「僕の……?」


『そうだ』


皇帝は僕を指差した。


『敵は見えておる。動きも読めておる。それでも避けられぬ』


「…………」


『その鈍重な身体が、貴様の目に追いついておらぬ』


胸の奥が、ずきりとした。


『実に貴様らしいではないか』


「……何が」


『頭では分かっている。だが動けぬ』


「…………」


『学校でもそうであったな?』


その一言で胸の奥に、小さな火が灯った。


『言い返したい。逃げたい。変わりたい』


「……やめろ」


『だが結局、何もせぬ』


「やめろって」


『下を向き、黙り、できぬ理由だけを並べる』


「皇帝!」


『何だ』


紫の瞳が、真っ直ぐ僕を射抜く。


『また逃げるのか?』


何かが切れた。


「……うるさい」


『聞こえぬな』


「うるさいって言ってるんだよ!」


僕は立ち上がった。


拳が震えている。


グラウが剣を構える。


でも今はグラウより皇帝に腹が立っていた。


「分かってるよ!」


『何をだ』


「僕が遅いことも! 弱いことも!」


『ならば動け』


「動いてるよ!」


『遅い』


「だから、それができないから――!」


『できぬ?』


皇帝の口元が、ゆっくり吊り上がった。


『随分と便利な言葉だな』


「っ……!」


『できぬ。怖い。無理だ』


皇帝は吐き捨てるように並べた。


『それで貴様は、いつまで自分を許し続けるつもりだ?』


胸が。


熱い。


頭も。


腕も。


指先まで震えている。


「……くそ」


『その程度か』


「何が!」


『怒りだ』


「…………」


『余に腹を立てておるのだろう?』


皇帝が笑う。


『ならば怒れ』


「言われなくても怒ってるよ!」


『足りぬ』


「はぁ!?」


『その程度の怒りで、己の限界を壊せると思うたか』


グラウが踏み込む。


「っ!」


分かる。


右。


剣。


来る。


僕は避けようとする。


遅い。


また。


また。


また同じ。


『また遅い』


「黙れ!」


『何度殺されても、まだ己に遠慮するか』


「黙れぇぇぇぇ!!」


胸の奥。


怒りが爆ぜた。


その瞬間、何かが変わった。


「……え」


熱い。


でも、ただ熱いんじゃない。


怒りそのものが魔力へ変わっていく。


恐怖を《深淵恐慌》へ変えた時と似ている。


けれど今度は黒く荒々しい。


血管の奥を焼くような魔力。


『止めるな』


皇帝の声が落ちてくる。


「でも……これ」


『恐怖を魔力へ変えたことを忘れたか』


「……《深淵恐慌》」


『ならば同じだ』


皇帝は自分の胸を指した。


『ただし、今度は外へ放つな』


「外じゃない?」


『内へ巡らせよ』


「内へ……」


『全身へだ』


グラウ。


迫る。


『詠唱するぞ、俗物。耳をかっぽじって覚えよ』


「今!?」


『今でなければ、また死ぬだけだ』


「言い方!」


剣が迫る。


皇帝の声が、帝国大闘技場へ響いた。


『――我が内に燃ゆる憤怒よ』


「我が内に燃ゆる……憤怒よ!」


『枷を砕き、血肉を巡れ』


「枷を砕き、血肉を巡れ!」


怒り。


変換。


魔力へ。


『限界を越え、我が身を狂獣と成せ』


「限界を越え、我が身を狂獣と成せ――!」


皇帝の声が響く。


『そして唱えよ! 《身体狂化〈ケルパー・ラゼライ〉》!』


脚。


腕。


肩。


背中。


腹。


心臓。


生成された魔力が、全身を駆け巡る。


筋肉が熱い。


神経が研ぎ澄まされる。


身体の奥で。


何かが。


弾けた。


「《身体狂化〈ケルパー・ラゼライ〉》!!」


ドンッ!!


石床が砕けた。


挿絵(By みてみん)


「――っ!?」


世界が変わる。


いや違う。


グラウが遅くなったんじゃない。


僕が速い。


銀色の剣も見える。


身体もついてくる。


「いける!」


踏み込む。


一歩。


いや身体が弾ける。


「うわっ!?」


速すぎる。


自分でも止まれない。


グラウの横を通り過ぎ、そのまま石壁が迫った。


「《障壁》!」


ドンッ!!


透明な壁をクッションにして、どうにか止まる。


「危なっ!」


『阿呆』


「初めてなんだから仕方ないでしょ!」


『力を出すだけなら獣でもできる』


「またそれ!?」


『制御せよ』


「分かって――」


右脚。


ぶちっ。


「……え?」


何かが切れた。


膝から力が抜ける。


僕はその場へ転がった。


「痛っ……!」


『当然だ』


「何が当然!?」


『肉体の枷を外したのだ。出力に耐えられぬ部分から壊れる』


「先に言ってよ!」


『言えば使わなかったであろう』


「……たぶん使った」


『貴様の「たぶん」ほど信用ならぬ言葉もない』


「どこまで信用ないの!」


グラウが振り向き剣を構える。


『覚えよ、俗物』


「何を!」


『怒りの量を』


皇帝が指を一本立てる。


『必要な時に』


二本。


『必要な場所へ』


三本。


『必要なだけ』


紫の瞳が細くなる。


『怒りに呑まれるな。怒りを飼い慣らせ』


「…………」


『できぬなら、その魔法はグラウより先に貴様を壊す』


剣が来る。


僕は壊れた脚で逃げようとして――。


「ちょ、待っ――!」


銀閃。


世界が落ちた。


     ◇


それからさらに一か月。


《身体狂化》を使って何度も死んだ。


出力を上げすぎて脚を壊し。


全身へ一気に流して筋肉が動かなくなり。


怒りに任せて突っ込み、グラウに斬られ。


逆に抑えすぎれば、いつも通り身体が間に合わない。


だから覚えた。


怒りを消さない。


押し殺さない。


けれど、呑まれない。


使う。


脚だけ。


一瞬だけ。


右腕だけ。


必要な場所へ。


必要なだけ。


五か月目。


僕は、もう一度グラウと向かい合っていた。


     ◇


風のない闘技場。


いつもの石床。


いつもの灰色の鱗。


黒い革鎧。


一本の剣。


それなのに初めて会った時ほど、大きく見えなかった。


僕はゆっくり息を吐く。


「……行こう」


グラウが踏み込んだ。


昔なら消えたように見えた。


今は違う。


右肩。


腰。


足。


呼吸。


柄を握る指。


全部が次の一撃を教えてくれる。


銀閃。


右。


《身体狂化》。


全身じゃない。


左脚。


一瞬。


ドンッ。


半歩だけ身体がずれる。


剣が頬の横を抜けた。


グラウの目が動く。


追撃。


《障壁〈バリエーレ〉》。


正面じゃない。


斜め。


剣の腹へ差し込む。


カンッ!


銀色の刃が滑った。


「今!」


《疾駆〈シュトゥルム・ラウフ〉》。


懐へ。


拳。


グラウが半歩引く。


分かってるそこで逃げることも。


「《魔弾〈マギー・ゲショス〉》!」


グラウの足元。


石床が爆ぜる。


僅かに体勢が崩れた。


それでも。


剣。


首。


来る。


怖い。


何度も。


何十回も。


この剣に殺された。


首を斬られた。


腹を裂かれた。


心臓を刺された。


身体が覚えている。


逃げろ。


そう叫んでいる。


でも怖くていい。


怒ってもいい。


全部、僕の魔力になる。


「――我が内に燃ゆる憤怒よ」


グラウの剣が迫る。


「枷を砕き、血肉を巡れ」


怒り。


変換。


循環。


右脚。


右肩。


右腕。


必要な場所だけ。


「限界を越え、我が身を狂獣と成せ――」


剣先。


目前。


「《身体狂化〈ケルパー・ラゼライ〉》!」


ドンッ!!


踏み込む。


グラウの剣が、僕の頬を薄く裂いた。


それだけ。


懐。


近い。


初めてグラウの無表情が揺れた。


「《剛拳〈クラフト・ファウスト〉》!!」


拳。


胸。


届く。


ドンッ!!


灰色の身体が吹き飛んだ。


石床。


一度。


二度。


三度。


転がる。


剣が手を離れ。


カラン――。


乾いた音。


静寂。


僕は拳を突き出したまま、動けなかった。


グラウは起きない。


「…………」


嘘。


本当に?


「……勝った?」


観覧席を見る。


皇帝は腕を組んでいる。


『見れば分かる』


「今それ言う!?」


全身から力が抜けた。


その場へ座り込む。


「勝った……」


五か月。


何回殺されたかもう分からない。


でも。


「……勝ったぁ……」


笑いが漏れた。


グラウの身体が、淡い光へ変わっていく。


消える直前灰色の瞳がほんの僅かに。


僕を見た。


そんな気がした。


僕は立ち上がり、深く頭を下げた。


「……ありがとうございました」


光が消える。


一本だけ残った剣も、すぐ粒子となって空へ溶けた。


終わった。


ようやく。


僕は大きく息を吐いた。


「皇帝」


『何だ』


「これで……」


嫌な予感。


いや今だけは考えるな。


「修行、終わり?」


皇帝の口元が吊り上がった。


あ。


これ。


ダメなやつだ。


『何を言っておる』


「やっぱり!」


『五か月もかけて、ようやく《名持ち》を一匹倒しただけであろう』


「五か月だよ!? ほとんど半年じゃん!」


『だから何だ』


「僕の体感じゃ、とんでもなく長いんだよ!」


皇帝は鼻を鳴らした。


『グラウは基礎だ』


「…………」


聞き間違いだよね?


「今なんて?」


『基礎だと言った』


「どこがぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


叫びが闘技場へ響き渡る。


『そもそも』


皇帝が頬杖をつく。


『一月後、貴様が戦う相手は誰だ』


「……防人」


『その隊長どもだ』


「分かってるよ」


『奴らが皆、正面から剣一本で挑んでくるとでも思っておるのか?』


「…………」


言葉に詰まった。


猿飛さん。


雉子谷さん。


あの二人を思い出す。


能力の詳細までは分からない。


でも少なくともグラウと同じ戦い方をするとは思えない。


皇帝が立ち上がる。


『ゆえに、次だ』


「やっぱりあるんだ……」


『当然であろう』


パチン。


指が鳴る。


闘技場を照らしていた光が、ふっと落ちた。


「え?」


完全な暗闇。


自分の手すら見えない。


「ちょっと! 皇帝!?」


返事はない。


代わりに。


カツ。


どこかで音がした。


石。


いや。


爪?


「…………」


カツ。


今度は右。


違う。


上?


ジャラ……。


金属が擦れる。


鎖。


「……何」


背中。


ぞくり。


《障壁》。


考えるより先に展開。


キィンッ!!


透明な壁へ何かがぶつかった。


火花。


その一瞬だけ。


見えた。


黒い腕。


湾曲した短剣。


「っ!?」


振り向く。


いない。


次の瞬間。


首筋。


冷たい。


「――え」


浅い。


でも切られた。


僕は反射的に前へ転がる。


「誰!?」


答えはない。


ジャラ。


見上げる。


闘技場を囲む石造りの観客席。


その最上段の外壁に黒い影が張り付いていた。


逆さまに。


細身。


長い腕。


黒い体毛。


赤茶色の瞳。


両手には、湾曲した二本の短剣。


その柄同士を黒い鎖が繋いでいる。


「……猿?」


影が笑った。


白い牙。


次の瞬間。


消える。


いや走った。


石壁。


観客席の縁。


柱。


そして投げた短剣を石壁へ突き立て、鎖を引く。


身体が宙へ跳ねる。


軌道。


変わる。


「速っ――!」


殺気がない。


気配まで薄い。


『《名持ち〈ナーメンストレーガー〉》』


皇帝の声。


『《影牙のドルン》』


「ドルン……」


『魔猿〈ナハトアッフェ〉の中でも暗殺に特化した個体だ』


ドルンが観客席の外壁へ片手一本でぶら下がる。


もう片方の手。


短剣。


赤茶色の瞳が僕を捉えた。


「暗殺って……」


嫌な予感。


その時。


バサッ。


風。


いや。


羽音。


「……え?」


暗闇が薄れる。


闘技場の上空。


天井のない青空を、大きな影が横切った。


一周。


二周。


白銀の翼。


人型の身体。


でも顔は人じゃない。


鋭い嘴。


鳥の顔。


そして両手には長い弓。


「……飛んでる」


『目は正常らしいな』


「そういうこと言ってるんじゃない!」


そいつは上空で大きく旋回しながら、弓へ三本の矢を同時につがえた。


空気が張り詰める。


僕の背中を汗が伝った。


『こちらも《名持ち》だ』


皇帝が告げる。


『《千穿のシュヴァルツ》』


「シュヴァルツ……」


『魔鷹人〈シュトゥルムファルケ〉という種族だ』


ドルン。


地上と壁。


死角。


シュヴァルツ。


上空。


遠距離。


僕は左を見る。


右を見る。


最後に空を見る。


「……待って」


皇帝の口元が楽しそうに歪んでいる。


「どっちから?」


『何を言っておる』


「え?」


『両方だ』


「…………」


ドルンが消えた。


同時。


シュヴァルツの弓弦が鳴る。


三本。


矢。


「ちょっと待ってぇぇぇぇぇぇ!!」


《身体狂化》。


脚。


一瞬。


《疾駆》。


前へ。


直後。


背後を短剣。


頭上から矢。


さらに右。


一本目とは違う軌道。


「無理無理無理無理!」


『ほう』


皇帝が笑っている。


『ならば足掻け。死ぬまでな』


「結局死ぬ前提じゃん!!」


挿絵(By みてみん)


ジャラッ。


鎖。


バサッ。


羽音。


そして石床を穿つ三本の矢。


その全部が同時に僕へ襲いかかってきた。

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