第十四話 前編 暗黒皇帝、器の覚悟を問う
第十四話 前編 完成
「ぜったい無理だよぉぉぉぉぉぉ!!」
僕の声が、夜の部屋いっぱいに響き渡った。
机の上に積んであった漫画が一冊、ずるりと傾く。
カーテンの隙間から差し込む街灯の白い光。
エアコンの低い唸り。
帰ってきてから一口も飲んでいないペットボトルのお茶。
そして僕は。
ベッドの上で両膝を抱え、完全に人生が終わった人みたいな姿勢になっていた。
『落ち着け、俗物』
「落ち着けるわけないだろ!」
珍しく僕をなだめるような皇帝の声に、思わず天井へ向かって叫ぶ。
今日だけで。
僕の常識は、いったい何回壊されたんだろう。
虎壱さんにもらった名刺を頼りに辿り着いた、古美術・白虎堂。
ただの古美術店だと思っていたそこは、日本を異界から守ってきた《防人》と繋がる場所で。
虎壱さんは四方神将・白虎。
猿飛さんと雉子谷さんは、その下で部隊を率いる将隊長。
要するに。
とんでもなく強い人たちだった。
なのに。
「なんで僕が一か月後に、その二人を倒すことになってるんだよぉぉぉ!」
『余が決めたからだ』
「そこを怒ってるんだよ!」
しかも。
戦うだけじゃない。
一対一。
そして。
勝つ。
僕の許可もなく。
僕の人生を勝手に賭けて。
皇帝陛下は、そんな約束をしてしまった。
『何をそれほど怯えておる』
「怯えるよ!」
僕は勢いよくベッドから立ち上がった。
「猿飛さんの動き、僕には全然見えなかったんだよ!?」
白虎堂の庭。
猿飛さんは、一瞬で姿を消した。
いや。
皇帝に言わせれば、消えたように見せただけらしい。
右。
左。
背後。
頭上。
姿がいくつにも増えて、足音と気配までバラバラ。
僕には何が起きているのかすら分からなかった。
「それに雉子谷さん!」
思わず額に手を当てる。
あの光の矢。
思い出しただけで、眉間がむずむずした。
一直線に。
僕の顔へ飛んできた。
「皇帝がデコピンしてくれなかったら、あれ普通に直撃してたよ!?」
『あの程度で騒ぐな』
「あの程度!?」
『余なら指一本で足りる』
「僕は余じゃないの!」
『同じ身体であろう』
「中身の性能が違いすぎるんだよ!」
思わず自分の腕を見る。
太い。
柔らかい。
どう見ても、忍者と弓使いを倒す腕じゃない。
僕はそのままベッドへ腰を落とした。
マットレスが、ぼふっと沈む。
「無理だって……」
さっきまでの勢いが嘘みたいに。
声が小さくなった。
「一か月で、あの二人に勝つなんて」
『何も今すぐ勝てとは言っておらぬ』
「一か月だよ?」
『一月もある』
「しかないの!」
『あるのだ』
話が噛み合わない。
僕にとって一か月は三十日。
普通の高校生が、秘密組織の隊長二人を倒せるようになる期間じゃない。
ゲームなら。
最初の町を出た直後に。
ラスボス城の門番二人を倒してこいと言われているようなものだ。
無茶にもほどがある。
『器よ』
「なに」
『貴様は一つ、勘違いをしておる』
「勘違い?」
『貴様の一ヶ月は』
皇帝の声が。
少しだけ楽しそうになった。
『余にとっての一ヶ月ではない』
「…………?」
嫌な予感がした。
ものすごく。
嫌な予感。
『思い出せ』
「何を?」
『余の精神世界を』
「……あ」
背筋に、冷たいものが走った。
紫黒の空。
ひび割れた大地。
吹きつける乾いた風。
そして。
十日間の地獄。
現実では、たった一晩。
八時間ほど眠っていただけだった。
でも。
僕の感覚では。
十日。
『八時間で約十日』
「……うん」
『単純計算ならば、一月で二年以上を得ることもできる』
「に……」
一瞬、意味が分からなかった。
「二年以上!?」
『現状ですら、な』
「現状ですら!?」
『貴様と余の同調が深まれば、さらに長く潜れるようになるやもしれぬ』
姿なんて見えない。
でも今。
絶対笑った。
しかも。
すごく嫌な感じで。
「……待って」
『なんだ』
「睡眠時間は?」
『精神世界で休ませる』
「ご飯」
『現実で必要な分だけ摂れ』
「トイレ」
『戻す』
「お風呂!」
『戻せばよかろう』
「学校は!?」
一拍。
『休め』
「軽っ!」
僕の声が、また部屋に跳ね返る。
「一か月も休んだらまずいよ! 出席日数とかあるんだよ! 下手したら留年するって!」
『阿呆が!!』
頭蓋骨の内側へ。
雷みたいな声が落ちた。
「うわっ!」
思わず肩をすくめる。
さっきまでの軽い調子が。
消えていた。
『貴様はまだ事態を理解しておらぬのか』
皇帝の声が低くなる。
『この国は、異界より侵食されておるのだぞ』
「…………」
昨日、虎壱さんに聞いた話が脳裏によみがえる。
『今は白虎どもが辛うじて抑えておる』
「…………」
『だが、奴らの戦力も十分ではない』
虎壱さんから聞いた。
十年前の四国での戦い。
五百人。
死亡、約二百五十人。
行方不明、およそ百八十人。
帰ることができたのは。
わずか七十人ほど。
虎壱さんのお父さん。
先代白虎は、そこで死んだ。
そしてお母さん、先代朱雀は。
今も生死不明。
十年経った今もなお。
『奴らが敗れれば』
皇帝の声が静かに落ちる。
『学校どころではないわ』
「…………」
分かってる。
そんなこと分かってるけど。
「でもさ……」
自分の両手を見る。
何の変哲もない手。
剣を握ったこともない。
弓を引いたこともない。
誰かと本気で戦ったことなんて。
ほとんどない。
「僕なんか……」
言葉が勝手に漏れた。
「まともな喧嘩だって、この前の菅原とのやつが初めてだよ」
『…………』
「あれ喧嘩っていえるかな」
苦笑いする。
「ほとんど一方的に殴られてただけだし」
思い返せば情けない。
怖かった。
痛かった。
何もできなかった。
そんな普通の喧嘩すらもまともしたことがない僕。
猿飛さんは僕には見えない速さで動いた。
雉子谷さんは光の矢を放った。
虎壱さんはその二人よりもっと強い。
そんな人たちが何年も何年も戦っている。
それでも届かない相手がいる。
僕がそこへ?
「もっといるだろ……」
声が小さくなる。
「僕より強いやつ」
『いるであろうな』
あっさり。
「僕より才能あるやつ」
『山ほどおろう』
「だったら」
『だが』
皇帝が僕の言葉を切った。
『貴様でなければならぬ理由もある』
「……え?」
『忘れたか』
その声が少しだけ変わった。
『貴様の父親を』
胸の奥が強く鳴った。
「…………」
『そして妹を』
「……やめてよ」
自分でも驚くほど。
低い声が出た。
『なぜだ』
「今、その話は関係ないだろ」
『大いにある』
「ない」
『ある』
「ないって!」
立ち上がる。
拳が無意識に握られていた。
皇帝は構わず続けた。
『では問う』
「…………」
『貴様の父と妹は死んだのか?』
「…………」
答えられない。
『死を確認したのか』
「……してない」
『遺体を見たか』
「……見てない」
『ならば』
声が静かになる。
だからこそ逃げられなかった。
『まだ、死んだと決まったわけではあるまい』
「…………」
昨日、虎壱さんも言っていた。
先代朱雀だった虎壱さんの母親の遺体も見つかっていない。
十年経った今も生死不明。
それでもあの人は諦めていない。
父親の仇を討つため。
母親を探すため。
十年間。
鍛えて。
鍛えて。
鍛え続けてきた。
『白虎の母も同じであろう』
「……うん」
『十年だ』
皇帝が言う。
『十年経っても、奴は探すことをやめておらぬ』
胸の奥が。
ざわつく。
『ならば貴様は、何もせず待つのか』
「……え?」
『父が帰るのを』
言葉が胸へ刺さる。
『妹が帰るのを』
「…………」
『この部屋で』
皇帝の問いに逃げ道がない。
『祈りながら待ち続けるか?』
「そんな言い方……」
『事実であろう』
「…………っ」
『もし』
皇帝が続ける。
『貴様の妹が異界のどこかで生きているとして』
喉が詰まった。
『今も助けを求めているとして』
「…………」
『その時、貴様は何と申す』
やめろ。
『弱いから行けませんでした、とでも?』
「そんな言い方すんなよ!」
気づけば叫んでいた。
胸の奥が熱い。
腹が立つ。
ものすごく腹が立つ。
「僕だって……!」
声が震える。
「僕だって、できるなら探したいよ!」
『ならば』
皇帝の声が。
鋭く落ちた。
『強くなれ』
「…………」
一瞬、息が止まった。
昨日。
皇帝が虎壱さんへ言った言葉。
できぬ。
勝てぬ。
届かぬ。
そんなものを理由にするな。
強くなれ。
あの時は無茶苦茶なことを言うと思った。
今でも半分くらいはそう思う。
でも同じ言葉が。
今度は僕に向けられている。
『腹が立つか』
「……立つよ」
『ならば、その怒りを使え』
「…………」
『余は白虎にも申したはずだ』
怒りも。
恐怖も。
絶望も。
前へ進む薪になり得る。
『貴様だけ例外だと思うな』
僕はゆっくりと拳を開いた。
掌には爪の跡がついていた。
いつの間にか強く握り締めていたらしい。
「……皇帝」
『なんだ』
「本当に」
喉が少し震えた。
「僕でも……強くなれる?」
一瞬。
静寂。
エアコンの音だけが妙に大きく聞こえる。
そして。
『愚問』
たった二文字。
迷いなんてどこにもなかった。
『誰に物を言っておる』
その声はいつも通り傲慢で尊大で腹が立つくらい自信に満ちている。
『余はグランツライヒ魔導帝国初代皇帝ヴァルガイア・フォン・ゼクス・クローネンベルク』
鼻で笑う気配
『貴様一人を強くすることなど造作もないわ』
「…………」
この人。
本当に一ミリも疑ってないんだ。
僕が強くなれることを。
だったら少しくらい。
僕も信じてみてもいいのかもしれない。
「……怖いけど」
声に出す。
「痛いのも嫌だし」
本音。
「できるなら、楽して強くなりたいし」
『知っておる』
「うるさいな」
少しだけ。
笑った。
ほんの少しだけ。
胸が軽くなった気がした。
でも。
逃げる理由には。
もうできない。
「何も知らないふりしてる方が」
ゆっくり。
息を吸う。
「たぶん、もっと嫌だ」
皇帝は。
何も言わない。
「だから……やる」
拳を握る。
今度は。
自分を責めるためじゃない。
「父さんと妹を探したい」
声は。
まだ震えていた。
それでも。
言った。
「そのために」
一度。
目を閉じる。
「僕、強くなりたい」
ほんの短い。
沈黙。
そして。
『なりたい、ではない』
「え?」
皇帝が。
当然のように言った。
『なるのだ』
「…………」
思わず。
苦笑いが漏れた。
「相変わらずだね」
『当然よ』
また。
少しだけ。
笑ってしまった。
怖い。
不安だ。
本当にできるかなんて。
今でも分からない。
でも。
さっきまでみたいに。
ただ無理だと叫ぶ気には。
もうなれなかった。
「……分かった」
『ほう』
「やるよ」
皇帝が。
わずかに笑った気がした。
『よかろう』
その一言だけ。
でも。
なぜか。
少しだけ嬉しそうに聞こえた。
僕は小さく息を吐き。
ベッドへ腰を下ろす。
その瞬間。
『ならば早速始めるぞ』
「うん」
…………。
ん?
「え?」
『今宵より修練を再開する』
「えぇぇぇぇぇぇ!?」
反射的に時計を見る。
かなり遅い。
「ちょっと待ってよ! 今日めちゃくちゃ疲れてるんだけど!?」
『だから眠るのであろう』
「そういう問題じゃない!」
『横になれ』
「心の準備とか!」
『不要だ』
「せめて明日から!」
『ならぬ』
「なんで!?」
皇帝が。
至極当然のことみたいに言った。
『一秒が惜しいのだ』
「そんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
夜の住宅街へ僕の絶叫がやたら元気に響いた。
あの十日間。
吐いて。
泣いて。
何度も地面に転がった修行ですら皇帝に言わせれば。
『戦い方を教えたうちには入らぬ』
らしい。
……先に言ってよ。




