第十三話 後編 暗黒皇帝、白虎と約す
血が、一滴。
白虎の拳から落ちた。
夕闇に沈み始めた庭の石へ、赤い点がひとつ。
ぽたり。
それでも白虎は拳を開かぬ。
己の指が掌へ食い込み、肉を裂いているというのに。
痛みなど感じておらぬのか。
いや違うな。
余の言葉が、それ以上に痛いのであろう。
怒りか。
悔しさか。
あるいは、その両方か。
白虎は俯いたまま、ただ耐えている。
愚かな。
感情とは押し殺すものではない。
使うものだ。
怒りも。
恐怖も。
絶望も。
己を前へ進ませる薪になり得る。
それを余は知っている。
「白虎よ」
男の肩が、わずかに動いた。
「悔しいか?」
返事はない。
「余に図星を突かれ、腹が立ったか?」
白虎の拳から、また血が落ちた。
ぽたり。
「ならば、その感情をいかにする?」
白虎がゆっくり顔を上げる。
目の奥には、先ほどまでとは違うものがあった。
怒り。
悔恨。
そして。
長い年月をかけても消えなかった何か。
「発言を許す」
余は顎をわずかに上げた。
「答えよ」
しばし、沈黙。
風が庭木を揺らした。
葉の擦れる乾いた音だけが、妙に耳につく。
琴葉も。
弓の小娘も。
ようやく猿から人へ戻りつつある男も。
誰一人、口を挟まなかった。
やがて白虎が拳を開いた。
掌には、爪の形に四つの傷。
血が滲んでいる。
男はそれを一瞥し、静かに息を吐いた。
「……私が防人に入隊したのは、十五の頃でした」
先ほどまでの張った声ではない。
独り言にも似た、低い声だった。
「父も、母も、防人でした」
余は黙って聞く。
「二人とも、四方神将です」
弓の小娘が目を伏せた。
猿も、もうふざけてはいない。
「父は、先代の白虎。菅原虎王」
白虎。
同じ名を継いだか。
「母は、先代の朱雀。菅原鳳華」
白虎と朱雀。
夫婦揃って、この防人の最高戦力というわけか。
「ですから私は、物心がついた頃には修練を始めていました」
白虎の視線が、自らの掌へ落ちる。
「朝起きれば修練。学校から帰れば修練。休みの日も修練。父は厳しい人でしたし、母も……優しくはありましたが、修練だけは決して妥協しなかった」
ほんの一瞬、白虎の口元が緩んだ。
笑ったのか。
だが、その表情はすぐに消えた。
「十五で防人に入り、十八の時には十二神将・真達羅を預かる将隊長になりました」
(十八歳で隊長……)
器が小さく呟く。
(虎壱さん、やっぱりすごい人なんじゃ……)
黙っておれ。
今は余も聞いている。
白虎は一度、目を閉じた。
「その年です」
風が止んだ。
「四国の異界化を鎮静するため、大規模な討伐任務が決行されました」
声の温度が変わった。
余にも分かる。
ここから先、この男にとっては、いまだ過去ではない。
「任務には、父と母も参加しました」
白虎が指を折るように、淡々と名を並べてゆく。
「先代白虎、菅原虎王。先代朱雀、菅原鳳華。そして私を含む六名の将隊長。その配下、およそ五百名」
五百。
小規模ではあるが、一軍と呼ぶには足りる。
「当時の防人が投入できる戦力としては、かなり大きなものでした」
「……虎兄」
弓の小娘が小さく呼んだ。
白虎は答えない。
代わりに、余を見た。
「陛下」
「なんだ」
「どうなったと思いますか?」
問いか。
余は答えなかった。
この男は、余に正解を求めているのではない。
自ら口にせねばならぬのであろう。
ならば言わせてやる。
白虎の喉が動いた。
そして。
「ほぼ全滅しました」
器が息を呑んだ。
(……え?)
弓の小娘は俯いたまま。
琴葉も目を伏せている。
猿でさえ、言葉を失っていた。
「死亡が確認された者、約二百五十名」
白虎の声だけが庭に響く。
「行方不明、およそ百八十名」
五百のうち。
残ったのは。
「生還できたのは……七十名ほどです」
(そんな……)
器の声が震えた。
余は何も言わない。
「六名いた将隊長も」
そこで初めて白虎の声が詰まった。
ほんのわずか、それでも余には分かった。
「私以外の五名は、全員死亡が確認されました」
白虎が空を見上げる。
夕暮れの色はほとんど消え、濃紺の空に星がひとつ浮かんでいた。
「母もです」
(…………)
「朱雀、菅原鳳華。死亡確認」
先ほどまで母と呼んでいた女を、役職と名で呼ぶ。
そうしなければ口にできぬのかもしれぬな。
「父は」
そこで止まった。
風が戻ってくる。
白虎の白い衣を揺らし、血の匂いを薄く運んだ。
「遺体が見つかっていません」
器が反応する。
(じゃあ……生きてるかもしれないってこと?)
「分かりません」
聞こえてはおらぬはずなのに、白虎の返答は器への答えにも聞こえた。
「十年経った今も、生死不明です」
十年。
なるほど。
前編で白虎が口にした年月と繋がった。
「私は……」
白虎の拳が、また閉じかける。
だが。
途中で止めた。
「私は、逃げました」
弓の小娘が顔を上げた。
「違う!」
鋭い声。
「虎壱さん、それは違うっしょ!」
白虎は小娘を見ない。
「雉子谷」
琴葉が静かに制した。
「でも!」
「今は虎壱さんに話させてあげて」
「……っ」
小娘は唇を噛み、黙った。
白虎が続ける。
「父と母の命令でした」
その声には、奇妙なほど感情がなかった。
「残った者を連れて退け、と」
「…………」
「十八歳の私に、撤退の指揮が命じられました」
目の前で仲間が死ぬ。
将が死ぬ。
父母が残る。
そして己だけが、兵を連れて退く。
なるほど。
「恥ずかしながら」
白虎は笑った。
自嘲。
その程度の感情なら、余にも分かる。
「私はその命令に従い、命を拾いました」
(恥ずかしくなんかないだろ……)
器が呟いた。
(虎壱さんが連れて帰らなかったら、その七十人も……)
そうだな。
だがそれを余が口にする必要はない。
白虎自身が理解せねば意味がない。
「それから十年」
男の声に、わずかに力が戻った。
「死に物狂いで鍛えました」
余を見る。
「父と母の仇を討ちたかった」
拳を握る。
今度は爪を立てない。
「死んでいった仲間たちの死を、無駄にしたくなかった」
目が逸れない。
「一日たりとも忘れたことはありません」
(…………)
「鍛えて」
「鍛えて」
「鍛え続けました」
静かな言葉。
だからこそ重い。
「今なら、当時の父や母より強い」
白虎はそう言い切った。
傲慢さではない。
十年を積み重ねた者だけが口にできる確信。
「少なくとも私は、そう思っています」
「ほう」
初めて余は声を出した。
白虎は続ける。
「それでも」
その言葉に。
先ほどまで以上の重みが宿った。
「届かない」
「…………」
「死國に存在する一勢力」
白虎の顔が歪む。
「こちらと相性のいい神性が宿った武器を選び、仲間の援護を受け、あらゆる条件を整えて」
その拳が震える。
「それでようやく……撃退できるかどうかです」
静寂。
虫の音だけが遠くから聞こえる。
白虎は余を見据えた。
もう俯いてはいない。
「陛下」
「なんだ」
「あなたは先ほど、なぜ強くならないのかと仰った」
「言ったな」
「己で限界を決めるな、とも」
「うむ」
白虎が一歩。
こちらへ踏み出した。
琴葉が何か言いかけたが、止めた。
敵意ではないと分かったのであろう。
「私は」
白虎が胸へ手を当てる。
「強くなりたかった」
声が震えた。
初めてだった。
「今より強く」
さらに一歩。
「父より強く」
もう一歩。
「母より強く」
そして。
「死國を平定できるほどに!」
夜気を震わせる声。
弓の小娘が目を伏せた。
猿も。
琴葉も。
誰も動かない。
「なれるものなら!」
白虎の声が庭に響いた。
「今からでもなりたい!」
その言葉を最後に。
白虎は口を閉じた。
荒い呼吸だけが残る。
(虎壱さん……)
器の声がする。
余は白虎を見つめた。
十八で地獄を見た。
父を失い。
母を失い。
仲間を失い。
それでも十年。
己を鍛え続けた。
なるほど。
余の先ほどの言葉が腹立たしいはずだ。
何も知らぬ異世界の皇帝が。
強くなれ。
限界を決めるな。
そう言ったのだから。
白虎が静かに問う。
「それでもなお」
声はもう震えていなかった。
「我々は、さらに強くなれると、陛下は、そう仰るのですか?」
誰も喋らない。
余も、すぐには答えなかった。
白虎を見つめる。
言葉ならいくらでも並べられる。
努力すれば強くなれる。
諦めなければ夢は叶う。
限界など存在しない。
くだらん。
そんなもの己より遥かに強い何かに踏み潰された者へ投げる言葉ではない。
白虎が欲しているのは慰めではない。
希望ですらない。
証明だ。
ならば。
「白虎」
「はい」
「余がここで『なれる』と言ったところで」
白虎の眉がわずかに動く。
「貴様は信じまい」
「…………」
「当然だ」
余は口元を吊り上げた。
「余とて、言葉だけで己の正しさを証明したつもりになるほど安い皇帝ではない」
(なんか嫌な予感する)
器が呟いた。
ほう。
少しは余を理解してきたではないか。
「ゆえに」
余は白虎から視線を外した。
庭の端。
猿。
「え?」
そして。
弓の小娘。
「……なんすか?」
最後に。
己の身体を見る。
正確には。
この身体の本来の持ち主を。
「証明してやろう」
(…………え?)
「一月」
白虎が目を細めた。
「一月、余に寄越せ」
「何を……なさるおつもりで?」
愚問。
「決まっておろう」
余は笑った。
「この器を鍛える」
沈黙。
(…………はい?)
「一月後」
猿を指差す。
「そこの猿」
「俺っち?」
次に。
弓の小娘。
「そこの弓の小娘」
「小娘じゃないっす! 雉子谷翔子! 二十三歳!」
数字まで付け足すな。
「その二人より」
余は己の胸を親指で示した。
「余の器を強くする」
…………。
庭が。
完全に静まり返った。
白虎が目を見開く。
琴葉でさえ、珍しくぽかんとしている。
猿が自分を指差した。
「いやいやいや。待ってくれって。坊ちゃんを?」
「そうだ」
「一か月で?」
「二度言わせるな」
弓の小娘の眉が跳ねた。
「ちょ、あーしも対象なんすか!?」
「光栄に思え。貴様ら二人が教材だ」
「教材!?」
(ちょっと待って)
器。
ようやく来たか。
(ちょっと待って待って待って待って)
うるさい。
(僕、聞いてないんだけど!?)
当然だ。
今決めた。
(なんで僕の人生を賭けて、勝手に話進めてんの!?)
何を言う。
貴様にも利益しかなかろう。
(どこがだよ!)
余は白虎を見る。
「どうだ?」
「…………」
「一ヶ月後」
白虎の目を正面から射抜く。
「余の器が、そこの猿と弓の小娘より強くなっておれば......」
「余の言葉を信じるか?」
白虎は答えない。
驚いている。
迷っている。
だが。
その瞳の奥に。
先ほどまでなかったものが、ほんの僅かに灯った。
希望。
いや。
まだそこまで上等なものではない。
可能性。
その程度でよい。
最初はな。
「……本当に」
白虎が口を開く。
「一カ月で?」
「くどい」
余は鼻で笑う。
「誰に物を言っておる」
白虎が息を呑む。
余は胸を張った。
「余はヴァルガイア・フォン・ゼクス・クローネンベルク」
かつて。
数多の魔導士を従え。
数多の将を育て。
帝国を築いた。
初代皇帝。
「一ヶ月あれば十分よ」
(十分じゃないよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!)
器の絶叫が。
頭蓋の内側いっぱいに響き渡った。




