第十三話 前編 暗黒皇帝、防人と戯れる
余は、静かに名乗った
「グランツライヒ魔導帝国、初代皇帝ヴァルガイア・フォン・ゼクス・クローネンベルクこれが余よ」
沈黙。
四人の視線が、器を通して余へ集まる。
ふむ。
名乗りとは、本来この程度でよい。
余ほどの者ともなれば、名そのものが歴史である。
防人。
そう名乗る者どもは、どうやら名だけでは満足せぬらしい。
白虎堂の奥。
古びた梁の下には、先ほどまで映し出されていた死國の観測映像の残光が、まだ微かに紫を帯びて漂っている。
鼻につくのは古木と紙、それにほのかな香の匂い。
棚には刀。
壺。
古びた面。
用途すら分からぬ異国の器具。
魔力を帯びた品までいくつか混じっている。
よくもまあ、これほど雑多なものを集めたものだ。
そして余の正面には四人。
白虎を名乗った男。
猿。
弓を携えた小娘。
そして、この店の主である女。
先ほどこやつらは、自らの素性をある程度明かした。
防人。
太古よりこの国を異界から守ってきた組織。
十二支将隊。
四方神将。
そして死國。
なるほど。
先に己の手札を幾枚か晒し、こちらにも相応の情報を出させようという腹か。
交渉としては、間違ってはいない。
稚拙ではあるがな。
白虎が姿勢を正した。
「ヴァルガイア陛下。可能な範囲で構いません。陛下がいかなる地に生まれ、何ゆえこの世界へ来られたのか。その出自と目的を、我々は知りたい」
「ふむ」
余は椅子の背へ身体を預け、脚を組んだ。
(ちょっと)
なんだ。
(勝手に僕の身体で脚組まないでよ)
面倒な器だ。
これまでも、器の口を借りて声を発したり、魔導を発動することはあった。
だが。
今回、余は初めてその先へ踏み込んだ。
声だけではない。
腕を動かす。
脚を組む。
視線を向ける。
短時間とはいえ、肉体そのものの主導権を余が握っている。
先ほど白虎どもが目を見開いていたのも当然であろう。
こやつらにとっても、器の身体が余の意思で動くところを見るのは初めてなのだからな。
もっとも。
完全というわけではない。
器が強く拒めば動きは鈍るし、長く使えばこちらも無駄に消耗する。
つまり。
今回初めて掴んだ感覚に過ぎぬ。
まだ余の肉体と呼ぶには、不出来極まりない。
(誰の身体だと思ってるの!?)
「余の身体でもある」
(違うよ!?)
白虎が怪訝そうにこちらを見る。
「……陛下?」
「なんでもない」
(なんでもあるよ!)
黙れ。
余は白虎へ向き直った。
出自。
建国。
そして、余がなぜこの世界へ至ったのか。
なるほど。
そこまで知りたいというわけか。
ならば話は早い。
「余について知りたいのであれば、簡単な方法がある」
「と、申されますと?」
「余の著書を読め」
「……著書?」
女が初めて反応した。
白羊琴葉、といったか。
「うむ」
余は胸を張る。
「『永遠なれ魔導帝国と我が半生』」
我ながら良い題である。
「余がいかにして群雄割拠の世を駆け抜け、グランツライヒ魔導帝国を建国するに至ったか。皇帝として何を成し、何を後世へ遺したのか。その偉業を余すところなく記した歴史的大著よ」
(自分で歴史的大著って言った)
事実だからな。
「出版時には帝国全土の書店に長蛇の列ができた。初版から記録的な売れ行きを叩き出した、まさしく伝説の傑作よ」
(それさ)
なんだ。
(買うと税金が安くなるとか、そういう制度なかったよね?)
「…………」
(なんで黙るの!?)
「滅するぞ、俗物」
(絶対なんかあったんじゃん!)
四人が揃って妙な顔でこちらを見ている。
なんだ、その目は。
「陛下」
白虎が困ったように口を開いた。
「お戯れを。異世界にある陛下の御著書を、我々がどのようにして手に入れればよいのでしょう」
「知るか、俗物」
「…………」
「貴様、まさか余の口から余の半生を一から語れと申すのではあるまいな?」
「できましたら、それが一番ありがたいのですが」
「断る」
即答した。
皇帝自ら己の自伝を朗読して聞かせるなど、帝国史上前代未聞。
そもそも余の半生を語り始めれば、一晩や二晩では到底足りぬ。
七歳にして宮廷魔導師を論破した逸話だけでも三章。
十二歳の初陣は五章。
十六歳で、
(もう始まってる! 頭の中で自伝始まってるから!)
む。
「……まあ」
余は視線を横へ向けた。
琴葉。
先ほどから静かにこちらを観察している女と目が合う。
「そこの女にだけなら、寝物語に語ってやらんこともない」
「…………え?」
琴葉の表情が、初めて崩れた。
白虎の眉が上がる。
猿は「おっ?」と身を乗り出した。
(待って待って待って!)
「今宵、余の寝室へ来るか?」
「え……あの……」
琴葉が明らかに戸惑っている。
(何誘ってんだよぉぉぉ! しかも僕の身体で!)
何を騒ぐ。
余の半生を皇帝本人から聞けるのだぞ。
これほどの栄誉が他にあるか。
「安心せよ。一晩で足りぬなら二晩、三晩と語ってやろう」
(言い方を悪化させるなぁぁぁ!)
「……ご遠慮しておきます」
琴葉が引きつった笑顔を浮かべた。
「なんだ。欲のない女だ」
「……最低。マイナス百点」
隣から冷たい声。
弓の小娘。
雉子谷翔子。
こちらを見る目が完全に据わっている。
「なんだ、小娘」
「あーし、そういうの大嫌い。その身体で琴葉さん誘うとか、マイナス百点」
「案ずるな」
余は片手を振った。
「そちらの貧乳は呼んでおらん」
沈黙。
(皇帝?)
「ガキには興味がない」
(皇帝ぇぇぇぇぇぇぇぇ!!)
白虎が目を閉じた。
猿は口を押さえている。
琴葉は額へ手を当てた。
そして。
雉子谷のこめかみに、青筋が浮かぶ。
「……あーし、一発だけあいつに射ちたい」
(うん! そうなるよね!)
雉子谷の手が弓へ伸びる。
「翔子!」
白虎が鋭く制した。
だが、小娘の指はすでに弦へ掛かっている。
「一発だけでいい」
「駄目だ!」
「二発は撃たないから」
「何回言っても駄目だ!」
その時。
「翔子ちゃん」
琴葉だった。
静かな声。
雉子谷が振り返る。
「……琴葉さん」
琴葉は微笑んでいる。
「ここ、私のお店」
「…………」
「壊したら弁償ね?」
雉子谷の手が止まった。
「……はい」
ほう。
この女。
なかなか強いではないか。
(感心するとこそこ!?)
「それと」
琴葉が店内を見渡す。
「ここにあるもの、下手に壊したら弁償で済まない物もあるから」
先ほどの黒い勾玉が入っていた箱へ視線を送る。
雉子谷の顔から怒りが少し引いた。
「……分かった。壊す確率が1パーでもあるなら、あーしここでは射たない」
「ならよし」
琴葉が余へ向き直る。
にこり。
「陛下も」
「なんだ」
「暴れるなら、外でお願いします」
「余に命令するか?」
「お願いです」
「…………」
(皇帝)
なんだ。
(ここは従っとこう。マジで)
ふむ。
仕方あるまい。
◇ ◇ ◇
白虎堂の裏手には、思いのほか広い庭があった。
古い石灯籠。
苔むした飛び石。
庭の端には年代物の蔵。
周囲を高い塀と木々が囲み、表通りの喧騒はほとんど届かない。
日は傾き始めていた。
橙色の光が木々の隙間から差し込み、庭へ長い影を落としている。
「ここなら多少は大丈夫です」
琴葉が縁側へ腰掛けた。
多少は、か。
ならば問題あるまい。
雉子谷が庭の中央へ出る。
先ほどから一言も発していない。
だが。
怒っている。
非常に。
「やるのか、小娘」
「……一発だけ」
「翔子」
白虎が低く呼ぶ。
「虎壱兄」
雉子谷は弓を構えた。
「止めないで。あーし、もう射つって決めてるから」
「しかし」
「大丈夫。狙うのは一発だし、殺さないように力加減する」
視線が余を射抜く。
「あーし、そこまで計算狂ってないから」
(その台詞、全然安心できないんだけど!?)
「よかろう」
余は笑った。
「余を殺す気で射ってみよ」
「陛下!」
白虎がこちらを見る。
「構わぬ」
(僕が構うよ!? 射たれる身体こっちなんだけど!?)
俗物よ。
少し黙っておれ。
雉子谷の指が弦を引く。
だが。
矢筒へ手を伸ばすことはない。
代わりに、引き絞られた弦の前へ淡い光が集まり始めた。
「ほう」
空気が微かに震える。
光は細く、鋭く収束しやがて一本の矢を形作った。
(え、矢が出てきたんだけど!?)
魔力に近しい力か。
だが、同じものではない。
この世界の術師は、こうして力を扱うらしい。
呼吸。
重心。
視線。
そして、光の矢。
すべてが一点。
余の眉間へと向けられている。
なるほど。
一応、戦士ではあるらしい。
「一式――」
雉子谷の目から、怒りが消える。
狙うのはただ一点。
「《那須与一》」
弦が鳴った。
ヒュンッ!
光の矢が空気を裂く。
速い。
少なくとも、この世界の常人には見切れまい。
(うわぁぁぁぁぁぁ!?)
騒ぐな。
余の瞳へ紫黒の光が灯る。
魔眼。
途端に。
世界が引き延ばされた。
迫る光の鏃。
その周囲で揺らめく、未知の力。
空気を裂いて生じる微かな歪み。
すべてが見える。
だが。
見えることと、この器の肉体が追いつくことは別だ。
「む」
(え!?)
右腕が僅かに重い。
遅い。
余の肉体であれば、この程度、止まっているも同然なのだが。
(僕の身体に文句言うな!)
とはいえ。
この程度ならば問題ない。
光の鏃が眉間へ迫る。
あと僅か。
まだ。
まだだ。
そして余は右手を上げた。
親指へ、中指を掛ける。
(え?)
鏃が額へ触れる、その寸前。
パァンッ!
中指を弾いた。
指先が光の鏃を正面から打ち抜く。
瞬間。
矢が砕けた。
「…………え?」
雉子谷の目が大きく見開かれる。
淡い光の粒が、夕暮れの庭いっぱいに舞った。
矢を形作っていた力そのものが、余の一撃で霧散していく。
白虎も。
猿も。
琴葉ですら、言葉を失っている。
「……今の、渾身の一射をデコピンで?」
「ふむ」
余は弾いた中指を眺めた。
狙いは正確。
放つまでの動作にも無駄は少ない。
力の収束も、悪くはない。
だが。
「遅いな」
「…………!」
余は雉子谷を見る。
「その腕前では先が思いやられる」
口元を歪める。
「余の帝国のケンタウロスども弓兵に、弓の手ほどきでも乞うか?」
「……手ほどき? あーしが?」
(なんで毎回最後にガソリン撒くの!?)
事実だ。
雉子谷の肩が震える。
「……もう一発。今度は当てる」
「翔子ちゃん」
琴葉。
「一発って言ったよね?」
「…………」
「言ったよね?」
「……はい」
弓が下がった。
(琴葉さん強いな……)
同感だ。
「でもよぉ」
今度は猿が前へ出た。
「さすがに今のは言いすぎだっての」
「なんだ、猿」
「猿じゃねえ! 猿飛忍だっての!」
「同じではないか」
「違ぇよ!」
猿が頭を掻きむしる。
「坊ちゃん……じゃねえんだよな。今しゃべってんの」
「いかにも」
「だったら言わせてもらうけどよ」
表情が変わる。
「異界の皇帝だかなんだか知らねーけど、いい加減にしろっての」
白虎が止めようとする。
「猿飛」
「虎壱さんは黙っててくれ」
珍しく。
猿の声から軽さが消えていた。
「虎壱さんはちゃんと礼をもって接してる。なのに琴葉さんには変なこと言う。翔子は煽る。俺たちのことはずっと俗物呼ばわり」
拳を握る。
「なんなんだよ、その態度!」
ほう。
余に説教か。
「皇帝を前に礼を尽くすなど」
余はやれやれと目を細めた。
「魔狼が月に頭を垂れるより当然の理よ」
(それ、そっちの世界のことわざ?)
黙れ。
「それとも何か?」
猿を見る。
「貴様が道化として余を楽しませるというのであれば、考えてやらんこともないぞ」
「……は?」
「猿踊りでもしてみるか?」
猿のこめかみが動いた。
(また始まった!)
「……あったま、きたぁぁぁぁぁ!」
猿が地面を蹴った。
「おれっちたち防人をナメすぎだっての! 身体は坊ちゃんだから手加減してやるけど、ちょっと痛い目見て分からせてやる!」
「猿飛!」
白虎の制止。
無視。
猿が余を見る。
「いくぜーーー!」
猿飛が腰を落とす。
両手で印を結んだ。
「忍法――《ましら》」
「猿と踊る趣味はないが」
余は指を曲げる。
「面白い。やってみろ」
(なんで受けるの!?)
猿が消えた。
いや。
消えたように見せただけだ。
右。
左。
背後。
土を蹴る音。
枝が揺れる。
一つだった姿が二つ。
三つ。
四つ。
残像を引き連れ、庭中を駆け巡る。
「高速移動と残像による撹乱か」
余は欠伸を噛み殺した。
「猿めにしては芸が浅い」
「言ってろぉぉぉ!」
声は右。
足音は左。
気配は前。
本体は。
「まったく笑えんぞ」
余は視線だけを上へ向けた。
「上だ」
沈黙。
頭上。
庭へ張り出した太い枝。
そこに猿が逆さにぶら下がっている。
目が合った。
「げっ!?」
(本当に猿みたいなことしてる!)
「なんで分かった!?」
「貴様の動きなど」
余は指先を向ける。
「止まって見えるわ」
紫黒の魔力。
(皇帝、待って!)
もう遅い。
「暗黒魔法」
「陛下!」
白虎が動く。
「《精神混乱〈ガイスト・フェアヴィルング〉》」
紫光が走った。
「うわぁぁぁぁぁぁ!?」
猿が枝から落ちる。
どさっ!
「猿飛!」
白虎が駆け寄った。
琴葉も立ち上がる。
「大丈夫!?」
「…………」
四つん這い。
猿は動かない。
「猿飛?」
ゆっくり。
顔が上がる。
「ウキ?」
沈黙。
「……は?」
雉子谷が眉をひそめる。
「ウキキ?」
(え?)
猿は頭を掻き始めた。
「ウキッ! ウキキキッ!」
上着へ手を掛ける。
(ちょっと待てぇぇぇぇ!)
「猿飛君!?」
琴葉が叫ぶ。
雉子谷が後退する。
「……最悪。百点満点で0点」
「ウキィィィィ!」
(脱ぐなぁぁぁぁぁぁ!!)
「ククク……」
愉快。
実に愉快だ。
「猿よ」
腹を抱えて笑いたいところだが、皇帝の威厳がある。
口元だけに留めておく。
「そちらのほうが似合うではないか」
「陛下!」
白虎が立ち上がった。
怒気。
初めてだな。
「戯れが過ぎますぞ」
ほう。
余を睨むか。
悪くない。
部下を弄ばれてなお笑っているような腑抜けではないらしい。
「俗物が余に意見するなど千年早いわ」
「……陛下」
「貴様も猿と並んで裸踊りでもしてみるか?」
(皇帝ぃぃぃ!)
器が怒鳴る。
(あんた何してんだよ! いつもそんなんじゃなかったじゃん!)
いつも?
妙なことを言う。
ふと、余は庭を見渡した。
弓を下ろしたまま、いまだ頬を引きつらせている小娘。
地面で「ウキキ」と頭を掻く猿。
その猿を庇うように立ちながら、余を睨む白虎。
そして。
縁側から一歩も動かず、騒ぎのすべてを静かに見ていた琴葉。
「まったく」
余は鼻で笑った。
「敵の安い挑発に乗り、考えもせず矢を放つ浅はかな小娘」
「……っ」
雉子谷の眉が跳ねる。
(また煽るの!?)
「挑発が策略かもしれぬと考えもせず、さらに深く乗せられる馬鹿猿」
「ウキッ!?」
(今の猿飛さんに言ってもたぶん伝わってないよ!)
「そして」
余は白虎へ目を移した。
「それらを傍観し、止めることすらできぬ将」
白虎の顔から、すっと怒気が消えた。
「…………」
「話にならんな」
庭に沈黙が落ちた。
先ほどまで喚いていた小娘も。
余を睨んでいた白虎も。
何も言わぬ。
もっとも。
一人だけ、最初から最後まで余の挑発に乗らなかった者がいる。
余は縁側へ視線を向けた。
「この中で最も冷静なのは、そこの女か」
「……私ですか?」
琴葉が自分を指さす。
「うむ。褒めてつかわす」
「それは……どうも」
わずかに困ったような笑み。
慎重で、周囲も見えている。
悪くない。
「やはり褒美が必要だな」
(嫌な予感しかしない)
「今宵、余の寝室へ来い。直々に褒美をくれてやろう」
「…………」
琴葉の笑顔が固まった。
(やめろぉぉぉぉぉっ!! せっかくちょっとカッコよく締まりかけたのにぃぃぃ!!)
「遠慮するな。栄誉であるぞ」
「丁重にお断りします」
即答。
(当たり前だよ!!)
ふむ。
つれぬ女だ。
だが、先ほどの小娘や猿よりは余程ましである。
「俗物よ」
(なに!)
「余は貴様の生活を脅かすつもりなど毛頭ない」
(現在進行形で脅かしてるよ!)
「貴様の生活が破綻すれば、余の生活にも関わるからな」
(理由が全部自分なんだよ!)
当然だ。
「だが」
余は笑みを消した。
先ほどの戯れは、ここまでだ。
白虎を見る。
「こやつらは別だ」
風が吹いた。
庭木の葉がざわめく。
夕陽はさらに低くなり、白虎の顔の半分を影へ沈めている。
「自らが弱いがゆえ、自国すら満足に守れぬ腰抜けども」
誰も口を開かない。
「余がその機嫌を取ってやる道理などない」
白虎の表情から怒りが消えた。
「先ほど貴様は言ったな、白虎」
「…………」
「全兵力をもってしても、死國の平定は成せぬ、と」
「……はい」
「なぜだ?」
「なぜ、と申されましても……現状の戦力では」
「それだ」
白虎の言葉を切る。
「なぜ、自らできぬと縛りを作る?」
白虎が黙った。
「貴様も術師の端くれならば分かるであろう」
できぬ。
勝てぬ。
届かぬ。
便利な言葉だ。
敗北を受け入れる理由になる。
挑まぬ理由になる。
そして。
己が弱いままでいることを許す。
「己の限界を己で定めれば、成長もそこで止まるぞ」
(……皇帝)
なんだ。
(それは違うよ)
「何?」
器の声が。
珍しく真っ直ぐ余へ向けられた。
(虎壱さんたちは、強くなろうとしてないんじゃない)
「…………」
(強くなろうとして、それでも届かなかったんだと思う)
庭に風だけが通り抜ける。
なるほど。
俗物よ。
貴様は甘い。
だが嫌いではない。
「ならば」
余は白虎を見る。
「なおさらだ」
(え?)
「届かなかったから何だ」
白虎の瞳が揺れる。
「十年届かなかったのなら」
一歩。
「十一年目に届けばよい」
誰も口を開かなかった。
「十年負け続けたからといって、十一年目にも負ける道理がどこにある?」
雉子谷が僅かに顔を上げる。
琴葉の瞳も、余へ向いた。
「なぜ強くなろうとせん?」
白虎は答えない。
「なぜ貴様が強くならぬ」
一歩。
「なぜ配下を強くせぬ」
もう一歩。
「なぜ将である貴様が、己の兵を信じ、ともに高みを目指そうとせぬ」
「…………」
「敵が強大だからか?」
白虎を見る。
「兵が足りぬからか?」
返事はない。
「力が足りぬからか?」
ならば。
答えなど一つ。
「強くなれ」
白虎の瞳が揺れた。
(そんな簡単に……)
簡単ではない。
だからこそやるのだ。
「兵が足りぬなら集めろ。術が足りぬなら磨け。力が足りぬなら強くなれ」
余は生まれながら皇帝だったわけではない。
玉座が余を選んだのでもない。
天が余へ帝国を与えたわけでもない。
余が。
奪った。
築いた。
守った。
「できぬ理由を並べる暇があるなら、できるまで足掻け。それでも届かぬなら、届く者を育てよ」
白虎の拳が握られる。
「貴様は将なのであろう?」
「…………」
「ならば、己より強き者が現れることを恐れるな」
琴葉が僅かに目を見開く。
「己を超える者を育てることを誇れ」
雉子谷が白虎を見る。
「貴様一人で届かぬなら」
白虎の拳が、さらに強く握られた。
「配下と届けばよい」
風が止む。
「それが国を守護するものの務めであろう」
静寂。
先ほどまで騒がしかった庭が嘘のようだった。
「そんな覚悟を持たぬ者どもが」
余は鼻で笑う。
「余自身のことを語れなどと」
くだらぬ。
「片腹痛いわ」
ぽたり。
小さな音。
地面へ何かが落ちた。
水ではない。
赤。
血だ。
白虎の右手。
握り締められた拳へ指が深く食い込み、皮膚が裂けている。
血が指の隙間を伝い。
また一滴。
乾いた土へ落ちた。
「虎壱さん……」
琴葉が小さく呼ぶ。
返事はない。
「虎壱……」
雉子谷も、その拳を見つめていた。
俗物も。
何も言わない。
余は黙って白虎を見る。
怒りか。
悔しさか。
己自身への失望か。
知らぬ。
だが。
先ほどまで己の限界を当然のものとして語っていた男の顔ではない。
それだけは分かる。
余は口元を僅かに緩めた。
ようやく少しはまともな顔になったではないか。




