↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/62

第十二話 前編 暗黒皇帝、古美術商を訪れる


次の日の放課後。


電車を二本乗り継ぎ、さらに駅から歩くこと二十分。


住宅街を抜け、古い商店や小さな倉庫がぽつぽつと目立ち始めた頃、僕のスマホが目的地への到着を告げた。


「…………ここ?」


画面と、目の前の建物を交互に見比べる。


住所は間違っていない。


昨日、魔眼を使って虎壱さんの名刺から読み取った場所。その一文字一文字と、今スマホに表示されている住所は完全に一致している。


でも。


「なんか……思ってたのと違うな」


もっとこう、秘密組織のアジトなら地下施設とか、鉄格子とか、入り口に黒服の人が立っているとか。


そういうものを想像していた。


実際に目の前にあったのは、古びた二階建ての和風木造建築だった。


黒ずんだ柱に、少しくすんだ漆喰の壁。引き戸には昔ながらの波打ったガラスが嵌め込まれている。建てられてから少なくとも五、六十年は経っていそうだ。


軒先には大きな木製の看板が掛けられていた。


達筆すぎて最初は読めなかったけれど、よく見ると漢字で。


『古美術 白虎堂』 

と書いてある。


挿絵(By みてみん)


「白虎堂……」


『ほう』


頭の中で皇帝が反応した。


『魔道具屋か』


「いや、古美術って書いてあるけど」


『それがどうした』


「それがどうしたって……」


『余の帝国にもあったぞ。表では宝石商を営みながら、裏で禁制魔道具を売買する店がな』


「へえ」


『発覚したので、店主ごと焼いた』


「話の着地が物騒!」


『禁制品を扱うからだ』


「皇帝の国、本当に治安良かった?」


『余が統治していたのだぞ?治安は極めて良好であったわ』


「逆らった人が消えてただけじゃないよね?」


『…………』


「ごめんなさい」


皇帝の沈黙だけで謝れる。


僕もずいぶん成長したものだ。


たぶん、あんまり嬉しくない方向に。


改めて古美術商を見上げる。


「まあ、住所はここなんだし……入ってみようか」


『何故余に確認する』


「一応」


『招かれたのは余だ。堂々と入れ』


「身体は僕なんだからね?」


古い引き戸へ手をかける。


ガラガラ、と乾いた音。


続いて頭上で、小さな鈴が鳴った。


カラン。


「すみませーん……」


返事はない。


恐る恐る中へ入った瞬間、僕は思わず足を止めた。


「……うわ」


外から見た印象より、店内はずっと奥行きがある。


壁一面の棚。古びたガラスケース。天井近くまで積まれた木箱。


掛け軸、茶器、壺、仏像、日本刀、古銭、数珠、宝石、勾玉。


この辺までは僕でも古美術品だと分かる。


問題は、その先だった。


獣の角みたいな物。


煤けた金属板。


何語なのかすら分からない文字が刻まれた石。


人間の顔にしか見えない木の根。


さらに棚の隅には、小さな牙がびっしりと並んだ箱まで置いてある。


「……これ、本当に古美術なの?」


『余に聞くな』


「最後の箱とか、絶対開けちゃ駄目なやつでしょ」


『ならば開けてみればよかろう』


「皇帝ってホラー映画だと真っ先に封印解く人だよね」


『余が封印された程度の何かに殺されると思うか』


「むしろ封印されてた側が可哀想になってきた」


僕は箱からそっと距離を取った。


店内に他の客はいない。


店員の姿も見当たらず、古い柱時計の針が進む音だけが静かな空間に響いていた。


ガラスケースの中には、小さな青銅鏡。


値札は十二万円。


「たっか……」


『高いのか?』


「十二万円だよ?」


『だから、それが高いのかと聞いておる』


「あ、そっか。皇帝、日本円の感覚まだあんまないんだ」


『余の宝物庫にあった魔導鏡ならば、小国一つ程度は買えたがな』


「また皇帝基準……」


その隣には翡翠色の勾玉。


三万八千円。


用途不明の黒い棒。


八千円。


「これ何?」


『知らぬ』


「皇帝でも知らない物あるんだ」


『当然だ。余は森羅万象を知る神ではない』


「いつも全部知ってるみたいな態度なのに」


『灰燼に帰されたいようだな』


「ごめんなさい」


やっぱり謝罪速度だけ上がっている。


そんなやり取りをしながら奥へ進んでいると、皇帝が突然声を低くした。


『待て』


僕の足も止まる。


(なに?)


『左だ』


そちらを見る。


棚の上に、小さな赤黒い石が置かれていた。


何の変哲もない。


河原に落ちていたら、たぶん気にも留めない。


(あの石?)


『妙な力が残っておる』


(魔力?)


『違う』


皇帝は即答した。


『魔力とは似て非なるものだ。だが、ただの石ではない』


「…………」


魔導の頂点みたいな人が「分からない」と言っている。


そう思うと、ただの石が急に不気味に見えてきた。


もう少し近くで見ようとした、その時。


「そちらには、お手を触れない方がよろしくてよ」


「うわっ!?」


思いっきり肩が跳ねた。


声は店の奥から聞こえた。


いつの間にか襖が開き、その前に一人の女性が立っている。


二十代半ばくらいだろうか。


長い黒髪を綺麗にまとめ、淡い藤色の和服をまとっている。細身で背筋がすっと伸び、古びた店の空気に驚くほど自然に溶け込んでいた。


挿絵(By みてみん)


女性は僕の反応を見ると、口元へそっと手を添えた。


「あら。驚かせてしまいました?」


「い、いや……僕が勝手に見てただけなので」


「構いませんわ。当店は古美術商でございますもの。お品物は、見ていただくために置いておりますのよ」


柔らかな声。


そして、ものすごく丁寧な言葉遣い。


女性は僕の前まで来ると、両手を身体の前で重ねて優雅に一礼した。


「いらっしゃいませ、陰山シュウ様」


「…………」


僕は固まった。


「なんで僕の名前を?」


「虎壱様より伺っておりますの」


「あ……」


なるほど。


女性は柔らかな微笑みを崩さない。


「申し遅れました。わたくし、こちらを預かっております白羊琴葉《しろひつじことは》と申します」


「しろひつじ……さん?」


「ええ。白い羊と書いて白羊でございますわ」


すごい名字だ。


僕が言うのもなんだけど。


「虎壱様はただいま外出しております。陰山様がお越しになったことは既にお伝えしておりますので、ほどなくお戻りになるかと存じますわ」


「そうなんですね」


「それまで、ごゆるりと店内をご覧になってくださいませ」


「あ、ありがとうございます」


普通だ。


ものすごく普通の人だ。


いや、名字は珍しいけど。


昨日の名刺のことがあったから、もっと「秘密組織の受付です」みたいな怖い人が出てくると思っていた。


ふと、さっきの赤黒い石が気になった。


「琴葉さん」


「はい?」


「これって何なんですか?」


「あら」


その瞬間だけ。


琴葉さんの目が、ごく僅かに細くなった。


「そちらが気になりますの?」


「なんとなく……普通の石じゃない気がして」


「まあ」


琴葉さんが石の前へ歩み寄る。


笑顔は変わらない。


でも。


なぜか僕を見る目だけが、少し変わった気がした。


「こちらは那須にございます《殺生石》。その欠片と伝えられている品でございますわ」


「殺生石?」


「白面金毛九尾の狐が討たれ、その亡骸が石へ変じたというお話をご存じ?」


「九尾の狐って……あの九尾?」


「ええ」


琴葉さんはにっこり微笑む。


「その“あの九尾”でございますわ」


急に触りたくなくなった。


「本物なんですか?」


「それを証明する術はございません。ただし、通常の石には存在しない霊的残滓が確認されております」


『ほう』


皇帝も興味を示した。


『それか』


(皇帝にも分かる?)


『質は異なるが、確かに力の残滓がある』


琴葉さんは赤黒い石を見下ろした。


「禍等級《まがつとうきゅう》ですと《怪禍《かいか》》に格付けされますわ」


「……かいか?」


初めて聞く言葉だ。


「呪物、霊物、妖等の由来品。人へ害を及ぼす可能性のある品を、危険性に応じて五段階に分類しておりますの」


「五段階?」


「ええ。ただし暗記なさらなくても結構でしてよ。実物をご覧になった方が、分かりやすいでしょうから」


そう言って。


琴葉さんは、ほんの少し楽しそうに笑った。


「陰山様。虎壱様がお戻りになるまで、少々お付き合いいただけませんこと?」


「何をするんです?」


「簡単な当て物でございますわ」


嫌な予感。


でも。


ちょっと面白そうでもある。


琴葉さんが最初に取り出したのは、古びた数珠。


「こちらはいかがでしょう?」


『何もない』


皇帝が即答した。


「普通の数珠?」


「正解でございます」


次。


古い銅鏡。


『僅かに何かが残っておる』


「普通の鏡じゃ……ない?」


「まあ。よろしいですわ」


琴葉さんは嬉しそうに頷いた。


「祭祀に用いられた銅鏡でございます。ただし残留している力は極めて微弱で、《微禍《びか》》にも届きません」


微禍。


さっきの怪禍より下らしい。


そこから普通の茶器、装飾品、仏像。


何もない物について琴葉さんは詳しい説明をしなかった。


ところが。


再び赤黒い石へ戻る。


「先ほどの殺生石の欠片が《怪禍》。長く触れ続ければ、発熱や幻覚、体調不良を引き起こす可能性がございます」


「そんな物、普通に置いといていいんですか!?」


「もちろん封を施しておりますわ」


「全然見えないんですけど」


「見えないようにしておりますもの」


「怖っ」


琴葉さんは、くすりと笑った。


「怖がらせてしまいました?」


「ちょっとだけ」


「まあ。申し訳ございません」


そう言って笑う顔だけを見れば、本当にただの上品で優しい店員さんだ。


でも。


『俗物』


皇帝が低く言った。


(なに?)


『気を抜くな』


(え?)


『この女、貴様を試しておるぞ』


やっぱり!?


僕の表情が変わったことに気づいたのか、琴葉さんが首を傾げた。


「どうかなさいまして?」


「い、いえ!」


「左様でございますのね」


ニコッ。


怖い。


その笑顔が急に怖くなってきた。


琴葉さんは、さらに奥の棚へ歩いていった。


「本来であれば、もう一つ《凶禍《きょうか》》指定の品をお見せしたかったのですが……」


「凶禍?」


「怪禍より上位でございますわ」


「それ、ここにあるんですか?」


「今はございませんの」


「どこに?」


「虎壱様がお持ちになっております」


「…………」


嫌な予感。


「ちなみに何を?」


琴葉さんがさらっと答えた。


「《鬼切安綱》でございますわ」


「…………はい?」


聞いたことある。


あるどころじゃない。


「鬼切って、あの鬼切!?」


「ええ」


琴葉さんは平然と頷く。


「渡辺綱様が鬼の腕を斬ったと伝わる名刀でございます」


「なんで虎壱さんが持ってるの!?」


「必要でしたので」


「何に!?」


「わたくしからお話ししてよろしいものかしら」


なんなんだ。


どこへ行ったの、虎壱さん。


『こちらの世界にも鬼がいるのか』


皇帝の声が少し楽しそうになる。


『興味深い』


(皇帝までワクワクしないでよ)


「もっとも」


琴葉さんが続ける。


「京都の北野天満宮より特別にお借りしている品ですので、虎壱様には何としても無傷でお返しいただかなくてはなりませんけれど」


「重要文化財を持ってどこ行ったの!?」


「ふふ」


笑って誤魔化された。


そして。


琴葉さんが最後に取り出した物だけは、それまでとは明らかに扱いが違った。


細長い黒塗りの木箱。


両手で慎重に持ち、机の上へ静かに置く。


「では、最後でございます」


「箱の時点で嫌な予感しかしないんだけど……」


「まあ」


琴葉さんは楽しそうに蓋へ手をかけた。


「こちらはいかがでしょう」


ゆっくりと開く。


中にあったのは。


「……勾玉?」


黒い勾玉だった。


艶もない。


装飾もない。


今まで見た品物の中では、むしろ一番地味だ。


ところが。


『下がれ』


皇帝の声が変わった。


「…………!」


僕は反射的に一歩後ろへ下がった。


低い。


真剣な声。


さっきまで殺生石に興味を示していた時とは、明らかに違う。


琴葉さんの目が細くなる。


「陰山様」


「は、はい」


「どうして、お下がりになりましたの?」


「え?」


「わたくし、まだこちらについて何も申し上げておりませんけれど」


「…………」


しまった。


答えられない。


『俗物』


(なに?)


『その玉から離れておれ』


(そんなにヤバいの?)


短い沈黙。


そして皇帝が、珍しく慎重な声で告げる。


『あれには何かがおる』


「…………」


何かが。


いる?


琴葉さんは僕の表情を見つめた後、黒い勾玉へ視線を落とした。


「こちらは《常世の玉》」


挿絵(By みてみん)



「とこよ……?」


「邪馬台国の女王、卑弥呼が祭祀に用いたと伝えられている勾玉でございます」


「卑弥呼!?」


さすがに声が裏返る。


琴葉さんは今度だけ、笑わなかった。


「禍等級《まがつとうきゅう》」


ほんの僅かな間。


「《災禍《さいか》》」


最高位。


五段階すべての名前をまだ聞いていないのに、それだけは分かった。


「禍等級の最上位でございますわ。《微禍》《怪禍》《凶禍》《大禍》、そして《災禍》。こちらは現在に至るまで、何のために作られたものなのか、内部に何が封じられているのか、そのすべてを解析できておりません」


「なんでそんな物が店にあるんですか!?」


「商品ではございませんわ」


「なら店頭に持ってこないで!」


「きちんと封印箱へ収めておりますでしょう?」


「箱一個で安心できる説明じゃないよ!」


『女の言う通りだ』


(皇帝まで!?)


『箱そのものが幾重もの封印術で構築されておる』


(分かるの?)


『無論な』


皇帝の声が低い。


『だが、今の貴様が触れてよい代物ではない』


絶対触らない。


何があっても触らない。


琴葉さんは静かに箱を閉じた。


カチリ。


小さな音が鳴っただけなのに、店内の空気まで変わった気がした。


「不思議に思っておりましたの」


「…………何がですか?」


琴葉さんが僕を見る。


「陰山様ご自身は、古美術にも呪術にもお詳しくない」


図星だ。


「にもかかわらず、力を宿した品を正確に見分け、危険な品については、わたくしがお伝えするより先に距離を取られる」


一歩。


琴葉さんが近づく。


「まるで」


視線が僕の瞳から、さらに深いところへ潜り込んでくるような気がした。


「どなたかが、貴方様の中から教えていらっしゃるようですわね」


背中に冷たいものが走った。


『ほう』


(皇帝!)


『なかなか勘の良い女だ』


(感心してる場合じゃない!)


僕は反射的に下がろうとした。


『動くな』


足が止まった。


(え?)


『一歩たりとも動くな』


声の温度が違う。


僕は目だけを動かした。


棚。


柱。


床。


何もない。


(何があるの?)


『見えぬか』


(何が!?)


一瞬の沈黙。


皇帝が告げた。


『眼を使え』


眼。


その一言で理解した。


魔眼。


僕が覚えたばかりの魔導。


「…………」


琴葉さんから目を離さないまま、胸の奥へ意識を沈める。


同調。


胸に浮かぶ恐怖へ意識を合わせる。


変換。


その感情を魔力へ。


生成。


黒紫の魔力が胸の奥で生まれた。


『焦るな』


皇帝の声。


次は循環。


全身へ回そうとする魔力を上へ。


胸から首。


頭。


そこから両眼へ。


「っ……」


一度、右眼へ向けた魔力が僅かに逸れた。


視界がぶれる。


『散らすな』


(分かってる!)


戻す。


右。


左。


両眼へ。


最後に。


収束。


目の奥が熱くなる。


昨日より速い。


でも。


まだ呼吸するようにはいかない。


それでも集めた魔力を視覚へ作用させる。


目を開いた。


「…………っ!?」


世界が変わった。


そして初めて。


見えた。


「な……に、これ……」


糸。


白く淡い光を放つ、無数の細い糸。


一本や二本ではない。


天井。


柱。


棚。


床。


僕のすぐ脇。


店内全体に張り巡らされている。


それなのに普通の視界では、存在すら分からなかった。


しかも。


「…………」


その糸は全部。


僕を中心に組まれている。


挿絵(By みてみん)


蜘蛛の巣。


そんな言葉が頭に浮かんだ。


(これ……いつから?)


『随分前からだ』


(教えてよ!)


『貴様がいつ気づくか見ておった』


(皇帝まで僕を試すな!)


琴葉さんが僕の瞳を見つめる。


初めて完璧だった微笑みが、ごく僅かに崩れた。


「まあ……」


「…………」


「そちらまで、ご覧になれますのね」


やっぱり普通なら見えない。


「これ、何なんですか?」


「《呪糸》でございますわ」


琴葉さんが右手を胸元まで上げる。


細い指が動いた。


ただそれだけ。


でも魔眼の中では、店内を埋め尽くす白い糸が一斉に震えた。


「わたくしが扱う拘束・封印術の一つでございます。通常、術を見る眼を持たぬ方には認識できませんの」


「じゃあ、僕が見えるか試したんですか?」


「いいえ?」


にっこり。


「見えないものとして張りましたの」


「もっと怖い!」


『ククッ』


(皇帝は笑うな!)


「ご安心くださいませ。抵抗なさらなければ、痛いことはいたしませんわ」


『嘘だな』


(皇帝!?)


琴葉さんの笑顔が、そこで初めて消えた。


「陰山様。大変申し訳ございませんが、少々お身体を拘束させていただきます」


「なんで!?」


「確認しなければならないことができましたの」


細い指が上がる。


魔眼の視界の中で、僕を取り囲んだ呪糸が一斉に張り詰めた。


「貴方様の中にいらっしゃる何者かが、この国へ害をなす存在であるならば」


声だけは。


相変わらず、とても丁寧だった。


「見過ごすわけにはまいりませんので」


『ふっ』


皇帝が笑った。


嫌な笑い方。


(皇帝)


『なんだ』


(余計なことしないでよ)


『余を縛るつもりらしいぞ』


(僕を縛るんだよ!)


『同じことだ』


(違う!)


その瞬間。


胸の奥が脈打った。


僕じゃない。


皇帝だ。


黒紫の魔力が、ほんの僅かに漏れ出す。


それだけだった。


なのに。


店内の空気が一変した。


茶器がかすかに鳴る。


吊り下げられた金具が震える。


魔眼の中では、琴葉さんの呪糸すべてが波打った。


「…………まあ」


琴葉さんの目が大きく見開かれる。


初めて。


余裕が消えた。


『小娘』


僕の口から皇帝の声が低く響く。


『余を縛りたくば、やってみるがよい』


(煽るなぁぁぁ!)


琴葉さんの両手が動く。


無数の呪糸が生き物のように僕へ向きを変えた。


まずい。


そう思った。


その時だった。


ゆらり。


店の奥。


壁一面に掛けられた大きな水墨画が揺れた。


「…………?」


墨で描かれた山。


川。


雲。


風なんてない。


なのに、描かれた川の水面に波紋が広がる。


木々が揺れ。


雲が流れ。


平面だったはずの絵が、ゆっくりと奥行きを持ち始めた。


『ほう』


皇帝の興味が、一瞬でそちらへ移った。


『門か』


(門?)


 

次の瞬間。


掛け軸から。


人間の手が出てきた。


「…………は?」


腕。


肩。


頭。


そして一人の男が、水墨画の中から何事もなかったように歩いて出てくる。


「ごめん、ごめん。遅くなって」


聞き覚えのある爽やかな声。


「虎壱さん!?」


菅原虎壱。


学校でも見た端正な顔立ち。


ただし今は、あの時とはまるで様子が違った。


身を包んでいるのは白銀の装甲。


虎を思わせる意匠が刻まれた肩当てには大きな傷が走り、ところどころ黒く焦げている。


頬にも浅い切り傷。


普段なら綺麗に整えられている黒髪も乱れ、額には汗が滲んでいた。


そして何より。


疲れている。


本人は平然とした顔をしているけれど、それくらいは僕にも分かった。


『随分と消耗しているな』


皇帝が呟く。


(虎壱さんが?)


『ああ。強がっているだけだ。あの装甲も相当な損傷を受けている』


(あれで……?)


虎壱さんは僕の視線に気づいたのか、白銀の肩を軽くすくめた。


「ちょっと予定外の相手と遊んでてね」


「遊んでた格好には見えませんけど……」


「私もそう思う」


だったら遊んでたって言わないでほしい。


すると。


虎壱さんの背後。


まだ揺れている水墨画から、今度は金髪の男がぬっと顔を出した。


「虎壱さぁん……待ってくださいって。オレっち、もうマジで限界なんすけどぉ……」


そのまま、ずるりと店内へ出てくる。


短い金髪。


横へ長く伸びたもみあげ。


軽薄そうな顔立ちの若い男。


黒を基調とした装束はあちこち裂け、露出した腕には擦り傷がいくつも走っている。


腰には鎖。


その先には、湾曲した刃。


鎖鎌だ。


「疲れたぁ……。鬼ってもっと空気読めないんすかね。こっち三人しかいねーっつーのに」


「鬼に空気を読むことを期待する方が間違っています」


そして琴葉さんをみつけるなり


「おっ、琴葉ちゃんじゃん! 今日も美人だねぇ」


「お帰りなさいませ、忍様」


「ただいまー。異界帰りのオレッちに、愛の抱擁とか」


「ございませんわ」


「最後まで言わせて!?」


この人めちゃくちゃ軽い。


「オレッち今回マジ頑張ったんだけど?」


「左様でございますのね」


「興味薄っ!」


さらに掛け軸が揺れた。



三人目。


今度は女の人だった。


小柄。


長い髪を三つ編みにして、眼鏡をかけている。


第一印象なら学校の図書委員。


しかしそのイメージが一瞬でぶち壊しにされる。


「........でか」

僕は思わずつぶやく。


背丈には明らかに不釣り合いなほど巨大な弓を背負っている。


彼女も無傷ではない。


袖は裂け、頬には煤がつき、三つ編みもところどころ乱れている。


それでも背筋だけは妙にしゃんとしていた。


挿絵(By みてみん)


「あと忍。疲れたのは分かりますけど、あーしにもたれないでください。重いです」


「翔子ちゃん冷たっ。オレっち今日めっちゃ頑張ったんすけど?」


「知ってます。だから自分の脚で立ってください」


「労りがゼロ!」


騒がしい。


三人ともボロボロなのに、空気だけ妙に軽い。


琴葉さんが口元に手を添えた。


「まあ……皆様、ずいぶんなお姿でございますこと」


「いやあ、ちょっと異界渡りしてきてね」


虎壱さんが軽く答える。


異界。


その単語に、僕は反応した。


皇帝も同じだったらしい。


『異界渡り、だと?』


(皇帝も知らない?)


『少なくとも余の世界には、そのような呼称はなかった』


虎壱さんは白銀の装甲の留め具を外しながら、何でもないことのように続けた。


「向こうで鬼王温羅《きおううら》とやり合ってたんだよ」


「うら?」


「温羅。こっちでは昔話にも繋がってる有名な鬼だよ」


鬼。


昔話。


僕の頭の中で、ある単語が浮かぶ。


「もしかして……桃太郎?」


「ご名答」


虎壱さんが指を鳴らした。


「こっちは桃太郎じゃないのに鬼退治とか、勘弁してほしいよ」


琴葉さんの表情が、ほんの少し曇る。


「まあ、鬼王ですって。ご無事で何よりでございますわ」


「今回は事前に北野天満宮から借りてた太刀があって助かったよ。あれがなかったら、もう少し面倒だった」


その瞬間。


さっき琴葉さんから聞いた言葉を思い出す。


まさか。


「虎壱さん、その刀……」


「ん?」


虎壱さんが笑う。


「鬼切安綱」


「持ってったの!?」


「持ってったよ」


「重要文化財を!?」


「壊してないから大丈夫」


虎壱さんは鞘を軽く叩く。


「そういう問題!?」


琴葉さんが優雅に微笑む。


「傷一つでもございましたら、虎壱様でもただでは済みませんでしたわよ」


「そこが温羅より怖かったなぁ」


「当然でございます」


なんなの、この会話。


鬼王。


異界。


鬼切安綱。


さっきから昔話と歴史とファンタジーが、同じ鍋の中で煮込まれている。


『鬼を斬るための武具か』


皇帝が興味深そうに呟く。


(皇帝の世界にも鬼っていたの?)


『似たものならばいた』


(強い?)


『種による。もっとも余の前では、魔族であろうが鬼であろうが、臣下となるか屍となるかの違いしかなかったがな』


(はいはい)


本当にこの人は、どんな話からでも最終的に自分の自慢へ着地できる。


思わず半目になる。


その時。


ふと。


金色の瞳と目が合った。


猿飛さん。


さっきまで疲れた疲れたと騒いでいたはずなのに、いつの間にかこちらを見ていた。


「……?」


僕が首を傾げると。


「んー?」


にへらっと笑う。


気のせいか。


虎壱さんが続けた。


「ただ、今回ひとつだけ失敗したことがあってね」


「失敗?」


「犬も連れていけば完璧だったんだよ」


「…………犬?」


猿飛さんが露骨に嫌そうな顔をした。


「あー、犬塚っすか?」


「そう」


「無理無理。絶対無理っす」


手をぶんぶん振る。


「オレっち、あいつとそり合わねーもん。共闘とか無理無理っすー」


「お前たち、まだ喧嘩してるの?」


「喧嘩じゃないっす。思想の不一致っす」


翔子さんが眼鏡を押し上げた。


「犬塚さんは忍が一方的に嫌いなだけです」


「翔子ちゃん!?」


「正確には『顔を見ると殴りたくなる』とおっしゃっていました」


「もっとダメじゃん!」


「まあまあ」


虎壱さんが笑いながら二人を宥める。


「猿と雉は揃ってたんだから、犬までいれば桃太郎一行が完成したのに」


「いや、だからオレっち猿じゃねーっすから!」


「猿飛なのに?」


「名字っす!」


「鎖鎌まで使うのに?」


「関係ねーっす!」


翔子さんが小さく息を吐いた。


「虎壱さんも虎なのですから、桃太郎一行に虎が混ざりますけど」


「そこはほら」


虎壱さんが自分を指差す。


「私は白虎だから」


一瞬。


誰も何も言わなかった。


琴葉さんが上品に微笑む。


「虎壱様」


「うん?」


「それは何の説明にもなっておりませんわ」


「厳しいなあ」


思わず笑いそうになる。


この人たち。


何なんだろう。


ボロボロになって異世界から帰ってきて。


鬼と戦って。


昔話みたいな武器を使って。


それなのに、話していることは犬だの猿だの桃太郎だの。


『妙な連中だ』


(皇帝もそう思う?)


『だが』


皇帝の声が少し低くなった。


『弱くはない』


(やっぱり?)


『ああ。特にあの三人』


言われて。


僕は虎壱さん。


猿飛さん。


翔子さんの順に視線を動かした。


『戦闘直後とはいえ、相当量の力を消耗している。それでもなお、あれだけ残っている』


(……そんなに強いんだ)


『少なくとも、貴様が今戦えば』



『瞬殺だな』


(比較対象に僕を使わないでよ!)


思わず顔をしかめた。


その瞬間。


また。


猿飛さんと目が合った。


「…………」


「…………」


今度は。


向こうが先に笑った。


ニッ。


さっきより少しだけ。


意味ありげに。


(……何?)


『あの金髪』


(猿飛さん?)


『先ほどから貴様を見ているぞ』


(え?)


反射的に、もう一度見る。


目が合う。


猿飛さんは何も言わない。


ただ笑っている。


(なんか怖いんだけど)


『気づかれたかもしれんな』


(何が!?)


『余だ』


(さらっと怖いこと言わないでよ!)


心臓が嫌な音を立てる。


いやいや、そんなわけない。


皇帝の声は僕にしか聞こえない。


僕だって口には出してない。


なら分かるはずが。


「ところで坊ちゃん」


「ひゃいっ!?」


変な声が出た。


猿飛さんだった。


「…………」


「…………」


翔子さんが眼鏡を押し上げる。


琴葉さんまで、わずかに首を傾げた。


「ひゃい?」


「噛んだだけです!」


「そっすか」


猿飛さんがニヤニヤしている。


絶対楽しんでる。


「坊ちゃん、陰山シュウくんで合ってる?」


「あ、はい」


「へえ」


じろじろ見られる。


上から。


下まで。


なんだ。


この人。


『警戒しろ』


(え?)


『先ほどまでの軽薄さが消えた』


言われて気づく。


笑っている。


口調も軽い。


だけど。


目が違う。


猿飛さんは、僕を見ているんじゃない。


観察している。


そんな感じがした。


「忍」


虎壱さんが呼ぶ。


「初対面の子をあまり怖がらせないでよ」


「怖がらせてないっすよ。オレっち、こんなにフレンドリーなのに」


「その顔で言っても説得力ないよ」


「ひどっ」


軽口を叩きながら猿飛さんは僕から視線を外した。


……と思った。


それから少しの間、虎壱さんたちは琴葉さんと温羅について話していた。


僕には分からない言葉も多い。


異界。


境界。


帰還座標。


霊脈。


知らない世界の話が、当たり前のように飛び交っている。


そのたびに皇帝が反応する。


『境界とは何を指している』


(僕に聞かれても知らないよ)


『では聞け』


(無理だよ。いきなり「境界って何ですか」なんて)


『使えぬな』


(僕、通訳じゃないからね?)


しばらくして。


『あの女の弓も面白い』


(翔子さんの?)


『ただの弓ではない。力の流れを増幅する構造になっている』


(へえ……)


思わず翔子さんの背中へ視線を向ける。


すると翔子さんがこちらを見た。


「?」


「あっ」


慌てて目を逸らす。


『不自然だぞ』


(誰のせいだと思ってるの!?)


また表情に出たらしい。


翔子さんが眼鏡の奥から、じっと僕を見ている。


まずい。


なんだろう。


さっきから見られている気がする。


猿飛さんにも翔子さんにも。


『俗物』


(今度は何?)


『どうやら、余計な反応をしすぎたようだな』


(だから誰のせいだよ!)


『貴様だ』


(九割皇帝だよ!)


「やっぱおかしいっすね」


声がした。


僕の思考が止まる。


さっきまで壁にもたれていた猿飛さんが、いつの間にか僕を見ていた。


笑っている。


でも目だけは笑っていない。


「……何がですか?」


「坊ちゃんっすよ」


猿飛さんが、自分のこめかみを指先でとんと叩く。


「オレっちたちがここに戻ってきてから、何回か妙な間がある」


「妙な……間?」


「そ」


金色の瞳が細くなる。


「誰も坊ちゃんに話しかけてねーのに、急に黙る。目線が止まる。しばらくすると、表情が変わる」


「…………」


心臓がどくんと鳴った。


「最初は考え事でもしてんのかと思ったんすけどね」


猿飛さんが笑う。


「違うんすよ」


軽かった声から温度が消えた。


「考えてる人間の間じゃねえ。誰かの話を聞いてる人間の間なんすよ」


背中を冷たい汗が伝った。


この人本当にずっと見てたんだ。


『ほう』


皇帝の声。


どこか楽しそうだった。


(ほう、じゃないよ!)


「それと」


猿飛さんが続けようとしたところで。


「忍」


翔子さんが遮った。


「あーしも、少し気になる」


「翔子さんまで!?」


三つ編みの少女が、僕を見つめる。


猿飛さんとは違う。


観察しているというより何かを感じ取ろうとしているような目だった。


「うまく言えないけど」


翔子さんの眉が寄る。


「陰山くん、一人なのに……たまに、一人分じゃない感じがする」


ぞくり。


『この小娘もか』


皇帝の声から、今度こそ愉快さが消えた。


「一人分じゃないって……」


「気配っていうのかな」


翔子さんが首を傾げる。


「重なる時がある」


猿飛さんがニヤッとする。


「ほら。やっぱなんかいるっしょ?」


「い、いるって何が……」


「さあ?」


一歩。


猿飛さんが近づく。


「だから聞いてんすよ」


金色の瞳が僕を射抜く。


挿絵(By みてみん)


「坊ちゃん」


笑っている。


なのに逃げ道を塞がれているような感覚。


「さっきから」


指先が僕の額へ向く。


「誰と喋ってんすか?」


答えられない。


皇帝も何も言わない。


店の空気が変わった。


さっきまで桃太郎だの犬だのと騒いでいたのが嘘みたいだ。


琴葉さんも黙っている。


その表情からは何も読み取れない。


けれどほんの一瞬だけ僕を見た紫色の瞳が揺れたように見えた。


その時。


「そこまで」


虎壱さんだった。


声は穏やか。


それなのに猿飛さんが止まった。


「虎壱さん?」


「忍。翔子ちゃん」


虎壱さんは二人を見てから。


僕を見る。


「その話は、私からするよ」


猿飛さんの眉がわずかに上がった。


翔子さんも同じだった。


「……虎壱さん、知ってるんすか?」


「まあね」


「いつから?」


「それも含めて、あとで」


「へえ……」


猿飛さんが僕を見る。


次に虎壱さんを見る。


そして何かを察したように、肩をすくめた。


「了解っす」


さっきまでの鋭さが嘘みたいに消える。


「上司命令なら、オレっちは大人しくしときまーす」


「忍。虎壱さんはあなたの直属の上司ではありません」


「細けーなあ翔子ちゃん」


「組織ですから」


「はいはい」


二人の空気が戻っていく。


でも僕だけは戻れなかった。


心臓がまだ速い。


『面白い』


皇帝が呟いた。


(何が)


『この国の術者どもだ』


その声にはほんのわずかに楽しんでいるような響きがあった。


『先ほどの女といい、この二人といい、想像していたよりは使える者がいるらしい』


(上からだなあ……)


『当然だ。余は皇帝だぞ』


いつもの返事に少しだけ安心する。


すると虎壱さんが僕の前まで来た。


白銀の装甲には傷。


頬には血の跡。


それでも、その目だけは妙に落ち着いている。


「ごめんね、陰山くん。待たせた上に、いきなり騒がしくなって」


「い、いえ……」


「本当はもう少し普通に話を始めるつもりだったんだけど」


虎壱さんが店内を見渡した。


琴葉さん。


猿飛さん。


翔子さん。


そして最後に僕を見る。


「ちょうどいいか」


「え?」


虎壱さんの表情から。


笑みが消えた。


「陰山くん」


空気がまた変わる。


今度は猿飛さんも茶化さない。


翔子さんも黙っている。


琴葉さんは静かに佇んでいる。


虎壱さんだけが。


僕をまっすぐ見ていた。


「君をここへ呼んだ理由を話そう」


『ようやくか』


皇帝の声が響く。


僕は。


小さく息を呑んだ。


虎壱さんが口を開く。


「まずは」


ほんの少し間を置いて。


「私たちが何者なのか。それを知ってもらうところから始めよう」


古びた店の奥。


壁に掛けられた水墨画が。


風もないのに、微かに揺れた。


僕はまだ知らなかった。


この古美術商の奥に。


どれだけ巨大な世界が隠されているのかを。


そして。


その向こうに何が待っているのか。


僕には、まだ分からない。












評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。