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第九話 前編 暗黒皇帝、器の才を見出す

夜。


自分の部屋へ戻った僕は。


鞄を床へ置くなり、ベッドへ倒れ込んだ。


「…………疲れた。」


枕に顔を埋めたまま。


肺の奥に溜まっていたものを全部吐き出すように、長く息を吐く。


身体が重い。


銭湯で温まって、少しは疲れが取れたはずなのに。


むしろ今は。


頭の方がぐったりしていた。


「今日……濃すぎるだろ。」


仰向けになる。


見慣れた天井。


いつもの部屋。


机の上には読みかけの漫画。


棚にはフィギュア。


脱ぎっぱなしの制服。


昨日までなら。


何も変わらない僕の日常だった。


机の上には一枚の白い名刺が置かれている。


防人 菅原虎壱


「…………」


あの男は。


あれだけ僕のことを引っ掻き回しておいて。


その後は、驚くほどあっさり帰っていった。


『今日はもう何も聞かない』


そう言った約束を守るように。


最後にもう一度だけ僕へ頭を下げると。


「じゃあ、またね。陰山くん」


まるで近所で偶然会った知り合いみたいな調子で。


本当にそれだけ言って。


松風の湯を出ていった。


「…………」


僕は名刺をつまみ上げる。


(なんだったんだ、あの人……。)



身体を起こして、名刺を手に取る。


「……防人、か。」


聞いたことはある。


たしか昔。

九州の守りにつくために送られた兵士のことだったはずだ。

学校の授業で習った記憶がある。

(でも……)

僕は名刺をひっくり返す。


裏は真っ白。

(それがなんで、今の時代に?)

会社名も。

電話番号も。

住所もない。



ベッドの上で大の字になり名刺をながめながら、ぼんやりと今日一日あったことを思い返す。


昼。

桜井さんと一緒にファミレスへ行った。

あんなふうに女の子と二人でご飯を食べるなんて。


普段の僕なら、それだけで一週間は思い出してニヤニヤしていたと思う。


最後はいつもの銭湯へ行って。


そこだけ切り取れば。


ハッピーで最高な休日だ。


なのに。


銭湯で菅原虎壱という変な男と出会って。


なぜかフルーツ牛乳とコーヒー牛乳のどちらが湯上がりに最高か勝負することになって。


ラムネに裏切られて。


小学生にとどめを刺されて。


そして。


その牛乳好きの変な男が。


僕の名前を知っていた。


僕がいじめられていたことも。


学校で起きたことも。


流星に撃たれたことも。


父さんのことも。


妹のことまで。


知っていた。


胸の奥が。


少しだけ重くなる。


そして僕は。


怒りに呑まれた。


あの時。


身体から溢れ出した黒紫の魔力。


震える牛乳瓶。


明滅する蛍光灯。


何も見えないほどの速さで僕の背後へ回った男。


そして。


『シュウ!』


「…………」


思わず目を閉じる。


あれ。


やっぱり聞き間違いじゃなかったよな。


皇帝が。


僕を名前で呼んだ。


いつもなら。


俗物。


貴様。


器。


だいたいそんな感じなのに。


僕の名前を。


「…………」


なんだろう。


ちょっと。


嬉しかった。


『気色の悪い顔をするな。』


「うわっ!?」


思わず身体を起こした。


(いきなり話しかけないでよ!)


『先ほどから一人で百面相しておるのは貴様であろう。』


(誰のせいでこんなことになってると思ってるの!?)


『知らんな。』


(皇帝だよ!)


即答した。


(だいたいさ。)


僕は再びベッドへ倒れ込む。


(今日一日で起きていいイベント量じゃないだろ……。)


桜井さん。


銭湯。


牛乳当てゲーム。


まではいいとして。


読心。


魔力暴走。


そして。


防人、菅原虎壱。


虎壱は龍二の兄だという。


(もうお腹いっぱいだよ。)


『軟弱者め。』


(普通の高校生なら三日くらい寝込む内容だからね?)


『ならば寝込め。』


(明日学校あるんだよ!)


『面倒な世界だな。』


(皇帝がそれ言う?)


少しだけ。


笑った。


不思議だった。


さっきまで胸の奥に残っていた嫌な重さが。


いつものくだらないやり取りをしているだけで。


ほんの少し軽くなる。


僕は名刺を机へ戻した。


「……でも。」


天井を見上げる。


(虎壱さん……結局、何者なんだろう。)


『知らん。』


(防人って?)


『知らん。』


(あの、心を読むみたいな力は?)


『知らん。』


(……皇帝、意外と知らないこと多いね。)



『俗物。』


(はい。)


『今すぐ身体を寄越せ。』


(なんで!?)


『貴様を殴る。』


(横暴!)


思わず笑ってしまう。


だけど。


皇帝はそれ以上、何も言わなかった。


数秒。


沈黙が流れる。


(……皇帝?)


『だが。』


さっきまでとは。


声の響きが違った。


僕は笑うのをやめる。


『あの男のことは、ひとまず置いておけ。』


(え?)


『今日、貴様が考えるべきことは他にある。』


その声に。


自然と身体を起こしていた。


(……なに?)


『銭湯でのことだ。』


胸が。


小さく鳴る。


『貴様から溢れ出した魔力。』


僕は自分の右手を見る。


今は。


何もない。


ただの。


少し太い高校生の手。


だけど。


あの時は違った。


黒と紫の靄が。


確かにこの手から溢れていた。


(……あれ。)


自分の指を見つめる。


(本当に、僕がやったの?)


『そうだ。』


即答だった。


(でも。)


(魔力なんて皇帝の力なんじゃ……。)


『違う。』


「……え?」


思わず声が出た。


『正確に言えば、完全に違うとも言えぬがな。』


(どういうこと?)


しばらく。


皇帝は答えなかった。


やがて。


頭の奥で。


低い声が響く。


『俗物。』


『今日の出来事で、一つ分かったことがある。』


(……なに?)


一拍。


『貴様には。』


皇帝が告げる。


『魔導の才がある。』


「…………」


時計の秒針だけが。


カチ。


カチ。


と部屋に響いていた。


「…………え?」


間の抜けた声が出た。


(僕に?)


『そう言っておる。』


(魔法の?)


『魔導だ。二度言わせるな。』


「…………」


僕は自分の手を見る。


挿絵(By みてみん)



握る。


開く。


もう一度。


握る。


どこからどう見ても。


いつもの僕の手だった。


(……僕が?)


小学生の頃から運動は苦手。


喧嘩なんてしたこともない。


ずっといじめられて。


抵抗することすらできなかった。


そんな僕に。


才能?


それも。


魔法の?


「いやいやいや。」


思わず首を振った。


「ないない。」


『……何がだ。』


(だって僕だよ?)


『だから何だ。』


(僕、普通以下のオタク高校生だよ?)


『知っておる。』


(そこは否定してよ!)


皇帝は鼻で笑った。


『安心しろ。』


『剣を握ったこともなく。』


『身体を動かせば鈍重。』


『胆力もない。』


(悪口増えてない!?)


『だが。』


ぴたり。


言葉が止まる。


『魔導においては別だ。』


その一言だけは。


冗談でも。


皮肉でもなかった。


『少なくとも。』


『貴様には、余が教えるだけの価値がある。』


「…………」


胸の奥が。


ほんの少しだけ熱くなった。


皇帝から。


初めて。


才能があると。


そう言われた気がした。


「…………」


でも。


すぐに別の疑問が浮かんだ。


(だけどさ。)


『なんだ。』


(僕、本当に魔力なんて持ってるの?)


右手を目の前にかざす。


握って。


開く。


当然。


黒紫の靄なんて出てこない。


(銭湯では確かに出てたけど……。)


(今は何にも感じないよ。)


『当然だ。』


(当然なの?)


『貴様はまだ、自らの意思で魔力を引き出す術を知らぬ。』


皇帝は呆れたように言う。


『偶然、蛇口が開いたからといって、水道の構造を理解したことにはならん。』


(皇帝、水道覚えたんだ……。)


『そこに食いつくな。』


怒られた。


でも。


言いたいことは分かる。


あの時の僕は。


魔法を使おうなんて思っていなかった。


ただ。


腹が立って。


どうしようもなくなって。


気づいたら、あの力が溢れていた。


『俗物。』


皇帝の声が少し低くなる。


『銭湯で、あの男に妹のことを言われた時。』


身体が僅かに強張った。


今でも。


あの瞬間を思い出すだけで。


胸の奥がざらつく。


『貴様は何を感じた。』


(……怒り。)


即答だった。


『それだけか?』


「…………」


目を閉じる。


妹のことを口にされた。


父さんのことも。


あの日のことも。


忘れようとしていた記憶を。


勝手に。


引きずり出された。


腹が立った。


許せなかった。


でも。


その前に。


確かにあった。


別の感情。


(……怖かった。)


皇帝はすぐには答えなかった。


『そうだ。』


短い声だった。


『恐怖。』


『怒り。』


『後悔。』


『罪悪感。』


一つずつ。


胸の奥に沈んでいるものを指でなぞられているような感覚がした。


『人間が忌み嫌い。』


『己の内より排除しようとする感情。』


『それらを総じて、負の感情と呼ぶのであろう?』


(……まあ、そうだけど。)


『貴様はそれを。』


一拍。


『魔力へ変換した。』


「…………え?」


思わず身体を起こした。


(変換?)


『そうだ。』


『銭湯で余の魔力が勝手に漏れたわけではない。』


『貴様の精神と余の精神が同調し。』


『貴様の感情を媒介として、魔力を引き出した。』


僕は右手を見る。


あの黒紫の靄。


てっきり。


皇帝の力が勝手に漏れただけだと思っていた。


(じゃあ……。)


(あれって。)


『貴様が起こした現象だ。』


「…………」


急に。


自分の右手が。


知らないものみたいに見えてきた。


(でも。)


(なんで僕がそんなこと……。)


皇帝は小さく鼻を鳴らした。


『相性だ。』


(相性?)


『魔力にも性質がある。』


『そして人の精神にもな。』


僕は黙って聞く。


『同じ魔力を有していようとも。』


『何を媒介とし。』


『いかなる現象へ変換しやすいかは、術者によって異なる。』


(つまり……得意不得意みたいな?)


『俗な言い方をすればな。』


(いちいち一言多いんだよなあ。)


『何か言ったか?』


(何も。)


危ない。


だけど。


皇帝の声はすぐに真面目なものへ戻った。


『そして貴様の場合。』


『負の感情と魔力の親和性が、異様に高い。』


「異様……。」


なんとも嬉しくない褒められ方だった。


『特に。』


『恐怖と怒りだ。』


その二つの言葉だけが。


妙に重く聞こえた。


(恐怖と……怒り。)


『思い出せ。』


『以前。』


皇帝の声と同時に。


ファミレスでの出来事が頭に浮かぶ。


理不尽に怒鳴り散らしていた客。


そして。


皇帝が放った魔法。


『深淵に眠る恐怖よ。』


『忘却の底より蘇れ。』


背筋が僅かに震えた。


(《深淵恐慌》……。)


『そうだ。』


深淵恐慌《アプグルント・シュレッケン》。


相手の心の奥底に沈んでいる恐怖を引きずり出し。


精神そのものへ叩きつける。


あの客の男は。


一瞬で。


まともに立っていられなくなった。


『恐怖という感情は。』


『闇魔法において、精神へ干渉する術と非常に相性がよい。』


(……じゃあ。)


嫌な予感がした。


(僕にも、あれが使えるってこと?)


『現時点では無理だ。』


(即答。)


『安心するな。』


(してないよ。)


『だが。』


皇帝が続ける。


『恐怖を意識的に魔力へ変換できるようになれば。』


『いずれ貴様にも使える。』


思わず喉を鳴らした。


僕が。


魔法を。


それも。


あの《深淵恐慌》を。


使う?


あまりにも現実離れした話なのに。


今日。


実際に僕の身体から魔力が溢れた。


もう。


「そんなの漫画の中だけだろ」と笑える立場じゃない。


(じゃあ……怒りは?)


今度は僕から聞いた。


皇帝が少し間を置く。


『怒りは。』


『外へ向かう力だ。』


(外へ?)


『恐怖とは、精神を内側から蝕む感情だ。』


『故に闇魔法へ転じれば、他者の精神へ侵入する術と親和する。』


『だが怒りは違う。』


低い声が響く。


『敵を倒せ。』


『抗え。』


『破壊せよ。』


『前へ進め。』


『そう肉体へ命ずる感情だ。』


あの時を思い出す。


拳を握った。


男へ掴みかかった。


身体が。


自分の意思を追い越して動いていた。


『故に。』


『怒りを正しく魔力へ変換すれば。』


皇帝は告げた。


『肉体そのものを、常人の限界を超えて強化することも可能となる。』


「……!」


思わず自分の腕を見る。


ぽよん。


……説得力がない。


『現実を見て絶望するな。』


(心読まないでよ!)


『丸聞こえだ。』


そうだった。


僕ら同じ頭の中にいるんだった。


でも。


身体を強化する魔法。


それなら。


いじめられていた時も。


今日みたいに誰かへ掴みかかろうとした時も。


もし扱えていたら。


僕は。


(強く……なれるのかな。)


言葉に出さず。


心の中で呟く。


皇帝には。


当然聞こえている。


でも。


今回は笑わなかった。


『なれる。』


「…………」


即答だった。


『ただし。』


やっぱり続きがあった。


『勘違いするな。』


『怒れば強くなるわけではない。』


『恐怖に怯えれば術が使えるわけでもない。』


皇帝の声が。


厳しくなる。


『今日の貴様を思い出せ。』


牛乳瓶。


冷蔵庫。


蛍光灯。


そして。


番台のおばあちゃん。


胸が少し痛んだ。


『あれは魔導ではない。』


『ただの暴走だ。』


「…………」


何も言い返せなかった。


『感情に喰われ。』


『力を垂れ流し。』


『周囲を巻き込む。』


『そんなものを術者とは呼ばぬ。』


(……うん。)


『感情を殺す必要はない。』


『恐怖も。』


『怒りも。』


『全て抱いたままでよい。』


皇帝の声が。


静かになる。


『だが。』


『支配せよ。』


その一言だけが。


頭の奥へ深く沈んだ。


『感情に魔力を使わせるな。』


『貴様が。』


『感情を魔力として使え。』


「…………」


銭湯で。


皇帝に言われた言葉を思い出す。


力を使うのは僕。


力に使われるんじゃない。


今になって。


少しだけ意味が分かった気がした。


『それが出来れば。』


皇帝は続ける。


『恐怖は他者の精神を侵す刃となり。』


『怒りは己の肉体を武器へ変える。』


そして。


ほんの僅かに。


楽しそうな気配が伝わってきた。


『貴様が最初に習得すべき術も。』


『おのずと決まる。』


(術……。)


胸が少し高鳴る。


(どんな魔法?)


『焦るな。』


(ここまで言って!?)


『まずは。その負の感情を、己の意思で魔力へ変換してみせろ。』


(……どうやって?)


『それを今から叩き込む。』


(叩き込むって言い方、怖くない?)


『安心しろ。』


『死なん程度には手加減してやる。』


(全然安心できない!)


皇帝が。


愉快そうに笑った気がした。

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