第八話 後編 暗黒皇帝、器の名を呼ぶ
胸の奥から湧き上がったどす黒い怒りが、血液に混じって全身を巡っていくような錯覚に襲われた。
心臓が脈打つたびに。
どくん。
どくん。
怒りが身体の隅々まで送り込まれていく。
頭では、やめろと思っている。
なのに。
身体はもう。
僕の言うことを聞かなかった。
あの日の恐怖も。
何もできなかった後悔も。
今も胸の奥にこびりついている罪悪感も。
全部。
全部が。
胸の奥から湧き上がった、ただ一つの感情に呑み込まれていく。
怖いはずなのに。
苦しいはずなのに。
もう、何も感じなかった。
残ったのは。
ただ一つ。
目の前の男を許せないという。
燃えるような怒りだけだった。
気づけば。
僕は立ち上がっていた。
「……お前。」
自分でも驚くほど。
低い声が出た。
男の笑みが消える。
「それ以上。」
拳を握る。
爪が掌へ食い込む。
「妹のことを……。」
頭では分かっている。
この人は。
僕を怒らせようとしている。
皇帝の存在を確かめるために。
それでも。
止まらなかった。
「勝手に……!」
「知ったようなこと言うなよ!」
男の胸ぐらへ。
手を伸ばした。
その瞬間だった。
ぞわっ。
背筋を。
冷たい何かが駆け上がる。
「……っ?」
僕の腕から。
黒紫色の靄が噴き出した。
炎でもない。
煙でもない。
空気そのものが歪んでいるような。
黒と紫の魔力。
それが。
僕の肩から。
腕から。
指先から。
ゆらゆらと立ち上っていた。
(な……。)
(なんだ、これ……。)
『俗物!』
頭の中で。
皇帝の声が轟く。
『止まれ!』
だけど。
身体は止まらない。
いや。
止められない。
胸の中の怒りと連動するように。
魔力が膨れ上がっていく。
カタ。
テーブルの上の空き瓶が震えた。
カタカタ。
冷蔵庫のガラス戸まで。
細かく振動を始める。
ミシッ。
木製ベンチが低く軋んだ。
天井の蛍光灯が。
チッ。
チチッ。
不規則に瞬く。
『鎮めろ!』
(できない……!)
『これは余ではない!』
「……え?」
その言葉だけは。
怒りの中でもはっきり聞こえた。
『止めろ!』
(できない……!)
『今、魔力を引き出しているのは貴様だ!』
僕が?
『感情に引きずられておる! 鎮めろ!』
(そんなこと言われても……!)
『制御も知らぬ俗物が垂れ流せば、この建物ごと吹き飛ぶぞ!』
それでも。
目の前には男がいる。
妹のことを。
知ったように口にした男。
許せない。
掴んでやる。
一発くらい。
その胸ぐらを。
僕の指が。
男へ届こうとした。
瞬間。
消えた。
「……え?」
目の前から。
男の姿だけが消えていた。
残像すら。
なかった。
頬へ。
ほんの少しだけ風が触れる。
そして。
ぽん。
右肩に。
誰かの手が置かれた。
「落ち着いて。」
背後。
「……っ!?」
振り返る。
男が。
僕の後ろに立っている。
いつ。
動いた。
右?
左?
全く見えなかった。
拳を構えてすらいない。
攻撃するでもなく。
僕の肩へ。
ただ静かに手を置いている。
『……ほう。』
皇帝が呟く。
『こちらの世界の人間にしては、よく動く。』
男の額には。
ほんの一筋。
汗が浮かんでいた。
「っ!」
僕は反射的に肩に置かれた手を振りほどいた。
いつの間に。
そんな疑問が驚きとともに頭をよぎったのは、ほんの一瞬だった。
「……ふざけるな!」
驚きなんて胸を埋め尽くす怒りの前では、何の意味もなかった。
「妹のことまで勝手に調べて……!」
「知ったようなこと言うなよ!」
もう一度飛びかかろうとした。
けれど。
今度は僕より先に。
僕の中の〝何か〟が動いた。
ぶわっ。
黒紫の魔力が、一気に膨れ上がる
『俗物!』
皇帝の声が頭の中で轟く。
『止まれ!』
(無理だ……!)
止められない。
妹のことを口にした。
あの日のことを。
僕が何年も蓋をしてきたものを。
こいつは。
勝手に。
『シュウ!』
「……!」
一瞬。
思考が止まった。
皇帝が。
僕を名前で呼んだ。
初めてだった。
それでも。
怒りは消えない。
カタカタカタカタッ。
今度は一本じゃない。
冷蔵庫の中に並んだ瓶まで、一斉に震え始めた。
ミシッ。
ベンチが軋む。
蛍光灯が明滅する。
黒紫の魔力が身体から溢れ続ける。
男はそれを見て。
でも。
その声は穏やかだった。
「陰山くん。」
「周りを見て。」
「……え?」
「怒るのは当然だ。」
「私が君を怒らせた。」
「だから。」
「まず謝らせてほしい。」
「……すまなかった」
男から笑みが消えた。
「君を試した」
「皇帝の存在を確かめるために、君がどこまで反応するのか見ようとした」
深く。
頭を下げる。
「でも、妹さんのことまで利用したのは私が悪い」
「君の傷をえぐった」
「本当に、すまない」
「…………」
だからって。
怒りが消えるわけじゃない。
許せるわけでもない。
黒紫の靄は、僕の身体から溢れ続けていた。
カタカタ、カタカタ。
牛乳瓶が震える。
冷蔵庫のガラス戸がさらに細かく鳴り始める。
その時だった。
「シュウちゃん?」
「……!」
聞き慣れた声に。
僕の身体が止まった。
番台から。
おばあちゃんが心配そうにこちらを覗いていた。
「大丈夫?」
「なんか、さっきから地震かしら?ガタガタいってるけど……」
いつものおばあちゃんだった。
僕が小さい頃から。
この銭湯に来るたびに声をかけてくれた人。
「今日は遅かったねえ」
「学校どうだった?」
「ちゃんとご飯食べてる?」
学校でどんな目に遭った日でも。
ここに来れば。
いつも同じように迎えてくれたそのおばあちゃんが。
今は少し怯えた顔で僕を見ている。
「…………」
胸が。
痛んだ。
男が静かに言った。
「陰山くん」
さっきまでの。
人の心を覗き込むような冷たい声ではなかった。
「君が怒るのは当然だ」
「私が怒らせた」
「だから、私を殴りたいなら後でいくらでも付き合うよ」
「でも」
男の視線が。
僕の向こうへ向けられる。
「ここは、やめよう」
「……」
「君の大好きな場所なんだろ?」
僕は周囲を見る。
古びた木の床。
牛乳の冷蔵庫。
何度も腰掛けたベンチ。
色褪せた暖簾。
そして。
番台から僕を心配そうに見てくれてる、おばあちゃん。
「ここで君と私が暴れたら」
男は小さく息を吐いた。
「あの人まで巻き込んでしまう」
「……っ」
その言葉が。
怒りで真っ黒になっていた頭の中へ。
一本の針みたいに突き刺さった。
僕は自分の拳を見る。
黒紫の靄が絡みついている。
もし。
教室の時みたいに。
あの力がここで爆発したら。
冷蔵庫のガラスが割れる。
窓が砕ける。
木片が飛ぶ。
その先には。
おばあちゃんがいる。
(…………だめだ)
怒っている。
今だって。
こいつをぶん殴ってやりたい。
それでも。
(おばあちゃんは、関係ない)
『俗物』
皇帝の声が。
今度は静かに響いた。
『怒るなとは言わぬ』
『余とて、あの男の物言いは不愉快だ』
『だが覚えておけ』
『己の怒りすら御せぬ者に、力を振るう資格はない』
『守るべきものまで壊してどうする、俗物』
「…………」
僕は歯を食いしばった。
震える拳を。
ゆっくり。
ゆっくりと開いていく。
黒紫の靄が。
少しずつ薄れていった。
「……大丈夫だよ、おばちゃん」
どうにか。
笑ってみせる。
「ちょっと……牛乳の味のことで熱くなっちゃっただけだから」
「そう?」
おばあちゃんはまだ心配そうだったけど。
「喧嘩はダメだよ?」
「……うん」
「せっかくお風呂入ったのに、また汗かいちゃうよ」
「…………」
こんな時なのに。
少しだけ。
笑いそうになった。
(……壊したくない。)
その思いが浮かんだ瞬間。
黒紫の魔力が。
ほんの少しだけ弱くなった。
『そうだ。』
皇帝の声も落ち着きを取り戻す。
『俗物。』
『怒りを捨てろとは言わぬ。』
『怒るべき時には怒れ。』
『だが。』
低い声。
『怒りに己を使わせるな。』
『力を使うのは貴様だ。』
『力に使われるな。』
僕は。
ゆっくり息を吸った。
吐く。
もう一度。
吸う。
吐く。
ゆらゆらと立ち上っていた黒紫の魔力が。
少しずつ。
身体の中へ戻っていく。
カタ……。
瓶やガラス戸の震えが止まった。
蛍光灯も。
何事もなかったかのように明かりを取り戻す。
僕はその場へ座り込んだ。
「はぁ……。」
全身から。
力が抜けていく。
男も小さく息を吐いた。
そして。
僕を見ながら呟いた。
「……なるほど。」
「これで。確信した。」
一瞬だけ。
さっきまでの観察者の目に戻る。
黒紫の靄は。
もう消えていた。
「…………」
男を見る。
怒りが消えたわけじゃない。
許したわけでもない。
「……あなた」
「何者なんですか」
男は少し困ったように笑った。
「そうだね」
「こちらばかり質問するのは、フェアじゃない」
どこから取り出したのか。
一枚の白いカードが差し出された。
「改めて自己紹介しよう」
受け取る。
名刺だった。
そこには。
たった二つ。
見慣れない言葉と。
一人の男の名前だけが記されていた。
防人
菅原虎壱
「……さきもり?」
聞き覚えのない言葉だった。
だけど。
その下。
名字を見た瞬間。
別の名前が頭へ浮かぶ。
菅原。
「……まさか。」
顔を上げる。
「龍二……くんの?」
すると。
虎壱は。
さっきまでの冷たい表情が嘘だったように。
ふっと笑った。
牛乳論争をしていた時と。
まったく同じ笑顔。
「そう。」
「兄です。」
「……ええっ!?」
思わず声が裏返った。
「いや待って!」
「龍二、、、、くんのお兄さん!?」
「そうだけど。」
「似てないってよく言われる。」
「そこじゃないです!」
虎壱は小さく笑う。
でも。
すぐに。
表情を正した。
「それと。」
深く頭を下げる。
「弟のことについても。」
「君に謝らなければならない。」
「……。」
「龍二が君にしてきたこと。」
「兄でありながら。」
「長い間、止められなかった。」
「本当に。」
「申し訳なかった。」
「いや……。」
どう反応していいか。
分からない。
さっきまで。
僕の思考を追い詰めていた人が。
今は。
弟のことで頭を下げている。
「もちろん。」
虎壱は顔を上げた。
「兄だからといって。」
「弟の人生すべてを管理できるとは思っていない。」
「でも。」
声の温度が。
ほんの少し下がる。
「知った以上は。」
「見過ごさない。」
「龍二には。」
「きっちり、けじめをつけさせる。」
ぞくり。
なんとなく。
龍二の今後が心配になった。
「仕事で家を空けることが多くてね。」
「日本全国を飛び回っている。」
虎壱は頭を掻く。
「それで弟のことまで目が届いていなかった。」
「……いや。」
自分で言いながら。
首を横へ振った。
「これは言い訳だな。」
「私が忙しかったことと。」
「君が傷つけられたことは。」
「何の関係もない。」
僕は虎壱を見る。
分からない。
この人が。
敵なのか。
味方なのか。
まだ。
何も分からない。
でも。
少なくとも。
さっきの謝罪だけは。
嘘には見えなかった。
虎壱は僕を見る。
「陰山くん。」
「今日は。」
「もう何も聞かない。」
「……。」
「約束する。」
そして。
少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「改めて。」
「謝罪する場を設けさせてもらえないかな。」
「弟のことも。」
「今日、私がしてしまったことも。」
「ちゃんと話したい。」
僕は答えられない。
すると。
虎壱は。
最後に一つだけ。
付け加えた。
「それと。」
その視線が。
僕ではなく。
僕のもっと奥へ。
向けられたような気がした。
「次は。」
「皇帝にも。」
穏やかに笑う。
「きちんと挨拶させてもらいたい。」
胸の奥が。
小さくざわつく。
この人は。
もう。
疑っていない。
僕の中に。
皇帝がいる。
そのことを。
完全に確信している。
頭の奥で。
しばらく黙っていた皇帝が。
ふっ。
と笑った。
『……面白い。』
ほんの少し。
嬉しそうに。
『面白い俗物だ。』




