第八話 前編 暗黒皇帝、警告する
僕の背中を、冷たい汗がゆっくりと伝っていく。
目の前の男は、そんな僕とは対照的だった。
ついさっき勝ち取ったコーヒー牛乳の紙蓋を器用に開け、一口だけ飲む。
「……やっぱり、湯上がりはこれだね。」
満足そうに息を吐く姿は、どこからどう見ても普通の銭湯客だ。
ほんの数分前までなら、僕も「いや、フルーツ牛乳ですって」と笑って返していただろう。
でも。
もう、あの空気はどこにもなかった。
男は瓶を膝の上へ置いた。
「それじゃあ。」
穏やかな声。
「約束の質問に答えてもらっていいかな。」
口元には、さっきまでと変わらない柔らかな笑みが浮かんでいる。
なのに。
その瞳には、何の感情も宿っていなかった。
獲物の動きをただ静かに観察する、肉食獣の目。
「繰り返しになるけど。」
男は言った。
「皇帝って、何者?」
胸の奥が大きく跳ねた。
その瞬間。
頭の奥へ、鋭い声が響く。
『俗物。』
皇帝だった。
『何も考えるな。』
(え?)
『答えを思い浮かべるだけでも危険だ。』
いつもの尊大さはない。
声に混じっているのは、明確な警戒。
『思考を止めろ。』
『今は余の姿すら意識へ上らせるな。』
(そんなこと言われても……。)
人間は不思議なもので。
考えるな、と言われた瞬間から。
かえって、そのことばかり考えてしまいそうになる。
男は僕の顔を静かに眺めていた。
そして。
「陰山シュウくん。」
僕の肩が僅かに強張る。
「私立蒼嶺学園高等学校、二年生。」
「……間違いないね。」
「なんで……。」
喉が張り付いたように乾いていた。
「なんで、僕のこと知ってるんですか。」
男は答えない。
代わりに。
僕の人生を読み上げ始めた。
「小学校高学年の頃から、同級生からのからかいが始まった。」
「それが中学へ進む頃には、いじめへ変わる。」
「高校ではさらに悪化。」
男は指を一本ずつ折るように続ける。
「暴力。」
「恐喝。」
「雑用の強要。」
「それでも君は。」
一拍。
「ほとんど抵抗しなかった。」
呼吸が浅くなった。
どうして。
どうして、そこまで知っている。
あの地獄みたいな日々を。
わざわざ誰かに話したことなんてない。
思い出したくもない。
古い換気扇が、天井で低い音を立てて回っていた。
その音だけが。
やけに耳につく。
男は僕の様子を眺めながら、ぽつりと言った。
「否定しないんだね。」
「……っ。」
しまった。
何も答えていない。
なのに。
沈黙したこと自体が、答えになってしまった。
『俗物。』
皇帝の声が低くなる。
『奴は尋問しているのではない。』
『貴様の思考を誘導しておる。』
(思考を……?)
『質問そのものに囚われるな。』
『奴が欲しているのは答えではない。』
『貴様が答えを考える、その瞬間だ。』
背筋が粟立つ。
男は淡々と話を続けた。
「そして数日前の朝。」
テーブルの上。
瓶の表面についた水滴が、一粒だけ落ちた。
ぽたり。
「数年間、抵抗らしい抵抗もしなかった少年が突然変わった。」
「教室の真ん中で。」
「自らを皇帝と名乗った。」
男の目が細くなる。
「“無礼者が”」
あの日の光景が。
一瞬だけ脳裏を掠める。
割れる窓。
悲鳴。
砕け散るガラス。
『思い出すな!』
皇帝の声が頭蓋の内側を叩いた。
僕は慌てて意識を逸らす。
男は続ける。
「その言葉の直後。」
「教室中の窓ガラスが、一斉に割れた。」
喉が鳴った。
「そして、その日の昼休み。」
今度は。
男が真っ直ぐ僕を見る。
「君は校舎裏へ呼び出された。」
「……主犯格三人からね。」
息が止まりかけた。
動画には。
校舎裏のことなんて映っていない。
「でも。」
男はほんの少しだけ首を傾ける。
「しかし君は一切、暴力をつかわらずに彼等をやりこめた。」
僕の指先が冷たくなっていく。
「一体。」
「君に何が起きたんだい?」
そして。
もう一度。
核心へ戻る。
「暗黒皇帝ヴァルガイアとは。」
「何者なんだ。」
頭の奥。
しばらく皇帝は何も言わなかった。
その沈黙が。
かえって怖かった。
やがて。
『……厄介な相手だ。』
その一言だけが落ちる。
普段なら。
俗物が、愚物がと鼻で笑うはずの皇帝が。
今は笑わない。
『俗物。』
『奴に答えを与えるな。』
『否。』
『答えを考えることすら禁ずる。』
僕は乾いた唇を舐めた。
どうする。
何か喋らないと。
でも。
本当のことを考えたら駄目だ。
だったら。
嘘。
別の嘘で頭を埋めればいい。
「……好きな漫画があるんです。」
気付けば口が動いていた。
男の眉が、ほんの僅かに上がる。
「漫画?」
「はい。」
僕は頷く。
「その主人公なんです。」
「暗黒皇帝ヴァルガイア。」
「ずっと憧れてて。」
「そのキャラみたいになれたら、少しは強くなれるかなって。」
自分でも驚くほど言葉が続く。
「だから、あの日も勢いで演じただけです。」
苦笑いまで作る。
「窓ガラスのことは、本当に分かりません。」
「もしかしたら。」
「あいつらが何か仕込んでたのかもしれないし。」
言い切った。
悪くない。
咄嗟に考えたにしては。
かなり自然だったはずだ。
男は何も言わない。
三秒。
五秒。
ただ。
僕を見ている。
たったそれだけなのに。
息が苦しい。
やがて。
「なるほど。」
男は小さく頷いた。
「面白い回答だ。」
少しだけ。
肩の力が抜けかける。
その瞬間だった。
「だから。」
男はスマートフォンをテーブルへ置いた。
「私も調べてみた。」
「……え?」
「漫画。」
「アニメ。」
「ゲーム。」
「ライトノベル。」
「創作投稿サイト。」
「同人作品。」
一つずつ。
逃げ道を塞ぐように。
「確認できる範囲で、過去三十年ほど。」
男は穏やかに告げた。
「ヴァルガイアという固有名詞は、一件も見つからなかった。」
口の中が、一気に乾く。
「もちろん。」
「世の中すべての創作物を調べることなんて不可能だ。」
「だから。」
男は僕を見る。
「本当に存在する作品なら。」
「どこで読んだのか、教えてもらえるかな。」
答えられない。
頭の中に浮かぶのは。
存在しない漫画を、どう誤魔化すか。
そればかり。
男は僕を追及しない。
責めもしない。
その態度が。
逆に恐ろしかった。
やがて彼は言う。
「でも。」
「正直なところ。」
「漫画が存在しているかどうかは、どうでもいい。」
「……え?」
「君の創作でも構わない。」
男の声は、研究者が仮説を整理するように淡々としている。
「私が知りたいのはそこじゃない。」
「あの日。」
「実際に窓ガラスが割れた。」
「その事実を。」
「漫画の真似をした、では説明できない。」
男はスマートフォンを軽く指で叩いた。
「投稿された動画は何百回も見た。」
「学校にも行った。」
「教室も確認した。」
「窓枠。」
「ガラスの破断。」
「破片の飛散方向。」
「できる限り調べた。」
僕は思わず息を呑む。
そこまで。
やったのか。
「結論として。」
男は残っていたコーヒー牛乳を飲み干した。
瓶が静かにテーブルへ置かれる。
「通常の物理現象としては、説明がつかない。」
穏やかな声。
「だから私は。」
「未知の力が介在した可能性を。」
「最も有力だと考えている。」
銭湯の脱衣所。
数分前まで。
牛乳一本を賭けて笑っていた場所。
なのに今は。
換気扇の音さえ。
妙に遠く感じた。
男が、ふと話題を変えるように言う。
「それと。」
嫌な予感がした。
「もう一つ、気になっていることがある。」
「……何ですか。」
「窓ガラスが割れる前。」
男は言った。
「君は流星に撃たれている。」
僕の肩が。
ぴくりと動いた。
「病院へ搬送された。」
「全身検査。」
「脳。」
「内臓。」
「骨。」
「異常なし。」
男は感心したように笑う。
「驚くほど頑丈だね。」
「そして。」
「その翌日。」
「教室で、あの現象が起きた。」
僕の腹の奥が。
冷たくなる。
「偶然。」
男は呟く。
「そう片付けるには。」
「少し出来過ぎていると思わないかい?」
男の視線が。
僕を捕らえる。
「私は思うんだ。」
「流星に撃たれた、あの日。」
「君の身に。」
「何かが起きた。」
嫌だ。
その先を。
言うな。
「例えば。」
男は。
天気の話でもするように言った。
「その時。」
「君に“皇帝”が宿った。」
頭の中。
皇帝が鋭く叫ぶ。
『俗物!』
『思考を散らせ!』
『奴は答えを待っている!』
僕は必死に別のことを考える。
フルーツ牛乳。
ハンバーグ。
ゲーム。
宿題。
何でもいい。
「……違います。」
声を絞り出す。
「そんな漫画みたいな話。」
「あるわけないじゃないですか。」
男は何も言わない。
「僕は普通です。」
「超能力なんてない。」
そして。
自嘲気味に笑う。
「そんな力があったら。」
「ずっといじめられたりしてませんよ。」
男は。
ほんの少しだけ目を細めた。
「そうかな。」
その二文字が。
妙に胸へ刺さった。
しばらく。
誰も喋らない。
やがて。
男は何でもないことのように言った。
「でも。」
「丈夫な身体に産んでくれたご両親には、感謝しないとね。」
僕は視線を落とした。
嫌な感覚が。
胸の内側で広がり始める。
「……ああ。」
男は何かを思い出したように。
「お父様は。」
「亡くなられているんだったね。」
指先が。
僅かに震えた。
やめろ。
そこには。
近づくな。
だけど。
男は続けた。
「それと。」
「妹さんも。」
その瞬間。
世界から。
音が消えた。
(やめろ。)
胸の奥。
何重にも。
何重にも蓋をしてきた場所へ。
誰かが手を伸ばす。
(そこには。)
(触れるな。)
忘れたい。
忘れられない。
あの日。
割れるガラス。
赤い光。
誰かの叫び声。
妹の声。
恐怖。
後悔。
何もできなかった僕。
閉じ込めていた記憶が。
無理やり引きずり出されていく。
頭の奥で。
皇帝が何かを言った気がした。
でも。
もう。
聞こえない。
恐怖より先に。
別のものが湧き上がっていた。
熱い。
重い。
黒い。
泥のような感情。
それが。
胸の底から。
ゆっくりと。
静かに。
溢れ始める。
ドス黒い怒りだった。




