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第七話 前編 暗黒皇帝、牛乳論争を見届ける

男が提案したゲームは、思っていた以上に真剣な勝負になっていた。


脱衣所の木製ベンチへ、僕と男は並んで腰掛けている。


真正面には、番台の横に置かれた大きな冷蔵庫。


ガラス越しには、コーヒー牛乳、フルーツ牛乳、牛乳、ラムネが整然と並んでいる。


二人の視線は、その冷蔵庫へ釘付けだった。


まるで世界の命運でも懸かっているかのように。


……実際に懸かっているのは、牛乳一本なのだけれど。


五分ほどが過ぎた。


誰も冷蔵庫へ近寄らない。


「意外と、みんな飲み物って買わないんですね。」


僕がぽつりと呟く。


男はコーヒー牛乳の空き瓶を手のひらでころころ回しながら笑った。


「風呂上がりのコーヒー牛乳での一杯は最高なんだけどね。」


「だから最高なのはフルーツ牛乳ですよ。」


「いやいや。」


男は首を横へ振る。


「コーヒー牛乳だ。」


「風呂上がりにあの苦味と甘さが身体へ染みる。」


「いや、フルーツ牛乳の爽やかさには敵いません。」


「コーヒー牛乳は大人の嗜みだよ。」


「フルーツ牛乳は世代を超えて愛されてます。」


また始まった。


さっきと変わらずお互い一歩も譲らない。


(……皇帝はどっち派?)


『どちらでもよい。』


(えっ。)


『余が美味いと思ったものを飲む。』


『勝手に争っておれ。』


(皇帝らしいな……。)


その時だった。


脱衣所の奥から、杖をついた小柄なおじいさんが、ゆっくりと歩いてくる。


男が小さく呟く。


「……来た。」


僕も自然と姿勢を正した。


おじいさんは一歩、一歩。


ゆっくりと冷蔵庫へ近づいていく。


『む。』


皇帝まで興味深そうに見守る。


『来たな、』


(だね。)

僕は小さく拳を握る。


(頼む……。)


(フルーツ牛乳を選んでくれ……!)


男は静かに目を細めた。


「いや。」


「あの年代ならコーヒー牛乳だ。」


「昔から飲み慣れてる。」


「絶対そっち。」


「そんなの分かりませんよ。」



おじいさんは小さく腰を曲げたまま、震える手で冷蔵庫の取っ手を握る。


ガラス扉が、かたん、と静かな音を立てて開いた。


僕も。


男も。


思わず息を呑む。


(頼む……。)


(フルーツ牛乳……。)


(いや、コーヒー牛乳だ。)


互いに胸の内で祈りながら、おじいさんの手の動きを見守る。


細く震える指先が、一本の瓶へ伸びた。


ゆっくり。


本当にゆっくりと。


その瓶を掴み上げる。


瓶のガラスが照明を受けて、きらりと青く光った。


水色。


その瞬間。


僕と男の表情が、ぴたりと固まる。


「…………」


「…………」


おじいさんは何事もなかったように栓を抜き、


シュポン、と軽い音を響かせる。


そして嬉しそうに一口。


「ぷはぁ……。」


喉を鳴らして笑った。


「ラムネはうまいのぉ。」


「「……ラムネかぁ。」」


挿絵(By みてみん)



僕と男の声が、見事なまでに重なった。


その光景がおかしかったのか。


番台のおばあちゃんが口元へ手を添え、


「ふふっ。」


と小さく笑う。


男は額へ手を当て、大きく息を吐いた。


「これは……。」


「ノーカウントだね。」


僕も苦笑しながら肩を落とす。


「ですね。」


僕も笑いながら頷く。


ラムネ瓶を片手に去っていくおじいさんの背中を見送る。


その時だった。


頭の中で、


皇帝がぽつりと呟く。


『第三勢力か。』


(勢力じゃないから。)


僕は心の中だけで小さくツッコんだ。



「でも……湯上がりに炭酸が飲みたくなる気持ちも、ちょっと分かるなぁ。」


男は小さく頷く。


「なるほど。」


「これは予想外だった。」


牛乳一本を巡る勝負は、まだ終わりそうになかった。

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