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第六話 中編 暗黒皇帝、整う

暖簾をくぐると、ほのかに石けんの香りが鼻をくすぐった。


年季の入った木の床が足音を優しく返す。


壁際には使い込まれた木札の下駄箱。


番台の奥では、小柄なおばあさんが新聞を読みながら眼鏡越しにこちらを見上げた。


「いらっしゃい。五百円ね。」


「はい。」


財布から硬貨を取り出し、番台へ置く。


挿絵(By みてみん)


その瞬間だった。


『……ほう。』


皇帝が感心したように呟く。


『あれが番人か。』


(違うよ。)


(番台さん。)


『番台……。』


『なるほど。』


『台の上から館内すべてを見渡し、侵入者を監視する兵ということか。』


(そんな物騒な仕事じゃないって。)


(ただのおばちゃんだよ。)


『ふむ。』


『見た目で油断させる隠密部隊かもしれぬ。』


(絶対違う。)


僕は苦笑しながら脱衣所へ向かう。


暖簾の先には、「男」と大きく書かれた青い入口。


その隣には、「女」と書かれた赤い暖簾が揺れていた。


皇帝は興味深そうに眺める。


『男女で入口が分かれておるのか。』


『余の知る公衆浴場は男女同浴であった。』


(えっ!?)


『戦士も子どもも老人も、一つの湯へ入る。』


(結構すごい文化だね。)


皇帝はさらりと言った。


『オーガ族の部族だがな。』


(モンスターじゃん!!)


思わず吹き出しそうになる。


危ない危ない。


周りから見れば、僕は一人で笑っている怪しい高校生だ。


皇帝は気にする様子もなく、感心したように呟いた。


『文明が違えば、常識も違う。』


『実に興味深い。』


僕は苦笑しながらロッカーの鍵を受け取り、脱衣所の奥へと歩いていった。


ーーーーーーーーーーーーーー


暖簾をくぐると、脱衣所には湯上がりの石けんの香りと木の匂いが混ざり合っていた。


壁一面に並ぶ木製のロッカー。


扇風機がぶぅん、とゆっくり首を振り、火照った身体を冷ましている。


仕事帰りらしいサラリーマン。


親子連れ。


常連らしいおじいさんたち。


思い思いに服を脱ぎながら世間話に花を咲かせていた。


僕も空いているロッカーの前に立ち、パーカーへ手を掛ける。


その瞬間だった。


(……そういえば。)


胸の奥が少しだけざわつく。


(この紋章……。)


シャツを脱げば、左胸に刻まれた黒紫色の紋章が露わになる。


暗黒皇帝ヴァルガイアの六属性を極めた証。


普通の刺青とは明らかに違う、独特な紋様だ。


(誰かに見られたら……。)


ほんの一瞬だけ手が止まる。


何か聞かれても説明できない。


「異世界の皇帝と契約しました」なんて言ったら、そのまま病院へ連れて行かれる未来しか見えない。


不安になって周囲を見渡す。


すると。


背中一面に龍を背負った男性。


腕にびっしり和彫りの入った男性。


肩に虎を刻んだ男性。


思った以上に刺青率が高かった。


(……まあ、大丈夫か。)


その光景を見ていた皇帝が感心したように呟く。


『ほう。』


『皆、魔導刻印持ちか。』


(違うよ。)


(タトゥー。)


『なるほど。』


『己の力を身体へ刻み込む風習か。』


(そんな格好いいものでもないけど。)


皇帝は満足そうに続ける。


『ならば余の刻印も問題あるまい。』


僕は苦笑しながらシャツを脱ぐ。


「いや。」


「実は日本って、刺青があると入れないお風呂も結構あるんだ。」


一拍置いて。


『…………なんと。』


皇帝が本気で驚いた。


『刻印を理由に入浴を拒まれるのか。』


『それは差別ではないのか。』


「うーん……。」


「昔いろいろあってね。」


「怖い人のイメージが強いんだよ。」


皇帝は腕を組む気配を見せた。


『ふむ。』


『力ある者ほど警戒されるということか。』


『どこの世界も変わらぬな。』


(いや、そういう意味じゃないんだけど……。)


僕は苦笑しながら胸の紋章へ視線を落とす。


幸い、周囲の誰もこちらを気にする様子はない。


常連のおじさんたちは「今日は熱いなあ」「昨日の野球見たか?」と世間話に夢中だ。


誰も、僕の胸に刻まれた異質な紋章には気付かない。


(……よかった。)


胸を撫で下ろし、ロッカーの鍵を手首にはめる。


「じゃあ皇帝。」


「まずは身体を洗うところからね。」


『ふむ。』


『ニホン文明の作法、しかと学ばせてもらおう。』


ーーーーーーーーーーーーーーーーー


洗い場へ向かうと、規則正しく並んだ蛇口から湯気が立ちのぼっていた。


カラン、と桶を置く音。


シャワーの水音。


石けんの香り。


どこか懐かしい銭湯特有の空気が、ゆっくりと身体を包み込む。


僕は小さな椅子へ腰掛け、蛇口をひねった。


勢いよく流れ出したお湯が肩へ当たり、思わず息が漏れる。


「まずは身体を洗うんだ。」


『む?』


『湯へ浸かる前にか?』


「うん。」


「身体をきれいにしてから入るのがマナー。」


皇帝は少し考え込んだ。


『なるほど。』


『戦場でも武具は血を洗い流し、磨いてから保管する。』


『同じ理屈か。』


「……たぶん違うけど、まあそんな感じ。」


皇帝は妙に納得した様子だった。


『文明が違えど礼節は同じということか。』


『実に良い文化だ。』


僕は笑いながら石けんを泡立てる。


「そんな大層なものじゃないよ。」


「次の人が気持ちよく入れるようにってだけ。」


『ふむ。』


『己だけでなく、後に続く者を思いやるか。』


『やはりニホン文明は興味深い。』


体を流し終え、掛け湯をする。


「あ、そうだ。」


「いきなり湯船に入っちゃダメだからね。」


『なぜだ。』


「心臓に悪いし。」


「掛け湯して身体を慣らすんだ。」


皇帝は感心したように頷く。


『理にかなっておる。』


『兵も急に熱湯へ放り込めば戦えぬ。』


「その例えしか出てこないの?」


『皇帝だからな。』


「便利な言葉だな、それ。」


僕は苦笑しながら湯船へ足を入れた。


じんわりと熱が足先から伝わる。


肩までゆっくり沈めると、全身の力がふっと抜けた。


「ふぅぅぅ〜〜……。」


思わず声が漏れる。


昼間歩き回った疲れが、湯へ溶けていくようだった。


しばらく静かに目を閉じていると。


頭の中から、珍しく戸惑ったような声が聞こえた。


『……。』


『これは……。』


『奇妙だ。』


(どうした?)


『余には湯へ浸かった感覚はない。』


『だが……。』


『温もりだけは伝わってくる。』


『身体の芯が、ゆっくりほどけていくような……。』


いつも威厳たっぷりの皇帝とは思えない、どこか不思議そうな声だった。


「もしかして……。」


「また支配率、上がった?」


少し間を置いて。


『……少しだけな。1パーセントに上がっておる。』


「やっぱり。」


『余も初めてだ。』


『他者の感覚が、ここまで伝わるとは。』


「どう?」


「気持ちいい?」


皇帝は少し黙り込んだ。


そして。


照れくさそうに、小さく笑う。


『悪くない。』


『いや……。』


『かなり良い。』


その一言が、妙に嬉しかった。


僕は笑いながら天井を見上げる。


「でしょ。」


「銭湯っていいんだよ。」


『ふっ。』


『なるほど。』


『ニホン人が毎日湯へ浸かる理由が、少し分かった気がする。』


湯気の向こうで、常連のおじさんたちが「あー、生き返るなぁ」と笑っている。


その声を聞きながら、僕はふと思った。


(異世界最強の皇帝と、銭湯に入る日が来るなんて。)


半年前の僕が聞いたら。


きっと頭がおかしくなったと思うだろう。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー


湯船で十分に身体を温めたあと、僕は浴場の隅にある小さな浴槽へ目を向けた。


縁のプレートには、赤い文字でこう書かれている。


『電気風呂』


「皇帝。次はあれに入ってみようか」


『ほう』


皇帝の声に、わずかな興味が混じる。


『先ほどとは異なる湯か』


「身体に弱い電気が流れるんだ。肩とか腰の疲れがほぐれて、結構気持ちいいよ」


『湯に電気を流すだと?』


数秒の沈黙。


『……ニホン人は、時折理解し難い発想をするな』


「大丈夫。そんなに強くないから」


『余を誰だと思っておる』


『雷帝の極大雷撃《グロース・ドンナーシュラーク》すら正面から打ち破った暗黒皇帝ぞ』


(電気風呂に入るだけで、その経歴いる?)


僕は浴槽の縁へ腰を下ろし、まず片足を沈めた。


ぴりっ。


ふくらはぎの筋肉が、勝手に小さく跳ねる。


続いて腰まで浸かると、今度は奥の筋肉をぐっと掴まれるような刺激が走った。


「んんっ……」


『……む』


皇帝の声が止まる。


(どう?)


『少々、痺れるだけだ』


「もう少し奥へ行くと強くなるよ」


『ならば進め』


言われたとおり、電極板の近くへ身体をずらす。


挿絵(By みてみん)


その瞬間。


びくんっ!


僕の腰が大きく跳ねた。


『…………』


(皇帝?)


『騒ぐな』


(僕、何も言ってないけど)


『この程度、蚊に刺されたようなものだ』


再び電流が流れる。


びくっ。


『…………』


さらにもう一度。


びくんっ!


『……待て』


「なに?」


『これは本当に治療なのか』


「そうだよ」


『常時、雷撃を浴びせておるではないか』


「弱い電気だって」


『弱い……だと?』


皇帝は、信じられないものを聞いたように黙り込んだ。


『余の世界であれば、これはん捕虜から情報を引き出す際に使う類いの術だぞ』


「慣れると気持ちいいんだけどなぁ」


『……拷問を気持ちよいと申すか』


「言い方!」


皇帝はしばらく電流に耐えていたものの、やがて低い声で結論を下した。


『ニホン人は、平和な顔をして恐ろしい民族だな』


(電気風呂だけで国民性を判断しないでよ)


僕は笑いを噛み殺しながら浴槽を出た。


⸻


「次はサウナに行こう」


『まだ何かあるのか』


「温まったあとに水風呂へ入ると、すごく気持ちいいんだよ」


『先ほど十分に温まったではないか』


「種類が違うの」


『嫌な予感しかしないが……よかろう』


曇ったガラス扉を開けた瞬間、乾いた熱気が全身へ襲いかかってきた。


木張りの室内。


壁に掛かった十二分計。


上段には、常連らしいおじさんたちが目を閉じて座っている。


僕も空いている下段へ腰を下ろした。


扉が閉まる。


外の水音が遠ざかり、室内にはストーブの微かな音と、誰かの呼吸だけが残った。


『……暑いな』


皇帝が静かに告げる。


「サウナだからね」


『分かっておる』


一分。


額に汗が滲む。


二分。


背中を汗が伝い始める。


三分。


『……まだか』


「まだ三分だよ」


『十分ほど入ると言わなかったか』


「言ったよ」


『確認しただけだ』


さらに二分。


僕の身体から、玉のような汗が噴き出していた。


『この熱気……』


皇帝が珍しく、少しだけ息苦しそうな声を出す。


『砂漠国家アスラドの真夏を思い出す』


「そんなに暑い国なの?」


『日中に鉄鎧を着て歩けば、中で肉が焼ける』


「絶対行きたくないな……」


『アスラドの民も、好きで住んでいたわけではあるまい』


皇帝は淡々と返した。


僕は壁の時計を見る。


「あと五分」


『…………』


珍しく、皇帝が何も言わない。


「どうしたの?」


『余は今、十分ほど入ったと思っておった』


「まだ半分だよ」


『ニホン人は忍耐の使い方を間違えておるな』


「皇帝、もう限界?」


『誰がそのようなことを申した』


返事だけは早かった。


さすがに負けず嫌いらしい。


『続けよ』


「無理しなくてもいいよ」


『俗物ごときに心配されるほど、余は落ちぶれておらぬ』


「身体は僕のなんだけどね」


『ならば倒れるな』


「責任を全部こっちに投げた!」


それでもなんとか十分を耐え抜き、僕はふらつく足でサウナを出た。


冷たい空気が肌へ触れただけで、全身が生き返るようだった。


ところが。


「ここからが本番だよ」


『……まだ続くのか』


皇帝の声に、初めて明確な警戒が混じっていた。


⸻


目の前には、青いタイルで囲まれた水風呂。


表面にはわずかな波紋が揺れている。


「サウナのあとは、これ」


『見れば分かる』


『冷水であろう』


「一気に入った方が楽だよ」


『待て』


僕は足を上げる。


『俗物、待て』


「今だ!」


『人の話を』


ざぶんっ!


冷水が、熱を持った全身を一瞬で包み込んだ。


息が止まる。


心臓がきゅっと縮まり、皮膚の表面を無数の針で刺されたような感覚が走った。


『…………』


皇帝が沈黙する。


(皇帝?)


『冷たい』


(うん)


『非常に冷たい』


「最初だけだから」


『氷結槍《アイスランツェ》を正面から受けた時を思い出す』


「そんな経験あるんだ……」


『あの時は敵将ごと城門を吹き飛ばした』


「水風呂で物騒な昔話しないでよ」


しばらく動かずにいると、刺すような冷たさが徐々に薄れていった。


熱かった身体の表面に、薄い膜が張ったような感覚。


呼吸が落ち着き。


頭の中の雑音が消え。


視界まで鮮明になっていく。


『……む』


皇帝が小さく声を漏らす。


「どう?」


『妙だ』


『冷たいはずなのに、先ほどほど苦痛ではない』


「羽衣ができたんだよ」


『羽衣?』


「身体の周りに温かい膜がある感じ、しない?」


『……確かにな』


皇帝はしばらく、自分へ伝わる感覚を確かめるように黙っていた。


『頭も妙に澄んでおる』


『精神安定魔法と、感覚強化魔法を同時に受けたようだ』


「それが“整う”ってやつ」


『整う……』


皇帝は、その言葉を吟味するように繰り返した。


やがて。


『悪くない』


「でしょ?」


『いや』


少し間を置く。


『かなり良い』


僕は思わず笑った。


「皇帝、もう銭湯にハマってるじゃん」


『勘違いするな』


『これは娯楽ではない』


「じゃあ何?」


『温熱耐性と冷気耐性を同時に鍛える、極めて合理的な修練だ』


「さっきまで日本人は狂ってるって言ってたのに」


『評価を改めることも、皇帝の資質だ』


「便利だなぁ、皇帝の資質」


水風呂を出ると、皇帝が何気ない調子で付け加えた。


『もう一度サウナへ戻るぞ』


「完全にハマってるじゃん!」


『修練だと言っておろう』


頭の中で澄ました声を出す皇帝に、僕は笑いながらもう一度サウナの扉へ向かった。

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