第六話 前編 暗黒皇帝、銭湯に赴く
桜井さんと別れ、夕焼け色の商店街を一人歩く。
頭の中で皇帝が尊大な口調で言い放った。
『……まだ帰るには早いな。』
(そう?)
『うむ。』
『他にも何か見ておきたいニホン文明がある。』
(じゃあ、ちょうどいいや。)
「今から僕の行きつけに行かない?」
『ほう。』
『どこだ。』
『王城か。』
(違う。)
『軍港か。』
(違う。)
『国家魔導図書館か。』
(違う。)
『処刑場か。』
(なんで最後だけ物騒なんだよ。)
「銭湯。」
皇帝が少し黙る。
『……戦闘?』
「違う。」
「お風呂。」
「みんなで入るやつ。」
『ほう……。』
『大衆浴場か。』
「そうそう。」
『戦士が鎧を脱ぎ。』
『傷を癒やし。』
『身分を忘れ、同じ湯に浸かる聖域というわけだな。』
(そこまで壮大じゃないけど。)
⸻
ふと、気になっていたことを思い出した。
「そういえば皇帝さ。」
「最近、味覚も分かるようになったの?」
『毎回ではない。』
『余が強く欲したものだけだ。』
『コンビニの鳥揚げ。』
『ファミレスの白き麺。』
『……カルボナーラとやら。』
『実に美味であった。』
『余は、あれを再び所望する。』
(カルボナーラにハマってるじゃん。)
⸻
「じゃあ、支配率も上がってるの?」
皇帝は少し考え、
静かに答えた。
『〇・八パーセントほどだ。』
「え?」
「最初〇・一パーセントだったよね?」
「八倍じゃん!?」
胸の奥がざわつく。
「このペースで増えたら一年後どうなるの!?」
『知らぬ。』
「知らないの!?」
『余も初めての経験だからな。』
「一番不安になる返答なんだけど!」
⸻
皇帝は肩をすくめるように笑う。
『安心せよ。』
『支配率が千パーセントになろうと。』
『こんな脂肪の塊など余はいらぬ。』
「毎回失礼だな!」
『脂肪だけ置いて出て行く。』
「意味分かんないよ!」
『余が全力で魔力を流した瞬間。』
『鍛錬を積んでおらぬ貴様の肉体など、一瞬で吹き飛ぶ。』
「だから怖いって!」
『ゆえに鍛える。』
『器は器らしく強くなれ。』
⸻
「鍛えるって……。」
「修行みたいな?」
『うむ。』
「厳しい?」
皇帝は誇らしげに笑う。
『喜べ。』
『余は帝国魔導学院主席卒業。』
『皇帝自ら直々に教鞭を執る。』
『これ以上の誉れは存在せぬ。』
「質問に答えて!」
『安心せよ。』
『七割ほどしか死なん。』
「安心できるか!!」
『気合いだ。』
「昭和の部活じゃないんだから!」
⸻
そんなくだらないやり取りをしているうちに、目的の場所へ着いた。
夕暮れ色に染まる瓦屋根。
高く伸びた一本煙突から、白い湯気がゆっくり夜空へ昇っていく。
木造の外壁は年月を重ねた飴色。
入口には紺色の暖簾が風に揺れ、木の看板には墨文字で力強く刻まれている。
『松風の湯』
今流行りのスーパー銭湯じゃない。
ゲームセンターも。
岩盤浴も。
レストランもない。
番台があって。
木札の下駄箱があって。
湯上がりの牛乳を片手に、常連さんが世間話をする。
煙突から立ちのぼる湯気が、この町の日常を静かに包んでいた。
昔ながらの、小さな町の銭湯。
僕が子どもの頃から通っている、大好きな場所だ。
「ここ。」
「僕の行きつけ。」
皇帝は腕を組み、しばらく黙って建物を見上げていた。
やがて、小さく息を吐く。
『……なるほど。』
『ニホン文明には。』
『鎧を脱ぎ。』
『身分を忘れ。』
『同じ湯へ浸かる文化があるのか。』
『実に興味深い。』
「だから言ったでしょ。」
「ただのお風呂だって。」
皇帝は口元だけで笑った。
『それは余が決めることだ。』
その声には、隠しきれない高揚が混じっていた。
その時の僕は、まだ知らなかった。
五分後。
皇帝ヴァルガイアが、日本人なら誰も気にしない”ある風呂の常識”を前に、本気で世界の終わりを見たような顔をすることになるなんて。




