第五話 後編 暗黒皇帝、勇気を教える
「もう、陰山くん笑いすぎ!」
「ご、ごめん……」
桜井さんまでつられて笑う。
さっきまであんなに緊張していたのが、 なんだか馬鹿みたいだった。
女の子と二人でご飯を食べて。
好きなものの話をして。
一緒に笑って。
こんな時間が、 僕にもあるんだな。
そう思った、その時だった。
「ふざけんなよ!」
店内に突然、怒鳴り声が響いた。
僕と桜井さんの笑い声が止まる。
「……何?」
声のした方を見る。
レジ近くのテーブルで、 中年の男が立ち上がっていた。
その向かいでは、 若い女性の店員さんが困ったように頭を下げている。
「写真と全然違うじゃねぇか!」
桜井さんが小さく眉をひそめた。
「……なんか揉めてるね」
「うん……」
さっきまで楽しかった店内の空気が、 一瞬で変わった。
「申し訳ございません……」
店員さんが何度も頭を下げる。
「こちらは写真のイメージとなっておりまして……」
中年の男はテーブルをバンバン叩いた。
「イメージで済むか!」
「肉の量が全然違ぇじゃねぇか! ペラペラの薄い肉だしやがって!」
店内の空気が凍りつく。
周囲の客はちらりと視線を向けるだけで、 誰も止めようとはしない。
(……確かに)
(飲食店でメニューの写真と実物が違うって思うことはある)
(でも、そこまで怒ることかな……)
店員さんは何度も頭を下げている。
誰も何も言わない。
周りの客は見ているだけだった。
その光景に。
なぜか、胸の奥がざわついた。
見ているだけ。
関わらないようにして。
誰かが何とかするのを待っている。
(……僕も、ずっとそうだった)
菅原たちに絡まれていた時。
教室のみんなも、 こんな感じだった。
目が合っても逸らされる。
聞こえているはずなのに、 誰も聞こえないふりをする。
助けてほしいなんて、 口に出したことはない。
それでも誰か一人くらい。
「やめろよ」
そう言ってくれたらって何度も思った。
「申し訳ございません……」
店員さんの声が震えている。
怖い。
関わりたくない。
それは分かる。
僕だって怖い。
男の怒鳴り声を聞くだけで、 足がすくむ。
それでも気づけば僕は立ち上がっていた。
「あの」
男がこちらを見る。
心臓が跳ねた。
「レジも止まっちゃってますし……」
声が少し震える。
「他のお客さんも、店員さんも困ってます」
一度、息を飲む。
「その辺でやめませんか」
男は一瞬だけ目を丸くした。
太った冴えない高校生が、 自分に口を挟んできたことが意外だったのだろう。
しかし次の瞬間、 その顔は怒りで歪んだ。
「あぁ?」
男が一歩、こちらへ近づく。
「ガキが調子に乗ってんじゃねぇぞ」
さっきまで店員さんへ向けられていた怒気が、 今度は全部僕に向いた。
店員さんが慌てて割って入ろうとする。
「お、お客様……!」
僕は思わず一歩後ずさった。
(やっぱり怖い……)
足が震えている。
今すぐ座って、 知らないふりをしたい。
なのに。
『ほう』
頭の奥で、 皇帝の声がした。
『震えておるな』
(悪いかよ……)
『いや』
短い沈黙。
『それでよい』
(え?)
『恐怖を知らぬ者が前へ出るのは、ただの無謀よ』
皇帝の声は、 いつになく静かだった。
『恐れながらも退かぬ者を、勇ある者と呼ぶ』
僕は何も返せなかった。
男がさらに顔を近づける。
「聞いてんのか、デブ」
その時だった。
皇帝の声が低く沈む。
『……だが』
空気が変わった。
『余の器を愚弄することまで許した覚えはない』
(そこなの!?)
『礼儀を知らぬ愚物よ』
皇帝の声に、 冷たい怒気が混じる。
『身の程を教えてやろう』
(でも皇帝、魔力は大丈夫なの?)
『案ずるな。貴様が先ほど十分に腹を満たしたであろう。今の余には、使える魔力がある』
(僕がお腹いっぱい食べると魔力が回復するのか……)
『器も燃料なくしては動かぬ』
(RPGかよ)
皇帝は小さく笑った。
『それより、一つ教えてやろう』
(何を?)
『恐怖とは、与えるものではない』
『思い出させるものだ』
(どういうこと?)
『貴様が最も恐れた光景を思い浮かべよ』
僕の脳裏に浮かんだのは。
笑う菅原たち。
床へ散らばる教科書。
そして。
助けようともせず、 ただ眺めていたクラスメイトたちの無数の目。
さっき思い出したばかりの光景。
胸が締めつけられる。
『……良い。実に良い恐怖だ』
皇帝は言葉を噛み締めるようにつづけた。
『魔物の牙より、裏切りより、民の無関心こそ、人の魂を蝕む』
その言葉が、 妙に胸へ刺さった。
皇帝には。
国を治めていた皇帝には。
僕とは違う意味で、 そういう光景を見たことがあるのかもしれない。
『貸せ』
(え?)
『ほんの少しでよい』
僕の身体の主導権が、 ほんの一瞬だけ皇帝へ移る。
男を見据える。
震えていたはずの視線が、 ぴたりと止まった。
静かに詠唱が紡がれる。
『深淵に眠る恐怖よ』
『忘却の底より蘇れ』
『心の檻を打ち砕き』
『己が最も忌む記憶を映し出せ』
『──深淵恐慌』
男の瞳が大きく見開かれた。
「…………っ」
次の瞬間。
「うあああああああああっ!!」
店中に悲鳴が響く。
「えっ!?」
桜井さんが椅子から腰を浮かせた。
男は何もない空間を見つめながら、 頭を抱えてその場へ崩れ落ちた。
「ごめんなさい!」
「ごめんなさい!」
「もう許してください!」
「本当にごめんなさい!」
さっきまで店員さんを怒鳴りつけていた男が。
今度は何もない空間に向かって、 必死に頭を下げている。
何を見ているのか。
誰にも分からない。
店員さんは青ざめた顔で立ち尽くし、 周囲の客も息を呑んでいる。
「来るな!」
男が後ずさる。
「やめろ……!」
「もうしない!」
「だから……!」
男は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、 何度も頭を下げた。
「ごめんなさいぃぃぃ!!」
叫びながら店を飛び出していく。
自動ドアが開き、閉じる。
店内には、 恐ろしいほどの静寂だけが残った。
「……え?」
桜井さんが目をぱちぱちさせる。
「どうしたの、あのおじさん?」
そして僕を見る。
「陰山くん、何かした?」
「いや……」
「ちょっと注意しただけだよ」
「……ほんとに?」
「うん」
たぶん、僕は。
皇帝だけが鼻で笑う。
『余は何もしておらぬ』
『あの男が、自ら最も恐れる地獄を見ただけだ』
(十分やってるだろ……)
しばらくして。
店員さんたちが慌ただしく動き始め、 店内にも少しずつ話し声が戻ってきた。
さっきまでの出来事を話す声。
何事もなかったように食事へ戻る人。
スマホを見ながら、 小声で何かを話している人。
僕は椅子へ座り直した。
「はぁ……」
一気に力が抜ける。
テーブルの下を見ると、 まだ膝が少し震えていた。
『情けない』
(うるさい)
『だが』
(ん?)
『悪くはなかった』
一瞬。
聞き間違いかと思った。
(……今、褒めた?)
『聞き違いだ』
(絶対言ったよね!?)
「陰山くん」
「ん?」
顔を上げる。
桜井さんが、 じっと僕を見ていた。
「……すごいね」
「え?」
「私、ああいう人いたら絶対何も言えない」
「いやいや!」
僕は慌てて手を振る。
「僕もめちゃくちゃ怖かったよ!」
「でも言ったじゃん」
「それは……」
言われてみれば、 そうだ。
怖かった。
今だって足が震えている。
それでも僕は立った。
今までの僕なら。
たぶん、 見ているだけだった。
『ようやく気づいたか』
皇帝が呟く。
(何が?)
『先ほど言ったであろう』
『恐怖がなくなることを、勇気とは呼ばぬ』
『恐怖を抱いたまま前へ出る者を、勇ある者と呼ぶのだ』
(……)
胸の奥が、 少しだけ熱くなった。
「陰山くん?」
「あ、ごめん」
桜井さんは少し笑った。
「なんか、陰山くんって面白いね」
「それ褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
「二回言うと怪しいんだけど」
「あははっ!」
桜井さんが笑う。
僕もつられて笑った。
さっきまで張りつめていた空気が、 ようやく少しだけ元に戻っていった。
♢ ♢ ♢
食事を終え、 店を出る。
夕方の風が、 火照った頬に気持ちいい。
「あー、お腹いっぱい!」
桜井さんが満足そうに伸びをする。
(あれだけ食べればね……)
『あの量を収めて、その程度の感想か』
(まだ言ってる)
『やはり収納魔法の可能性が』
(ないから)
「あ、そうだ」
僕はリュックを開けた。
中から小さな袋を取り出す。
「これ」
「?」
「一番くじで当たったんだけど」
袋から顔を覗かせたのは。
「めちゃかわのミケさん」
桜井さんの目が大きくなる。
「……え?」
「いいの?」
「うん」
「でもこれ……」
桜井さんがミケさんと僕を交互に見る。
「陰山くんのじゃないの?」
「僕、同じの持ってるから」
本当は今日会ったら渡そうと思って、 リュックに入れてきた。
でも、いざ渡すとなると、 妙に恥ずかしい。
「桜井さん好きって言ってたし……」
「だから、その……」
「よかったら」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「やったぁーー!!」
桜井さんの顔が、 ぱっと輝いた。
「めちゃかわーー!!」
大事そうに胸へ抱きしめる。
「ありがとう!すっごく嬉しい!」
その笑顔を見ているだけで、 僕まで嬉しくなってしまう。
『ほう』
皇帝が呟く。
(何?)
『先ほどの男を退けた時より、よほど誇らしげな顔をしておる』
(うるさい)
『分かりやすい男よ』
(黙ってて!)
桜井さんはミケさんを眺めながら、 何度も嬉しそうに笑っている。
今日。
勇気を出して来てよかった。
最初は緊張して何を話せばいいかも分からなくて。
でも。
好きなものの話をして。
一緒に笑って。
ちょっと怖いこともあって。
それで最後には。
桜井さんにまた会いたいと思った。
「あのさ」
「ん?」
心臓が、 さっきとは別の意味で速くなる。
「またさ」
「今度、どこか行こうよ」
言った。
言えた。
桜井さんは少しだけ目を丸くして。
すぐに笑った。
「うん!」
「また行こ!」
胸の奥が、 一気に軽くなる。
「じゃあ、また学校でね」
「うん」
桜井さんが手を振る。
僕も手を振り返した。
夕暮れの中。
ミケさんを大事そうに抱えながら、 桜井さんが歩いていく。
その背中を見送りながら。
僕は小さく息をついた。
今日はなんだかすごい一日だった。
『……理解できぬ』
(何が?)
『なぜ手ぐらい握らん』
(は?)
『友誼を結んだのであろう』
『ならば手を取り、婚約を申し込む流れではないのか』
(重いわ!)
『では接吻か?』
(もっと重いわ!!)
『……ニホン文明の求愛は難解だな』
(だから違うって……)
少しだけ間があって皇帝が呟く。
『まあよい』
(何が?)
『今日の貴様は、昨日までより多少ましな顔をしておる』
僕は足を止めた。
(……それ、褒めてる?)
『聞き違いだ』
(またそれかよ)
夕暮れの商店街に僕のツッコミだけが、 虚しく響いた。




