第四話 後編 暗黒皇帝、コンビニを視察する
コンビニの自動ドアが、僕の前で左右に開いた。
涼しい空気と一緒に、揚げ物の匂いが流れてくる。聞き慣れた入店音に迎えられ、いつものように店内へ足を踏み入れたところで、頭の中の皇帝が黙り込んだ。
(……どうしたの?)
『待て。今、確かめておる』
(何を?)
『この拠点の規模だ』
嫌な予感がした。
皇帝の意識が、入口近くの飲料棚から弁当売り場へ、さらに日用品の棚へと移っていく。敵陣の布陣でも調べているみたいに念入りだった。
『食料に飲料、医薬品まで備えておる。あちらは衣服か?』
(靴下と下着ね)
『兵が装備を失っても補充できるわけか。しかも、この明るさ……夜間も稼働する施設だな』
(ここ、二十四時間営業だから)
皇帝が、低く唸った。
『これほど無防備に見せかけて、兵站の要を隠しておるとは』
(隠してないよ。看板まで出してるよ)
『責任者はどこだ』
(たぶん奥で品出ししてる)
『自ら物資を運ぶ将か。感心だな』
(店長さんを勝手に将軍にしないで)
僕にとっては学校帰りに寄るだけのコンビニが、この人には最前線の補給拠点に見えるらしい。
牛乳の棚へ向かうと、今度は別のところに引っかかった。
『これほどの乳を、どこから集めておる。近くに大規模な牧場があるのか?』
(牧場から工場に集めて、加工してから運んでくるんだよ)
『輸送中に傷むであろう』
(冷やしたまま運ぶんだって。詳しくは知らないけど)
『氷の魔法もなしにか』
(そういう機械があるの)
『……その機械とやらは、ずいぶん働くな』
僕は牛乳を一本取って、買い物かごへ入れた。
続いてパンの棚を見ると、皇帝が妙に真剣な声を出す。
『待て。その白いものは何だ』
(クリームパン)
『菓子か?』
(うん。甘いクリームが入ってる)
『隣は』
(ジャムパン)
『その隣は』
(あんパン)
『同じ形の兵糧へ、異なる中身を仕込んでおるのか。巧妙だな』
(誰を欺くつもりなの?)
『長い行軍では食への不満が士気を損なう。味に変化をつけるのは有効だ』
(なるほど、そういう……)
『三つとも買え』
(自分が食べたいだけじゃない!?)
かごに伸びかけた手を、僕は慌てて引っ込めた。
危ない。軍事的な説明をされると、うっかり必要な買い物に思えてくる。
弁当の棚には、ハンバーグや焼き魚、色鮮やかな野菜を詰めたものが並んでいた。皇帝はしばらく眺めてから、感心したように言う。
『調理済みか。火を起こす手間さえ要らぬのだな』
(温めてもらえば、すぐ食べられるよ)
『誰に?』
(店員さんに)
ちょうどレジで、別のお客さんが買った弁当を温めてもらっていた。店員さんが電子レンジに弁当を入れ、扉を閉める。
『あの箱に火を入れるのか』
(火は使わないんだよ)
『では、どうやって温める』
(ええと……電気で)
『どう使う』
(……そこは、僕もちょっと)
『貴様、自国の兵器について何も知らぬな』
(家電だよ! 使い方が分かれば困らないんだって!)
温め終わったことを知らせる音が鳴り、湯気の立つ弁当が取り出された。
皇帝は黙ってそれを見届けると、ぽつりと呟いた。
『便利すぎるであろう』
(そこは僕も同意する)
『余の城にも欲しい。厨房から執務室まで運ばせると、汁物が冷めるのだ』
(急に悩みが身近になったね)
異世界の皇帝でも、ご飯が冷めるのは嫌らしい。
何となく親近感が湧いた、その直後だった。
『止まれ』
声が鋭くなった。
僕は反射的に足を止める。
(な、何?)
『右だ』
視線を向けた先には、レジ横のホットスナックケースがあった。黄金色の揚げ物が、照明を浴びてつやつやと輝いている。
『あれは、この場で調理しておるのか』
(うん。店のフライヤーで揚げてるんじゃないかな)
『料理人がおるではないか』
(全部を機械任せにはしてないよ)
『あの串に刺した肉を買え。調理技術を確かめる』
(お金を出すの、僕なんだけど)
『味わうのも貴様だ。何の損がある』
(僕の財布からお金が減るよね?)
『相応の対価であろう』
正論っぽく言わないでほしい。
結局、僕は牛乳と一緒に唐揚げ串を一本買った。店内では食べられないので、袋に入れてもらう。
『食わぬのか』
(外に出てからね。ほかにも少し見たいし)
『冷めるぞ』
(さっき自分で電子レンジ欲しがってた人が急かさないでよ)
皇帝の不満を聞き流しながら、僕は入口近くの書籍コーナーへ向かった。
漫画雑誌に旅行の情報誌、料理や健康を扱った本。小さな棚だけど、見ていると案外いろいろなものがある。
そこで、皇帝がまた黙った。
今度は唐揚げを見つけた時とは違う、静かな沈黙だった。
『……これも、売り物か』
(そうだよ)
『誰にでも売るのか?』
(年齢制限のあるものは別だけど、基本は)
『身分も、所属も問わずに?』
(うん。お金を払えば買えるよ)
皇帝の意識が、料理本から歴史を扱った雑誌へ移る。
『食料を買うついでに、学問まで持ち帰れるわけか』
(そんな大げさなものでもないと思うけど……)
『知るきっかけが、その辺りに転がっておるのであろう。それだけでも違う』
何気なく眺めていた棚が、少しだけ違って見えた。
「でも、昔はもっと本が置いてあったんだよ」
小声で話しかけてから、慌てて口を閉じる。近くに人がいないことを確かめて、頭の中で続けた。
(最近はスマホで読んだり調べたりできるから、こういう棚も減ってるんだって)
『あの小さな板か』
(そう。それこそ、本が何冊分も入るし)
『ならば、器が変わっただけであろう』
皇帝はあっさり言った。
『石板に刻もうが、紙に記そうが、知識は知識だ。手に入りやすくなるなら、それでよい』
(本がなくなっても?)
『読む者までいなくならねばな』
何だか、うまく言葉が出なかった。
この人は何でも征服と戦争に結びつけるけど、その先にいる人たちのことも見ている。
さっきパンを三つ買わせようとしてきた時には、全然そんな感じじゃなかったのに。
『ところで、その板には料理の知識も入っておるのか』
(調べれば、いくらでも)
『では、先ほどの揚げ肉の製法も分かるな』
(まだ諦めてなかったんだ)
『帝国へ持ち帰る価値がある』
(せめて食べてから判断してよ)
感心していた気持ちを半分くらい返してほしくなりながら、僕は棚の隣へ目を向けた。
そして、思わず息を呑んだ。
(……あっ)
『どうした』
(ここ、新しいの入ってる……!)
くじの景品を並べた展示ケースだった。
上段には人気作品のフィギュアが並び、下には賞ごとに分けられたグッズが置かれている。いつもなら眺めるだけで我慢するところだけど、今日は違う。
説明を聞いてくれる人がいる。
しかも、本物の魔法使いだ。
(皇帝、見て! まずこの人!)
『白い髪の男か』
(最強の術師なんだけど、相手の攻撃が自分に届かなくなる能力を持ってるんだよ)
『ほう。距離に干渉する術か?』
(そう、そんな感じ!)
『接触を必要とする攻撃には強かろうな。ならば空間そのものを――』
(待って、いきなり攻略しないで。まず格好よさを共有したい)
『……注文の多い鑑賞だな』
僕は構わず、隣のフィギュアを指さした。
(こっちの王子は、ものすごいエネルギーを放って、惑星まで吹き飛ばせるんだ)
『惑星を?』
(うん!)
『領土がなくなるではないか』
(そういう視点で読んだことなかった)
『勝った後、どこを統治するつもりだ』
(征服するために戦ってるわけじゃないから!)
皇帝は釈然としない様子だったけど、僕の口はもう止まらなかった。
(それで、この高校生はもう一人の自分みたいなのを出して戦うんだけど、時間まで止められるんだよ!)
『待て。今度は時間か』
(短い間だけだけどね)
『短かろうと十分だ。なぜ、その年齢の者が時に干渉できる』
(そういう能力なんだって)
『教育機関で教えておるのか?』
(学校の授業にあったら、僕だってもっと真剣に勉強してるよ!)
勢い込んだ拍子に、少し声が出た。
レジの店員さんがこちらを見た気がして、僕は何でもないふりで咳払いする。
『急に静かになったな』
(公共の場だって思い出したんだよ……)
『先ほどまでの勢いは見事であったぞ。貴様、好きなものについては、ずいぶん口が回る』
(悪かったね)
『褒めておる。余も魔法の研究について話すと、家臣が露骨に時計を見始めるのでな』
(それ、かなり長く話してるんじゃない?)
『要点だけでも半日は要る』
(要点の意味、知ってる?)
思わず口元が緩んだ。
皇帝にも、人の顔色を見ずに好きなことを話してしまう時があるらしい。
ちょっとだけ、分かる気がした。
『しかし、これほどの使い手が揃っておるとはな。ニホンの武力を測り直す必要がある』
(……ん?)
『白髪の術師はともかく、惑星を破壊する王子と時を止める学徒は厄介だ。敵対は避けるべきか』
(皇帝、ちょっと待って)
『何だ』
(これ、全部、作り話だよ?)
返事が途絶えた。
僕は展示ケースを眺めたまま、頭の中の沈黙に耐えた。
やがて、ひどく慎重な声が返ってくる。
『……実在せぬのか』
(しないよ。漫画とかアニメの登場人物だから)
『貴様、そういう大事なことは先に言え』
(最初からフィギュアの説明してたじゃん!)
『功績を讃える小像かと思ったのだ』
今度こそ、笑いを堪えきれなかった。
僕は口元を押さえ、棚の前で小さく肩を震わせる。
(ご、ごめん。皇帝が真剣に攻略法まで考えてたから……)
『架空の敵を相手に策を練るのも、無駄ではない』
(急に訓練だったことにした)
『次へ行け』
(はいはい)
少しだけ拗ねたような声に押されて、隣の景品へ目を移す。
そこで、見慣れた赤い箱が目に入った。
「あっ。めちゃかわの一番くじ……」
今度は本当に、声を出してしまった。
展示されているのは、丸っこい猫やウサギのぬいぐるみだった。中でもC賞の猫のマスコットが、妙に目を引く。
『今度は何の英雄だ』
(英雄じゃないよ。可愛いキャラクター)
『何をする』
(……暮らす)
『暮らす?』
(友達と遊んだり、ご飯を食べたり、たまに大変な目に遭ったり)
『民の日常を描いた物語か』
(そう言われると、すごく重厚な作品みたいだね)
僕は財布を開いた。
一回、七百円。
安くはない。でも、C賞の猫は鞄につけるのにちょうどよさそうだった。
桜井さんが持っていたら、似合うかもしれない。
『引くのか』
(……一回だけね)
『何が手に入る』
(くじだから、引くまで分からない)
『金を受け取り、品は売り手が決めるのか。なかなか強気な商人だな』
(そういう遊びなんだよ)
レジで代金を払い、差し出された箱へ手を入れる。
指先に触れた一枚を選んで、くじを開いた。
「C賞ですね。こちらになります」
「……やった」
思わず、声が弾んだ。
店員さんから受け取ったのは、さっき眺めていた猫のマスコットだった。袋越しでも分かる、丸い顔と柔らかそうな毛並み。何も考えていなさそうな表情が、何とも可愛い。
『戦えそうにはないな』
(だから、戦わせないんだって)
『では、何に使う』
(見て、癒やされる)
『精神を安定させる道具か』
(間違ってはいないけど、言い方がなあ……)
袋の中の猫を眺めながら、僕は小さく呟いた。
「これ、桜井さんにあげようかな」
『自分で持たぬのか』
(うん。好きそうだなって思って)
『ならば渡せばよい。その娘を思い浮かべて選んだのであろう』
(……当たったのは偶然だけど)
『それでも、誰に渡すかは貴様が選べる』
皇帝にそう言われると、少しだけ勇気が出た。
ただ渡すだけだ。別に、何か特別な意味があるわけじゃない。
そう自分に言い聞かせながら袋を鞄へしまうと、皇帝が妙に楽しそうな声を出した。
『ただし、贈ったからといって見返りを求めるなよ』
(求めてないよ!)
『ならば、その顔の熱さは何だ』
(共有してるからって、そういうのまで実況しないで!)
恥ずかしくなって足早に歩き出しかけたところで、皇帝が再び僕を呼び止めた。
『待て。見落としておった』
(今度は何?)
『右上だ』
展示ケースの上段。
大きな帽子と杖を持った、魔導師のフィギュアが飾られていた。
青い水着姿で、にこやかにこちらへ微笑んでいる。
『……あれが欲しい』
(えっ)
『魔導師であろう。資料的な価値がある』
(さっきまで架空の人物だって知らなかったよね?)
『異なる世界の魔導師像を知るのも研究のうちだ』
(ふうん。水着だけど)
『衣服による動作の阻害を抑えておるな』
(泳ぐためだからね)
『杖の保持も安定しておる』
(フィギュアだからね)
『帽子には何らかの術式が――』
(皇帝)
『何だ』
(普通に、可愛いから欲しいって言えば?)
皇帝は、少しの間だけ黙った。
『……余にも、立場というものがある』
(今、僕の頭の中にしかいないじゃん)
『貴様が聞いておる』
妙に真面目な声だったので、また笑ってしまった。
さっきは僕の顔が熱くなったことをからかってきたくせに、この人も大概だ。
(ちなみに、それは上位賞だからね。欲しいのだけ選んで買えないよ)
『ならば、当たるまで引けばよい』
(僕の財布を帝国の国庫みたいに扱わないで!)
◇
店を出ると、空にはまだ薄く夕焼けが残っていた。
僕は入口の脇へ寄り、袋から唐揚げ串を取り出す。皇帝に何度も急かされたせいか、すっかりお腹が空いていた。
ひと口かじると、衣がさくりと割れた。
少し冷めていたけど、中の肉はまだ温かい。噛むたびに肉汁と香辛料の味が広がって、つい頬が緩む。
『……なるほど』
(どう?)
『外側の歯応えと、内側の柔らかさがよい。塩気も程よいな』
(でしょ?)
『もう一本買うべきであった』
(今ある分を食べ終わってから言ってよ)
『いや、三本だ。兵糧としての実用性も確かめねばならぬ』
(実験の名目でおかわりしようとしてる!)
笑いながら残りを食べ終え、串と包装を片づけた。
鞄の中には、桜井さんへ渡す猫のマスコットがある。
帰ったら、渡す時に何て言うか考えておこう。そう思いながら店の前を離れたところで、横から声をかけられた。
「なあ、ちょっといい?」
歩道の先に、男が二人立っていた。
明るく染めた髪に、着崩した服。僕より少し年上だろうか。片方が薄く笑いながら近づき、もう一人が何気ない足取りで進行方向へ回る。
胸の奥が、嫌なふうに縮んだ。
「……何ですか」
「俺ら、ちょっと金なくてさ。貸してくんない?」
「すみません。僕も、あんまり……」
「いや、買い物してたじゃん」
男の視線が、僕の手にある袋へ落ちた。
牛乳が一本入った、ごく普通の袋だ。それを持つ指に、知らず力が入る。
「ある分でいいって。財布見せてよ」
貸してほしいと言いながら、返す話はひと言もなかった。
分かっているのに、うまく声が出ない。
断ったら、どうなるだろう。逃げようとして捕まったら。店へ戻るには、目の前の男の脇を抜けなければならない。
『知り合いか』
皇帝の声がした。
(違う……)
『では、なぜ貴様の金を欲しがる』
(カツアゲだよ。脅して、お金を取ろうとしてるの)
『ほう』
声の温度が、少し下がった。
「聞いてる? 財布」
返事のできない僕に苛立ったのか、男が肩へ手を伸ばしてきた。
反射的に身が竦む。
『動かずともよい』
頭の奥で、皇帝が言った。
『一度、余に任せよ』
男の手が、僕の肩へ触れる寸前で止まった。
いや、止まったのではなかった。
触れようとしているのに、届いていない。
「……あ?」
指先が、僕の制服からわずかに離れた場所で押し潰されるように曲がっている。男は眉をひそめ、今度は手のひらで強く押した。
僕の身体は、少しも揺れなかった。
(これ……)
『障壁だ。薄く張っておる』
(薄くて大丈夫なの?)
『こやつが城壁を砕けるなら、考え直す』
(じゃあ大丈夫そうだね……!)
「何やってんの、お前」
もう一人が笑った。
「いや、何か……」
「早くしろって」
促された男の顔が赤くなる。
僕を睨み、肩ではなく胸元の服を掴もうとして、また見えない壁に阻まれた。
「何だよ、これ!」
その声につられて、通りかかった人がこちらを見た。
男はそれが余計に気に入らなかったらしい。舌打ちをすると、片手を振り上げた。
殴られる。
分かっていても、僕は目を閉じてしまった。
鈍い音がした。
「いっ……てえっ!?」
悲鳴を上げたのは、僕ではなかった。
恐る恐る目を開くと、男が拳を抱えて蹲っていた。僕の頬には、痛みどころか何かが触れた感覚さえない。
『だから、動かずともよいと言ったであろう』
(殴るとは思わなかったんだよ……!)
『余も、この程度の壁を素手で殴るとは思わなんだ』
(見えてないからね!?)
もう一人の顔から、笑いが消えた。
「おい。何しやがった」
「ぼ、僕は……」
『事実を教えてやれ。拳で障壁を砕くには、鍛錬が足りぬとな』
(そんなこと言ったら余計に怒るよ!)
「何ぶつぶつ言ってんだ!」
男が僕の鞄へ手を伸ばした。
そこには、猫のマスコットが入っている。
「あ、それは――」
『触れるな』
皇帝の声と同時に、足元の空気が動いた。
強い風が、僕の左右をすり抜ける。
髪が持ち上がったと思った瞬間、二人の男が揃って後ろへよろめいた。足が絡まり、尻餅をつく。振り回した手が空を掴み、靴底が歩道を擦った。
僕の持つ袋は、ほとんど揺れなかった。
「……は?」
男たちが、地面に座ったまま僕を見上げている。
自分でやったわけでもないのに、その視線に僕まで身構えてしまった。
『追い払うぞ。口を貸せ』
(変なこと言わないでよ?)
『分かっておる』
本当に分かっているのか不安だったけど、逆らう余裕もなかった。
僕が小さく頷くと、喉の奥がすっと軽くなる。
「財布を差し出す気はない。ほかに用がなければ、そこを通してもらおう」
自分の声なのに、驚くほど落ち着いていた。
男たちは返事をしなかった。
代わりに、二人とも慌ただしく立ち上がる。
「……行こうぜ」
「あ、ああ」
拳を押さえた男が一度だけ僕を睨んだけど、目が合う前に逸らした。そのまま二人は、足早に通りの向こうへ去っていく。
姿が見えなくなってから、僕はようやく息を吐いた。
膝が少し震えている。
(……助かった)
『あの程度、何ほどのこともない』
(僕には、十分怖かったんだよ)
『そうか』
皇帝は、それ以上からかわなかった。
僕は袋を持ち直し、ゆっくり歩き出した。足の裏に地面の感触が戻ってくるまで、少しかかった。
(ありがとう、皇帝)
『礼はよい。貴様が殴られれば、余も不愉快だからな』
(……痛いの、共有するから?)
『それもある』
それだけではないような言い方だった。
聞き返そうか迷っていると、皇帝が先に続けた。
『しかし、この兵站拠点の近くにまで追い剝ぎが出るとはな。領主は何をしておる』
(この辺に領主はいないよ)
『では、治安を預かる者は』
(警察。何かあったら、電話して呼ぶんだ)
『呼べるのか』
(うん)
『先に言え。捕らえて引き渡したものを』
(僕も、そんな冷静に考えられなかったんだって……)
鞄の上から、そっとマスコットの位置を確かめる。
潰れてはいない。それだけで、少し気持ちが落ち着いた。
『……その猫、案外役に立つな』
(え?)
『もう顔色が戻ってきた』
僕は思わず、鞄から手を離した。
(これは、その……無事かなって)
『精神を安定させる道具。余の見立ては正しかったわけだ』
(だから、そういう言い方はやめてよ)
今度は、ちゃんと笑えた。
道の向こうを車が流れ、信号に従って止まる。建物の間から電車の音が聞こえてきた。
振り返ると、コンビニの店内では新しいお客さんが弁当を選んでいた。さっき僕が立っていた棚の前で、仕事帰りらしい人が、少し迷ってからひとつ手に取る。
『……余は、この世界を見誤っておったかもしれぬ』
(急にどうしたの?)
『魔法がなければ、不便なことばかりであろうと思っていた』
皇帝の意識が、明るい店内へ向いた。
『だが、食料を遠くから運び、傷ませずに保ち、夜でも買えるようにしておる。書物も、その知識を読むための灯りも、民の手に届く』
(うん)
『ひとりの術者に頼らず、それを毎日続ける仕組みがあるのだな』
僕は黙って、皇帝の言葉を聞いていた。
『大したものだ』
短い言葉だったけど、さっきまでとは重みが違った。
何でもないと思っていた景色を、本当にすごいものとして見てくれている。
それが、何となく嬉しかった。
(……でしょ)
『もっとも、追い剝ぎへの備えは要る』
(そこで台無しにしないでよ)
『貴様も障壁くらい覚えておけ。毎度、目を閉じておっては困る』
(覚えられるの?)
『教えればな』
僕は思わず、顔を上げた。
さっきまで怖くて縮こまっていた胸の奥に、別の熱が灯る。
自分で、魔法を使えるようになる。
それなら次は、ただ目を閉じているだけではなくなるかもしれない。
(……それは、教えてほしい)
『よかろう』
皇帝は、少し満足そうだった。
僕もつられて頬を緩め、今度こそ家へ向かって歩き出す。
すると、頭の中に妙に厳かな声が響いた。
『さて。その前に、ひとつ頼みがある』
(何?)
『あの魔導師の小像だが――』
(買わないからね)
『まだ何も言っておらぬ』
(分かるよ! 今の流れで諦めてなかったの!?)
皇帝の深いため息を聞きながら、僕は鞄を肩へ掛け直した。
さっきより少しだけ、帰り道が短く感じられた。




