第8話
俺が「白神さん」と呼んだせいで瀬名の足が急に止まる不具合が頻発していたが、それでも順調に上を目指していると、急に瀬奈が立ち止まって呟いた。
「お、セーフゾーンだ」
階段を上がりきった瀬奈が額に手を当ててあたりを見渡す。俺もその横に立って、眼前に広がる風景に息を呑んだ。
木立の並ぶ山の中腹を思わせる、十五メートル四方の空き地が広がっていた。
山の端に太陽が半分隠れ、薄暗い橙色と赤紫で彩られた雲がゆったりと流れている。夕暮れ時を思わせる空模様だ。
隅にはボロい祠が建っており、その中にはしめ縄と御幣で飾られて一枚のデカいお札が貼られた岩が鎮座している。
空気はひんやりと澄んで、水の流れる音とひぐらしの鳴き声、そして風に揺さぶられて擦れ合う枝葉のざわめきを俺達に届ける。
暗くてじめっとした狭苦しい石室の迷宮から一転、突如現れた静謐なこの空間はセーフゾーンと呼ばれ、冒険者の憩いの場として用いられている。
セーフゾーンの様相は様々で、田舎のバス舎だったり、集合住宅の一階層だったり、豪華な応接室だったりとバリエーション豊富だ。
地上にありがちなロケーションばかりだが、そこはやはりダンジョン……結局のところ、これらは人間社会を模倣したイミテーションだ。
その証拠に、どのセーフゾーンにもどこかに不自然な部分がある。
例えば今俺達のいるセーフゾーンで言えば、祠の石に貼り付けているお札の文字がそうだ。
AIが出始めた頃の、文字を文字と認識出来ずに模様として生成したような不気味な模様が描かれている。
とは言え、セーフゾーンには魔物が出現せず、人間が休憩するのにおあつらえな空間である事に変わりはない。
なので冒険者は多少の違和感には目を瞑り、ありがたく利用させて貰っている訳だ。
行方不明者も変な所に出張らずに、こういう場所に固まっていてくれたら捜索部としても楽が出来るのにな……などと仕事中よく考えていた。
「歩君、どうかな? ここのセーフゾーン、データにある?」
「……いや、ここについては記載が無い。今現在、最下層のセーフゾーンは第21階層の宴会場だ」
業務端末を操作して確認するが、こんな山奥を模倣したセーフゾーンはアーカイブのデータには無い。
他のダンジョンに飛ばされた可能性もゼロではないが、そうなると本当に分からなくなる。
俺の端末に入っているダウンロード済みのデータは、俺の勤務地である第十二ダンジョンの物だけだ。
「うーん……でもまぁ、せっかくだからちょっと休憩しよっか。水場もあるから、色々洗いたいしね。髪とか体とか、装備とか」
「それは別にいいが……偽物とは言え山の水は冷たいだろうから、体を冷やし過ぎたりしないようにな」
俺は瀬奈に忠告する。これは実体験から来る教訓だ。
小学生の頃、親父に連れられて山の麓の河原で川遊びをしていたら、唇が紫色になるくらい冷えて親父に笑われた事があった。
帰ってお袋にチクったらお袋がカンカンに怒って、「そんな危ない事させて何考えてるの!?」などと怒鳴りながら親父を正座させて説教していた。俺も親父の横に座らされてついでに怒られたっけな。
「はーい、気をつけまーす……歩君、山に何か思い出があったりするの?」
「……? 昔ちょっとな。どうかしたか?」
「んー……なんか、ちょっと優しい顔をしてたから。楽しい思い出があったのかな、って」
瀬奈の指摘を受けて、俺は自分の頬を両手で包んで揉んだ。少し気を緩めすぎたかも知れない。
今は仕事中で、要救助者をエスコート中で、気を引き締めないといけない状況だ。
セーフゾーンで休憩するとは言え、油断していい立場では無い。
「まーた真顔に戻っちゃって……別にいいんじゃない? ここには私達しかいないんだし、気楽に行こうよ」
「……仕事中だからな」
「ふーん、なんとも真面目な事で……まあいいけどねー! じゃ、水浴びして来るから覗いたりしないよーに!」
瀬奈がびしっと指を突きつけて要求するが、頼まれても覗いたりしない。
亡くなった女性冒険者の装備を回収しただけで変態扱いをされたり、プライバシーを侵害したと罵られたり、何ならご遺体に性的ないたずらをしたんじゃないかとあらぬ嫌疑をかけられるような職場で、進んでセクハラを働くつもりは毛頭無い。
実際セクハラを疑われる事に嫌気が差して退職した新人の数は片手では足りない。恨みと偏見の渦巻く底辺職、それが捜索部三課だ。
「何があっても水場には近付かない。瀬奈の姿どころか髪の毛一本視界に入れない事を誓おう。覗いたりはしない。絶対だ」
「そこまで言われると逆にショックなんだけど!? しかも何なのその心底嫌そうな顔!? ワンチャンあるなーとか思わない訳!?」
「セクハラで訴えられる事を考えたらそれはチャンスじゃなくてピンチだ、万難を排してでも可能性は潰すから安心してくれ」
俺が強く宣言すると、瀬奈はぶつくさ呟きながら沢へと降りていく。
途中何度かこちらを確認するようにチラチラ見ていたが、安心して欲しい。絶対近付かないから。
俺は瀬奈が戻って来るまで、魔素の残滓のように輝く黄昏の空を眺めていた。




