47 チワワと鬼の家
子爵令嬢 ニーナ・ヴァロワ
皇太子 アルフレッド・クロムウェル
公爵 ジークハルト・ベルシュタイン
「忘れない…すごく、嬉しかったから。アドルフにも同じことを言ったの?」
「まあ…だいたい、そうです」
視線をそらしながら答える。
アドルフには1時間語ったから、もうちょっと多く、いや、かなりたくさん話している。
あのときの自分の勢いを思い出して、また別の意味で恥ずかしくなる。
「俺だけが聞きたかったな。あ、でもみんなに惚気てくれるのは嬉しいかも」
ジークハルトが私を抱きしめて、額にキスしてくれた。
ドキっとする。
挨拶でキスくらいしたことがあるのに。
寝る前に父や母にキスしてもらうこともある。
それと同じ感じの、そういうキス…。
そう頭では整理しようとするのに、心臓がバクっと跳ねた。
「あ、ごめん。気持ちが昂っちゃって…か、勝手に、キスして」
ジークハルトが私の体をはなす。
ちょっと残念。
このまま唇にキスとか…してもいいのに。
自分からは言い出せなくて、変な沈黙が流れた。
「そ、そろそろ、寮に帰らないと」
ソファから立ち上がろうとして、ジークハルトが私の手を掴む。
「帰るの?…今日は、泊っていったら?」
ジークハルトがそう言ってチワワの目をする。
泊って、いけるわけない。
「ジークハルト様…ご冗談を」
思わず少し声が上ずる。
婚礼前の令嬢が、婚約者の家であろうと、男性の家にお泊りするなんて考えられない。
ただでさえ子爵令嬢だからと嫌がられているのに、お義母様が聞いたら卒倒するだろう。
「明日も参りますので」
そう伝えて、なんとか手を引いてもらった。
「どうしても帰る?夕飯だけでも食べていかない?」
ジークハルトが最後までチワワの目だった。
その背後には、いつの間にか現れた鬼の形相のお義母様が立っていて、視線の圧が複雑すぎる。
チワワと鬼を、足して二で割ってくれないだろうか。
そんなことを思いながら次の日もベルシュタイン家へ。
門をくぐるだけで、少しだけ気持ちが引き締まる。
「本日は、私があなたの勉強を見てあげます」
待っていたのはアドルフではなく、お義母様だった。
私、どこまで嫌われているんだろう。
胸の奥で小さく呟く。
ただ、お義母様をないがしろにはできない。
「よろしくお願いします」
そう言って頭を下げるしかない。
領地について教えていただくはずだったけど、ベッドメイキングについて教えてもらう日になった。
教えてもらうっていうか、ベッドメイキングをやらされている。
「この部屋が終わったら、次はジークハルトの部屋のベッドメイキングよ。さっさと終わらせなさい」
そう言われながらシーツをのばす。
布の端をきっちり合わせ、皺が残らないように手で押さえる。
自分のベッドのベッドメイキングはやっているから、できなくはないんだけどね…
ジークハルトの部屋のベッドのシーツを取り換える。
大きな窓から差し込む午後の光が白い布地に反射して、ふわっと淡く揺れるたびに、清潔な空気とともにジークハルトの香りがかすかに漂ってきて、胸の奥がきゅんとした。
「で、今日は何をしてるの?」
後ろから愛しい人の声がして固まる。
驚いて肩が跳ね、手に持っていたシーツが少しだけ空中で揺れた。
お義母様。
私をイジメるならイジメるで、ジークハルトが来ないように見張っておいてよ…
「いい加減にしてよ、母さん!何度言ったらわかるの?!」
ジークハルトとお義母様の言い合いが続いている。
廊下にまで響くような声に、部屋の空気がぴりっと張りつめる。
「だから、この子の物覚えが悪いのがいけないのよ」
「物覚えって、そもそも何も教えてないだろ?いい加減なことばかり言わないで」
何を言われても表情を変えないお義母様と、怒りで顔を赤くしているジークハルト。
2人の視線がぶつかるたびに、空気がきしむような音がしそうだった。
私のせいで2人が言い争うのは本意じゃない
「あの、ジークハルト様。お義母様にはなにか考えがあったのだと思いますし。そんなに怒らないでください」
そう言ってジークハルトをなだめてみる。
「そうよ。私には、私の考えがあったの」
お義母様がそう言ってため息をついた。
その姿を見て、ジークハルトがバンっとテーブルを叩いた。
木の音が部屋中に響き、思わず肩がびくりと跳ねる。
「ニーナ嬢に謝ってください、母さん」
そう言って、ジークハルトがお義母様を見る。
「なんで謝る必要があるの?この私が子爵令嬢に頭を下げるなんて、ありえないわ」
お義母様がそう言って、私を汚いものを見る目で見た。
これはもう、この人の考え方だから仕方がない。
「子爵令嬢じゃなくて、俺の、妻になる人だよ?何度も言わせないで」
ジークハルトがそう言ってお義母様をまっすぐ見る。
そうして、立ち上がると背筋を伸ばした。
「母さん、俺はね、これでも我慢してきたんだ。でも、もう無理。ニーナ嬢にそういう態度をとり続けるなら、この家から出ていってもらうから。結婚して、父さんから爵位を継いだらすぐ」
ジークハルトが、冷たい目でそう言った。
いつもの優しさが一瞬消えたような表情に、空気が凍りつく。
ぞわっとする。
優しいジークハルトが、血は繋がっていないとはいえ、母親にこんなことを言うなんて。
そうじゃない…
これを言わせてるのは私だ。
「待ってください、ジークハルト様。それは、いけません」
そう言って、お義母様の前に立つ。
「今は少し、お二人とも興奮されているようですし。この話はここまでにしましょう」
そう言って微笑んだ。
口角を上げるだけで精一杯だったけれど、それでもなんとか空気を変えようとする。
「興奮はしているけど、やめない。今日こそ、はっきりさせておきたい」
ジークハルトがそう言って私の手を引く。
いけない。
ジークハルトに、私の推しに。
母親を断罪するようなことをさせては。
それだけを考えて、口から言葉が出ていた。
「お、お義母様がこの家を出るなら、私はジークハルト様と結婚しません」
何を言ってるのか、自分でもよくわからない。
ジークハルトが私を見て、眉をひそめている。
驚きと困惑が混ざった表情だった。
「どうして?母さんが君にヒドイことをしたから。俺、君のことを思って…」
「私のことを思ってくださるなら、どうか、お義母様と仲良くしてください。私が来たことで、2人の仲が悪くなるのは嫌なんです」
必死に言葉を重ねる。
自分でも声が震えているのがわかる。
そう伝えると、ジークハルトがチワワになる。
さっきまでの鋭さが消えて、困ったように瞳を揺らした。
「でも、ニーナ嬢がヒドイ目にあっているのを見るのは嫌なんだよ…」
ジークハルトが私のことを思ってくれているのはわかってる。
「ありがとうございます。でも私、お義母様には負けませんから、大丈夫です!」
そう言って、両腕を曲げて力こぶを見せた。
もちろん実際にはほとんどないけれど、気持ちだけは全力だった。
ジークハルトが微笑む。
「…そうだね。ニーナ嬢は、たくましかったね」
そう言って、抱きしめられてしまった。お義母様の前で。




