第22話 英雄を作る
町の役場の掲示板に、新しい布告が貼られたのは、祝宴の三日後だった。
古い布告は、剥がされていた。剥がした跡の、四隅の糊の色だけが残っていた。
『十人長オルド、西の退き戦において、持ち場を離れ、西へ向かう。五の隊の兵十一を連れ戻す。軍の法により処刑。ここに、その行いを記す』
字は、ミーレの字だった。
掲示板の前に、何人か立っていた。誰も、声に出して読まなかった。読み終えた者から、黙って離れていった。
二年前、この中の何人かは、うちの店の窓に石を投げた。
石は、もう飛んでこない。俺が出ていくからだ。偽書の作者の家に石を投げるより、副官の家の前を黙って通るほうが、この町の者には楽なのだ。
*
荷物は、少なかった。
筆を三本と、墨を二つ。紙を一束。着替え。写本屋が持ち出すものは、それで足りる。手の中のものは、どこへでも持っていける。
親父は、帳場に座っていた。
「店は、頼む」
「わしが写せるうちはな」
親父は、咳をした。
「城の医者が、三日おきに来るそうだ。領主様のお指図だと。偽書の作者の親父に、医者をよこす領主がいるか」
「いるんだ。あの人は、そういう数え方をする」
親父は、少し笑った。兄貴の笑い方に、少しだけ似ていた。俺には、似なかった笑い方だった。
昼過ぎに、ミーレが来た。
腕に、木箱を抱えていた。蓋に、『処刑者オルド 遺品 一箱』と札が貼ってあった。
「閣下のお許しで、ご家族にお返しします」
ミーレは、箱を帳場に置いた。札の束を出して、いちばん最後の行に、何か書いた。
『家族へ返却。毛布一枚、匙一本、砥石一つ、帯一本。覚え帳一冊、不在のまま』
「返すときにも、書くのか」
「記録は、返すときにも書きます」
ミーレは、筆をしまった。
「覚え帳は、たぶん、もう出てきません」
「分かってる」
「それでも、不在と書いておきます。いつか誰かが、ないものがあったことを知るように」
ミーレは頭を下げて、出ていった。戸口で、一度だけ振り返った。
「北の棚の帳面の写しを、あと千二百枚、残していかれました」
「悪かった」
「いいえ。字が、きれいでしたので」
箱を開けた。青い縞の毛布が、いちばん上に畳んであった。
俺は、それを親父の膝に掛けた。
*
日が暮れてから、ブラントが来た。
店の中には入らなかった。戸口に立って、写字台を見ていた。
「北へ行くそうだな」
「北の隊商に、写字生の口があります。宿場ごとに、注文の写しを受けます」
「そうか」
ブラントは、しばらく黙っていた。
「白河は、八百だったな」
「八百でした」
「浅瀬には」
「三人」
ブラントは、うなずいた。
それだけ言って、ブラントは帰っていった。笑わなかった。
最後まで、一度も笑わなかった。
*
出発の朝は、早かった。
北へ発つ隊商は、町の北の門の外で荷を積んでいた。二年前、俺が三十部の伝記を預けた隊商の、同じ荷主だった。荷主は、俺の顔を見て、何も言わなかった。
門の柱に、男が一人寄りかかっていた。
杖をついていた。外套の喉元に、銀の留め金が光っていた。
「見送りか」
「金を返しに来た」
グレンは、腰の袋を外して、俺に放った。受け取ると、重かった。
逃げろ、と言って、俺が置いていった袋だった。中身は、減っていなかった。
「逃げる金だ。あんたが使え」
「お前は」
「領主が、騎士領をくれると言った。今度は、いつ受けるか言った。今日だ」
グレンは、北の街道を見た。
「西の国は、また来る。そのとき、英雄の顔がいる。偽物だと知れた英雄でもな。あの領主は、そういう数え方をする」
「さっき、同じことを親父に言った」
「なら、合ってる」
隊商の先頭で、荷主が手を上げた。出る、という合図だった。
俺は袋を、荷物の一番下に押しこんだ。
「最終巻の分け前は」
俺が言うと、グレンは鼻で笑った。
「要らない。あれは、俺の話じゃない」
「一冊につき、銅貨一枚半の約束だ」
「あの本は、あんたが三十部しか写してない。それに、売ってない。前払いで、詩人にくれてやった」
グレンは、杖で地面を一度突いた。
「赤字の本の分け前を取るほど、詐欺師は落ちぶれちゃいない」
俺は、少しだけ笑った。
グレンは、それを見ていた。俺の顔を読む目だった。何が書いてあったのかは、訊かなかった。
荷車が動き始めた。
俺は、荷車の後ろに歩いて回った。
「レン」
グレンが、俺を呼んだ。
振り返ると、グレンは門の柱から体を起こしていた。
それから、短く、名前を一つ言った。
聞いたことのない名前だった。どこにでもいそうで、どこにもいない名前ではなかった。どこかの村の、どこかの母親がつけた、ありふれた名前だった。
本名は、あんまり得じゃない。最初の晩に、この男はそう言った。
「書くなよ」
「書かない」
俺は言った。
「俺はもう、何を書いても信じてもらえない」
「いい商売道具を、なくしたな」
「お前の口ほどじゃない」
グレンは、笑った。笑って、杖をついて、門の内側へ戻っていった。
振り返らなかった。
俺は、荷車の後ろについて、北の街道を歩いた。
*
北の宿場の酒場に、吟遊詩人が来たのは、夏の終わりだった。
竪琴を膝に置いて、新しい歌を一つ、と言った。灰川のほうの兵が歌っていたのを、覚えてきたのだという。
十人長が、何もない川を三度渡る歌だった。
英雄は、出てこなかった。密命も、出てこなかった。十人長は、誰にも命じられずに川へ入って、死にかけた兵を担いで戻ってきて、最後に、松明のほうへ歩いていく。
名前は、歌の最後に一度だけ出てきた。
「誰が作った歌だい」と、隣の卓の男が訊いた。
「さあね」と詩人は言った。「誰が作ったのでもないんだろう。見た連中が、歌ってたんだ」
誰かが杯を上げた。
「十人長に」
そこらじゅうの杯が、それに続いた。麦酒がこぼれて、床板が鳴った。
俺も、杯を上げた。
酒場の誰も、俺の顔を知らなかった。
この歌は、俺が書いたものではない。
兄貴の名前のうち、俺が書いたものは、もう一つもない。
その夜、俺は宿で、注文の写本を写した。南の伯爵家の出した、古い戦記だった。
白河の戦いのくだりで、筆が止まった。
伯爵の兵は、三千、と書いてあった。
俺は、写本の余白に、小さく書き足した。
『一説に、八百。浅瀬に、三人』
写しごとに中身が少しずつ違うのは、珍しいことじゃない。
(第22話 了)




