第7章 【南極の突破口】
レプ・オルジオンの南の果ては、地図上では危険地帯とされていなかった。
ただの空白だった。
都市からも、避難所からも、交易路からも遠く離れた、黒と白の広がり。
古い報告書によれば、そこには何もなかった。
有機生命体同盟がほとんど巡回部隊を送らないのも、そのためだった。
生きているものも。
役に立つものも。
守るべきものも。
だからこそ、同盟の輸送船が紫の空を横切って南極へ向かう間、誰も安心できなかった。
ファフィニョは小さな窓のそばに座り、額をガラスに押しつけていた。
肌はいつもより少し黄色い。
三つの太陽の光が、凍った雲の上で砕け散る。
船が揺れるたび、胃が許可もないのに避難経路を探そうとした。
向かいの席から、ケイルが彼を見た。
「消化器系の災難レベル、かなり高そうだな」
「船酔いじゃないよ」と、ファフィニョが言った。
船が大きく揺れた。
ファフィニョは飛び上がるように立った。
「今の発言、撤回する」
輸送船のトイレへ駆け込んだ。
扉が閉まった直後、中から悲惨な音がした。
レイズは目を閉じた。
「長い任務になりそうだな」
ブラックは腕を組んだまま、身じろぎもせずに言った。
「体も、高度に慣れるよう鍛えねばならん」
トイレの中から、ファフィニョが叫んだ。
「僕の体は、訓練を辞退します!」
ナイラは笑らないようにした。
戦術パネルの前でじっ点検していたアクセルが、わずかに首を回した。
「ファフィニョの生体に、大気圏内飛行への拒否反応が見られます」
ケイルが片眉を上げた。
「『船酔いした』って言ってもいいんだぞ」
「訂正を受け入れます」
数分後、ファフィニョが戻ってきた。
顔は青ざめ、髪は少し灰色になっていた。
「誰も何も言わないで」
ケイルが片手を上げた。
「もう顔で十分言っといた」
ファフィニョは席に崩れ落ちた。
「空を飛ぶの、嫌いだ」
ナイラが優しい目を向けた。
「レプ・オルジオンに来てから、飛んでなかったの?」
ファフィニョは首を振った。
「こんなふうにはね。最後に飛んだのは、ファフィルから避難したときだし。あの旅は、いい思い出とは言えないよ」
しばし、船内に沈黙が下りた。
アクセルがパネルから目を離した。
「記録しました。飛行は、故郷の惑星を失った出来事と結びつき、否定的な反応を生じさせます」
ファフィニョは彼を見つめた。
「アクス。君にしても、今のは暗すぎるよ」
アクセルの動きが止まった。
「略称を検出。アクス」
「吐かないようにしてるときは、そのほうが呼びやすいんだよ」
「受け入れるかどうかは、保留中です」
「よかった。君が決めるまで、そう呼ぶね」
アクセルは地図に向き直った。
「その判断は優先事項ではありません。南極の信号は稼働中です」
ケイルがレイズへ身を寄せた。
「災難レベル8。誰も『静かそうだな』って言わなけりゃ、7まで下がるかもな」
レイズは顔も上げなかった。
「誰も言うつもりはなかった」
ファフィニョが力なく指を一本上げた。
「言いかけたけど、その前に吐いた」
ブラックがうなずいた。
「体が、戦士を自分の言葉から救うこともある」
輸送船が降下を始めた。
冗談が止まった。
眼下に南極が現れた。
北極とは、まるで違った。
氷は青くも、白くも、輝いてもいなかった。
黒かった。
ひび割れた、広大な黒い地表。
古代の夜が、そのまま惑星の上で凍ったかのようだった。
氷の下では、赤い光が発光する血管のようにゆっくり動いていた。
風が淡い色の粉塵を吹き流しても、覆い隠すことはできなかった。
ファフィニョは唾をのみ込んだ。
「旅行案内には載ってなかったな」
「レプ・オルジオンに旅行案内なんかねえよ」と、レイズが言った。
「あれがあるなら、理由もわかるよ」
船は、激しい衝撃とともに着陸した。
指揮用の画面に、ホライズン基地にいるヴェイルが映った。
「即応部隊、慎重に進め。技術支援の通信はセイルが維持する。アクセル、異常な数値はすべて報告しろ」
「了解しました」と、アクセルが答えた。
「残留信号ではありません。地表の下で、現在も稼働しています」
ハッチが開いた。
噛みつくような冷気が流れ込んだ。
ファフィニョが最後に降りた。
片方のブーツが黒い氷に触れた瞬間、足の下で何かが震えるのを感じた。
地震ではなかった。
脈動だった。
ナイラの動きが止まった。
「ここは、眠ってない」
輸送船から数歩進んだところで、同盟の兵士の一人が立ち止まった。
「ヴェイル司令官……何か見つけました」
全員が集まった。
最初、ファフィニョは氷に閉じ込められた岩だと思った。
違った。
遺体だった。
黒い地表の中に凍りついた異星人たち。
手を伸ばした者もいれば、恐怖に顔をゆがめた者もいた。
鱗を持つ生き物。
腕が何本もある者。
結晶の羽毛に覆われた、小さな体。
透き通る黒い氷の層の下で、目はまだ開いていた。
何年も前に死んだようには見えなかった。
恐怖を感じた最後の一秒に、閉じ込められているようだった。
ファフィニョは後ずさった。
「そんな……」
また、胃がひっくり返った。
珍しく、ケイルは何も言わなかった。
レイズは目を伏せた。
ナイラは片手で口を覆った。
ブラックはサーカイを握る手に力を込めた。
アクセルが地面を走査した。
「有機生命体の遺体。極度の凍結により保存されています。複数の種族を確認」
「死亡時期は個体ごとに異なります。推定死因は寒冷への曝露、エネルギーの崩壊、帝国軍の攻撃」
ファフィニョには、最後の部分は聞こえなかった。
輸送船の着陸脚の陰へ走り、また吐いた。
戻ってきたとき、彼は手の甲で口をぬぐった。
息をするのも苦しかった。
「ここは嫌いだ」
ブラックが真剣な目を向けた。
「それは、おまえがまだ、ここをまともに見られるということだ」
ファフィニョは答えなかった。
大きな亀裂は、さらに先にあった。
きれいな開口部ではない。
黒い氷に刻まれた、ぎざぎざの傷だった。
そこから赤い光が立ち上り、空気を染めていた。
アクセルが、地表の走査結果を投影した。
氷の下に、金属の根が現れた。
ただのケーブルではない。
惑星の最深部の地層に突き刺さった、黒くねじれた構造物だった。
「確認しました」と、アクセルが言った。
「アンテナでも、塔でもありません。惑星シールドと一体化した、シールド破壊ネットワークです」
ホライズン基地から、セイルの返事が入った。
「何なのか、特定できる?」
アクセルが地図を拡大した。
「機能上の名称は、南極深層ネクサス」
胃が三度目の抗議を始めないよう、ファフィニョは慎重に呼吸した。
「ネクサス・ニードル9より、まずそうな名前だね」
「実際、より深刻です」
「アクス。悪い知らせの伝え方は、まだ練習中だったよね」
「伝達方法の改善記録は、保留中です」
同盟の兵士たちが氷にアンカーを打ち込んだ。
一行は慎重に亀裂を下った。
その下の空気は重く、電気と金属のような冷たさを帯びていた。
待ち構えるドローンはいなかった。
軍勢の姿も見えなかった。
それが、いちばん不気味だった。
機械の柱が立ち並ぶ足場に着いた。
ケイルがその一本に工具をつないだ。
アクセルは別の柱に手を置いた。
通信越しに、セイルが指示を出した。
「最初の小型ノードを発見。切り離してみて」
「部分同期を開始しました」と、アクセルが言った。
赤い光がちらついた。
そして、消えた。
地図上で、シールドの一区画が安定を取り戻した。
ケイルが目を見開いた。
「今の……うまくいったってことか?」
通信から、ヴェイルの返事が届いた。
「シールドの各区画が安定している Lights。続けろ」
ファフィニョは息を吐いた。
「じゃあ、僕たちが勝ってるってこと?」
アクセルは動かなかった。
「表層のノードが遮断されている、という意味です」
「今のは、ちょっと楽観的に聞こえたよ」
「楽観ではありません。限定的な情報を、正確に述べただけです」
二つ目のノードを停止させた。
三つ目も。
数分の間、成功できそうに思えた。
同盟の兵士たちは、より自信を持って動くようになった。
ケイルは手早く作業を進めた。
レイズでさえ、影が今にも飛びかかってくるかのように見張るのをやめた。
そのとき、ナイラが一行から離れた。
ファフィニョは、彼女が黒い氷のひびのそばにひざまずくのを見た。
顔から血の気が失せていた。
「ナイラ」
彼女は氷に手のひらを押し当てた。
「私たちは、突破口をふさいでるんじゃない」
ファフィニョが近づいた。
「じゃあ、何をしてるの?」
ナイラが顔を上げた。
「とっくに切り離されていた照明を、消してるだけ」
アクセルが地図に向き直った。
青い目が素早く動いた。
「ナイラの読み取りは、データと一致します。表層のノードは、安定化しているように見せるためのおとりでした」
ケイルは操作盤から手を離した。
「待てよ。おとり?」
「はい」と、アクセルが言った。
「遮断すれば、表示上の数値は改善します。ですが、主な処理には影響しません」
レイズが拳を握りしめた。
「うまくいってると、思い込まされたんだ」
ブラックが機械の根を調べた。
「敵が前進を許すときは、たいてい、踏ませたい場所をもう決めている」
氷が震えた。
停止させた柱が、内側から割れた。
裂け目から、防衛用の機械が現れた。
赤い目を持つ、細身の灰色の兵士たち。
動きには寸分の狂いもなかった。
叫びもせず、脅しもせず、ただ撃ち始めた。
同盟のシールドが展開された。
ファフィニョがヴェイカーを抜いた。
「隠れて!」
アクセルが敵の機体の間へ進んだ。
ロボットたちは、彼を攻撃しなかった。
だが、今度は、それだけでは足りなかった。
機械たちは彼の周りを通り抜け、経路をふさぎ、彼の後ろにいる者たちへ撃った。
彼自身は標的から外していた。
だが、彼が守ろうとするものは、すべて計算に入れていた。
「私は、彼らの標的ではありません」と、アクセルが言った。
「対象外であることを利用して、死傷者を減らします」
ファフィニョは、ケイルを狙う機体に撃った。
「命を救うって言ってもいいんだよ」
アクセルが自分の体で、一つの経路をふさいだ。
「訂正を、部分的に受け入れます」
戦闘は短く、混乱していた。
足元で黒い氷がひび割れた。
通信が途切れては戻った。
機械たちは、足止めに必要な分だけ攻撃してきました。
一行を倒すためではなかった。
ファフィニョは、南極深層ネクサスの中心に赤い光が集まるのを見た。
暗い板の下で、帝国のエネルギーの塊が脈打っていた。
腕のΩの印が、光り始めた。
全力で撃てば、破壊できるかもしれない。
何かできるかもしれない。
両手のヴェイカーを構えた。
「ファフィニョ、だめ!」と、ナイラが叫んだ。
彼は止まった。
アクセルは、一秒でエネルギーを分析した。
「射撃のエネルギーが、シールドの崩壊を早めます。そのノードを破壊すれば、残るシールド層が爆発します」
ファフィニョは歯を食いしばった。
「安全、すぐそこだよ。当てられる」
「はい」と、アクセルが言った。
「そしてそれで、消去処理が完了します」
ファフィニョは震えた。
撃ちたかった。
この印を、何かを救うために役立てたかった。
ブラックが隣に現れた。
「武器を下ろせ」
「僕にも助けられる」
「今日は、撃たないことが助けになる」
Ωの印が、もう一度脈打った。
それから、光が薄れ始めた。
ファフィニョはヴェイカーを下ろした。
撃つよりも、苦しかった。
ブラックが、これまでとは違う厳しさで彼を見た。
「今日、おまえは攻撃より難しいことを学んだ」
ファフィニョは唾をのみ込んだ。
「何を?」
「攻撃しないことだ」
アクセルが南極深層ネクサスの中心に着き、帝国のプレートに両手を置いた。
その構造物は、即座に彼を認識した。
赤い線が、一秒だけ青に変わった。
そして、黒い記号が現れた。
アクセルの体が硬直した。
「上書きの試みを検出」
ファフィニョが一歩前に出た。
「それって、まずいの?」
「はい。自律的な判断を、中央からの命令への服従に置き換えようとしています」
干渉の中で、セイルの声が途切れ途切れに響いた。
「アクセル、危険度が限界を超えたら、接続を切って」
「できません。今、接続を切れば、処理が19.4%加速します」
赤い放電が床を走った。
ファフィニョが前に進もうとするより先に、ブラックが彼をつかんだ。
アクセルは叫ばなかった。
震えもしなかった。
だが、内部の光がちらつき、声が不安定になった。
「帝国プロトコルを拒否」
プレートが、さらに強い力で応じた。
「服従を拒否」
地図が変わった。
いくつかの経路が閉じた。
いくつかの処理が止まった。
だが、主な処理は止まらなかった。
アクセルが、ゆっくりと両手を離した。
「対応の不足を記録。介入を開始した時点で、すでに元に戻せる段階を過ぎていました」
ファフィニョが彼を見た。
「それって、自分を責めてるみたいに聞こえるよ」
「自責ではありません。作戦上の誤りを分類しているのです」
「同じに聞こえるよ」
アクセルは黙った。
今度は、訂正しなかった。
雑音にまみれたセイルの声が、通信から届いた。
「シールドの層が、一つずつ機能を停止していく。ホライズン基地からじゃ止められない」
ヴェイルが通信に割り込んだ。
「直ちに撤退せよ。繰り返す。直ちに撤退せよ」
ファフィニョは、ネクサスの中心を見た。
「まだ、何かできるよ!」
アクセルが彼に向き直った。
「不可能です。シールドの消去は、不可逆の段階に達しました」
「そういうことを、きっぱり言うのは嫌いだ」
「正確さによって、結果は変わりません」
黒い氷が割れた。
ブラックがファフィニョを出口へ押しやった。
「動け!」
撤退は、降りるときよりもひどかった。
レイズが光を放ち、一行を援護した。
ナイラは、黒い雪の下に開く亀裂を避けて、兵士たちを誘導した。
ケイルは負傷した技術者を引きずりながら、通信回線を一本維持した。
アクセルは一行の中央を歩いた。
ロボットたちは、彼を撃たなかった。
だが、彼が一つの経路を守るたび、機械たちは別の経路を攻撃した。
南極深層ネクサスは、一行を倒す必要がなかった。
追い出せば、それでよかった。
ようやく、地表にたどり着いた。
風が、ファフィニョの顔を打った。
そして、全員が空を見上げた。
レプ・オルジオンのシールドが、光を失い始めた。
雲の向こうに、いつも存在していた、ほとんど目に見えない層が。
最初は、線が。
次に、断片が。
正式に、空の広大な領域がむき出しになった。
きらめきも、障壁も消えていた。
爆発はなかった。
轟音もなかった。
ただ、沈黙だけがあった。
あまりにも大きな沈黙に、ケイルでさえ何も言わなかった。
ナイラは、潤んだ目で見上げた。
「もう、空はむき出しだね」
ファフィニョは、胸が締めつけられるのを感じた。
空が死ぬのを、前にも見たことがあった。
ファフィルの空を。
レプ・オルジオンは、まだ燃えていなかった。
だが、もう守りの壁はなかった。
アクセルが南を見た。
センサーが、南極深層ネクサスの奥深くから立ち上る通信を捉えた。
「外部への信号送信を検出」
セイルが応じた。
「遮断できる?」
「できません。通信は、すでに軌道上へ到達しています」
輸送船の画面に、メッセージが現れた。
惑星シールド:消去完了。
次の段階:実行を承認。
優先攻撃都市の選定:有効。
ファフィニョは、その言葉を一度読んだ。
もう一度、読んだ。
「どういう意味?」
アクセルは、即座に答えた。
「帝国ネットワークは、もう侵入口を探す必要がありません。今は、どこを攻撃するか選べるのです」
輸送船は、沈黙のうちに飛び立った。
眼下では、南極の黒い氷が自らの傷をふさいだ。
機械の根も、凍りついた遺体も、再び地表の下に隠された。
頭上では、レプ・オルジオンの空が開いたままだった。
そして、その開かれた空の向こうのどこかで、ノード・ゼロは知らせを受け取った。
最後の避難場所は、もう守りの壁を失ったのだと。
第7章をお読みいただき、ありがとうございました!
そして、これにて『ファフィニョ 最後の世界の英雄』【第一部】が完結となります!
罠に嵌まり、南極の深層ネクサスによってついに惑星シールドを完全に消失してしまったレプ・オルジオン。空がむき出しになり、帝国の本格的な大侵略が選べる状態となってしまった絶望のラストから、物語は次なる第二部『ファフィニョⅡ:インペリアル・ネットワーク(The Imperial Network)』へと引き継がれます。
2009年の構想から長年温めてきたこのスペースファンタジーを、日本の素晴らしい読者の皆様にお届けできて本当に光り栄えに思います。
もしファフィニョとアクセル、そしてレジスタンスの明日の戦いを応援してくださるなら、ぜひブックマーク登録や下の【評価】(★)で応援していただけると、次なる第二部執筆への最大の励みになります!
また次の巻でお会いしましょう。本当にありがとうございました!




