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第12話「理由」

その声が講義室に響き渡った――直後。


講義室が、水を打ったように静まり返った。


壁際まで吹き飛んだはずの男が、何事もなかったかのように立ち上がる。

上着の埃を払い、首をこきりと一度鳴らし、それから堂々と胸を張った。


完璧な間。完璧な台詞回し。

ルーカスに言わせれば、十年の隠遁生活の集大成ともいえる、渾身の冗談だった。


だが、返ってきたのは、羽虫の音すら聞こえそうな沈黙だけだった。


「……ま、魔王って、え?」

ユリウスがおそるおそるといった様子で口にする。

その意味を理解しようとしているというより、完全に正気を疑っているような。


「あんた……」

拳を握りしめたままのシリルが、低くうなるように言った。

「頭の方は大丈夫かよ」


言葉とは裏腹に、その目には怒りよりも戸惑いの色が濃かった。

シリルは自分の拳と、ルーカスの顔を交互に見つめた。


確かに入った一撃が、吹き飛ばしたはずの拳が、相手の男になんら傷を負わせられていないという事実が信じられないかのようだった。


「……行こう、シリル」


セルシウスが声をかけ、立ち上がった。

この講義室で発せられた彼の最初の言葉だった。


シリルは何かを言いかけたが、吐き捨てるように舌を打ち、セルシウスのあとを追うように出ていった。


「僕も、失礼します」

ユリウスが律儀に一礼し、二人に続いた。


最後に、薄布の少女が音もなく立ち上がった。

ルーカスには一瞥もくれない――いや。


扉の前で一度だけ、片方の瞳がこちらを向いた。相変わらず、そこからは何の感情も読み取れなかった。


それきり、彼女は出ていった。


リーンベルは一瞬彼らのあとを追いかけるような仕草を見せたが、かける言葉も見つからない様子で伸ばしかけた手を引っ込めていた。


そして、ルーカスの方を見た。

その瞳は、あきらめの色を宿していた。


⦅……渾身の冗談だったんだが⦆

ルーカスは真顔のまま念話を飛ばした。


⦅知っている。だからこそ救いがないと言っている⦆

素知らぬ顔を決め込み、窓の外を眺めていたマティアスが、ようやく視線を戻した。

⦅なにが『魔王にもぶたれたことがない』だ――冗談か本当かもわからんうえに、俺以外、誰が理解できる⦆


⦅……確かに!⦆


マティアスは額に手を当て、天井を仰いだ。

長年国王の傍らで鍛え上げたはずの鉄面皮が、今日だけで何度も崩れている。


と――。


ルーカスは、ふと視線を戻した。

一人だけ、残っている。


最前列の席。

ティナ・アシュフィールドが、背筋を伸ばしたまま、まっすぐこちらを見ていた。


「君は帰らないのか」

ルーカスは思わず聞いた。


「先生は」

少し掠れた、それでもはっきりとした声だった。


「まだ、何か言おうとしていました、わたしに――『だが、君には』の、続きを聞かせてください」


ルーカスは、口の端をわずかに持ち上げた。

「私の見立てどおり、見込みのある学生じゃないか。なあ、マティアス――様」


いつもの調子で話しかけてしまったことに気付き、慌てて態度と言葉をあらためる。


「見込みがあるですって? そのようなことを言っていた記憶はありませんが」

リーンベルが割って入った。


「これから伝えようと思っていたんですよ、リーンベル先生――先ほどの続きを話す前に、もう一度だけ言っておこう」

ルーカスはティナの目をまっすぐ見つめながら言った。


「君は魔導士にはなれない。何度あの試験を受けても、だ」


ティナの肩が、小さく揺れた。

それでも、視線は逸れなかった。


「……はい」


「『はい』と来たか」

ルーカスは軽く眉を上げた。

「反論してくるかと思ったが」


リーンベルが何事かを口にする前に、ティナが口を開く。


「実際、先生の言うとおりだからです。何度受けても、結果は同じでしょう。私にそれだけの魔力が備わっていないことも……本当は、わかっています」


「わかっていて、なぜ受け続けた」

ルーカスは静かに訊いた。


「君ほど『視えて』いる人間が、勝てないとわかっている場所に通い続ける理由はなんだ。なぜ、そうまでして魔導士にこだわる」


沈黙が落ちた。

ティナは膝の上で両手を握り、何度か口を開いては、閉じた。


「……笑いませんか」

「保証しかねる」


「おい」

「ルーカス先生!」

マティアスとリーンベルの叱責が飛んだ。


ルーカスは肩をすくめながらため息をついた。

「……笑わないと約束しよう」


ティナは、ふっと小さく笑った。

そして、話しはじめた。


「わたしの村は、わたしが小さいころ……魔人たちに、襲われました」


ルーカスの顔から、飄々とした色が消えた。


「覚えているのは、村を包み込んでいた、見渡す限りの炎と、魔人たちに蹂躙される人たち。逃げた人も、隠れた人も、次々に見つかって……わたしは母に、床下へ押し込まれました。そして、母がやつらに連れていかれるのを、息を押し殺しながら見つめていたんです」


淡々とした話し方だった。

何度も何度も、心の中で繰り返してきた者の語り方だった。


「しばらく時間が経っても、魔人たちは私のように隠れている人間や逃げ惑う人たちを探し回っていました。私も火の勢いにのまれ、外へ出ざるを得なくなりました。そして、魔人たちの手にかけられそうになったとき……あの方がやってきたんです」


「あの方?」


「英雄エイミール様です」


ルーカスは、瞬きを一つだけした。


「……その光景は、今でも忘れられません。いえ、いったい彼が何をしたのか、私にはいまだにわかりません。私を連れ去ろうとした魔人を、あっという間に――魔人たちが一斉に逃げ惑い、叫んでいた言葉はこうです。『終焉のエイミールが来た、逃げろ。奴とは決して戦うな』」


リーンベルのか細い喉から、ごくりという音が響いた。

ルーカスはちらりとマティアスを見る。


⦅俺もはじめて聞いた話だ⦆

マティアスからすぐに念話が飛んでくる。


「私とごく数人の村人たちは、エイミール様に助けられました。彼は恐怖で竦んでいた私の頭に手を乗せて、言ってくれたんです。『もう大丈夫だよ』、と。もちろん、彼のような偉大な魔導師になれるなんて思っていません。けど、何の力もない私が連れ去られた母を探しにいくためには、魔導士になるしかなかったんです。力を得るための手段なんて、他に何もないから」


「つまり君は、英雄エイミールのように魔導という力を手にして、連れ去られた母親を探しにいきたいと?」

マティアスが確かめるように言った。


「はい。いまだに母はみつかっていません……だから、わたしが探しに行くんです。エイミール様のような魔導師になって、黒領へ。たとえ母が、もう生きていないのだとしても。せめて、わたしが見つけてあげたいんです」


講義室に、長い沈黙が落ちた。


マティアスが、ゆっくりと首を巡らせた。

その視線が、じろりとルーカスを射抜く。


ルーカス――もといエイミールは、教壇で静かに頭を抱えた。


⦅俺のせいじゃないか!⦆

⦅おまえのせいじゃないか!⦆


二つの念話が、寸分違わず同時に飛び交った。


「……先生?」


頭を抱えたまま動かなくなった新任の学府長を、ティナが不思議そうに覗き込んでいた。


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