第10話「アルヴェイン」
その学府は、王都の中央区からはかなり遠く、寂れた通りの奥まった場所にあった。
傾きかけた古い門が、年季の入った屋敷の外周を申し訳程度に守っていた。
扉の石はくすみ、蝶番は錆びている。掲げられた看板の文字だけが真新しく塗り直されているため、不自然に浮き上がって見えた。
――アルヴェイン。
館自体は決して小さくはないが、いつがたがきてもおかしくはないほど老朽化していた。
修練場らしき庭はまだ整備途中なのか、草が伸び放題の箇所も散見された。
聖冠学府の景観とは比べるまでもないどころか、見事なまでの落差具合に、ルーカスはむしろ関心しきりだった。
「絵に描いたような落ちぶれ方だ」
ルーカスが真顔で言った。
マティアスが苦笑しながら首を振る。
「マスターが亡くなったすぐ後ここへ移ってきたんだ。まあ、いろいろとあってな」
「そんなことよりあそこに咲いている可憐な花について聞かせてもらおうか」
門の中、その奥に、黄金色の髪を一つに束ねた質素な身なりの若い女の姿があった。
両腕の袖を捲り上げ、精一杯背伸びをする形で、手に持った布を上下左右に動かしている。
曇り切った窓を一心不乱に磨き上げているせいか、背後にいるルーカスとマティアスの姿にはまるで気づいていなかった。
しかし、ときおりこちらに見せるその顔は、まるで飾り気がないまでも、芸術を志す者であれば一度は描いてみたいと思わせるほど整っていた。
「こんな寂れた場所にあのような婦人にお会いできるとは方」
マティアスは一瞬天を仰いでため息をついた。
「まあ、隠し通せるものでもない。せめて俺がいる間に少しでも好感を得てもらえるよう努力はしてやろう――リーンベル先生!」
マティアスが声をかけると、リーンベルと呼ばれた若い女はびくりと肩を震わせながらこちらを振り向いた。
「マティアス様!」
彼女の驚きの表情が、一気に解けていく。曇天のなかそこだけ陽が差し込んだかのような笑顔だった。
「みんなずっと心待ちにしていたですよ。もしかしてそちらのお方が例の?」
リーンベルの視線がすぐに隣のルーカスへと流れる。
「はい、彼がマスターの言っていた――」
「フローラ女史から、ここアルヴェインを託されましたルーカス・ヴァレンと申します」
ルーカスはマティアスの言葉を待つことなくリーンベルの前へと進み出た。
「まさか貴方のような見目麗しい可憐な女性がフローラ女史の学府を守ってくださっていたとは。このルーカス、不覚にもまったく知り得ませんでした」
言いながら、明らかに圧倒されているリーンベルの荒れた手を取り、その指に軽く口付けをする。
「労働を重ねた、美しい女性の手だ。最も、私が来たからにはこのような苦労はさせませんが」
「『見るだけだ』とはどの口が吐いた言葉だ」
マティアスは呆れ果てた態度を隠そうともしなかった。
「あ、あの……」
リーンベルは片手を差し出したまま、戸惑い困り果てた表情をマティアスへ向けた。
「申し訳ない、リーンベル先生。決して悪い男ではないことは私が保証する。ただ、少しばかり鬱陶しいだけで」
「そんな、心外ですマティアス様」
ルーカスが拳を握りしめながら首を左右に振る。
あまりにも猫を被った態度とその言い方に、マティアスが思わずといった形で身を引いた。
「お初にお目にかかります」
ようやく気を取り直した様子のリーンベルが軽く膝を折って頭を下げる。
「わたくし、リーンベル・エレノアと申します。フローラ先生亡き後、アルヴェインで教鞭を執らせていただいております」
その声も態度にも気品があり、一片の隙もない儀礼的挨拶だった。その丁寧さによってルーカスとの間に壁を築くような様子がありありと伺えた。
「あの、マティアス様。話に聞いていた方より、その、少々お年がお若いような」
少々どころの騒ぎではないのだが、リーンベルはルーカスを横目に気遣うような物言いをした。
「あー……そのことについてだが。実はマスターが、それこそ少々この者の年齢を勘違いしていたらしくてな。そしてルーカスも見た目ほど若くはないという」
「リーンベル先生、私は見た目通りの若造ですが、間違いなくフローラ女史の教えを受けた者です」
ルーカスが再度リーンベルの手を取り、熱く迫る。彼女の身を仰け反らす態度にも動じることなく続ける。
「だからどうか私を信じ、ついてきてほしい」
「『教師などできん』とどの口が」
「マティアス様も、どうぞ心安らかにお引き取りください」
ルーカスがマティアスの言葉を遮りながら、リーンベルを伴いアルヴェインの中へ入ろうとする。
「マティアス様、本当にこの方が、フローラ先生が言っておられた?」
「到底信じられないかもしれんが、間違いありません」
「この方を、本気で……うちの学生たちに?」
「あなたの言いたいことはよく分かっている」
「分かっておいでなら、なぜ」
彼女は一度、言葉を呑み込んだ。
「――マティアス様が、せめてここが落ち着くまで見てくださるわけにはいかないのですか」
一瞬にして空気のようになってしまったルーカスがマティアスを睨む。
ずいぶんを曰くありげな関係じゃないか。と、念話にもせず、目だけで言ってやる。
マティアス卿の大事な大事な奥方にでも言いつけてやろうかと企んでいるルーカスの考えを読み取ったかのようなマティアスは、厳しい表情で首を振ったり
「俺が表立ってアルヴェインに立てば、ここは学府ではなく政治の場になってしまう。あなたにとってもそれは望むところではないでしょう」
リーンベルは軽く唇を結び、視線を落とした。
「私がアルヴェインに関われば、この場所はたちまち別の意味を帯びる。何のためにここの若者たちを育てるのか――その問いごと踏み潰されてしまう。それは、マスターがいちばん嫌ったことだ」
「……失礼しました」
リーンベルが目を伏せまたまま頭を下げた。
「分かっては、いるのです」
その声が、最後だけ震えていた。
「マティアス様、私、アルヴェインの教師になります! リーンベル先生、共にこの学府をこの国いちの――いや、大陸いちの学府へと発展させていきましょう!」
ルーカスの声だけが高らかに響き渡っていった。




