第96話 海へ(一)
龍都カツザンを出て、四日。
山道は、少しずつ匂いを変えていった。
土と苔の匂い。
濡れた木の根の匂い。
古い道に染みついた鉄の匂い。
その奥に、今まで知らない匂いが混じり始めた。
塩。
サトより先に、神威が気づいた。
機械の耳のような可動部が、ぴくりと西へ向く。
「どうした、神威」
「わぅ……」
神威は少し困ったように鳴いた。
獣の匂いではない。
侵食獣の濁りでもない。
機霊の気配でもない。
もっと大きくて、もっと広くて、どこまでも動き続けるものの気配。
ツキハも足を止めた。
「空気中の塩分濃度が上昇しています」
「海が近いんだ」
「海」
ツキハが小さく繰り返す。
カツザンを出る時、山を越えれば海へ出ると話していた。
知識としては分かっていたはずだ。
だが、実際にその気配が近づいてくると、ツキハは少しだけ落ち着かない様子だった。
やがて、木々が途切れた。
視界が開ける。
その先に、青いものがあった。
空ではない。
けれど、空と同じ色をしている。
揺れている。
光っている。
遠くまで、どこまでも続いている。
ツキハが、完全に足を止めた。
「……これが」
声が、いつもより小さかった。
「これが、海……」
サトは少しだけ笑った。
「ああ。海だ」
ツキハは、何も言わなかった。
ただ、じっと海を見ている。
風が吹いた。
潮を含んだ風が、サトの頬を撫でる。
髪を揺らし、ツキハの銀色の髪留めを淡く光らせた。
神威は海を見て、少しだけ身構えていた。
波が岩へぶつかるたび、機械の耳がぴくぴく動く。
ざざん。
ざざん。
遠くの海は荒れていた。
白い波が、黒い岩場へ何度も砕けている。
沖の方では、波の山が盛り上がり、灰色の空を映して重く揺れていた。
美しい。
だが、優しくはない。
サトはそう思った。
「記録より、動いています」
ツキハがぽつりと言った。
「海だからな」
「記録より、大きいです」
「海だからな」
「……適切です」
ツキハは、まだ海から目を離さなかった。
◇
海岸沿いには、小さな集落があった。
古い港の跡を利用して作られた村らしい。
石と木材で作られた家が斜面に寄り添うように並び、屋根には潮風を避けるための板が重ねられている。
網が干されていた。
貝殻が吊るされていた。
海藻が縄にかけられ、風に揺れていた。
集落の前には、古い防波堤が沖へ向かって伸びている。
遠くの海は荒れているのに、その防波堤の内側だけは不思議と波が穏やかだった。
防波堤の表面には、珊瑚とも貝殻ともつかない淡い結晶が張りついている。
ところどころが、薄青く光っていた。
ごうん。
ごうん。
波がぶつかるたび、防波堤が低く鳴る。
まるで、海と話しているようだった。
「機霊ですか」
ツキハが尋ねる。
サトは目を細めて、防波堤を見た。
「機械というより、精霊化した構造物だな。元は旧世界の防波堤だと思う。でも今は、ただの防波堤じゃない」
「波を受け止めているだけではありません」
「分かるのか」
「はい。波の精霊流を、少しだけ逸らしています」
「アドリィさんみたいだな」
「近いかもしれません。大きく、長く、ゆっくりですが」
神威が防波堤を見て、わぅ、と鳴いた。
何か挨拶でもしたつもりなのかもしれない。
防波堤は、ごうん、と低く鳴った。
「返事か?」
「不明です」
ツキハは真面目に言った。
「ですが、拒絶反応はありません」
「ならよかった」
◇
集落の入口で、サトたちは年配の漁師に声をかけられた。
日に焼けた肌。
太い腕。
潮で白くなった髪。
腰には短い鉈のような刃物を下げている。
漁師は神威を見て、少しだけ目を細めた。
「なんだいソイツは? 機械かい?」
「はい。神威といいます」
「海に入れるなよ」
挨拶より先に、それだった。
サトは少し驚く。
「そんなに危ないんですか」
「危ないなんてもんじゃねぇ。海は足場がねぇ。沈めば終わりだ。泳げるやつでも、精霊獣に引っ張られたらまず戻ってこられん」
漁師は沖を指した。
遠くで、黒い影のようなものが波間に見えた気がした。
すぐに消える。
「海の精霊獣は質が悪いのが多い。いや、悪いやつばかりって意味じゃねぇぞ。向こうは遊んでるつもりなんだ」
「遊んでいる」
ツキハが繰り返す。
「そうだ。ちょっとつつく。ちょっと引く。ちょっと潜る。向こうにとっちゃ遊びだ。けどな、人間は波の下じゃ息ができねぇ。ちょっと引っ張られただけで、普通に死ぬ」
「不適切な遊戯です」
「まったくだ」
漁師はうなずいた。
「あと、サメには何度も村人をやられてる。普通のサメか、精霊獣になったサメかなんて、食われたあとじゃ分からねぇ。とにかく、海には入るな」
神威が、わぅ、と鳴いた。
「お前もだ」
漁師が言う。
神威は、少しだけ後ろに下がった。
サトは神威の頭に手を置く。
「大丈夫だ。入らせません」
「それがいい」
漁師は少しだけ表情を緩めた。
「まぁ、全部が全部危ねぇわけでもない。南の方には、シャチの精霊獣と組んで漁をする猟師もいるって話だ」
「シャチ」
ツキハが小さく繰り返した。
「記録では、旧世界末期の環境汚染によって、海棲大型哺乳類の多くは絶滅、あるいは絶滅寸前まで追い込まれていたはずです」
「じゃあ、そのシャチは昔からの生き残りじゃないのか」
サトが聞くと、ツキハは少し考えた。
「可能性は低いと思います。精霊科学文明の時代に、人間は凍結保存されていた遺伝子を用いて、多くの生命を再生したと記録されています」
「再生?」
「はい。適応人類が作られた時期と近いです。失われた動物、環境に適応できなかった生命、あるいは人間が見てみたいと願った生き物たち」
ツキハは少しだけ海を見た。
「そのシャチの精霊獣も、人間がゲノム解析によって再創造したシャチの末裔かもしれません」
漁師はぽりぽりと頭をかいた。
「難しいことは分からんが、あいつらは黒くて白くて、でかくて、賢い。人間を群れの端っこくらいには見てくれるらしい。それで十分だ」
「それは友好関係ですか」
ツキハが聞く。
「少なくとも、食われてねぇなら友好だな」
「判断基準が荒いですね」
「海じゃそれで十分だ」
漁師は笑った。
「ツキハの記録と、漁師さんの経験。どっちも大事ってことだな」
サトが言うと、ツキハは小さく頷いた。
「適切です」
◇
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




