第92話 霧の結界(三)
結論が決まった。
西の遺跡への立ち入りは禁止。
ただし、完全放置ではない。
外縁部に観測点を設ける。
霧の循環、侵食汚染の漏出、機霊反応の変化、周辺村への影響を定期的に確認する。
綻びが再発した場合のみ、再調査を検討する。
その場合も、内部侵入は最後の手段。
観測院の記録には、こう残されることになった。
――西カツザン中央ターミナル跡は、機霊集合体による自律結界である可能性が高い。
――人為的干渉は、封印破損および侵食獣漏出の危険を伴う。
――当面、外縁観測に留めること。
ディエンが記録を読み上げると、ドーラは満足そうに頷いた。
「それでいい。人間は、動いてるものを見ると使いたがる。閉じてるものを見ると開けたがる。だが、あたしら観測院は、それを止める役目もある」
その言葉は、静かに部屋へ落ちた。
観測院。
名前の通り、観測する場所。
だが、それは見つけたものを利用するためだけではない。
見て、記録して、判断する。
そして時には、触れないと決める。
サトはそのことを、少しだけ理解した気がした。
「触らぬ神に祟りなし、とはよく言ったもんだね」
ドーラが言った。
「神というより、駅ですが」
サトが言うと、ドーラは笑った。
「似たようなもんさね。人間が干渉できないという意味だと神も上位精霊も変わりはしないさね」
神威が、わぉん、と鳴いた。
サトは思わず神威を見た。
「お前のことを言ってるわけじゃないぞ」
「わぉん?」
「たぶん」
ツキハが神威を観測するように見つめる。
「神威は、かなり古い個体です。すでに片足以上、精霊側へ踏み込んでいる可能性があります」
「怖いことを言うな」
「不適切ですか」
「いや……不適切ではないけど」
神威はよく分かっていない顔で、尻尾を一度振った。
カバネがそれを見て、少し笑った。
「やっぱり、うちに欲しいな」
「不適切です」
ツキハが即座に言った。
カバネは眉を上げる。
「今のは神威の話だぞ」
「神威も不適切です」
「サトも神威もだめか」
「はい」
「厳しいな」
「必要な判断です」
ハヤテが腹を抱えて笑った。
「こりゃ、うちは自前で観測士と機械狼を探すしかないな」
みんなが笑った。
ディエンが付け加えた。
「機械狼は難しいですが、観測士の方は育てるしかありませんね」
カバネはサトを見た。
「観測士。次に観測院の若いやつを見る機会があったら、少し鍛えてやってくれ」
「俺がですか」
「ああ、見る方をだ」
サトは少し困った。
けれど、嫌ではなかった。
挑戦してみたいと。
「俺でよければ」
「決まりだな」
ツキハがサトを見た。
「サトには、すでに重要な使命があります」
「いや、カバネ隊に入るわけじゃないから」
「……念のためです」
その声には、少しだけ感情が混じっていた。
サトは気づかないふりをした。
◇
報告を終えたあと、サトたちは観測院を出た。
夕方のカツザンは、いつも通りに見えた。
市場では声が飛び交い、屋台から湯気が上がり、遠くで荷車の車輪が軋んでいる。
どこかで鶏が鳴いた。
神威が耳を立てる。
「ココッコじゃないぞ」
「わぉん……」
「たぶん、宿に帰ったら会える」
「わぅ」
神威の尻尾が少し元気に揺れた。
ツキハは、観測院の階段を下りながら、空を見ていた。
「どうした」
サトが聞く。
「考えています」
「西の遺跡のことか」
「それもあります」
「他には?」
ツキハは少し黙った。
「ユメという名前のことです」
サトは足を止めた。
夕方の風が、ツキハの髪を揺らす。
銀色の髪留めが淡く光った。
「懐かしいのか」
「分かりません」
ツキハはいつものように答えた。
けれど、少しだけ違った。
「ですが、胸の奥に、知らない記録が反応する感覚があります」
「記録?」
「はい。まだ読めません。ですが、完全に無関係ではないと思います」
サトはユメの言葉を思い出す。
ツキハをおねがい。
また会える。
「また会えるって言ってた」
サトが言うと、ツキハは目を伏せた。
「そうですか」
「怖いか」
「分かりません」
少し間を置いて、ツキハは言った。
「ですが、会う必要がある気がします」
「そっか」
サトは頷いた。
「じゃあ、また会おう」
ツキハがサトを見る。
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないかもしれないけど、そう決めた方が探しやすい」
「適切……かもしれません」
「かもしれません、か」
「はい。保留です」
サトは少し笑った。
神威が二人の間に顔を出す。
「わぅ」
「お前も会いたいのか」
「わぅ」
「ユメさんに?」
「わぅ」
「褒めてもらえそうだもんな」
神威の尻尾が揺れる。
サトはその様子を見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
◇
宿へ戻る途中、サトは一度だけ西の空を振り返った。
山の向こう。
白い霧の谷。
その奥に、駅がある。
人を運ぶために作られた場所。
けれど今は、侵食獣を閉じ込めるために働き続けている場所。
誰にも褒められず。
誰にも整備されず。
それでも長い時間、境界を守っていた場所。
サトは、ふと神威を見た。
神威もまた、長いあいだ境界を守っていた機械だった。
人里と森の境界。
獣と人の境界。
命令と意思の境界。
駅も、神威も、同じように旧世界の残骸だった。
けれど、ただの残骸ではない。
まだ働いている。
まだ誰かを守っている。
「サト」
ツキハの声で、サトは我に返った。
「何だ」
「顔が、少しだけ変です」
「変?」
「はい。泣きそうにも、笑いそうにも見えます」
「……そうか」
「不適切でしたか」
「いや」
サトは首を横に振った。
「たぶん、適切だ」
神威が、わぅ、と鳴いた。
夕暮れのカツザンの道を、三人は宿へ向かって歩いた。
世界には、まだ分からないものが多い。
触れてはいけないものもある。
直してはいけないものもある。
けれど、見なければ分からない。
見て、考えて、時には手を引く。
それもまた、観測士の仕事なのだと、サトは思った。
遠くの山の向こうで、鉄の骨が鳴るような音が、ほんの一瞬だけ聞こえた気がした。
がたん。
ごとん。
それはもう、迷子の音ではなかった。
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




