第90話 霧の結界(一)
丘の上で、しばらく誰も動けなかった。
眼下には、白い霧に沈む森が見える。
その奥に、西の遺跡がある。
西カツザン中央ターミナル。
かつて人を運んでいた列車の駅。
今は森に呑まれ、霧に包まれた場所。
静かだった。
あれほど濃く、音も距離も狂わせた白いものが、今は谷底に薄く広がっているだけに見える。
けれど、ただの霧ではない。
その奥に、何かがいる。
あるいは、そこ全体が何かである。
サトはまだ、耳の奥に残る音を聞いていた。
ギギィ……ギギィィ。
鉄の骨が曲がるような音が、かすかに聞こえる。
「……生きてるねぇ」
ハヤテが、草の上に大の字になったまま言った。
「いやぁ、本当に拾いものだ。飯を食うまでは死にたくないと思っていたが、飯を食ったあとでも死にたくないもんだな」
「違いない」
カバネが短く言った。
彼女は座ったまま肩を押さえている。
腕には、アドリィの祈りで編まれた薄い光が巻きついていた。
侵食汚染――現場の言葉でいう呪いが、深く入り込まないように抑えている。
アドリィ自身も、杖を抱えるようにして座り込んでいた。
顔色は悪い。
それでも、目は閉じていない。
ネルバは少し離れたところで、銃砲を膝に置いて座っていた。
右腕には精霊焼けの赤い筋が残っている。
神威がその横に伏せ、腹部パネルを少しだけ開いていた。
淡い光が、ネルバの腕を照らしている。
「痛むか」
サトが聞くと、ネルバは短く答えた。
「痛む」
「調整パルス、効いてますか」
「効いてる」
「ならよかった」
「機械狼に礼を言っておいてくれ」
「神威に聞こえています」
神威は、わぉん、と鳴いた。
尻尾が少し揺れた。
疲れているはずなのに、褒められると嬉しいらしい。
サトはその頭を軽く撫でた。
「お前も無理したな」
「きゅうん」
「帰ったら、ちゃんと整備する」
「わぉん」
その返事は、少しだけ元気だった。
◇
簡単な応急処置を終えたあと、一行はもう一度、霧の外縁を確認した。
中へ入るつもりはない。
カバネがそれを許さなかったし、アドリィも歩くのがやっとだった。
サトも賛成だった。
今の状態で、あの霧の中へ戻るのは自殺に近い。
だが、外側から見ることはできる。
観測士として、それだけはしておきたかった。
霧の外縁には、黒い染みはなかった。
侵食獣の足跡もない。
霧級が漏れ出した痕跡も、見当たらない。
ハヤテがしゃがみ込み、地面を指でなぞった。
「……おかしいな」
「何がですか」
サトが聞く。
「俺たちが入った時には、ここらに霧の流れの乱れがあった。こう、吸い込まれるような綻びだ」
「ありました」
ツキハが頷く。
「しかし現在、その綻びは確認できません」
「塞がったってことかい」
ハヤテが言う。
サトは霧を見た。
白い霧は、谷の底で静かに循環している。
前よりも安定しているように見えた。
音もない。
黒い影もない。
ただ、どこか遠くで鉄が軋むような、かすかな響きだけがある。
ぎい。
ぎい。
それは怖い音ではなかった。
むしろ、巨大なものがゆっくり呼吸しているような音だった。
「……戻ったんだ」
サトは小さく言った。
「何が」
カバネが聞く。
「あの白い列車です。たぶん、ここへ」
ツキハが霧を観測するように目を細めた。
「白い精霊流の痕跡があります。線路状に伸び、霧の循環へ溶けています」
「それは、あの機霊が結界へ戻ったということか」
「断定はできません。ですが、もっとも整合的です」
サトはうなずいた。
万葉の大地で出会った白い列車。
迷っていた機霊。
その子は、ただ迷っていたのではない。
本来いるべき場所から、切り離されていたのかもしれない。
そして、サトたちが帰る道を思い出させた。
だから今度は、サトたちを外へ導いてくれた。
「助けた相手に、助けられたってわけか」
ハヤテが言った。
サトは答えなかった。
ただ、霧の奥を見つめた。
白い流れは、もう見えない。
けれど、そこにいる気がした。
◇
カツザンへ戻る道のりは、行きよりも長く感じた。
誰もが疲れていた。
カバネは歩けると言い張ったが、途中からネルバが荷物の一部を引き受けた。
アドリィは何度か休み、祈りを控えた。
ハヤテは軽口を叩きながらも、周囲の警戒を怠らなかった。
サトは何度も振り返った。
山の向こうに沈む白い霧は、遠ざかるほどにただの霧に見えた。
あの中で牙級と戦ったこと。
帰り道を失ったこと。
白い列車に導かれたこと。
ユメという女性に会ったこと。
すべてが夢だったようにも思える。
だが、カバネの傷も、ネルバの精霊焼けも、アドリィの疲労も、神威の腹部パネルに残った焦げ跡も、現実だった。
夜、野営の火のそばで、ハヤテが薄い粥を作った。
干し肉の切れ端と山菜を少しだけ入れた、簡単なものだった。
「生きてる時の飯はうまいぞ」
ハヤテが言った。
「死んだ時の飯は食べたことがないので、比較できません」
ツキハが真面目に返す。
ハヤテは目を丸くしたあと、笑った。
「ツキハちゃん、たまにすごい返しをするな」
「不適切でしたか」
「いや、適切だ。死んだ時の飯は、俺も食ったことがねぇわ!」
神威は焚き火の横で伏せていた。
食べられないが、湯気を見ている。
ネルバが自分の碗を持ったまま、神威を見た。
「食いたそうだな」
「食べられないんです」
サトが言う。
「匂いは好きらしい」
ネルバはしばらく考えた。
「なら、匂いだけやる」
そう言って、自分の粥の碗を神威の鼻先へ近づけた。
神威は、くん、と鼻先を動かした。
「わぅ」
尻尾が一度だけ揺れた。
「礼は言われた」
ネルバは満足そうだった。
サトは少し笑った。
こんな夜があるなら、まだ大丈夫だと思えた。
◇
龍都カツザンへ戻った翌日。
サトたちは観測院へ呼ばれた。
ドーラ院長の部屋には、ドーラとディエンが待っていた。
机の上には、すでに記録板がいくつも並んでいる。
カバネ隊の面々も同席していた。
カバネは腕に布を巻き、椅子に腰かけている。
ネルバは壁際に立っていた。
アドリィはまだ少し顔色が悪い。
ハヤテは椅子に座るなり、「茶が欲しい」と言ってディエンに睨まれていた。
ドーラは全員を見回し、大きく息を吐いた。
「まずは、生きて帰ったね」
その一言だけで、部屋の空気が少し緩んだ。
「それだけで上出来だよ」
「ですが、上出来で済ませてよろしい状況ではありません」
ディエンが言う。
「牙級です。しかも、霧の結界内部で発生していた可能性がある」
「ああ。分かってる」
ドーラの顔が引き締まる。
「牙級を確認した時点で、撤退判断でも責められない案件だ。よく帰った」
サトは少しだけ息を詰めた。
牙級。
あの黒い牙を思い出す。
霧級を食い、核を砕き、こちらを獲物として見ていた影。
あれは、裂爪級より、もう一つ格が上だ。
村ひとつに被害を出しうる脅威。
カバネたちのような戦いを専門としている者が討伐隊を組んで対応する案件。
それを自分たちは倒した。
いや、倒せたのはカバネ隊がいたからだ。
サトはそう思った。
けれど、カバネがこちらを見ていた。
「観測士」
「はい」
「お前の目がなければ、長引いた。長引けば、たぶん誰か死んでいた」
サトは言葉に詰まった。
「俺は……見ただけです」
「見えるやつがいないと、槍は届かん」
カバネは短く言った。
ドーラがにやりと笑う。
「いいこと言うじゃないか」
「事実だ」
「サト、聞いたかい」
ドーラがサトを見る。
「あんたは見た。それで皆を帰した。観測士として、十分な働きだよ」
サトは少し俯いた。
ユメの声が、胸の奥によみがえる。
あなたは弱くなんてない。
とても強い人。
まだ、素直には受け取れない。
けれど。
「……はい」
サトは小さく答えた。
「少しは、役に立てたと思います」
それだけ言うのに、少しだけ勇気がいった。
ツキハが隣で、ほんのわずかに目を細めた。
神威が、わぉん、と小さく鳴いた。
◇
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




