第86話 夢の列車(一)
霧の奥の影が、こちらを見た。
黒い牙が並んだ口。
地面に低く伏せた獣の形。
だが、獣ではない。
生き物の形を借りた、欠けたもの。
霧級侵食獣を噛み砕き、その核を飲み込んだ影は、喉の奥で濁った音を鳴らした。
ごぼり。
黒い霧が、裂けた口の端から漏れる。
「牙級……」
ツキハが、小さく言った。
サトはピッケルを握る手に力を込めた。
牙級。
村ひとつに被害を出しうる侵食獣。
腕が立つ討伐隊がチームで対応する案件。
霧級とは、格が違う。
目の前のものは、まさにそうだった。
形がある。
意思がある。
飢えがある。
そして何より、こちらを見ていた。
獲物として。
「下がれ」
カバネの声が低く響いた。
それだけで、一行の空気が変わる。
ハヤテが半歩後ろへ下がり、矢をつがえる。
アドリィが杖を構え直す。
ネルバの銃砲が、牙級の頭へ向けられる。
神威がサトの横へぴたりとついた。
サトはその背に手を添えた。
「離れるな」
「わぅ」
神威は低く鳴いた。
その声にも、緊張が混じっていた。
「アドリィ」
カバネが言う。
「止められるか」
「正面からは無理です」
アドリィは即答した。
「少し…逸らすくらいならなんとか」
「十分だ」
カバネは大槍を構えた。
牙級が、地面を蹴った。
速い。
黒い影が、霧を裂いてくる。
ネルバの銃砲が火を吹いた。
轟音。
精霊流をまとった鉄塊が、牙級の肩を撃ち抜く。
黒い体が大きく揺れた。
だが、止まらない。
「浅い」
ネルバが言った。
牙級の背から、触手のような黒いものが伸びた。
尾なのか。
腕なのか。
体の一部なのか。
分からない。
それが上から振り下ろされる。
太い。
速い。
避けきれない。
「アドリィ!」
カバネが叫ぶ。
だが、アドリィは正面に大きな壁を作らなかった。
杖の先をわずかに傾け、触手の軌道上に小さな光の板を編む。
それは盾というには薄く、壁というには小さすぎた。
触手が光の板に触れる。
止まらない。
だが、滑った。
軌道がわずかに外れ、触手はカバネの横の床を叩いた。
古い床材が砕け、黒い霧が跳ねる。
サトは息を呑んだ。
ツキハが目を細める。
「力を止めたのではありません。角度を変えています。防御を、面ではなく傾きとして編んでいます」
「そんなことできるのか」
「高度です」
アドリィの額に汗が浮かんでいた。
「何回も通じる技ではありませんよ」
「十分だ!」
カバネが踏み込む。
大槍が牙級の腹を裂いた。
しかし、黒い傷口はすぐに霧で塞がる。
牙級が口を開き、カバネへ食らいつこうとする。
ハヤテの札矢が飛んだ。
矢尻についた札が弾け、牙級の輪郭を白く浮かび上がらせる。
カバネはその一瞬で身を引く。
牙が空を噛んだ。
「くそ、どこだ」
カバネが低く唸る。
「核が見えないままじゃ削り負けるぞ」
ネルバが二発目を撃つ。
牙級の右肩が砕ける。
黒い霧が吹き散る。
それでも牙級は止まらない。
むしろ、砕けた部位を霧で補いながら、こちらへにじり寄ってくる。
ネルバの銃砲の冷却管から、白い蒸気が上がった。
右腕には、薄く赤い筋が走っている。
精霊焼けだ。
「っ…」
ネルバは銃砲を構え直した。
アドリィが短く祈りを重ねる。
ネルバの腕そのものを癒すわけではない。
ただ、侵食の残り香が近づかないよう、防御を編んだ。
「助かる」
ネルバが言う。
「役割分担です」
アドリィの声にも疲れが滲んでいた。
サトは震える手でピッケルを握った。
戦えない。
あの牙に向かって踏み込むことはできない。
牙級の一撃を受け止めることもできない。
けれど、見ることならできる。
観測士は、見る。
観測することで、道を探す。
サトは牙級の動きを追った。
どこを庇っている。
何を嫌がっている。
どこに攻撃が近づいたときだけ、反応が変わる。
ネルバの弾が右肩を砕いたとき、牙級は無視した。
カバネの槍が腹を裂いたとき、牙級は前へ出た。
ハヤテの矢が首をかすめたときも、反応は薄い。
だが。
「今……」
アドリィの光の板で逸れた触手が、偶然、左後脚の付け根を隠した。
牙級は、その瞬間だけ動きを変えた。
攻撃より、防御を優先した。
サトは息を止める。
もう一度、見る。
ネルバが銃口を右へ振る。
牙級は反応しない。
カバネが正面から圧をかける。
牙級は噛みつこうとする。
ハヤテの矢が左側をかすめる。
牙級の触手が、わずかに下がった。
左後脚の付け根。
そこだけは、守っている。
「左後脚」
サトは呟いた。
「何?」
カバネが振り返る。
「左後脚の付け根です。そこに攻撃が近づいたときだけ、庇ってる」
ツキハが即座に観測する。
「精霊流の濁りが、左後脚から胴体内部へ流れています。核そのものではありません。ですが、核へ繋がる節点の可能性があります」
「つまり?」
カバネが聞く。
「そこを崩せば、核が見えるかもしれません」
サトは息を吸った。
怖い。
声が震えそうになる。
それでも言う。
「ネルバさん、左後脚を狙えますか」
「狙える」
ネルバは短く答えた。
「撃てば、あいつはたぶん庇います。ハヤテさん、その瞬間に中央より少し下を射抜いてください。アドリィさん、触手を止めなくていいです。少しだけずらしてください」
「ずらすだけなら」
アドリィが頷く。
「ツキハ、核が見えたら」
「月糸で位置を固定します」
「神威、ネルバさんの腕をもう少しだけ支えてくれ」
「わぅ」
神威がネルバの横にぴたりとつく。
腹部パネルの淡い光が続く。
サトは最後にカバネを見た。
「カバネさん。最後はお願いします」
カバネは一瞬だけ笑った。
「いい目だ、観測士」
牙級が動いた。
こちらの相談を待ってくれるはずもない。
黒い牙を開き、低く突っ込んでくる。
「今!」
サトが叫ぶ。
ネルバの銃砲が唸る。
弾丸が牙級の左後脚へ飛んだ。
牙級が反応する。
触手が割り込む。
アドリィの小さな光の板が、その触手の軌道をずらした。
完全には止まらない。
だが、ほんの少し外れる。
弾丸が左後脚の付け根を削った。
牙級が初めて、明確に怯んだ。
ハヤテの札矢が、ずれた隙間を抜ける。
胴体中央、少し下。
札が弾ける。
黒い霧の奥に、濁った核が一瞬だけ浮かび上がった。
「見えた!」
ツキハの月糸が走る。
核の輪郭を、ほんの一秒だけ縫い止める。
牙級が暴れる。
月糸が悲鳴を上げる。
ツキハの顔が歪んだ。
だが、離さない。
カバネが踏み込む。
「そこか!」
大槍が、核を貫いた。
牙級が咆哮した。
声ではない。
濁った霧が、喉の奥から爆ぜるような音。
体が膨れ、裂け、黒い欠片となって崩れる。
「下がれ!」
アドリィが叫んだ。
結界が広がる。
黒い霧が、結界にぶつかって横へ流れた。
それでも、すべては防げない。
カバネの腕に黒い染みが一つ落ちる。
ネルバの銃砲に呪いの煤がつく。
ハヤテが顔を覆い、後ろへ転がる。
サトの頬を、冷たいものがかすめた。
神威がサトの前に飛び出し、腹部パネルを開いた。
淡い光が、サトとツキハの周りの濁りを少しだけ押し返す。
長い時間ではない。
強い力でもない。
それでも、そこに確かに隙間ができた。
牙級の体は崩れ落ちた。
霧の中に、黒い染みだけが残る。
誰もすぐには声を出さなかった。
荒い息。
銃砲の冷却管が吐く蒸気。
アドリィの杖が震える音。
神威の低い駆動音。
それだけが聞こえていた。
「……やったのか」
サトが呟く。
カバネは大槍を引き抜き、肩で息をしていた。
「核は潰した」
腕に黒い染みがある。
肩口にも、牙のかすった傷が開いている。
それでもカバネは立っていた。
「牙級、討伐」
ツキハが言った。
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




