第85話 霧の駅(二)
駅の奥には、広い連絡通路があった。
天井は半分崩れ、そこから木の根が垂れている。
壁には古い広告が残っていた。
家族旅行。
海辺の街。
温泉。
新型列車。
笑顔の人々。
どれも色褪せ、顔の部分だけが霧で滲んでいる。
サトは妙な気分になった。
人がいた場所。
生活があった場所。
笑い声があった場所。
それが今、侵食獣の気配に満たされている。
ツキハが足を止めた。
「精霊流の循環が乱れています」
「綻びの中だからか?」
「それだけではありません。内側から削られているように見えます」
「削られている」
「はい。何かが、霧の流れを食べています」
サトは嫌な寒気を覚えた。
食べる。
ハヤテも似たようなことを言っていた。
だいたいのものは何かを食う。
「侵食獣か」
「可能性があります」
カバネが短く言った。
「奥へ行くぞ」
通路を進む。
霧がさらに濃くなる。
ハヤテは杭を打つ。
だが、その間隔が少しずつ長くなっていた。
そして、襲撃も増えてきた。
最初は一体。
次は二体。
その次は四体。
霧の中から滲み出すように、霧級が現れる。
アドリィの結界で先に気づかれない場合もある。
だが、数が多い。
全部を先制で潰すことはできない。
「右!」
ハヤテが叫ぶ。
カバネが槍を振る。
「上!」
サトが叫ぶ。
神威が腹部パネルを一瞬だけ光らせる。
霧級の動きがわずかに乱れた。
そこへネルバの銃砲が火を吹いた。
今度は撃った。
轟音。
霧が裂ける。
黒い影が吹き飛ぶ。
銃砲の冷却管から白い蒸気が上がる。
ネルバの右腕にも、薄く赤い筋が走っていた。
精霊焼けだ。
神威が低く鳴き、ネルバのそばへ寄った。
腹部パネルが少しだけ開く。
淡い光が、ネルバの腕に当たった。
「わぅ」
「……痛みが少し引いた」
ネルバが短く言った。
「治ってはいません」
ツキハがすぐに言う。
「神威の調整パルスは、精霊流の乱れを一時的に緩和しているだけです」
「十分だ」
ネルバは銃砲を構え直した。
アドリィがすぐに祈りを通す。
ネルバの腕そのものを癒すわけではない。
ただ、侵食の残り香が近づかないように、防御を編んだ。
「助かる」
ネルバが言う。
「長くは持ちません」
アドリィの声にも疲れが見え始めていた。
ハヤテが杭を打とうとして、途中で手を止める。
霧の奥で、また黒い影が動いた。
「ちっ」
ハヤテは杭をしまい、短い弓を構えた。
「こりゃ打ってる暇もねぇな」
矢が飛ぶ。
矢尻についた小さな札が光り、霧級の輪郭を一瞬だけ浮かび上がらせる。
カバネがそれを斬る。
神威がサトの前に出る。
サトはピッケルで床に転がる旧世代の照明柱へ接続した。
「まだ生きてるか……!」
反応は弱い。
だが、完全には死んでいない。
サトは端子を叩き、古い電力経路を一瞬だけ通す。
陰で見えづらかった場所の壊れた照明が、ぱち、と光った。
霧の中に白い光が差す。
その瞬間、霧級の影が二つ見えた。
「そこ!」
カバネとネルバが同時に動く。
槍が一体を貫き、銃砲の銃床がもう一体を砕く。
「やるじゃねぇか、観測士!」
ハヤテが笑う。
「一瞬だけです!」
「十分だ!」
サトは息を吐いた。
それでも、霧級は次々に現れた。
まるで、奥から漏れてくるように。
いや。
実際、漏れているのかもしれない。
◇
どれくらい進んだのか、分からなくなり始めた。
時間の感覚が薄い。
霧の中では太陽が見えない。
音が遠近を狂わせる。
足元の線路も、何度も同じ場所を通っているように見える。
ハヤテが何度目かの戦闘後、息を吐いた。
「すまねぇ。杭、途中までは打ってたんだがな」
「今は?」
サトが聞く。
「分かる範囲では残ってる。だが、休みなく襲われるとは思ってなかった。打ててねぇ区間がある」
「戻れますか」
「普通の霧ならな」
ハヤテは苦い顔で後ろを見た。
白い霧。
線路。
柱。
同じような景色。
「この霧だと、保証はできねぇ」
サトの胃が重くなる。
それでも、まだ戻れる可能性はある。
まだ完全に迷ったわけではない。
そう思おうとした。
ツキハが急に足を止めた。
「待ってください」
全員が止まる。
霧の奥。
何かがいる。
黒い影。
霧級だ。
さっきと同じような影。
だが、様子がおかしい。
その霧級は、こちらを見ていなかった。
逃げている。
何かから。
「霧級が、逃げている?」
サトが呟いた。
次の瞬間、霧級の影が消えた。
いや、消えたのではない。
食われた。
白い霧の奥から、別の影が現れていた。
大きい。
霧級の何倍もある。
地面に低く伏せた獣の形。
頭部は長く、口が裂けている。
その口の中に、さっきの霧級の黒い残骸が引きずり込まれていく。
ばき。
ぐちゃ。
嫌な音がした。
霧級の核が、噛み砕かれる。
ツキハの声が震えた。
「反応が、変質しています」
アドリィの結界が、大きく揺らいだ。
杖の先が震える。
カバネが大槍を構えた。
ネルバは銃砲の銃口を向ける。
ハヤテは静かに矢をつがえた。
神威が低く唸る。
サトは、目の前の影から視線を外せなかった。
霧の中で、巨大な口がゆっくり開く。
黒い牙が並んでいた。
霧級ではない。
それだけは分かった。
「牙級……」
ツキハが、小さく言った。
その声と同時に、霧の奥の影がこちらを見た。
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




