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月から落ちた少女と、神に愛された機械狼  作者: 玄達瀬


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第84話 霧の駅(一)

白い霧の中に、黒い染みのような影が滲み出した。


 最初はただの影に見えた。


 だが、すぐに形を持つ。


 犬のようにも、猿のようにも、壊れた人のようにも見える。


 輪郭が定まらない。


 頭があるのか。


 腕があるのか。


 脚が何本あるのか。


 分からない。


 ただ、そこにあるものが、生き物として正しくないことだけは分かった。


「霧級です」


 ツキハの声が低くなる。


 アドリィの結界が、淡く震えた。


 サトはピッケルを握りしめる。


 神威が低く唸った。


 霧級侵食獣は、こちらに顔らしきものを向けた。


 だが、すぐには飛びかかってこなかった。


 鼻先のような部分を左右へ動かしている。


 探している。


 見えていないのか。


 匂いがずれているのか。


 音を拾えていないのか。


「アドリィ」


 カバネが短く言った。


「気づかれていません」


 アドリィは杖を両手で握ったまま答えた。


「まだしばらくもちます」


「十分だ」


 カバネは大槍を低く構えた。


 ネルバが無言で銃砲を肩に乗せる。


 ハヤテは指に挟んでいた杭を一本、足元へ打ち込んだ。


 かつん、と小さな音。


「道標一つ」


 ハヤテが小声で言う。


「戦闘中に道を見失うのが一番まずいからな」


 霧級が、その音へ反応した。


 だが、すでに遅い。


「撃て」


 カバネが言った。


 ネルバの銃砲が低く唸った。


 銃床に巻かれた導線が青白く光る。


 次の瞬間、重い発射音が霧を叩いた。


 どん、と腹に響く音。


 弾丸というより、圧縮された精霊流をまとった鉄塊が飛んだようだった。


 霧級の胴体が弾ける。


 黒い霧が飛び散った。


 侵食獣は声にならない音を漏らし、体をよじる。


 そこへ、カバネが踏み込んだ。


「遅い」


 大槍が横薙ぎに走る。


 霧級の体が、今度は上半身と下半身に分かれた。


 黒い欠片が地面へ落ちる。


 それでも、まだ動こうとする。


 切り離された腕のようなものが、泥の上を這った。


 サトは背筋が冷えるのを感じた。


「まだ動くのか」


「浸食獣は核を潰さないと残る奴が多い」


 ハヤテが言った。


 その声は、さっきまでの気のいい調子とは違っていた。


 道具袋から、小さな金属片を取り出して投げる。


 金属片は地面で弾み、霧級の残骸の近くで小さく爆ぜた。


 ぱん、と乾いた音。


 黒い残骸の中に、濁った光の粒が浮かび上がる。


「そこだ」


 カバネの槍先が突き刺さった。


 光の粒が潰れる。


 霧級は、ようやく動かなくなった。


 地面には、わずかに蠢く黒い染みのようなものだけが残った。


 アドリィが一歩前に出る。


 杖をかざし、短く祈った。


 淡い光が、染みの上に降る。


 黒い色が少しだけ薄まった。


「触らないでください」


 アドリィが言った。


「呪いが残っています」


 サトは黒い染みを見下ろした。


 ただ倒しただけでは終わらない。


 触れれば残る。


 吸えば削られる。


 もらえば死ぬこともある。


 だから、呪い。


 カバネは槍を払った。


「先に進むぞ。今のは外れだ」


「外れ?」


「霧級一匹なら、調査を止める理由にはならん」


 サトは思わずカバネを見た。


 これで止める理由にならないのか。


 カバネ隊の基準は、やはり違う。


     ◇


 西の遺跡――西カツザン中央ターミナルは、霧の中に沈んでいた。


 巨大な屋根の骨組みはところどころ崩れ、そこから蔦や細い木が伸びている。


 駅舎だったらしい建物は、森に半分飲み込まれていた。


 改札口の跡。


 割れた案内板。


 草に埋もれた階段。


 崩れた売店。


 錆びた線路。


 古い柱には、まだ文字が残っている。


 一番線。


 二番線。


 南口。


 乗換案内。


 その言葉を見ていると、ここがかつて人であふれていた場所だったのだと分かる。


 けれど今は、誰もいない。


 白い霧だけが通路を満たしている。


 サトは足元の線路を見た。


 ここにも列車が来ていたのだろうか。


 人を運び、荷物を運び、どこかへ向かっていたのだろうか。


「神威」


 サトは小さく呼んだ。


 神威は線路のそばで鼻先を動かしていた。


 匂いを追っているようで、追いきれていない。


「何か分かるか」


「わぉん……」


「分からないか」


 神威は困ったように耳を動かした。


 ツキハがしゃがみ込み、線路に触れない距離で観測する。


「僅かですが、機械反応が残っています」


「生きてるのか?」


「弱いです。けれど、停止しているわけではありません」


「動いてる?」


「はい。とても細く、広く、霧の流れに混ざっています」


 サトは周囲を見た。


 霧。


 線路。


 古い駅。


 そして、その奥でわずかに軋む鉄の音。


「この駅全体に、何かの機械反応が残っているってことか」


「はい。列車、線路、信号、駅舎。境界が曖昧です。ひとつの機械というより、ここ全体がゆっくり動いているように見えます」


 サトは黙った。


 機械が眠っているわけではない。


 壊れて止まっているわけでもない。


 目には見えないほど細い力で、今も何かを続けている。


 ぎい。


 ぎい。


 遠くで、骨が鳴っているような音がした。


「嫌な場所だな」


 ネルバが低く言った。


 言葉が少ない男がそう言うと、妙に重い。


 ハヤテが杭を打つ。


 一定の間隔で。


 柱の脇。


 線路の横。


 崩れた床の手前。


 金属杭には細い反射板がついており、精霊灯の光を受けると淡く光る。


「これで帰り道を見失わないんですか」


 サトが聞くと、ハヤテは肩をすくめた。


「普通ならな」


「普通なら」


「この霧は、見え方をずらしてくる。杭を打っても、見る角度によって別の場所にあるように見える」


「じゃあ意味がない?」


「ないよりは百倍いい。百倍いいが、絶対じゃない」


 ハヤテは新しい杭を指に挟んだ。


「だから、余裕があるうちに打つ。杭がなくなりそうになったら撤退を視野に入れるぞ」


 その言葉は、後で思い返すことになる。


     ◇


 駅舎の奥へ進むほど、霧は濃くなった。


 床は乾いているところと湿っているところがまだらに混ざり、古いタイルが割れている。


 かつて待合室だった場所には、朽ちた椅子が並んでいた。


 その椅子の背に、小さなメモのような文字が刻まれていた。


 古びて、削れており、もう意味は読み取れない。


 サトはそれを見て足を止めた。


「どうした」


 カバネが聞く。


「いえ」


 サトは首を振った。


 誰かがここに座っていた。


 列車を待っていた。


 いたずらだろうか。


 それとも、もう会えない人に向けて刻んだのか。


 ツキハもそのメモを見ていた。


「旧世界の生活痕です」


「ああ」


「記録庫の写真より、近く感じます」


「そうだな」


 神威がそっと近づき、メモの前で座った。


 尻尾を振らない。


 ただ静かに見ている。


 そこへ、アドリィの結界が震えた。


「来ます」


 声は静かだった。


 だが、緊張が走る。


 白い霧の中に、黒い影が二つ。


 いや、三つ。


 さっきより小さい。


 だが、速い。


「霧級、複数」


 ツキハが言った。


「まだ気づかれていません。ですが、結界に触れれば」


「分かった」


 カバネが槍を構える。


「先に潰す」


 ネルバは銃砲を持ち上げた。


 だが、ハヤテが手を上げる。


「ここで撃つと音が響く。数を呼ぶかもしれねぇ」


「では、私が」


 アドリィが一歩前に出た。


 杖を掲げ、短く祈る。


 霧の流れがわずかに曲がった。


 黒い影のうち一つが、別の方向を向く。


 匂いがずれたのだ。


 その隙に、カバネが一体目へ踏み込む。


 大槍が突き出される。


 黒い影の中心を貫く。


 ハヤテの小さな爆ぜ札が二体目の核を浮かび上がらせ破壊した。


 ネルバは撃たなかった。


 代わりに銃砲の銃身で、近づいた三体目を横から殴り飛ばした。


 重い金属音が響く。


「撃たないんですか」


 サトが思わず言うと、ネルバは低く答えた。


「殴れる距離なら、弾は使わん」


「確かに。吹っ飛んでいきましたね……」


 霧級は三体とも、ほとんど声を上げる間もなく処理された。


 カバネ隊は強い。


 それは間違いなかった。


 だが、アドリィの顔色が少しだけ悪くなっている。


 サトは気づいた。


「大丈夫ですか」


「はい。まだ大丈夫です」


「まだ、ですか」


「はい」


 アドリィは微笑んだ。


 だが、杖を持つ手に少し力が入っている。


 防御を編む。


 視線を逸らす。


 匂いを散らす。


 音をずらす。


 それは便利だ。


 だが、無限ではない。


「ハヤテ、杭は」


 カバネが聞く。


「だいぶ減ってきた。次に何か見つけたら、そこが今日の終点だ。これ以上奥で杭を切らすと笑えねぇ」


 ハヤテはそう言って、また一本打ち込んだ。


 かつん。


 霧の中で、その音だけが少し遅れて返ってきた。


     ◇

神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。




神威もたぶん尻尾を振ります。

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