第83話 西の遺跡へ(三)
三日目、山はさらに高くなった。
朝から霧が出ていた。
まだ薄い。
普通の山霧にも見える。
だが、ツキハは何度も足を止めた。
「精霊流が混じっています」
「目的地の霧か?」
「まだ外縁です。ですが、近づいています」
アドリィも頷いた。
「祈りの通りが少し悪いです。風が返事を迷っているようです」
「風が迷う?」
サトが聞く。
「はい。道を知っているのに、言ってよいか分からないような」
詩のような表現だった。
だが、妙に怖かった。
三日目の昼過ぎ、一行は山の稜線に出た。
それまで頭上を覆っていた木々が途切れ、急に視界が開ける。
風が強く吹いた。
サトは思わず目を細める。
東を振り返れば、遠くに龍都カツザンの白い外殻が小さく見えた。
そして西の彼方には、薄い青が広がっていた。
空と似た色。
けれど、空よりもずっと低い場所で、光を反射している。
「あれが、海だ」
ハヤテが言った。
ツキハが足を止める。
風が髪を揺らした。
サトから贈られた銀色の髪留めが、淡く光る。
「海」
ツキハは小さく言った。
その声は、いつもより少し柔らかかった。
「知識より、広いです」
「まだ遠くに少し見えてるだけだぞ」
「それでも、広いです」
サトはツキハの横に立った。
遠くの海を見る。
世界の端ではない。
むしろ、その向こうにも世界が続いている。
北アメリカ。
オーストラリア。
北極。
海の向こうには、まだ知らない場所がある。
「いつか、渡るのかな」
サトが呟くと、ツキハは海を見たまま言った。
「可能性はあります」
「遠いな」
「はい」
「でも、見えるんだな」
「……はい」
しばらく、誰も急かさなかった。
神威も横に座り、海を見ている。
分かっているのかどうかは分からない。
ただ、神威の背中と胸元の芽が風に揺れていた。
やがてカバネが西の谷を見下ろした。
山の下、森の奥。
そこだけ、白い霧が沈むように溜まっている。
海の青とはまったく違う、重く動かない白だった。
「見物は終わりだ」
カバネが言った。
「あの霧の方へ下る。日が暮れる前に、少しでも近づくぞ」
サトはもう一度だけ海を見た。
それから、白い霧の沈む谷へ目を移す。
遠い海と、近い霧。
今の自分たちが向かうべき場所は、後者だった。
「行こう」
「はい」
ツキハは名残惜しそうに海を見てから、歩き出した。
◇
四日目。
霧は濃くなった。
朝の時点で、すでに遠くの木々が白く滲んでいた。
昼前には、十歩先の道も少しぼやけるようになった。
ハヤテが先頭で足を止めた。
「ここから先、普通の霧じゃねぇな」
カバネが頷く。
「分かる」
ネルバは銃砲を抱え直した。
アドリィは杖を両手で持ち、静かに祈り始める。
ツキハは目を閉じるようにして、霧を観測していた。
「精霊流が層になっています。外から内へ流れ込むのではなく、内側で循環しています」
「結界か?」
サトが聞く。
「可能性があります。ただし、自然発生なのか、何かが作ったものなのかは不明です」
「入れるのか」
「通常なら困難だと思われます。ただ、循環がうまくいっていません」
ツキハは霧の奥を見つめた。
白い霧は、一見すると同じように流れている。
だが、よく見ると、ある一点だけ流れが乱れていた。
白い布に小さな裂け目が入っているように、そこだけ霧が内側へ吸い込まれている。
「なんらかの理由で綻びがあるようです。そこからなら」
嫌な言い方だった。
カバネが言う。
「通常なら、ということは今ならいけるということでいいのか」
「入ることは可能です。出ることが容易かは、別です」
「分かった。入り口があるなら、道標を残す」
ハヤテが腰の袋から小さな金属杭を取り出した。
「霧が食わなきゃいいけどな」
「霧が食うんですか」
サトが聞く。
「そういう霧もある。こういう仕事をやってると、だいたいのものは何かを食うんだよ」
「怖いことを軽く言いますね」
「重く言うと疲れるからなぁ」
神威が低く鳴いた。
耳のような可動部が、霧の奥へ向いている。
サトは神威の頭に手を置いた。
「何かいるか」
「わぅ……」
「分からない?」
「きゅうん」
神威にも、はっきりしないらしい。
霧が匂いを散らしている。
音も、距離も、方向も狂わせている。
アドリィが祈りを終えた。
薄い膜のような光が、一行の周囲に広がる。
「視線と匂いを少しだけずらします。強い侵食獣には効かないかもしれません」
「十分だ」
カバネは大槍を構えた。
「調査だ。無理はしない。だが、見なければ分からん」
サトはピッケルを握った。
ツキハは月片に手を添える。
ネルバは無言で銃砲の安全具を外した。
ハヤテは道標の杭を指に挟む。
神威は、サトの横にぴたりとついた。
「行くぞ」
カバネの声とともに、一行は霧の綻びへ足を踏み入れた。
◇
霧の中は、音が違った。
足音が近く聞こえる。
息遣いが遠く聞こえる。
木々の葉擦れはあるのに、風は感じない。
サトは背筋に冷たいものを感じた。
白い霧の向こうに、黒い影が見える。
木か。
柱か。
古い信号機か。
分からない。
ハヤテが一定の間隔で杭を打つ。
だが、振り返るたびに、その杭の位置が少しずれているように見えた。
「……動いてませんか」
サトが小声で言う。
「たぶん、こっちの見え方が動かされてる」
ハヤテは苦い顔で答えた。
「どっちにしても、ありがたくねぇな」
やがて、霧の奥に人工物が現れた。
巨大な屋根の骨組み。
折れた支柱。
草に沈んだ広い床。
何本も並ぶ錆びた線路。
そして、朽ちかけた案内板。
サトはそこに残る文字を読んだ。
西カツザン中央ターミナル。
旧世界の列車ターミナル。
かつて、多くの人を運んでいた場所。
今は霧に包まれ、森に呑まれ、精霊流の奥で眠っている。
ツキハが静かに言った。
「ここが、西の遺跡」
その声が、霧に吸い込まれる。
神威が低く鳴いた。
遠くで、鉄が軋む音がした。
ぎい。
ぎい。
まるで、古い列車の骨が、まだどこかで鳴っているようだった。
カバネが大槍を構え直す。
「気を抜くな」
その直後。
霧の奥で、何かが笑ったような音がした。
いや、笑い声ではない。
濁った呼吸。
欠けたものが、こちらに気づいた音。
白い霧の中に、黒い染みのような影が一つ、滲み出した。
ツキハの声が低くなる。
「侵食獣反応」
サトはピッケルを握りしめた。
霧の向こうで、影がゆっくり形を取る。
「霧級です」
アドリィの結界が、淡く震えた。
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




