第74話 断片の中の月(一)
翌朝、サトたちは龍都カツザン観測院へ向かった。
神威の右前脚は、以前よりずっと安定している。
歩くたびに補助ブレースが滑らかに動き、関節が軋む音もしない。
神威自身もそれが嬉しいのか、時々わざと足を高く上げて歩いていた。
「普通に歩け」
「わぅ」
「得意げに歩くな」
「わぉん」
「今、わざとだろ」
神威は尻尾を振った。
新しい足が嬉しくて仕方ないらしい。
ツキハは神威の歩行を観測しながら、淡々と言った。
「歩行安定性は向上しています。ですが、過度の跳躍は不適切です」
「聞いたか、神威」
「わぉん」
「聞いてないな」
神威は少しだけ小さく跳ねようとして、サトに見られていることに気づき、何もしていない顔で歩き出した。
「ごまかすな」
「わぅ」
そんなやり取りをしながらも、サトの胸の内は少し重かった。
今日は記録庫へ行く。
ドーラからツキハが受け取った割符。
月、旧衛星、神蝕戦争期の天体観測記録に関する閲覧許可。
それは、ツキハが探しているものに近づくための鍵になるかもしれない。
◇
観測院の受付で割符を見せると、すぐに奥へ通された。
案内したのは、細身の女性職員だった。
彼女は地下へ続く階段の前で足を止めると、壁に手を当てた。
古い認証板が、低く唸る。
ドーラの割符と、職員の持つ別の札が合わせられる。
かちり、と音がした。
重い扉が、ゆっくり開く。
中から、冷たい空気が流れてきた。
乾いている。
竜骨坑道の湿った空気とは違う。
水気のない、古い紙と金属と、冷えた石の匂い。
「地下記録庫です」
職員が言った。
「閲覧可能範囲は、割符に記録されています。封印記録、秘匿記録、院長許可記録には触れないでください。閲覧は記録室内のみ。持ち出し禁止。写しを取る場合は申請してください」
「分かりました」
サトは頷く。
ツキハも、静かに頭を下げた。
「神威さんは、ここまでです」
職員が言った。
神威が耳を伏せる。
「わぅ?」
「記録庫内は、精密な保存環境です。大型機械の入室は許可されていません」
「大型機械……」
サトは神威を見る。
神威は不満そうだった。
「まあ、仕方ない。ここで待ってろ」
「きゅうん」
「そんな顔するな。すぐ戻る」
ツキハが少し考えた。
「神威は、一人で待機できますか」
「わぅ」
「では、待機してください」
「わぅ……」
神威は入口の横に伏せた。
だが、こちらを見上げる目は、完全に置いていかれた犬のようだった。
「犬ではないんだよな」
「わぅ」
「その顔は犬だぞ」
職員が少し笑った。
サトは神威の頭を撫でてから、ツキハとともに地下記録庫へ入った。
◇
記録庫は、広かった。
想像していたよりもずっと。
地下に降りた先には、細長い閲覧室があり、その奥に何層もの保管棚が続いている。
棚には紙の本だけでなく、金属板、透明な記録板、古い端末、筒状の記録媒体、石のような記憶素子まで並んでいた。
壁には冷却管が走り、天井からは淡い光が落ちている。
ところどころに旧世代の文字が残っていた。
低温保存。
情報劣化防止。
権限者以外閲覧禁止。
サトは息を呑んだ。
「すごいな……」
「情報量が非常に多いです」
ツキハは棚を見ながら言った。
「ただし、完全ではないようです」
「分かるのか」
「欠落が多いです。棚の並びに空白があります。記録されたはずの時代に、記録がありません」
サトは保管棚を見た。
確かに、途中で番号が飛んでいる。
ある時代までは整然と並んでいるのに、ある年代から急に棚が薄くなる。
そして、さらに後の時代になると、後世の観測院が集め直したらしい粗い記録に変わっていた。
「神蝕戦争末期か」
「そのようです」
ツキハは静かに答えた。
閲覧室の奥から、一人の老人が現れた。
背は低いが、目は鋭い。
灰色の髪を後ろで束ね、手には細い杖を持っている。
「割符を」
老人は言った。
ツキハが割符を渡す。
老人はそれを確認し、サトとツキハをじろりと見た。
「月、旧衛星、天体観測、神蝕戦争期の記録。ずいぶん変わった棚を指定されたものだ」
「閲覧可能でしょうか」
ツキハが尋ねる。
「許可は出ている。」
老人は割符を返した。
「私は庫守のヨルドだ。記録を探す手伝いはする。答えが見つかるかは分からん」
「どう違うんですか」
サトが聞く。
ヨルドは鼻を鳴らした。
「記録は残っているものだ。答えは、お前たちが勝手に作るものだ」
サトは少し黙った。
「覚えておきます」
ヨルドは杖で奥の棚を示した。
「まずは一般史からだ。あのあたりの棚からがそうだ」
◇
最初の二日は、一般史に費やされた。
サトが知っている歴史と、大きく違うわけではなかった。
だが、記録庫に残る旧世界の資料は、村や森都で聞いていたものよりもはるかに詳しかった。
西暦二千年代後半から二千百年代初頭。
環境汚染と気候変動は、いくつもの地域を住めない土地に変えた。
人々は地上を諦め、地下都市やシェルター、密閉居住区で暮らすようになった。
食料は工場で作られ、水は何度も再利用され、外へ出るには防護服が必要な地域もあった。
サトは資料を読みながら、眉を寄せた。
「昔の人間は、こんな場所で暮らしてたのか」
透明な記録板には、白いシェルターの中で暮らす人々の写真が残っていた。
窓のない部屋。
人工光。
狭い通路。
空を知らない子どもたち。
「地上は、危険だったのですね」
ツキハが言った。
「ああ」
「ですが、今の地上には森があります」
「精霊圏が見つかったからだろ」
サトは次の資料を開いた。
精霊圏。
スピリット・レイヤー。
それは最初、未知のエネルギー層として発見された。
大気とも、磁場とも、量子場とも異なる。
生命活動、地脈、記憶、感情、物質構造にまで反応する不可視の層。
当時の科学者たちは、それを精霊圏と名づけた。
そして、人類はそこからエネルギーを取り出す方法を見つけた。
精霊科学文明の始まりだった。
汚染された土壌は回復し始めた。
枯れた海に生命が戻った。
大気の毒性は薄れ、植物は異常な速度で繁茂した。
地下に押し込められていた人々は、再び地上へ出た。
精霊科学文明の繁栄期。
資料には、そう記されていた。
「環境の回復と、人類の復興」
サトは読み上げる。
「旧世界の人たちは、精霊圏を救世主みたいに扱ってたんだな」
「実際、救われたのでしょう」
ツキハは言った。
「ただし、理解していたとは限りません」
「使えたけど、分かってはいなかった?」
「はい」
サトはその言葉を覚えておいた。
使えることと、分かることは違う。
それは、神威を修理しているときにもよく感じることだった。
次の記録板には、人体の図が並んでいた。
旧人類。
適応人類。
環境適応型。
高地適応型。
寒冷地適応型。
森林適応型。
夜間視覚強化型。
疾病抵抗強化型。
見慣れない言葉が、いくつも並んでいる。
「適応人類……」
サトは眉を寄せた。
資料によれば、精霊科学文明の発展に伴い、人類は自分たち自身を改変し始めた。
汚染された環境に耐えるため。
地下生活で失われた身体機能を補うため。
病に強くなるため。
精霊流に適応するため。
そして、地上へ戻るため。
旧人類をもとに、新たな人類を作った。
それが、適応人類。
サトは記録板に映る古い写真を見た。
そこに写っている人々は、今の人間と少し違っていた。
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




