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月から落ちた少女と、神に愛された機械狼  作者: 玄達瀬


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第70話 大切な人(一)

龍都カツザンでの初めての依頼は、終わった。


 勝ったわけではない。


 大型狂機を倒したわけでもない。


 封鎖も不完全だった。


 溶けた扉の向こうには、今もあの巨大な恐竜型の狂機がいる。


 それでも、第三班は全員帰ってきた。


     ◇


 宿へ戻ったとき、外はもう暗くなっていた。


 龍都カツザンの夜は、村の夜とは違う。


 市場の方からはまだ人の声が聞こえ、遠くでは金属を叩く音がしている。


 水路の下から、機械の低い唸りも響いていた。


 けれど、サトにはそれらが全部、遠いもののように感じられた。


 宿の部屋に入る。


 荷物を下ろす。


 ピッケルを壁に立てかける。


 神威の腹部パネルについた石の痕を確認しようとして、そこで手が止まった。


「……だめだ」


 眠い。


 どうしようもなく眠い。


 気が抜けた瞬間、体中に疲労が押し寄せてきた。


 背中が痛い。


 腕が重い。


 脚が震える。


 慣れない坑道探索の上、人を三度背負い、大型狂機に追われ疲労はピークに達していた。


 神威の損傷も気になる。


 だが、もう目が開かない。


「神威、すまん。細かい修理は明日だ」


「わぅ」


 神威は弱く鳴いた。


 腹部パネルには、拳大の石が当たった痕が残っている。


 大破はしていない。


 だが、味方信号の制御が乱れたのは確かだった。


 サトはそれを見るだけで、胸の奥が少し冷える。


 あの一瞬、ツキハの援護、ドーラの支援。何か一つでもズレていたら。


 いや。


 考えても仕方がない。


 今は寝るしかない。


 ツキハもまた、部屋の隅で月衣の裾を整えようとしていたが、動きが遅かった。


「ツキハ」


「はい」


「休め」


「私はまだ観測可能です」


「観測禁止」


「禁止ですか」


「禁止だ」


「不適切ですか」


「ふらふらしているぞ。今日はもう休んだらどうだ」


 ツキハは少しだけ黙った。


 それから、小さく頷いた。


「適切です」


 神威は作業場の隅で丸くなる。


 サトは寝台に倒れ込んだ。


 ツキハは、窓際の椅子に腰かけたまま、しばらく月片と月を見ていた。


 何かを確かめるように。


 そして、いつの間にか目を閉じていた。


 その夜、三人は泥のように眠った。


     ◇


 サトは夢を見た。


 白い光の中にいた。


 そこは、竜骨坑道ではなかった。


 森でもない。


 月竹の中でもない。


 白い砂のようなものが足元に広がっている。


 遠くで、誰かが笑っていた。


 顔は見えない。


 声だけが、ふわりと届く。


「騎士くんは、がんばりやさんなんだね」


 騎士。


 誰のことだ。


 サトは周囲を見回した。


 白い光が揺れる。


 昼なのに、夢の中には月があった。


 真上ではなく、どこか斜め上。


 薄く、淡く、笑っているような月。


「ツキハをおねがい」


 サトは息を呑んだ。


 その言葉には聞き覚えがあった。


 万葉の大地。


 白い列車型の精霊獣。


 ツキハをおねがい。


 かわいらしい騎士さん。


「君はまだ、知らなくていいよ」


 声が笑う。


 からかうようで、少しだけ寂しそうで、どこか遠い。


「でも、忘れないで。あの子はね、観測するためだけに生まれたんじゃないの」


 サトは何かを聞こうとした。


 けれど声が出ない。


 白い光が揺れる。


 月が水面のように滲む。


「それから、機械の狼くんも。いっぱい撫でてあげてね。あの子、褒められるとすぐ尻尾に出るから」


 それは知っている。


 夢の中で、サトはそう思った。


「じゃあね、騎士くん」


 声が遠ざかる。


「また、夢の深いところで」


     ◇


 目が覚めた。


 窓の外は明るかった。


 龍都カツザンの朝の音がする。


 金属を叩く音。


 水路の流れ。


 蒸気の抜ける音。


 遠くの市場の声。


 サトはしばらく天井を見ていた。


「……夢か」


 そう呟いてから、起き上がる。


 体が重い。


 だが、昨日のように限界ではない。


 少し眠れただけでも、かなり違った。


 神威は作業場で丸くなっていた。


 腹部パネルを少し開き、自分で状態を確認しているようだった。


 だが、どうやらうまく閉じられなくなっているらしい。


 ぱか。


 閉じる。


 少し開く。


 ぱか。


 また閉じる。


「何してるんだ、お前」


「きゅぅん……」


「そこ、引っかかってるな」


 サトは寝台から降りて、神威の腹部パネルを軽く触った。


 歪みは小さい。


 だが、制御軸が少しずれている。


「直せる。ちゃんと直せる」


「わぅ」


 神威の尻尾が少しだけ揺れた。


 そこで部屋の扉が叩かれた。


「サトさん、起きてますか」


 宿の若い女中の声だった。


「はい」


「観測院から呼び出しです。できるだけ早く来てほしいって」


 サトはツキハを見た。


 ツキハも目を開けていた。


 椅子に座ったまま眠っていたらしい。


 月衣の裾が少し乱れている。


「観測院からですか」


「ああ」


 サトは顔を洗うために桶へ向かった。


「報酬か、報告か、次の厄介事か」


「三つ同時の可能性があります」


「やめてくれ」


 神威も困ったような顔をしているように見える。


「お前も来るんだぞ。」


「わぉん」


     ◇


 龍都カツザンの観測院は、昨日より少しだけ落ち着いていた。


 それでも、入口にはまだ担架が置かれ、救護室には怪我人の気配がある。


 焦げた布の匂い。


 薬草の匂い。


 金属と血の匂い。


 昨日より薄くなってはいるが、消えてはいなかった。


 サトたちが受付へ向かうと、職員がすぐに気づいた。


「サトさんですね。院長室へお願いします」


「はい」


 サトは頷いた。


 神威も隣を歩く。


 だが、仮設救護室の前を通りかかった瞬間、神威の足が止まった。


「神威?」


「わぉん」


 神威は救護室の方を見ている。


 中から、誰かのうめき声が聞こえた。


 それから、聞き覚えのある低い声。


「おい、へんな犬。こっちへ来い」


 ユプケの姐さんだった。


 サトは額に手を当てた。


「呼ばれてるぞ」


「わぉん」


「嬉しそうに行くな。あと犬じゃないだろ」


 神威はすでに救護室へ向かっていた。


 腹部パネルを少し開き、淡い調整パルスを出しながら。


 救護室の中で、誰かが笑った。


「また腹を光らせてるぞ」


「へんな犬だな」


「犬ではないです!」


 サトは思わず言いかけて、やめた。


 代わりにツキハが静かに言った。


「神威は、救護室へ向かいました」


「見れば分かる」


「追いますか」


「いや。あそこなら悪いことはしないだろう」


 たぶん。


 サトはそう心の中で付け加えた。


「俺たちは院長室へ行こう」


「はい」


     ◇


 院長室では、ドーラとディエンが待っていた。


 机の上は昨日と同じく記録板でいっぱいだった。


 いや、昨日より少し増えている。


 ディエンはその山を見て、額に指を当てていた。


 ドーラは気にしない顔で茶を飲んでいる。


「来たね」


「お呼びと聞きました」


「座りな。昨日はよくやった」


 ドーラの声は、いつも通り大きかった。


 だが、その奥に少しだけ柔らかさがあった。


 サトとツキハは椅子に座る。


 ディエンが記録板を一枚取り上げた。


「まず、正式な報告です。竜骨坑道第三下層東区画における第三班救出任務は成功。第三班四名、全員生存。重傷二名、中傷一名、軽傷一名。現在、全員治療中です」


 サトは息を吐いた。


 分かっていた。


 昨日の帰り道で確認していた。


 それでも、改めて言葉にされると、胸の奥が少し熱くなった。


「よかった」


 ツキハも、小さく頷いた。


「適切な結果です」


 ドーラが笑った。


「そうだね。これ以上ないくらい適切だ」


 ディエンは机の下から袋を取り出した。


 それを、どさり、と机の上に置く。


 重い音がした。

神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。




神威もたぶん尻尾を振ります。

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