第68話 信号(三)
メルの声は震えていた。
だが、意識ははっきりしている。
出口までは、あとおよそ五十メートル。
大型狂機は、区画の奥側へ向いている。
こちらには気づいていない。
神威の信号はまだ出ている。
サトは一歩を踏み出した。
そのときだった。
ごとり。
天井から、拳ほどの石が落ちてきた。
崩落の余波か。
古い天井材が限界だったのか。
その石は、狙ったように展開していた神威の腹部パネルへ当たった。
がん、と鈍い音。
「きゅぅん!」
神威が体をすくめた。
腹部パネルの光が消える。
味方の信号が途切れた。
大型狂機の動きが止まった。
赤い目が、ゆっくりこちらを向く。
サトの背筋が凍った。
「走れ!」
封印扉の外から、ツキハの声が響いた。
「急いでください!」
サトは走った。
神威も走る。
だが、距離がある。
背中にはメル。
足元には瓦礫。
神威は腹部パネルを直そうとしながら走っているが、光は戻らない。
大型狂機が動いた。
床が揺れる。
一歩。
それだけで、距離が縮まる。
二歩。
もう近い。
大きさが違いすぎる。
サトたちの全力疾走など、あの巨体の数歩で追いつかれる。
巨大な顎が開いた。
赤く焼けた内部。
歯のような金属列。
アギトが、サトへ向かって落ちてくる。
その瞬間、月光が走った。
ツキハが新区画の入口に立っていた。
月片を握り、細い月光糸を何本も伸ばしている。
月光糸は大型狂機の脚、首、顎、背中の装甲の隙間へ絡みついた。
縫い止めるように。
世界に固定するように。
大型狂機の動きが、一瞬止まる。
一秒。
二秒。
三秒。
「っ……!」
ツキハの顔が歪んだ。
裂爪級の侵食獣ですら三十秒以上は留めた月光糸が、悲鳴を上げていた。
大型狂機は、それほど重い。
それほど強い。
ただの力ではない。
壊れた命令と、旧世代の機械と、地下の精霊流が絡み合った質量。
月糸が一本、弾けた。
次の一本も、今にも切れそうに震える。
そのとき、ツキハの瞳が月の色に淡く光った。
「っ…観測、、固定!」
小さな声。
ちぎれそうな月糸が、無理やり空間に縫い止められる。
さらに一秒。
二秒。
三秒。
サトは走った。
出口まで、あと二十メートル。
「あんた、図体がでかい割に、足が細いんじゃないのかい!」
ドーラの声が響いた。
彼女は封印扉の脇から飛び出していた。
人の丈ほどもあるハンマーを、両手で握っている。
ドーラの渾身の一撃が、大型狂機の脚へ叩き込まれた。
打撃面の古い端子が光る。
次の瞬間、大型狂機の脚が雷に撃たれたように白く弾けた。
電撃。
衝撃。
機械関節の一瞬の硬直。
大型狂機の巨体が傾く。
床が揺れた。
轟音とともに、巨大な影が横倒しになる。
「全員、出口まで急ぐよ! 走れ!」
ドーラが叫んだ。
サトは最後の力で走った。
神威が横に並ぶ。
メルが背中で悲鳴を押し殺している。
ツキハも、ふらつきながら後退した。
「ツキハ!」
「動けます」
声はかすれていた。
だが、足は動いている。
サトは封印扉を抜けた。
ミネがメルを受け取る。
「全員出た!」
ドーラも転がるように扉の外へ戻った。
ミネはすぐに制御盤へ飛びつく。
「扉を閉めます!」
サトは息を荒げながら振り返った。
「閉まるのか!?」
「第三班は正規手順で開けたんです! なら、扉はまだ生きてる!」
ミネの指が制御盤を叩く。
古い表示が点滅する。
警告。
損傷。
閉鎖不完全。
それでも、扉は動いた。
ウィィィン。
重い音を立てて、巨大な封印扉が少しずつ下り始める。
大型狂機が起き上がる。
赤い目が燃える。
床を蹴る。
だが遅い。
扉は下りている。
「ミネ! もういいからこっち来な!」
ドーラが叫ぶ。
「あと少しです!」
「いいから!」
ミネは最後の固定操作を入れ、制御盤から手を離した。
走る。
ウィィィン。
扉がさらに下りる。
あと少し。
あと少しで、完全に閉じる。
サトは、そう思った。
その瞬間だった。
ゴァァァァァァ。
大型狂機の口が開いた。
赤い光が、喉の奥から漏れる。
熱。
いや、熱だけではない。
壊れた炉心のような、赤い奔流。
ブレスが放たれた。
封印扉の中央が、赤く染まる。
金属が悲鳴を上げた。
溶ける。
分厚い扉が、内側から焼き抜かれていく。




