第63話 竜骨坑道へ(二)
だが、すぐに現実に引き戻される。
ドーラはハンマーを肩に担いだまま、ディエンへ向き直った。
「ここはしばらくアンタが仕切りな」
「はい。救護、受付、記録室、全てこちらで回します。ただし、無茶はしないでください」
「私がいつ無茶をしたって言うんだい」
ディエンは無言でドーラを見た。
ドーラは目を逸らした。
「……今はその話をしている時間じゃないね」
「そうですね」
ディエンはサトたちへ目を向ける。
「あなた方が紹介状の?」
「はい。サトです」
「副院長のディエンです。ようこそ、と言うには最悪のタイミングですが」
「いえ」
「院長をお願いします。放っておくと、扉だけでなく壁も壊します」
「聞こえてるよ」
「聞こえるように言いました」
ドーラはもう一度ため息をついた。
「サト、あとツキハさんかい? 行くよ。あとは歩きながら説明する」
「神威も」
「もちろん、その機械狼も……」
ドーラはそこで言葉を止めた。
部屋の中を見回す。
「……機械狼は?」
サトも振り返った。
神威がいない。
「え?」
さっきまで、足元にいたはずだ。
サトは院長室の入口を見る。
扉は少し開いている。
「神威?」
返事はない。
「神威!」
遠くから、かすかに、わぅ、と聞こえた。
サトは額に手を当てた。
「勝手に動くのかい」
「勝手に動きます」
「やっぱり犬じゃないのかい?」
「犬ではないです」
ツキハが静かに補足する。
「ただし、行動傾向には犬に近い要素があります」
「ツキハ、それは神威に聞かせない方がいい」
◇
神威は仮救護室にいた。
観測院の大部屋を急ごしらえで仕切り、担架と毛布を並べた場所だった。
怪我人のうめき声。
薬草の匂い。
焦げた布の匂い。
血の匂い。
古い消毒液の匂い。
それらが混じっている。
その中央で、神威は腹部パネルを少しだけ開いていた。
白い光ではない。
淡く、暖かい色の光だった。
威嚇や忌避の信号ではない。
音とも光とも振動ともつかない、柔らかな調整パルス。
負傷した観測士たちの呼吸が、少しずつ落ち着いていた。
震えていた若い職員の手が止まる。
うめいていた男の肩から力が抜ける。
寝台の端で膝を抱えていた少女が、目を閉じる。
神威は一人ひとりの間を、ゆっくり歩いていた。
ときどき尻尾で毛布を直す。
ときどき鼻先で転がった水筒を押し戻す。
ときどき、寝台の横で座り込む。
「……おい」
サトは入口で立ち止まった。
「何してるんだ、お前」
「わぅ」
神威は当然のような顔で振り返った。
腹部パネルから、また淡いパルスが広がる。
ツキハが目を細めた。
「神威は、負傷者の緊張状態を緩和しています」
「勝手に?」
「はい。出力は低く、危険はありません」
ドーラが腕を組んだ。
「へえ。機械狼が救護室で人をなだめるとはね」
奥の寝台から、低い声がした。
「……へんな犬だ」
赤い虎耳の女だった。
先ほどのユプケの姐さんだ。
片腕を吊られ、額に布を巻かれ、寝かされている。
それでも目だけは鋭く開いていた。
神威は彼女のそばに座っていた。
どうやら、特にこの女を気にしていたらしい。
ユプケの姐さんは神威を睨むように見ていた。
「近づいてきたと思ったら、腹を光らせてきやがった」
「すみません」
サトは慌てて頭を下げた。
「悪さはしていません。たぶん」
「分かってる」
女は鼻を鳴らした。
「少し、痛みが引いた。腹が立つ程度には」
神威が、わぅ、と小さく鳴いた。
嬉しそうだった。
ユプケの姐さんは眉を寄せる。
「褒めてない」
神威の尻尾が止まった。
それから、少しだけ揺れた。
「いや、少しは褒めた」
尻尾が大きく揺れた。
「調子に乗るな」
「わぅ」
サトは思わず笑いそうになった。
ユプケの姐さんは、視線だけをサトへ向けた。
「お前が飼い主か」
「飼い主ではないです。相棒です」
「そうか。なら相棒に言っとけ。私の折れた槍に鼻を近づけるな。血の匂いがするからって、何でも嗅ぐな」
「すみません」
神威は少しだけ気まずそうに耳を伏せた。
ツキハが真面目に言う。
「神威は、あなたの損傷状態と武器の破損状態を確認していた可能性があります」
「確認してどうする。直せるのか?」
神威は、わぅ、と鳴いた。
自信があるような、ないような返事だった。
ユプケの姐さんは口の端を上げた。
「へんな犬だ」
「犬ではないです」
サトと神威が同時に反応した。
女は少しだけ笑った。
それだけで、救護室の空気が少しだけ軽くなった。
ドーラが神威の腹部パネルを見ていた。
「そのパルス、坑道で使えるかい」
「相手によります」
サトは答えた。
「狂機に効くかは分かりません。でも、怯えて動けない人を落ち着かせるくらいなら」
「それで十分だ。救助には使える」
ドーラは頷いた。
「神威、聞いたか」
「わぉん」
「返事はいいけど、勝手にいなくなるな」
「きゅうん」
「その顔をしてもだめだ」
神威はしょんぼりした。
ユプケの姐さんが、それを見て鼻で笑った。
「本当にへんな犬だ」
「犬ではないです」
「しつこいねえ」
◇
あれから、すぐに観測院で救助に向かうメンバーをかき集めた
竜骨坑道へ向かう救助隊は、六人と一機になった。
ドーラ。
サト。
ツキハ。
坑道案内役の観測士、カド。
封鎖と扉の応急処置を担当する技師、ミネ。
負傷者対応のための救護士、イリカ。
そして神威。
ディエンは観測院に残った。
救護と記録、外部への連絡、それらをまとめるためだ。
「院長」
出発前、ディエンはもう一度だけドーラを呼び止めた。
「何だい。まだ書類の話かい」
「書類は帰ってからです」
「そこは忘れてくれてもいいんだよ」
「忘れません」
ディエンは静かに言った。
「第三班を連れて帰ってください」
ドーラの表情が、少しだけ変わった。
「分かってる」
「それから、院長も帰ってきてください」
「当たり前だろう」
「当たり前ではありません。院長は当たり前のことを、よく忘れます」
「まったく、口うるさい副院長だね」
「口うるさくなければ、副院長は務まりません」
ドーラは笑った。
そしてハンマーを担ぎ直す。
「行くよ」
◇
竜骨坑道の入口は、観測院から外廊下を渡った先にあった。
外廊下は、中央殻の内壁沿いに伸びる細い通路だった。
片側は白いシェルター外殻。
もう片側は、都市の内側を見下ろす手すり。
下には龍骨市場の屋根が見える。
さらにその下に、水路と配管と、いくつもの古い階層が折り重なっていた。
足元の古い金属板には、ところどころ旧世代の文字が残っている。
非常口。
保守区画。
地下連絡路。
研究棟。
避難経路。
それらの文字が、今ではほとんど意味を失い、別の生活の中に組み込まれていた。
ドーラが歩きながら説明する。
「竜骨坑道は、もともとはシェルター地下の大動脈だった。人が住み、物資が運ばれ、研究施設や企業区画がつながっていた」
「企業区画もあるんですか」
「ある。旧世代の企業は、地下にも都市を持っていたからね。管理区画、研究区画、試験場、物流倉庫、医療区画。どれも入り組んでいる」
「状態のいい遺物が出る理由はそれか」
「そういうことさ。地上より風雨に晒されていない。封印が生きている区画なら、中身もかなり残っている」
「でも、狂機も出る」
「当然だね。機械も残っている。命令も残っている。時々、精霊流も流れ込む。そうなると、何が目を覚ますか分からない」
ツキハが静かに言った。
「今回の大型狂機は、封印区画の内部で長期停止していた個体ですか」
「おそらくね。扉を開けるまでは反応がなかった」




