第6話 北の畑の青い光(一)
神威が立った。
正確には、立とうとして、三度ほど転びかけたあと、なんとか立った。
サトの工房の床に、ぎぎ、がいん、きゅいん、という不安な音が響く。
「……よし。立ててはいるな」
サトは神威の前脚を見ながら、額の汗を拭った。
昨夜からほとんど寝ていない。
神威の右前脚には、昨日分解した新作の槍から取った補助回路が組み込まれている。左後脚には、倉庫の隅にあった古い関節軸を削って作った仮部品。胴体の下には、ありあわせの金具で固定した補助フレーム。
そして尻尾の位置には、細い金属棒と革紐を組み合わせた仮パーツがついていた。
見た目は、正直あまり格好よくない。
「とりあえず、バランスを取るだけならこれでいけるはずだ」
神威はゆっくりと一歩踏み出した。
がいん。
右前脚が少し遅れる。
きゅいん。
左後脚が変な音を立てる。
かたん。
仮の尻尾が、不安そうに揺れた。
「……無理するなよ。走るな。跳ぶな。突っ込むな。分かったな?」
「わぉん」
「返事だけはいいな」
神威は誇らしげに胸を張った。
その瞬間、右前脚が少し沈み、体が斜めに傾く。
「ほら言った!」
サトは慌てて神威の肩を支えた。
大型狼ほどの機械を支えられるほど、サトは力持ちではない。だが、神威も倒れまいとして踏ん張ったため、なんとか体勢を戻すことができた。
神威の瞼がしゅんと下がる。
「怒ってるんじゃない。ただ、まだ仮修理なんだ。お前が本気で動いたら、俺の修理が追いつかない」
「きゅうん」
「分かればいい」
サトは工具箱を閉め、ピッケルを肩にかけた。
今日は、村長から受けた依頼に向かう。
北の畑の奥で、夜になると青白い光が動く。柵が壊され、地面には焦げ跡が残っている。村人たちは侵食獣ではないかと怯えている。
戦うことではない。
サトの仕事は、それを観測し、危険かどうかを判断すること。
少なくとも、サトはそのつもりだった。
「行くぞ、神威。危なかったら逃げる。いいな?」
「わぉん」
「だから、その返事を信用していいのかが問題なんだよな」
工房の扉を開けると、朝の光が差し込んだ。
神威は眩しそうに瞼を細める。
背中の太陽光超効率収集装甲板が、かすかに反応して淡く光った。
「充電しながら歩けるのか。便利だな」
「わおん」
「嬉しそうだな」
神威の仮尻尾が、かたん、かたんと揺れた。
サトはそれを見て、少し笑った。
「ちゃんと直ったら、本物の尻尾も作ってやりたいところだけどな」
その言葉に、神威がぴたりと止まった。
「……何だ?」
神威はサトを見た。
それから、自分の仮尻尾を振ろうとして、かたん、と頼りない音を立てた。
「いや、今のは約束っていうか、希望というか……」
「わぉん」
「分かった。探す。いつか探すから。今は仕事だ」
神威は満足したのか、ぎこちない足取りで歩き始めた。
村の通りに出ると、何人かの村人がこちらを見て固まった。
「うわ、本当に動いてる」
「あれ、昨日のゴミ山のか?」
「噛まないのか?」
「たぶん」
「たぶんって何だ」
サトは苦笑しながら、神威の首元を軽く叩いた。
「大丈夫です。今のところ、俺より聞き分けがいいです」
「お前よりって、基準が低くないか?」
井戸端の老婆がそう言うと、周囲から小さく笑いが起きた。
神威は笑われている意味が分からないらしく、瞼をぱちぱちと開閉した。
その仕草を見て、近くにいた子どもが一歩近づく。
「ねえ、触っていい?」
「まだだめ。仮修理だから、変なところに触ると外れる」
「外れるの?」
「外れる」
子どもは目を輝かせた。
「外れるところ見たい!」
「見せない」
神威は子どもの方を向いた。
背中の一部がかしゃりと開き、動物忌避用のLEDが、なぜか淡く点滅し始める。
「神威、光るな。怖がらせる」
「わぉん?」
「嬉しいのは分かるけど、いま光ると逆効果なんだ」
子どもは怖がるどころか、さらに目を輝かせた。
「光った!」
「光る狼だ!」
「もう一回!」
「だめだ。見世物じゃない」
サトは神威を引っ張るようにして、村の北へ向かった。
背後では子どもたちが手を振っている。
神威は何度も振り返り、そのたびに仮尻尾をかたんかたんと鳴らした。
「……お前、本当に犬みたいだな」
「わぉん」
「褒め言葉として受け取るな」
北の畑へ向かう道は、村の外れから緩やかに森へ続いている。
畑にはまだ朝露が残り、土の匂いが濃かった。柵の一部は壊され、焦げたような黒い跡が地面に残っている。
サトはしゃがみ込み、焦げ跡に指を近づけた。
「熱で焼けた跡じゃないな」
土の表面だけが浅く変色している。炭化ではない。何かの波が走ったような、薄い焦げ方だった。
「忌避パルスに近い……かな。獣を追い払うための旧世界機械の機能に似てる」
神威が鼻先を近づける。
「お前も何か分かるか?」
「……わぉん」
神威は畑の奥、森の方を見た。
金属の耳にあたる部品が、細かく動いている。
「やっぱり、森か」
サトは鞄から小型の記録板を取り出し、焦げ跡の位置を記録した。
「柵を壊した何かが森へ入った。青白い光もそっちで目撃されてる。よし、慎重に行くぞ」
さて、ここから北の森に入るわけだが――。
がいん、がいん、がいん。
「待て待て待て、神威! どこに行く!」
神威は突然、サトの横をすり抜けて森の奥へ進み始めた。
いや、走り出したというより、走ろうとしている、という方が正しい。まだ仮修理の脚部はぎこちなく、関節が動くたびに嫌な金属音を立てている。
「だからまだ全力で動くなって言っただろ!」
「わぉん!」
「返事だけはいいな!」
神威はサトの制止を聞かず、木々の間を抜けていく。
やがて、一本の大きな木の根元で足を止めた。
前脚で、落ち葉の積もったあたりをがさがさとかき分ける。
「何だ? 何かあるのか?」
サトが覗き込むと、木の根元のくぼみに小さなものが丸まっていた。
掌に乗りそうなほど小さい。
モモンガの赤子に似ていた。けれど、普通の獣ではない。薄い膜のような翼の縁が、ぼんやり青く光っている。尻尾の先にも、小さな星屑のような光がまたたいていた。
「精霊獣の赤子か?」
サトは息をひそめた。
赤子の光は、一定ではなかった。
強くなったり、弱くなったり、途切れそうになったりしている。
「発光が不規則だな……。体内の精霊が乱れで、体調を崩しているのか?」
サトがそう呟いた瞬間、神威の腹部がかしゃりと開いた。
「まっ、何して――」
神威の腹の両脇から、薄いパネル状の装置が展開される。
次の瞬間、淡い光の粒が、赤子に向けて降り注いだ。
きらきらとした、暖かな光だった。
「……うん?」
サトは身構えたまま、目を細める。
攻撃ではない。
熱もない。忌避信号でもない。むしろ、乱れた精霊反応が少しずつ整っていく。
「このパネル……精霊の調子を整えるパルスを照射できるのか?」
赤子の発光が、ゆっくりと落ち着いていく。
荒れていた呼吸も、少しずつ穏やかになった。
サトは神威を見た。
「神威……お前、ただの犬だと思ってたが、やるじゃないか」
「わおん」
神威は誇らしげにひと吠えした。
「いや、褒めてはいる。褒めてはいるんだが、これだけ小さな子だ。あまり近づきすぎると親が怒……って……」
サトは途中で言葉を止めた。
気配がした。
ゆっくりと顔を上げる。
木の上に、巨大な赤い目が二つ。
いや、二つではない。
枝の上、幹の裏、葉の隙間。
いくつもの赤い目が、こちらを見下ろしていた。
「……っ」
背筋に緊張が走る。
まずい。
逃げられる距離ではない。
好戦的な精霊獣でなくても、動物からの変異種は警戒心が高い。まして子どもに近づきすぎた相手を、黙って見逃すはずがない。
襲ってくる。
そう思った。
思ったのだが。
「……襲ってこないな」
木の上の巨大なモモンガたちは、目を細めていた。




