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月から落ちた少女と、神に愛された機械狼  作者: 玄達瀬


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第57話 白き流れは、記憶を運ぶ(三)

調整パルスのくだりがわかりづらかったので少し修正しました(;´・ω・)


 サトは神威の腹部パネルの横に手を添え、光を細く絞った。


 強い忌避信号ではない。


 精霊流の乱れを、少しだけ整える調整パルス。


 沼でナマズの精霊獣の警戒を解いたときと同じ系統だ。


 ただし、今回は相手がナマズではない。


 白い記憶の流れだ。力をぶつければ、余計に乱れる。


「ツキハ、見えるか」


「はい。精霊流の乱れが周期的に強くなっています。列車の形を保とうとする流れと、壊れた路線記録がぶつかっています」


「どうすればいい」


「完全な修復は不可能です。ですが、乱れを一時的に整えれば、自力で流れを見つける可能性があります」


「一時的に、か」


 サトは地面の線路跡を見た。


 折れた線路。


 錆びた枕木。


 山肌から突き出た鉄骨。


 そして、その先にある谷。


 もともと線路は、山の向こうへ抜けていたのだろう。


 今は地形が変わり、道は途切れている。


 だが、精霊流は違う。


 山の奥へ、細い流れが続いている。


 見えるわけではない。


 けれど、神威の反応と、白い列車の動きと、ツキハの視線が、その方向を示していた。


「線路はもうないが」


 サトは言った。


「けど、山の向こうへ抜ける流れならあるな」


 ツキハが頷く。


「精霊流の向きと、旧路線の残響がわずかに一致しています」


「神威、そこへ流してやれるか」


「わぉん!」


「だから自信満々に返事するな。慎重にだ」


 神威の腹部パネルが、淡く光った。


 白い列車の精霊獣が、一瞬だけ動きを止める。


 周囲を回る速度が落ちる。


 流れが乱れ、ノイズが強くなる。


 サトの耳に、また声が混じった。


 次は少しはっきりしている。


 出発します。


 ご乗車ありがとうございます。


 観測値、安定。


 第一接触、成功。


 ノイズ。


 笑い声。


 泣き声。


 誰かが窓を叩く音。


「くそ……」


 サトは奥歯を噛んだ。


 ツキハが右手を上げる。


 月光糸を使うのかと思ったが、違った。


 月片が淡く光る。


「観測固定を、短時間だけ使います」


「無理するな」


「短時間です。精霊流の揺らぎを、一瞬だけ留めます」


「分かった。神威の調整パルスを、その揺れに合わせる」


 ツキハの目が、白い列車の流れを追った。


 その瞳に、月光のような色が宿る。


「今です」


 神威の腹部パネルから、光が広がった。


 ツキハの観測固定が、白い流れの揺らぎをほんの一瞬だけ留める。


 サトは手元の小さな調整器で、神威の光を細く保った。


 しかし、白い流れの端まで届かない。


 相手が大きすぎるのだ。


「神威、強くするな。横に動いて、届く場所を広げるぞ」


「わぅ……」


「できる。焦るな」


「ぅぅぅわぉん!」


 神威の胸や背中の芽まで、淡く光っていた。


 出力を上げているのではない。胸や背中の芽が、白い流れに沿って光の届く範囲を広げていた。


 白い列車の精霊獣が震えた。


 その輪郭が、一瞬だけはっきりする。


 白い車体。


 窓。


 扉。


 つり革。


 座席。


 立っている人影。


 座っている人影。


 笑う子ども。


 眠る老人。


 窓の外を見る少女。


 数えきれないほどの人を運んだ記憶。


 昨日、紙に書かれていた歌が、耳の奥でほどけていく。


 山の影。


 鉄の骨。


 唸る森。


 白き流れ。


 それは、誰かがいま歌っている声ではなかった。


 この土地に残され、古い機械に抱かれ、何度も流れ直してきた詠だった。


 サトは息を止めた。


 あまりにも多い。


 あまりにも古い。


 そして、あまりにも寂しい。


 白い列車は、もう線路を持っていなかった。


 駅もない。


 時刻表もない。


 乗客もいない。


 それでも、まだ走ろうとしている。


 誰かを運ぼうとしている。


「……行き先を、探してたのか」


 サトの言葉に応えるように、白い列車の精霊獣が大きく揺れた。


 神威が前に出た。


 今度はサトも止めなかった。


 神威は腹部パネルの光を細く保ったまま、白い流れの速さに合わせて向きを変える。


 胸元の芽が、淡く輝いた。


 白い列車が、神威のすぐそばを通る。


 サトは手を伸ばしかけた。


 だが、触れなかった。


 触れるべきではないと、本能的に分かった。


 そのとき、白い尾のような流れが三人をかすめた。


 ほんの一瞬だった。


 けれど、世界が変わった。


     ◇


 そこは、駅のホームのような場所だった。


 白い光に包まれている。


 足元に線路がある。


 遠くで誰かが笑っている。


 案内音が鳴っている。


 けれど、すべてが水の向こうの音のように遠い。


 サトは立っていた。


 自分が立っているのか、見ているだけなのか分からない。


 目の前に、白い列車が停まっている。


 窓の中に、人影がある。


 多くの人影が列車から降りていく。


 その一つが、こちらを見た。


 人のようだった。


 少女のようにも見えた。


 ツキハに似ているようにも、まったく違うようにも見えた。


 顔は白いノイズに滲んでいる。


 それでも、声だけが届いた。


「ツキハをお願い。かわいらしい騎士さん」


 おねがい。なにを。


 あなたは誰で。


 どこにいるんだ。


 なぜツキハのことを。


 問いかける前に、白い光が崩れた。


     ◇


 サトは現実へ引き戻された。


 山道。


 錆びた線路。


 唸る森。


 神威の腹部パネルの光。


 ツキハの月片。


 すべてが戻ってくる。


 白い列車の精霊獣は、三人のすぐそばをかすめるように通り過ぎた。


 攻撃ではなかった。


 別れのようだった。


 そのまま、白い流れは山の斜面を駆け上がる。


 線路のない空へ。


 森の上へ。


 まるで、失った線路の代わりに、精霊流そのものを道にしたかのように。


 白い列車は空へ舞い上がった。


 その輪郭はだんだんほどけ、長い白い流れとなり、山の向こうへ消えていく。


 残されたのは、静けさだった。


 鉄の骨はもう鳴っていない。


 森の唸りも止んでいる。


 神威は空を見上げていた。


 胸元の芽が小さく揺れる。


「……今のは」


 サトは呟いた。


 喉が乾いていた。


 ツキハが振り向く。


「サト、何か見えましたか」


 サトはすぐに答えられなかった。


 ツキハをおねがい。


 その声が、まだ耳の奥に残っている。


 けれど、それが本当に聞こえた声なのか、白い列車が運んだ幻なのか、サト自身にも分からなかった。


「いや……ツキハは?」


「私は、ノイズを観測しました。明瞭な像はありません」


「そうか」


「サトは?」


 ツキハがもう一度尋ねる。


 サトは少しだけ間を置いた。


「俺も、よく分からなかった」


 嘘ではなかった。


 本当に、よく分からなかった。


 ツキハはしばらくサトを見ていた。


 だが、それ以上は聞かなかった。


 神威が、きゅうん、と小さく鳴いた。


 サトは神威の頭に手を置いた。


 それから、白い流れが消えた空を見上げた。


 どこか寂しそうだった。


 サトはウォズの歌をもう一度取り出した。


 山の影、鉄の骨鳴り、唸る森

 白き流れは、記憶を運ぶ


「……歌としても、記録としても、かなり正確だったな」


 ツキハが言った。


「はい。ただし、完全ではありません」


「不完全だから、人が読むんだったか」


「はい」


 サトは紙を畳んだ。


 読んだ。


 確かに読んだ。


 だが、すべてを理解したわけではない。


 白い列車。


 失われた線路。


 記憶の残響。


 ツキハをお願い、という声。


 何一つ、はっきりしていない。


 それでも、胸の奥に何かが残った。


 古い端末の文字と同じように。


 消えないものが、また一つ増えた。


 ツキハは山の奥を見ていた。


 その表情は静かだったが、いつもより少し険しい。


「この精霊獣の乱れは、自然発生ではない可能性があります」


「どういうことだ」


「本来、あの格に至った精霊獣が、あれほど乱れることはほとんどありません」


「……確かに。あの大きさの機霊は初めて見たな」


「はい。もし人間に敵意を持つ個体なら、私たちは抗うこともできなかったはずです」


 サトは、白い流れが消えた空を見た。


 あれほどのものが、困っていた。


 迷っていた。


 それを思うと、背筋が少し冷える。


「でも、だとしたら、なぜ」


「現時点では不明です。けれど、先に進むと何か分かるかもしれません」


 サトは北の山を見た。


 まだ、龍都カツザンの姿は見えない。


 だが、山の奥に向かって、精霊流と機械遺跡の気配が濃くなっているのは分かった。


 この先に、何かがある。


 白い列車を迷わせたもの。


 古い機械を震わせるもの。


 そして、もしかすると、ツキハを待っている誰かの手がかりも。


「行くぞ」


 サトは言った。


「今日は、できるところまで進む」


「はい」


「わぉん」


 神威はもう一度、白い流れが消えた空を見上げた。


 それから、サトたちの隣に並ぶ。


 山道は、さらに北へ続いていた。


 錆びた線路はところどころで途切れながらも、まるで古い記憶の傷跡のように、道のそばに残っている。


 三人は山の奥へ進んでいった。

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