第55話 白き流れは、記憶を運ぶ(一)
翌朝、万葉の大地はよく晴れていた。
宿の屋根には朝露が光り、遠くの田畑からは薄い霧が上がっている。
先日までまとわりついていた大陸沼の湿った匂いは、もうほとんど残っていない。
代わりに、炊きたての米の匂いと、濡れた土の匂いと、どこか甘い草の匂いがした。
サトは宿の裏手にある乾かし場へ向かった。
神威は、屋根の下で丸くなっていた。
いや、丸くなるというより、低く伏せていた。
体のあちこちに差し込む朝日を受け、背中と胸元の小さな芽が静かに揺れている。
泥はかなり落ちていた。
腹部パネルの縁も乾いている。
右前脚の補助ブレースも、大きな異常はなさそうだった。
ただし、神威の近くには野鳥が数羽いた。
梁の上。
乾かし場の柱。
神威の背中。
そして、なぜか頭の上にも一羽。
「……まだいるのか」
「わぅ」
神威は小さく鳴いた。
嬉しいのか、困っているのか、分かりにくい声だった。
サトは神威の頭の上の鳥を見た。
「ちゃんと別れは済ませたか」
「わぉん……」
神威は少し寂しそうに鳴いた。
ツキハが後ろから歩いてきた。
昨日より外套は綺麗になっている。
ただ、袖の端を時々気にしているので、まだ完全には納得していないのかもしれない。
「野鳥側にも離脱意思を確認しました」
「そこまでしたのか」
「はい。多くは離脱済みです。ただし、一部個体は神威を安全な休止地点として認識しています」
「だから、止まり木になるなって」
神威は困ったように耳を伏せた。
サトはため息をつきながら、神威の頭の鳥が飛び立つのを待った。
鳥はしばらく神威の頭の上で羽を整えていたが、やがて短く鳴いて、空へ飛んでいった。
神威はその行方をじっと見上げていた。
「行くぞ」
「わぅ」
「寂しそうにするな。またどこかで乗られるだろ」
「わぅ?」
「いや、乗られなくていいんだけどな」
サトは荷物を背負い直した。
ツキハも月片に手を添え、外套の前を整える。
宿の女将が、握り飯を包んだ布を渡してくれた。
「道中で食べな。山道に入るなら、腹は減るよ」
「ありがとうございます」
サトは頭を下げた。
女将は神威を見て、にやりと笑う。
「火は噴かなかったようだね」
「わぉん」
「お前も誇るな」
女将は笑って、手を振った。
三人は宿を出た。
村の通りには、朝の支度をする人々が行き交っている。
石碑の前を掃く者。
水路の様子を見る者。
歌碑に供えられた花を替える者。
どこからともなく、子どもたちの歌い声が聞こえてくる。
万葉の大地では、朝の光の中でも、歌が生活のそばにあった。
記録院の前を通ると、ウォズ・タスが立っていた。
「もう発つのか」
「はい。あまり長居すると、路銀がなくなります」
「昨日はいい宿に泊まったようだな」
「必要経費です」
ウォズは笑った。
サトは荷袋から、ウォズが書いてくれた紙を取り出した。
山の影、鉄の骨鳴り、唸る森
白き流れは、記憶を運ぶ
朝の光の中で見ても、その歌はどこか不穏だった。
「これ、本当にただの古歌じゃないんですよね」
「歌は歌だ」
「答えになってません」
「だから、人が読むのだ」
ウォズは昨日と同じように言った。
ツキハが静かに頷く。
「記録として不完全です。しかし、手がかりとしては有効です」
「そういうことだ」
ウォズは北の山を指した。
「この先は、道が古い。山も古い。機械も古い。古いもの同士が絡むと、時々おかしなことが起こる」
「精霊流の乱れですか」
「そう読む者もいる。機械遺跡の残響と読む者もいる。山の怒りと読む者もいる」
「全部違う可能性もある?」
「もちろんある」
ウォズは短く笑った。
「気をつけろ。カツザンへ近づくほど、古い山々の精霊流と機械遺跡が濃くなる。お前たちのような旅人には、よく見えすぎるかもしれん」
サトはその言葉に、少しだけ眉を寄せた。
よく見えすぎる。
その言葉は、昨日見た古い端末の文字を思い出させた。
ALPHABET OBSERVATION ARRAY。
SPIRIT LAYER FIRST CONTACT。
見えなかったものを、見えるようにした者たち。
自分は、その末裔だと言われた。
まだ実感はない。
だが、胸の奥に引っかかったままだ。
「行こう」
サトは紙をしまった。
「はい」
「わぅ」
三人は、万葉の大地を後にした。
◇
ウォズ・タスは三人の背を見送っていた。
若い観測士。
月のような少女。
そして、不思議な芽を宿した機械狼。
ウォズは懐から小さな紙を取り出し、筆を走らせた。
「どれ、一つ歌わせて頂くか。」
遠き名を持つ観測士
月の衣の娘連れ
芽吹く機狼、尾を揺らし
白き流れの跡を追う
ウォズはそれを、まだ歌と呼んだ。
いつか誰かが覚え、土地に残れば、それは詠になる。
彼は記録院へ戻っていった。
◇
北へ向かう道は、最初は穏やかだった。
田畑の間を抜け、水路沿いに進む。
歌碑はまだあちこちに立っていた。
春の水を歌ったもの。
秋の風を歌ったもの。
山の光を歌ったもの。
サトには、そのどこまでがただの歌で、どこからが記録なのか分からなかった。
ツキハは時折立ち止まり、石碑を読もうとする。
だが、サトは先を急いだ。
「全部読んでたら日が暮れるぞ」
「記録量が多いです」
「それは分かる」
「興味深いです」
「それも分かる。でも今日は山道に入る」
ツキハは少しだけ名残惜しそうに石碑から目を離した。
「了解しました」
神威は道の端を歩いている。
昨日休んだおかげか、足取りは悪くない。
右前脚の補助ブレースも、今のところ大きな音は立てていない。
ただ、山が近づくにつれ、神威の耳のような可動部が時々動くようになった。
何かを聞いている。
サトはそれに気づいた。
「神威、何か聞こえるのか」
「わぅ」
「分かるような、分からないような返事だな」
ツキハが周囲を観測する。
「精霊流が、北側で少し乱れています」
「危険か?」
「現時点では不明です。ただ、森都キョウ周辺や大陸沼とは質が異なります」
「質?」
「古い機械の残響が混ざっています」
サトは前を見た。
山が近づいている。
緑の山肌。
そこに、時々、不自然な直線が見えた。
岩ではない。
木でもない。
古い鉄のようなものが、山肌から突き出ている。
道が細くなる。
田畑が消え、代わりに木々が増える。
石碑も少なくなった。
かわりに、地面の下に何かが埋まっている気配がした。
サトは足元を見た。
草の間に、錆びた鉄が覗いている。
細長い。
不自然なほどまっすぐ。
一本だけではない。
もう一本、少し離れて並んでいる。
サトは足を止めた。
「これ……線路か?」
ツキハもしゃがみ込む。
指で草を避け、錆びた鉄を見つめた。
「旧世代の交通設備です。二本の鉄路が並行しています」
「こんな山の上に?」
「現在の地形とは一致しません」
サトは周囲を見回した。
線路は、山の斜面を横切るように続いている。
ところどころ土に埋もれ、木の根に持ち上げられ、岩の間で折れていた。
本来なら、こんな場所に線路があるはずがない。
少なくとも、サトの知る山道ではない。
「大地が動いたのか」
「長い年月で地形が隆起した可能性があります。あるいは、精霊災害による地形変化です」
「どっちにしても、普通じゃないな」
風が吹いた。
山肌に突き出た錆びた鉄骨が、低く鳴った。
ぎいん。
ごおん。
それは木々のざわめきと混ざり、森全体が唸っているように聞こえた。




