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月から落ちた少女と、神に愛された機械狼  作者: 玄達瀬


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第52話 詠われる大地(一)

 大陸沼の東岸を抜けたころには、三人とも泥だらけだった。


 サトの靴は重くなり、裾には乾きかけた泥が固まっている。


 ツキハは外套だけでなく月衣にも、泥の跳ねた跡が残っていた。


 そして神威は、ひどかった。


 右前脚の補助ブレース。


 腹部パネルの縁。


 伸縮尻尾の根元。


 そこかしこに泥と水草が絡みついている。


 胸元の芽にまで、細い水草が引っかかっていた。


「……これは駄目だな」


 サトは神威を見て、深くため息をついた。


「このまま村に入ったら、宿どころか門で止められる」


「泥による汚染状態です」


 ツキハが自分の外套の裾を見ながら言った。


「そうだな。汚染というか、泥だな」


「分類上は、泥による汚染です」


「まあ、間違ってはいない」


 三人の前には、小さな沢が流れていた。


 沼の濁った水とは違う。


 石の間を細く流れる水は澄んでいて、陽を受けて冷たく光っている。


 山裾から流れてきた水なのだろう。


 水音は軽く、足元の石には薄い苔がついていた。


 サトは荷物を下ろし、沢のそばにしゃがんだ。


「ここで少し泥を落とす」


 神威が耳のような可動部を立てた。


 そして、沢の中へ一歩踏み出そうとする。


「お前は入るな」


「わぅ?」


「不満そうな顔をするな。お前は水に弱いんだから、濡らした布で拭く」


「きゅうん」


「きゅうんじゃない。昨日も沼で落ちかけただろ。まだ簡易防水しかしてないんだぞ」


 神威はしょんぼりと腰を下ろした。


 どうやら沢の水には興味があるらしい。


 だが、サトは許さなかった。


 工具袋から布を取り出し、沢の水で濡らす。


 冷たい。


 指先に触れただけで、疲れた体が少し目を覚ますようだった。


「動くなよ」


「わぅ」


「返事はいい。動くな」


 サトは神威の右前脚から泥を拭き始めた。


 補助ブレースの隙間に入り込んだ泥を、細い棒でかき出す。


 水草を取り、布で拭い、金具の緩みを確かめる。


 神威はくすぐったいのか、後ろ脚を小さく動かした。


「動くなって」


「きゅうん」


「我慢しろ」


 ツキハも隣にしゃがみ、神威の腹部パネルの縁を見た。


「こちらにも泥が残っています」


「そこは慎重に頼む。配線に近い」


「了解しました」


 ツキハは濡らした布で、そっと泥を拭き取った。


 神威はくすぐったそうに体をよじろうとして、サトに頭を押さえられる。


「我慢」


「わぅ」


「返事は本当にいいんだけどな」


 しばらくして、神威の泥はだいぶ落ちた。


 完全ではない。


 だが、少なくとも宿に入る前に追い返されるほどではない。


 サトは自分の袖を見て、次にツキハの外套を見た。


「ツキハも、少し水浴びしたらどうだ。旅では、洗える時に洗った方がいい。臭いもとれる」


 ツキハはぴたりと動きを止めた。


 そして、少しだけ眉を寄せた。


「不適切です。私は臭くありません」


「ちがう!」


 サトは慌てて手を振った。


「ツキハが臭いなんて言ってない」


 ツキハは自分の袖を少し持ち上げた。


 それから、ほんの少しサトから距離を取り、袖の匂いを確かめる。


「それに、私の月衣には自浄機能もついています」


「いや、だから臭いって話じゃなくて。泥も落とせるし、すっきりするだろって、そういう話だ」


「すっきり」


「そう。すっきり」


 ツキハは沢の水を見た。


 流れる水。


 白い石。


 冷たそうな音。


「じゃあ、ツキハは浴びないのか?」


 サトが聞くと、ツキハは少しだけ黙った。


「……水浴びを通した臭気管理に興味はあります」


「言い方」


 結局、ツキハは沢辺の木の影で水浴びをし、外套の裾と袖を洗った。


 水に触れた月衣は、泥を離すように淡く光る。


 サトも顔を洗い、泥のついた手をすすいだ。


 冷たい水が心地よかった。


 大陸沼を歩いていた間、ずっと体にまとわりついていた湿気と泥が、少しずつ落ちていく。


 そのときだった。


「……神威?」


 サトは顔を上げた。


 さっきまで座っていたはずの神威がいない。


 濡らした布だけが、石の上に置かれている。


「おい、神威!」


 返事はない。


 サトは立ち上がった。


 心臓が少し嫌な跳ね方をした。


 沢に入ったのか。


 どこかで足を滑らせたのか。


「神威!」


 草むらの向こうで、がさりと音がした。


 サトはそちらへ駆けかけて、足を止めた。


 低木の間から、神威が戻ってくる。


 背中に、小さな野鳥を数羽乗せて。


 頭の上にも一羽。


 尻尾の根元にも一羽。


 右前脚の補助ブレースにまで、一羽止まっている。


 神威は非常に得意げだった。


「わぉん」


「何をしてるんだお前は」


 戻ってきたツキハが真面目な顔で神威を観測する。


「神威は、周辺野鳥に安全な止まり木として認識されています」


「止まり木になるな」


 神威はさらに胸を張った。


 背中の鳥たちが一斉に羽ばたきかける。


「胸を張るな! 乗ってる!」


「人気です」


「人気なのかこれ」


 神威は尻尾を振ろうとした。


 尻尾に止まっていた鳥が、不満げに羽を広げる。


「わぅ……」


「鳥に怒られてるぞ」


 ツキハが少しだけ首を傾げた。


「上下関係が不明です」


「そこは分からなくていい」


 野鳥たちはしばらく神威の背で休んだあと、ぱらぱらと飛び立っていった。


 最後の一羽だけが、しばらく神威の頭の上に残っていた。


 神威は動けない。


 鳥を落とさないように、じっとしている。


「お前、そういうところは優しいんだよな」


「わぅ」


「褒めた。少しだけな」


 神威の尻尾が、控えめに揺れた。


     ◇


 泥を落とし、荷物を整え直してから、三人は先へ進んだ。


 大陸沼の湿った空気は、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。


 代わりに、風通しのよい土地が広がり始めた。


道の端の木に板が掛けられている。


この先、万葉の大地。


古びた文字でそう書かれていた。


 低い丘。


 水路。


 田畑。


 風に揺れる草。


 道端には、古い石碑や歌碑が立っていた。


 苔むしたものもあれば、最近磨かれたばかりのように文字がはっきり残るものもある。


 石に刻まれているのは、数字ではなく、歌だった。


 サトは気になったが、足を止めなかった。


 今は、とにかく休みたかった。


 夕方近く、三人は万葉の大地にある村へ入った。


 村人たちは、遠巻きにちらちらとこちらを見ている。


 見慣れない機械狼。


 見慣れない若者。


 不思議な髪色の少女。


 旅人としても、かなり目立つ。


 それに、神威の背にはまだ野鳥が一羽止まっていた。


「……目立ってるな」


 サトが小さく言う。


「はい。観測されています」


「そういう意味じゃない」


 道端で荷を運んでいた男が、こちらに声をかけてきた。


「よう。兄ちゃんたち、旅人かい? どこから来たんだ」


 サトは少しだけ警戒しながら答えた。


「森都キョウのあたりから、大陸沼を抜けてきた。すまないが、宿の場所を教えてくれないか」


 男は目を丸くした。


「大陸沼を抜けてきた? そりゃあ、えらい道を来たな」


「近道じゃないのは分かってる」


「いや、近道どころか、普通は避ける道だ」


 男は神威を見た。


 神威の頭の上の野鳥を見た。


 そして、少し笑った。


「まあ、無事に抜けてきたなら運がいい。宿なら、あの通りをまっすぐ行った先だ。湯もある。今日は休んだ方がいい」


「助かる」


 サトは礼を言った。


 ツキハは道端の歌碑を見ていた。


 古い文字で刻まれた歌。


 意味はすぐには分からない。


 だが、ただの飾りではないように見えた。


「ツキハ、行くぞ」


「はい」


 ツキハは歌碑から目を離した。


 だが、その視線には、何かを記録したような静けさがあった。

ツキハ「不適切です。私は臭くありません」

サト「違う!そういう意味じゃない!……スンスン」

神威「クンクンクンクンクンクン……ワォォン!」

ツキハ「二人とも不適切です!嗅がないでください!」

にしようとしてぇ…やめた!

(`・ω・´)コンプライアンスゥ

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